がじゅまるの樹の下で。

*琉球歴女による、琉球の歴史文化を楽しむブログ*

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円覚寺跡

2019年01月29日 | ・琉球歴史/文化風景

 

円覚寺跡、首里城から臨む。

敷地が一望できると、円覚寺の大きさが想像できますね。
(本来はもっと大きかったはず)

 

円覚寺は正面ではなく、
サイドに行くとよく見えます。

 

円覚寺は山門や像の復元が計画されているはずだけど
進んでいるのかな…?

 

首里の円覚寺山門、18年にも復元へ

首里・旧円覚寺の仁王様、復元へ着々 像の実物大写真を公開

 

もう2019年になったけどな…

 

(写真↑↓は2018年3月撮影)

 

 

方丈池と方丈橋。

橋は尚真代のもの。

詳しくは→   


喜界島、対首里軍との本陣

2019年01月27日 | ・琉球史散策/第一尚氏

 

【描いてみた】琉球史人物、を、33【キラ男子】
喜界島のキャラクター、勘樽金に関連して。 

 

喜界島・港(わん)にある
「御殿の鼻」という史跡です。

金毘羅神社とも。

 


目の前は、港(みなと)。

海が広がっています。

 

 

1466年、

尚徳王率いる首里軍が
ここから攻め入ってきました。

喜界島のリーダーであった長嘉や勘樽金は
ここで首里軍を迎え撃ち、


いったんは首里軍を跳ね返します。

 

その戦いの本陣であった場所。

 

 

ここには勘樽金の名前はありません。

(長嘉も是非キャラ化したいですね)

 


↑クリックで拡大

 

こちらが首里軍が計略を用いて
再上陸を計った荒木の港。

湾(わん)から南西に位置しています。

 

勘樽金は荒木村の人だったので、
もしかしたら勘樽金は長嘉とは別に、
ここで首里軍と戦ったのかもしれません。

 

(首里軍の再上陸は荒木ではなく別の場所、だとか
島の背後を突いたのはおとり部隊で
首里の主力部隊はやはり湾から攻め入ったという伝承もあり)

 

参/
「琉球王女 百十踏揚」(与並岳生著)
「真説 阿麻和利考」(高宮城宏著)

「琉球王国の真実」(伊敷賢著)

 

 

戻って、
御殿の鼻の中。

床板が傷んで波打ち
祠が傾いている……
(ゴミも……)

 

う~ん

 

沖縄の御嶽とかもそうだけど、
たとえ建物が古くても
その場所はこぎれいに保ちたいものですね。

 

 

+ + +

 

 

さて、

地図で見たら空港のすぐ隣だからと
一旦レンタカーを返し、

出発までの待ち時間に
徒歩で向かった御殿の鼻。

意外と距離があって時間が心配になり
途中で行くのを諦めかけました…

が、

やっぱり諦めきれず、
ちょうどやってきたタクシーを反射的に捕まえて(笑)
速攻で往復したのもいい思い出(^^;)


歴代宝案の栞

2019年01月26日 | ・琉球/沖縄、徒然日記

 

琉球王国の外交文書集『歴代宝案』

"平成元年(1989)に歴代宝案の復元を目的に始まった
歴代宝案編集事業は29年を経過、
これまでの事業の進展・成果を反映させ、
写真や図版を多く使用して、
琉球王国の外交文書集『歴代宝案』の世界がわかる小冊子"
 
 
 
が、沖縄県教育委員会のサイトよりPDF公開されています!
(※歴代宝案そのもののPDFではありません)
 
その名も
「歴代宝案の栞」
 
中学社会の資料集のような、
カラーで写真資料が豊富で
とても分かりやすい「栞」です。
 
もちろん無料♪
是非見てみて下さい!
 

https://www.pref.okinawa.lg.jp/edu/bunkazai/bunkakesho/hogo/rekidai_shiori/rekidai_shiori_index.html

の画像クリックでもジャンプします。


【描いてみた】琉球史人物、を、33【キラ男子】

2019年01月21日 | ・琉球史散策/第一尚氏

薩摩侵攻以前の古琉球まで、
奄美群島は琉球の支配下、琉球の一部にありました。

そのことから
古琉球期をテーマにした
「琉球戦国キャラクター図鑑」では
奄美大島のリーダー・糠中城も収録しました。

 

今回はその奄美群島関連から、
2人目のキラキラキャラということで
この方を!

 

奄美大島のお隣は
喜界島のリーダー、

 

勘樽金(かんたるがね)

イメージ台詞
「首里め…!また性懲りもなく来やがって!」

 

 

尚徳が喜界島を攻めたとき、
迎え撃った喜界軍のリーダーです。

あの尚徳率いる首里王府軍も
その攻防になかなか上陸することができず、
苛立って無理やり突撃するも、
ただ死者を増やすばかりという無様なありさま。

首里は尚徳以前もたびたび喜界島を攻めていましたが
そのたびに頓挫。

地の利もあり、
喜界軍がとにかく強かったことが伺えます。

 

…が、首里軍はもやの濃い日を待ち、
小舟にたくさんの松明を持たせて島の裏に回させ、
喜界軍をおびき寄せた隙に
一気に上陸して攻め落とします。

 

うむ。
勘樽金のキャラクターとしても
戦の成り行きも、
八重山のオヤケアカハチとかぶりますね。

もし喜界島で現代版組踊ができるなら
主人公はきっと彼♡

(ただ勘樽金はここで殺されてはおらず、
首里に連行されて忠誠を誓わされたのち、
島に帰っているようです)

 

 

 

さて、勘樽金という人物が興味深いのは
もう一つ理由が。

 

喜界島旧家・泉家の家譜によると、
勘樽金は、

喜界島群主、勝連親方の子ども

だというのです。

 

勝 連 !!

 

"勝連親方"なる人物が
いつの時代の誰なのか分かってはいませんが、

 

"勝連親方は喜界島群主の任期が終わると
国に帰り、按司になった"

ともあることから、
若き頃の阿麻和利では、と
想像している人もいます。

 

まぁ、阿麻和利ではないにしても
勝連の有力者が喜界島に来ていたことは
勝連は喜界島を行き来していたおもろもあることから
十分に予想できます。

 

阿麻和利の子どもだとしたら…
これはこれで新しいストリーが描けそうで面白い♡

(なので絵的には阿麻和利の子を意識して
ゲジ眉+くせっ毛ポニテにしてみた☆)

 

伊平屋の田名グスクと阿麻和利の記事でも書きましたが、

伊是名・伊平屋、奄美群島など
北の島々で活躍する
勝連・阿麻和利の物語

というのものも見てみたいものです。

 

 

参/
「琉球王女 百十踏揚」(与並岳生著)
「真説 阿麻和利考」(高宮城宏著)

「琉球王国の真実」(伊敷賢著)


琉球のグスク100登城

2019年01月19日 | ・琉球歴史/文化風景
 
 
昨年、グスク登城100超えを達成しました!
 
 
とはいえ、
沖縄のグスクは300余りと言われてますので
まだまだ半分にも満たない数ですが
 
でも、100と言うひとつの区切りと言うことで、
行ったグスクを一覧にしてみました。
 
ブログに書いたところはそのリンクも。
(世界遺産5グスクに関しては過去記事がありすぎるので
敢えてリンク貼ってません)
 
 
「行った」カウントの基準は
 ザックリ言うと
 
①グスクだと認識した上で
②写真に撮っている
 
です。
 
中まで入れないグスクもありますからね。
(基地内とか埋もれてる系とか)
そういうグスクは遠景です。
 
逆に
グスクだと認識して、
車で前を通っていても、
写真に撮れてないものや
(ミントングスクとかね)
行ってもこの場所だとイマイチ確信持てないものは
ノーカウントにしてます。
 
まだ記事にしていないグスクもたくさんあるので、
ぼちぼち整理しながらUPしていけたらなーと思っています。
 
 
 
【南部】
豊見城グスク→ 
八重瀬グスク
勢理(ジリ)グスク
大城グスク
島添大里グスク→ 
ギリムイグスク
稲福遺跡(※)
佐敷グスク→ 
知名グスク
志喜屋グスク→ 
垣花グスク
知念グスク
仲栄真グスク→  
安次富グスク
大川グスク(南城市)
玉城グスク→ 
糸数グスク→   
根石グスク
船越グスク
屋比久グスク
上グスク
具志頭グスク
ウフグスク(南城市)
南山グスク→ 
照屋グスク
国吉グスク
真栄里グスク(先中グスク)
フェンサグスク
具志川グスク(糸満市喜屋武)→  
カタハラグスク
山城グスク→ 
上里グスク(糸満市)→ 
佐慶グスク
米須グスク
摩文仁グスク
真壁グスク
<追加>内嶺グスク
<追加>テミグラグスク
<追加>多々名グスク
 

【奥武島】
奥武グスク
タカラグスク
 

【久高島】
ティミグスク
 

【那覇・浦添エリア】
首里城
クンダグスク
三重グスク→ 
御物グスク
伊祖グスク
浦添グスク→  
澤岻グスク 


【中部エリア】
瀬名波グスク(カクリグスク)
宇座グスク
座喜味グスク
泊グスク(読谷村)
メーダグスク
屋良グスク→  
国直グスク→ 
伊波グスク→ 
安慶名グスク→    
兼箇段グスク
具志川グスク(うるま市)
江洲グスク
喜屋武グスク
勝連グスク
知花グスク→  
越来グスク→ 
北谷グス
黄金森グスク
嘉数グスク
安谷屋グスク
中城グスク
台グスク→ 
新垣グスク
棚原グスク
幸地グスク
追加>我如古グスク
 
 

【浜比嘉島】
浜グスク
比嘉グスク
 
 
【宮城島】
泊グスク→ 
<追加>南グスク
 

【伊計島】
伊計グスク→ 
 

【津堅島】
クボウグスク
新川グスク
 

【北部エリア】
根謝銘グスク(国頭グスク)→ 
今帰仁グスク
シイナグスク
ミームングスク→ 
親川グスク(羽地グスク)
名護グスク→  
上里グスク(名護市)
嘉陽グスク→ 
漢那グスク
金武グスク
恩納グスク
山田グスク→ 
大川グスク(宜野座村)
<追加>奥間グスク
 
 

【伊是名島】
伊是名グスク
 

【伊平屋島】
田名グスク
ヤヘーグスク
 

【渡名喜島】
<追加>里遺跡(※)
 
 
【久米島】
具志川グスク(久米島)→ 
伊敷索グスク
宇江城グスク
登武那覇グスク
塩原グスク
 
 
【石垣島】
フルスト原遺跡(※)
 
 
【奄美大島】
赤木名グスク
浦上グスク
伊津部勝グスク
ニャトグスク


【喜界島】
七城
 
 
 
 
(※)について
グスクとは称されていませんが
グスク的遺構として考えられているため
グスクの一つといてカウントしました
 
 
 
 
さーて、あと200余り!(笑)
 
とりあえず、
半分の150登城を次の目標にしたいと思います。
 
 
 
 
 
 
ところで、グスクに行くときは
本はもちろん、色々なサイトを参考にさせてもらっているのですが、
たいていヒットするブログやサイトは限られていました。
 
ところが、最近こんなサイトを教えてもらいました。
 
 
 
 
"目的のグスクを何回行っても見つけきれず悔しい思いをしてる人や、
初めてグスクを訪れる 人のために、
このサイトではグスクの位置、及びグスク入口からグスクまでのルートを
出来る だけ分かりやすいように説明する事に心掛けています。"
 
(サイト趣旨説明より)
 
 
 
網羅しているグスクバリエーションはもちろん(200余り!)、
写真や図、行き方などの情報が細かくて、
まさに「道標」!
 
わあ、これは今まで見た中で1番濃いグスクサイトだ…。
 
アクセスカウンターを見たところまだ二桁なので、
最近公開したサイトなのかな?
 
これからだいぶお世話になりそうですm(_ _)m
 
市町村別にもまとめられているので
是非覗いてみてください。
 
 
 
 
現在、琉球史やグスクをテーマにしたブログ・サイトは多けれど
 
語り口(文章)が武器だったり
数(量)が武器だったり
知識考察の深さが武器だったり
伝承のバリエーションが武器だったり
写真などのビジュアルが武器だったり
人物描写が武器だったり
はたまた、ある時代に特化していたり

それぞれの武器、持ち味がありますよね。

ワタシはワタシの持ち味で、
ブログもグスク訪問も
今年も続けて行きたいと思います♪

古琉球人と近世琉球人の描きわけ

2019年01月17日 | ・琉球/沖縄、徒然日記

 

 

和々的
古琉球人と近世琉球人の基本描き分け。
(※キラキラverじゃないやつね)

重視しているのは着物のシルエット。
(髪型はもうだいぶ認識が広がってきたような気がするので)

古琉球の方がゆったりとしていて
漢服のような感じになると思っています。

体の線を捉えないシルエット。

これがポイント!

 

現代の浴衣や着物のように
特に下半身が体の線に沿ったシルエットだと
個人的には違和感があります。

丈が長くても
もっとばさばさと
アクティブに動ける身幅(ゆったり感)だったと思う。

生地もとろんとした
シルクのような薄い滑らかなものではなく、
もっとがハリのある、
織が荒めで丈夫な(そして通気性のある)、
今でいう麻のような、
それこそ芭蕉布のような生地感だったのでは。

だから尚更、生地が体の線に沿わない、と。

 

帯の結び方は不明だけど、
(雪舟の描いた琉球人の図でも帯は見えない(´;ω;`))

個人的なイメージとしては
近世よりはややシンプルだったんじゃないかなー?
と思っています。

 

ただ、王様とか身分の高い人はその限りでない的な。

ケースバイケースはありつつ、
基本は↑かなー、と。

 

これが「正しい」と主張するものではなく、
あくまでもワタシがこれまで見聞きしてきたことから整理した
「描くための」イメージメモです。

近世と少し描き方を変えることで
古琉球感を出せると思いますよ。

 

参/「だれも見たことのない琉球」(上里隆史著) 他


中城グスクの起源に迫る

2019年01月15日 | ・琉球史散策/グスク時代

 

 

世界遺産中城グスク、
一の郭城壁の解体工事&発掘現場解説にお誘いいただき
行ってきました!

 

現場はこちら。

 

 

正門入ってすぐの側面。

昔、ワタシが発掘体験をしたところ

 

足場が組まれているのですぐにわかります。

(ところで、今グスク観光順路、
これまでの広場のある裏門からではなく
普通に正門からになっていますね。
チケット売り場から正門まで、
カートが常時運行されていました☆)

 

到着したとたん、

なんじゃこりゃ~~~~!

 


※スマホのパノラマ撮影ゆえ湾曲してます

 

今まで見ていた城壁の中に、
古い時代の城壁が出現!

 

これまで見ていたごつごつの野面積的な城壁とは違い、
かなりきれいな布積み!

石の表面も滑らかで、石の継ぎ目も隙間なくぴっちり!

形の加工も精巧に、
上下方向の目地もまっすぐにではなく
ずらして強度が出るように組まれています。

 

スゴイ丁寧で緻密な作り!

 

 

城壁の根元部分。

岩盤に突き当たるまで土を掘って、
その上に石を積み、
また土をかぶせていく。

また加工した石の欠片などで隙間を埋めていく。

城壁の製作過程が垣間見えました。

 

この古い城壁は
13世紀末~14世紀初頭ぐらいでは?
とのこと。

グスク時代真っただ中!

 

中城グスクの築城時期が解明!?

 

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追記(2019.5)

その後の様々な検討により、
件の石垣の時期は推定14世紀前半から
推定14世紀中頃~後半に変わったようです。

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足場を登って上から。
(高所恐怖症でもこういう時はガンバル!)

 

危険なので案内(許可)なく勝手に登らないように

 

 

この部分の城壁は3つの時代にわけられるということで、
色分けしてみたよ。

 

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追記(2019.5)

その後の様々な検討により、
件の石垣の時期は推定14世紀前半から
推定14世紀中頃~後半に変わったようです。

--------------------------------------------

 

っていうか、これまで見ていた表面の城壁が
つい最近(近代)のものだったとは…。

古い(赤部分)城壁の上の城壁(青部分)は増築部分。
15世紀前半ごろか?とのこと。

その頃と言えば、
冊封体制のスタート・朝貢貿易の活性化、
統一に向かう三山時代終盤の時期ですね。

 

 

時代の違う城壁の境目、
石積が倒れこんで角が丸くなっているのが
気になる!

崩れた?

それとも意図的?

キニナル キニナル。

 

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追記(2021)

増築された上部分(青部分)の重さにより
崩れてきたもの。

その応急処置として、抑えの石積み(緑部分)が
新た(近代)に積まれた。
↑今まで見ていた城壁がそれ

--------------------------------------------

 

 

古い部分の城壁はこれまで見てた城壁よりも
もっと垂直に近い角度で積まれいて、
上の増築部分は角度がややゆるやかに変わります。

 

 

 

石積の角度が変わる境目部分。

ちょっとでっぱりがあるので
そこに鉄骨が組まれていました。

 

下から見てるよりも
上に登ってみると結構な高さで
怖かったのよ~~~~😂

 

 

 

奥から振り返っての図。
(逆光で写真見えにくくてすみません

古い城壁の角が!

 

 

この角が古い城壁のアウトライン!?

ということは、もしかしたら
1番古い中城グスクは
今よりもずっとずっと短い、この範囲だった…のかも!?

 

 

ところで、

最初の中城グスクの按司といえば
先中グスク按司。

護佐丸の中城移動に伴って
糸満の真栄里グスクに追いやられたと言いますが……

 

うーむ、先中グスク按司時代の
築城技術というか、
丁寧な仕事ぶりを見るに

先中グスク按司の人物像というか
能力の高さというか
そういうものも感じられました!

 

そんな彼が簡単に城を追いやられるなんて…

その真相や、いかに!?

(それだけ護佐丸がハンパなかったということか?)

 

 

 

 

刻印石も!

刻印石とは
石の表面に意図的に削られた印のある石こと。

その印の意図は不明。

職人(集団)を表すものなのか、
建築過程上の目印なのか、
まじない的なものなのか…。

現時点では
首里城と、ここ中城でしか確認されていないようです。
(座喜味グスクにもあったと言われていますが実物は未確認)

アルファベットっぽいですよね。

 

えーーーなんでこれが自然の傷ではなくて
加工された印だと分かるんだーーー???

と素朴な疑問をぶつけてみましたら、

削られた面の滑らかさが違うとのこと。

実際に触って比べてみると…
…おお、なるほど…確かに

 

 

ところで!!!

中城グスク成立時期に関わるであろう
この城壁ですが!!!

 

なんと!!!!

今月いっぱいでまた埋め戻される運命とのこと!

 

見るなら、今月しか、
あと2週間余りしかありません!

担当者さんも、
とにかく多くの人に知ってほしい!と
色んな人に呼びかけている、とのことでしたので、
私も微力ながら取り急ぎ、こうして記事にさせてもらいました。
(写真撮影・記事にすること等、確認済み)

ご都合つく方は、是非!

 

なお、私が今回記事に書いた内容は
見聞きしたことのザックリした内容なのですが、

また改めて報告(報道)もあるかもとのことでした!

(その際はこの記事にもリンク先を追記したいと思います)

 

 

*追記*

 

★琉球新報記事
「中城城跡に14世紀前半城壁 貴重な発見、定説より古く」

 

19世紀後半増築か 中城城跡の城壁 写真から推測」

 

「中城城壁 謎の刻印 築城過程解明 糸口に 作業の目印? 意思表示?」

 

 

動画(Twitter)

 

 

+ + +

 

 

 

さっきの城壁の上、一の郭。

並べられている石は体対された石。

ナンバリングされ、
また元に戻せるようになっています。

 

 

むむっ!?

一の郭に新たな石積が!!

御庭に、新しい郭か!?

 

 

滑らかな台形、

曲線、

野面積み。

 

 

後方は基壇跡のように平らな石積…。

 

なんだ なんだ!?

 

 

 

…実はこれ、解体した際に出てくる
城壁の中にある「ぐり石」を積んだもの。

 

いわば、現代人による新たな石積!

 

普通の工事のおじさんたちが積んだものらしいですが、
……立派ですね。

知らない人が見たら、
これも中城グスク城壁の一部だと思うはず(笑) 


今年の、百十~MOMOTO~

2019年01月14日 | ・現代版組踊レポ

現代版組踊舞台レビューについて

百十~MOMOTO~

2019年1月5日(土)

きむたかホール

出演/肝高の阿麻和利高校生メンバー・Team NEXT TAO

 

 

毎年の定期公演と定着した
"泣ける現代版組踊"殿堂入りの百十!

 

今年は2デイズで、
3人の百十踏揚役
(去年と同じチヒロさん・リサコさんと、現・百十踏揚役のエリカさん)
ということで、
どの公演も見ごたえのある悩ましい公演設定!

チヒロさんは抜群の安定感だろうし、
リサコさんは実際に「母」となっての初舞台に興味があったし
エリカさんは百十公演では初百十踏揚だし……

 

色々な事情で全部は見れなかったので、
キャストで選ぶというより、
自分自身の日程の都合だけを鑑みて、
土曜の夜公演観劇と相成りました。 

 

(奇しくも、ちょうど7年前のこの日1/5が百十の初演!

 

 

 

 

百十踏揚の幼少期、通称「ミニモモ」ちゃん。

これまではおてんばで強気なお嬢様って感じだったけど、
今回はセリフ回しが柔らかい感じで

同じセリフややり取りなのに
(賢雄をポカっともするし)
これまでのような
強気なおてんば感はそんなになくて

かわいらしい無垢なお嬢さん

って感じでした。

この感じ、好きです♡

 

 

 

大人百十踏揚はリサコさん。

元々おきれいで姫感抜群なのですが、
これまでよりも柔らかい雰囲気というか、空気を感じました。

母性ってやつかしら。

思徳との別れのシーンなどは
泣きの演技がもう演技じゃなくて、
嗚咽感や震えている感じがまさに迫真の…でした。

阿麻和利の霊が笛を吹き百十踏揚が踊るシーンでも
思戸に話しかけられて我に返ったとき、
涙を拭う仕草をしていたりと、
より百十踏揚の「想い」が伝わる百十踏揚でした。

 

 

 

思徳金も素晴らしかった!

これまでよりも仕草などにダダこね感が出てました。

百十踏揚との別れに「嫌だ!」ってハッキリ反発したり、
地団駄ふんだり、
百十踏揚と抱き合った後もさらにすがったり、
田場を振り払うのも1回ではなく何度もだったり。

お母さん大好きな子供感が最高に出てて、
だけど同時に意思の強さも感じられたりして
余計に涙を誘いました。

カーテンコール後の墓参りのシーンで
百十踏揚の気配を感じてふわっと笑顔になったあの感じに、

…涙。

このカーテンコール後の一連のシーン、毎回泣ける
(ワタシだけ?^^;)

 

 

 

賢雄は初キャスト。

鹿児島徳之島、結シアター手舞の卒業生。

つまり、県外(鹿児島)の子が、
琉球史に触れ、琉球史の武将を演じてくれました。

きっと他の沖縄のメンバーさんよりも
歴史の事とか、知らないことが多くて大変だったと思いますが、
よく演じ切ってくれたと思います。

2回目、3回目があれば
もっともっと深みがでてくるんだろうな(^^)

タイプとしては
武骨な武将(漢)というよりは、
イケメンさわやか系賢雄でした。

 

ところでいつも思うんだけど、
最期のシーンの殺陣はあの武器(薙刀的な)の関係で動きにくいんだろうか?

やたら太いしね、重いのかしら。

それとも逆に素材的にもろいから
壊さないように気をつけないといけないとか?

あのシーンは賢雄が追い詰められて
鬼気迫る迫力やスピード感がカギだと思うのです…。

なんだか動きにくそうというか
妙に気を付けて動いているように見えるんだよなぁ……。
(いや、気をつけないといけないんだろうけど)

やたらと叫ぶってのもアリだと思う。
まさに「鬼」になるってイメージ。

 

 

 

王妃に関しては前回書きつくしましたので(笑)

 

雑踏の中で母に気付くというシーンの
ストップモーションは前回はなかったような?

 

母の指輪?花?を拾った百十踏揚が
「私はもう大丈夫です」って独白があるんだけど、

個人的には、
あれだけの傷を負ったんだから「もう大丈夫」って言うのは早すぎない?
って思ってしまった。

今はまだ大丈夫ではないけれど、
(傷を抱えたまま)母のように強く生きていきたい
っていう後半のセリフだけでも良さそう。

そしたらその後の阿麻和利を想うシーンで
「大丈夫だと思ったけど、でも時々…」という説明もなくて済むし…☆

 

 

 

 

田場は現・阿麻和利君。
別に白髪とかそういう見た目ではなかったんだけど
「じいさま」感でてたな☆

どっしり、ゆっくりしたセリフ回しが
そう感じさせたのかな?

 

各登場人物について書きたいトコロですが
キリがないのでこれくらいにして、

今回の特記事項を2つ。

 

 

 

 

前回、最終公演だけ一瞬登場し、
私を呆然とさせた尚徳。

今回は出るかな?わくわく♪としてましたが、

開演前のアナウンスで2幕120分とあったので

尚徳の再登場を確信

 

1幕終了が近づき、
思戸の語りが入るころには、

内心
「しょぉ~とくっ♪しょぉ~とくっ♪
と尚徳コールをしていました(笑)

 

今回の登場はシルエットではなく、
顔もはっきりわかる舞台前方へ!

 

尚徳の恨み節と自害と衝撃音。

そして舞台後方には微動だにしないバックライトの金丸が!

 

わお!サスペンス!!!

 

尚徳はこのシーンだけの一瞬の登場なんだけど
その後の金丸に関係する重要な役どころだと思うので、
尚徳役も、しっかり「尚徳」という「人物」を理解し、
あのワンシーンでその全てを表現しきってほしい。

めっちゃ、濃い人物だから!
むしろ尚徳主人公で舞台作ってほしいくらいよ。

 

百十における尚徳、今後も要注目していきたいです!

 

…ただ、衣装は……

2幕の尚円衣装+ハチマチ+尚泰久の羽織の使いまわしで
正直妙な印象は否めなかったです

(簡単に新しく作れはしないだろうから
しょうがない部分はあるかもしれないけど、
今後、どうにかできたらいいな)

 

 

 

 

その尚徳シーンの後、休憩をはさんでの後半の開幕。

クーデターシーンがっつり!!

(でもやっぱり鬼鷲とかぶるセリフはナッシング)

 

個人的には、あのシーンの音楽やセリフの背後に
効果音として、もしくは生音声として

「オーサーレ!オーサーレ!」

の大合唱が重なってたら
最っ高だと思いました。

単なる戦とは違う、
集団心理感というか、クーデター感というか、異常感というか。

でると思うんだよね。

 

What's オーサーレ? → 

 

 

 

 

というわけで、
毎回進化していく百十~MOMOTO~。

今年もありがとうございました。

来年も楽しみにしています!

 

 

それでは、毎回のお約束を書いて〆にします!

サントラ発売希望です!!♡

願わくば「尚円王回顧譚」復活も!♡


懐機の浮島神社

2019年01月09日 | ・琉球歴史/文化風景

 

『琉球歴女の琉球戦国キャラクター図鑑』の
史跡擬人化シリーズより、
長虹提お姉さん。
(ちなみにハンタ道は"姐さん")

What's 長虹堤?→

本にも書きましたが、
彼女は神社とお寺、両方のモチーフを
デザインに組み込みました。

 


尚金福の時代、1451年ごろ、
当時"小島"だった那覇を本島と道でつなぐという
長虹提の建設計画が上がります。

国相・懐機は
海を埋め立てて道をつくるという難工事は
神仏の力なくしては成し遂げられないとし、

祭壇を設け、
二昼三夜祈ったところ、
水が引き海底が表れた。

いまだ!と人民を総動員して
(そのイメージ写真がこちら

みごと長虹提を作り上げた。

懐機は神仏に感謝し、
長寿宮(長寿神社)を建てて天照大神を祀った。
また、長寿寺を建てた。

 

参/『球陽』

 

というエピソードからのものです。

 

長虹提建設を記念した
神社とお寺があった、ということですね。

調べたところ、
長寿寺は明治になって廃寺になったようで
現在は残っていません。

 

参/『沖縄は仏教王国だった』(川上正孝著)

 

では、長寿宮(長寿神社)はどうだったのでしょう。

 

長寿宮は昭和17年に
「浮島神社」
と名前を変え

存続していました。

 

ただ、例によって沖縄戦で焼失。

元の場所は那覇市所有の地になっており
同所に復興するのは難しかったため、

現在は波上宮に移され、
仮宮がたてられています。

 

 

それがこちら。

 


持神社の記事でも紹介しましたが
波上宮本殿のすぐ手前左にある
小さな建物です。


 

懐機と長虹提のエピソードも
由緒書きされています。

毎年10月に例大祭が行われているようですね。

 

 

 

ところで。

戦後、波上宮に移されるまでの経緯として
『沖縄の神社』(加治順人著)に
こんな記述がありました。

 

元の場所での再建が難しかった浮島神社は、
同宮の神職だった真壁氏により
天久にコンクリートの祠を建て祭祀を行っていた。

が、その地も借地だったため
移転を余儀なくされ
波上宮に移った。

 

 

でね、
「浮島神社」でググったら
天久のある場所がヒットしまして…。
(例えばこちらのサイトなど。他にもいくつか)

 

とりあえず行ってみました。

天久の住宅地、
細い路地を中に入ったところにありました。

 

 

……天久だし、
ここが波上宮に移る前の浮島神社、
という事なのでしょうか。

それとも波上宮の浮島神社が仮宮なら
こちらが本宮…?

でもこの場所にそれらを示す説明版はなく
波上宮のサイトにもここの説明はありません。


澤岻樋川と金武大川の"若水"体験

2019年01月06日 | ・琉球/沖縄、徒然日記

 

年末の風物詩のひとつとなった
「お水取り」

お水取りとは、
王国時代、首里城で正月儀式に使う神聖な水を
汲んできて献上するという儀式。

お水取りの水は、
辺戸の大川と
浦添にある澤岻樋川の2種類。

かつては
辺戸の大川と、
首里城周辺にある泉のうち
その年の吉方にある泉の2種類だったそうですが

今はその多くが
枯れたり汚染されてしまったため、

今でもきれいで水量が豊富な澤岻樋川が
吉方に関係なく、毎年使われているのだそう。

辺戸の大川には行ったことがありましたが
澤岻樋川はまだだったので、
行ってきました。

 

 

慶良間諸島もしっかり見える
高台の、建物の下にありました。

街の住宅街の中にあるのに
今でも水音が聞こえるくらい
水を湛えています。

そして何よりも驚いたのは
この透明度の高さ!

 

 

底までしっかり見える。

Twitterに動画をUPしています→

 

さすが、お水取りに選ばれるだけあります!

 

 

ところで、
以前も紹介したこちらの本。

『おきなわ湧き水紀行』(ぐしともこ著/ボーダーインク)

 

この本の中に、
元旦に澤岻樋川の水を汲み、
それをお雑煮やお茶・コーヒーに使っている
というエピソードが紹介されていまして。

 

…え、やってみたい!

 

でも、飲んでも大丈夫なものなの???

 

水質調査の数値(COD値0~1→きれいな水レベル)や
ぐしともこさん代表の湧き水fun倶楽部に
質問させてもらった結果、

ボトル式浄水器で濾過+煮沸をすれば

 

 

と判断。

 

よし、決行だ!

 

 

というわけで、
ペットボトル持参で汲ませてもらいました。

(元日の朝に汲むのが「若水」と言って本来の在り方なのですが、
地理的都合上かなわなかったので、ちょっとフライングで

樋(とい)から流れ出ていれば良かったんだけど
この時は溢れるほどではなかったので、直接。

汲んだ水は無臭&透明。
ごみや砂などは見えませんでした。

 

 

そして、もう一つ!

辺戸の大川はさすがに遠いので、
琉球八社のひとつである金武宮(+金武観音寺)への
お参り(年末詣)ついで金武大川へ

 

 

相変わらずのスゴイ水量。

しかも、排水が追い付かず、
溢れて近寄れないほど。

もちろん透明度も健在!

 

TwitterにUPした動画(是非音も聞いて下さい)→

 

 

こちらの金武大川も
正月には若水を汲みに地元の人たちが来るのだそう。

 

若水汲みの儀式についての説明ガイドがあったり
「沸騰させてお飲みください」の表示もあったので
こちらも濾過+煮沸で心配なさそう。

 


こちらは樋から汲ませてもらって…。

 

 

万事準備OK!

 

 

早速、お正月に
この水を使って抹茶を点てました。

(他にお米を炊く水にも)

 

 

 

そして、
澤岻樋川の水と
金武大川の水で、


利き水

もしてみたよ。

 

 

それがね、結構違うのです。

水質が違うのかな?

前述した本によると
澤岻は硬水らしいのですが、
金武大川はどうなんだろう?
(ちなみに辺戸の大川は軟水らしい)

 

個人的な感想としては
澤岻が無味無臭、ニュートラルな感じで
金武大川は少し"水の味"がある感じがしました。

 

 

本では
垣花樋川や伊平屋の上之井戸の水を
料理に使うエピソードも紹介されています。

そういえば、佐敷森のサシジャー(→ )も
水を汲みに来ている人をよく見かけたなぁ。

 

水道の水ではなく、
昔からの湧き水。

手間はかかるものの
ちょっと特別な感じがした
"若水"体験でした。


キラキラ琉球史★ゆんたくマンガ公開中

2019年01月04日 | ・キラキラ琉球史☆ゆんたくマンガ

Twitterでシリーズ公開中の

キラキラ琉球史★ゆんたくマンガ」
(→概要はこちらから

もう見てくださいましたでしょうか。


 

週に3~4のペースで公開しておりますが、
今年もまだまだ続きます!

阿麻和利編もスタートしますよ!
(尚巴志・三山時代編と同時進行公開になります)

 

参考までに、
これまで公開した四コマのうち、
抜粋した「コマ」をいくつか貼ってみました。


 

マンガにすると、
ただイラストで描いていたときよりも
断然キャラが生きてきます。

ワタシは歴史上の人物でも
雲の上の存在にせず、
ワタシたちと同じ人間らしさ(人間臭さ)ということに
こだわっているのですが、

キャラを対話させること、
(対話→つまり相手がいるということ。その関係性)

コマの中で色々と動かすことで
それが際立ってくるな、と
実際に描いてみて再認識しました。

 

 

「人ものがたり」の挿絵の時も
それにこだわって一コママンガ形式にしているのですが、

4コマもあるともっと自由ですね。

 

 

今となっては
キャラクターそれぞれが好き勝手にやっている、
という感じです(笑)

歴史上の対立とか乱とか関係なく、
みんな仲良く、
元気にわいわいやってくれればいいよ
という心境。(笑)

(阿麻和利編が、特にそれ)


ご笑覧いただければ幸いです。



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よろしくお願いします。


*あけましておめでとうございます*

2019年01月03日 | ・琉球/沖縄、徒然日記

 

あけましておめでとうございます

 

昨年は
琉球歴女の琉球戦国キャラクター図鑑出版、
ブログ開設10年、
現代版組踊観劇歴10年、
琉球史にハマって10年、
グスク訪問100を突破、
など、
琉球歴女としても何かと節目の年でもありました。

 

今年は更に琉球歴女ワークをもう少し広げ、
ワンステップアップできるように
精進したいと思います。

(ワタシ側のやむを得ない事情で中止になってしまった企画もいくつか…。
今年は実現させたい!)

 

そしてなにより、
心身共に、
健康に、しなやかに。

 

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

―和々ー

 

 

イラストはお正月っぽくないけど、
華やかに、ということで
マダム・オギヤカ(キラキラver)♡