二階堂小学校へ行ってきました。
「学び合い学習」導入8年目。年度初め恒例の研究集会。今年も異動が多く、教頭先生をはじめ研究主任の先生もお代わりになったということで、学び合いの継続も不安視していました。
まずは、全員で「学び合い学習の推進」を確認したのち。教室に移動して模擬授業となりました。この模擬授業は想像もしなかった「人権教育」障害者問題を取り上げました。算数や国語が多い中やられた・・!と思いました。
挨拶に始まって、テーマの主人公の写真がTVに写しだされ、「今日は、この方のお話を考えてみたいと思います。」資料が配られ、指名された先生が音読。文中「それでも「周りの目」は必ずある」ということについて話し合ってください。」と問いかけられグループ交流に入りました。
こうしたグループ、全体交流が3度、それぞれ発表された意見をつないで、最後にまとめとして個人の考えをまとめる流れの授業でした。
先生のトーンであったり、交流時の低く聴きとったりする姿や発表を全体に聞かせるための立ち位置、丁寧にテキストを配るとしぐさ、発言は、すべて指名など実に洗練されたふるまいをお多く見させていただきました。
数あるご意見のなかで、「本人のことを(ユーチューブ、書籍等)で知っていたら、少しは違うのではないか」という意見で「たとえ、知っていたとしても、変わらないのじゃないかな」という意見で、心の捉え方の課題として深い論議になりました。今回人権教育(特別支援教育)の目線を重視した発想(旧3年生集団として)そのものが、二階堂小学校の根幹にあるということを改めて感じさせていただいた貴重な一日となりました。
協議会のあと、「学び合い」学習の入門編として、一斉授業で養うことが難しい協同的で発展的な自己解決力がこれから先、子どもたちが生き残る(仕事について、生計を立てる)すべになるための、第一歩です。と強調して、ビデオや、統計資料などでお話させていただきました。最後に、登美ヶ丘中学校作成のプロモーションビデオ「学びの「登美中学び愛」ビデオ」を上映させていただいて終わりました。
付録
いつぞやの障害者問題研修で、「普通」と「特別」の境について話し合ってください。というのがあって、障害者の方が、「僕は、自分のことを今では普通?と思っているし、障害があることによって、そうでない方が体験できないだろう素晴らしい風景や人々を見ることができています。」「今まではどうだったのですか?」という問いかけに、「ほかの人ができることが、自分ができないことに気が付かなくて、自暴自棄になっていましたが、文字は読めないけれども記憶力が優れていたことを褒められて、自分に自信を持てるようになり、運送会社の倉庫番として重宝してもらって、生計を立てることができました。今では、コンピューター全盛なので、制御するためのノウハウをAIに教えています。」と。ということは、分けるのは、当事者でなく周りの自分ではないのだろうか?
みなさんは、どのように考えますか?