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読谷村の渡具地から再上陸を果たした薩摩軍。
陸路を使って、浦添グスクにもやってきます。
浦添グスクは王都が首里に移される前のグスクで、
首里城に続く大事なグスクの1つでありました。
浦添尚家の住むグスクでもあったのです。
当時の琉球王、尚寧(しょう ねい)王はここ浦添グスクの生まれであり、
王位継承のごたごたがある中で、若くして王となり、首里に上ります。
この道は、尚寧王が整備した、
浦添グスクと首里城を結ぶ道。
1597年完成。
古い、茶色い石の部分が400年前の遺構だとか。
400年前を踏みしめてみました。
浦添グスクにやってきた薩摩軍は、
もちろん王都・首里城を目指しますが、
なんと整備された立派な道があるではないか。
それも首里城まで伸びている。
皮肉にも、
尚寧王が作った便利な道は、
薩摩侵攻を大いに手助けしてしまったのでありました。
こちらは↑の街道を整備したことを示す、
「浦添城の前の碑」
表はひらがなで、
裏は漢文で書かれています。
ひらがなの文面には、
中国皇帝からの冊封前にもかかわらず、
尚寧を「琉球の王」としてかかれており、
結構ちゃっかりというか、
ふてぶてしいというか…。
(王冠のエピソードなんかも…ネ)
小国・琉球のしたたかさが伺えます(笑)
もちろん、これらの碑文や街道は、
沖縄戦でことごとく破壊されたので
今あるのは復元されたものですが、
碑文の台座のこの角の部分は
当時のものだそうです。
なでなで。
さ、グスクの中に入っていきましょう。
浦添グスクは、石垣がほとんど残っておらず、
だだっぴろい原っぱという感じ。
かろうじて、草に隠れた石垣の遺構が…
見れるかな?
浦添グスクは、土壁のグスクでもあったとか。
(名護城なんかもその例の一つなんだって。あ~、納得)
堀の跡もあったりして、
要塞のための工夫があったことは確か。
浦添グスクは広かったので、
2つにわけてご紹介します。
トップの写真、画像加工ナッシングです。
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