Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

今年のミヤマシジミ

2009-08-31 20:09:46 | 自然から学ぶ

 久しぶりに天竜川河畔にチョウの様子をうかがいに行ってきた。ツメレンゲノが生育している大鹿村への県道端は年々護岸に土砂が覆い被さり、かつてはそれほど丈の長い草は無かったのに、今や草ぼうぼうとまではいかないもののそれに近い状態になりつつある。ツメレンゲにとって環境が悪化していると言えるのは、丈の長い草によって陽射しが遮られてしまうことと、これ以上他の雑草に占有されると生育箇所がなくなっていく。果たして乾燥環境から若干なりとも湿潤化した環境が生育条件としてどうなのかということになるのだろうが、毎年足を運びながらその状況を確認していきたい。ツメレンゲそのものはともかくとして、以前盛んに飛んでいたクロツバメシジミの姿は影を潜めている。ツメレンゲノ状態をみると食痕が以前よりも目立たなくなったことも蝶そのものの個体数の減少をうかがわせる。それにしても道端であるこの護岸になぜこうも土が被さってしまうのか、日々の環境がそうさせていることは言うまでもない。この場所から少しばかり上流に遡ったところには砕石のプラントがある。かつてダンプ街道と言われた大鹿村への県道だけに土砂を運搬するダンプは絶えない時期があった。かつてに比較すると公共事業の減少に伴ってその量はだいぶ減ったのかもしれないが、この道に相変わらずダンプが行き交っていることに違いはない。そうしたダンプの巻き上げる砂塵のせいなのか、それともダンプそのものからこぼれ落ちた砂によるものなのか、明らかに年々覆い被さる土砂の量が増えていることは確かである。たとえ舗装された現代にあっても、土砂運搬車が往来する道端に住むということはたいへん迷惑なことなまだということはこの状況からうかがえる。

  ここではなかなか蝶の様子をキャッチできないため、天竜川本流の護岸に場所を変えてみる。ツルボについて以前触れたが、その場所も護岸に雑草が目立つようになった。こうしてみてくるなぜ最初に訪れた際にはどこも土砂が少なかったのかという疑問が湧いてくる。ひとつには最近護岸いっぱいに洪水が見舞うようなことがなかったということが言えるのかもしれない。洪水があれば護岸に覆い被さった土砂も流してくれるだろうし、同時にある程度雑草も流してしまう。安定した河川には安定した植層ができあがっていくということなのだろう。初見の際のツルボの群れはそこには無かったが、ツルボとコマツナギが目立つ護岸であることは以前と変わりない。ここのツルボを少しいただいていって自宅の庭に植えた。植物にはこうした種も多いというが、あらためてツルボにその1年の変化を教わったものだ。乾燥した場所が生育環境に適しているのかと思うとそうでもなく、そこそこ粘性の強い土地でもしっかりと育っている。春に葉を勢いよく出したかと思うと梅雨のころになるとその葉が枯れてしまう。最初は乾燥環境でないことがいけないのかと思っていたが、秋が近づいてくると再び葉を出してくる。梅雨のじめじめした時と初夏の暑い時はしっかりと姿を隠しておいて、過ごし易いころになると生育するという人の生活に近い姿を見せる。

  さてミヤマシジミの姿はここにはたくさんあった。表面が紫色をしているから飛んでいてもそれとすぐに気がつく。とまっていてもなかなか翅を広げてくれないから紫色の表面はなかなか撮れない。コマツナギを食草としている蝶であることからコマツナギに留まることが多いが、ツルボにも興味があるようだ。今年も一応確認できたわけで、けして夏の象徴であるわけではないが、わたしにとっては夏の炎天下に飛ぶ姿が印象に強い。したがってこれで夏も終わりという、わたしにとってはけじめの日であった。

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翻弄される地方

2009-08-30 21:28:17 | つぶやき
 開票が始まって村部の小さな数字が表れる。自民党候補の方が数字が大きいのに当たり前のように既に民主党候補の当選確実が出ている。ある局では8時と同時に「残109」と言う数字を出した。いわゆる出口調査というやつが結論を出している。開票も始まらないのに当選確実だというのだから選挙速報などもういらない。それでも小さな村部の人々にとってみれば「何それ」という感じだろう。結論的に言えばいわゆる人口の多い大票田というところに住んでいるサラリーマンに、村部はすべて翻弄されるわけだ。

 予想通りの雪崩である。300議席以上と言われた民主党は300どころか上乗せ数がかなり多そう。自民党支持者ですら民主党に投票するという筋書きを解析すれば、こういう時だからこそ自民党支持者は自民党に投票して、民主党の思うがままにさせないということが必要なのだろうに、闇の世界に陥っている。どこもかしこも選挙速報に力を入れて一般番組など普通には見られない。それなのに8時と同時に大勢が判明しているというのだから、報道の激しさというか、なんというか呆れてしまう。番組を演じている人たちもどこか楽しそうだ。こんな番組はいい加減にして欲しいと思うのは、こんなくだらない選挙に投票すらしたくないと思っていた人たちだろう。予想通りだったが、投票率は意外と低かった。もちろん期日前投票というものが投票率を上げることになっているが、結論的にいえば従来投票行動に出なかった人たちは、それほど今回意識を変えなかったということになるだろう。

 さて、あらためて民主党政権になることを前提にして今後を考えてみよう。予算はゼロベースで白紙にするといっている。とはいえ、国の補助金頼みだったものも多い。白紙に戻してもらっても良いが、せめて継続しているものをいきなりゼロ査定などして欲しくないことと、既に来年度予算を考えて動いている事業に停止宣言をして欲しくないということだ。それこそそうした部分は役所が関わっているわけで、役所だからといってすべて白紙に戻して一からやり直しなんていうことは辞めて欲しい。なぜかといえば役所だけではなく国民にもそのつけはやってくるからだ。公約は公約として、実現に向けて動くのは良いが、最低でも公平性は欠かないで欲しいものだ。

 ところでこの結果を踏まえて地方議員はどういう顔をするのだろう。まさかついこの間まで自民党議員の袖にしがみついていた人たちが、翻して民主党議員にしがみつくなんていうおぞましいことはしないと思うが・・・。
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日本の変わる日前夜に

2009-08-29 22:13:55 | つぶやき
 いよいよ衆議院議員選挙である。選挙前日までの期日前投票を行った人は前回に比べて1.6倍だという。政権交代が焦点と言われる今回の選挙は、歴史的な結果になることは既定のものなのかもしれない。そして期日前投票と同様に投票への関心が高ければ、もしかしたら民主党の大勝となり、二大政党どころか自民党が消えかねないわけである。既に参議院では民主党が実権を握っているわけだから、いわゆる二大という表現からは遠いものになりうる。それが何を意味しているかはともかくとして、結局は自らの利益を考えて投票する国民がほとんどだろうから、あえてここではわたしにとってマニフェストの整理をしておかなくてはならない。

 自民党の「日本を守るための約束。」というものを開いてみよう。「「国のしくみ」のマイナスを改め、プラスへ。」という3項目には、直接的にわたしの生活には影響は無い。いわゆる民主党の顔色を見て仕組まれた3項目といっても差し支えない。具体的な数字では平成29年までに道州制を導入するということ、平成27年までに国家公務員を8万人以上削減するということ、10年後には国会議員を3割以上削減するという。結論的には行政の効率化によって削減した経費をより効果的な部分にあてて行くという意味なのだろうが、いずれにしても具体的な部分は見えていない。さらにはこれまで口にはしても実現できなかったことが実績としてあるから「信用」という面で不信を買うのは致し方ない。いずれにしても無駄を省いたところで必要な部分に予算をあてれば税金が安くなるというわけではないから、具体的な形でわたしの生活に影響することは無さそう。「「生活を支えるしくみ」のマイナスを改め、プラスへ。」の7項目では、教育に関する部分ではすでに18歳になる息子にはあまり関係のないこと。雇用に関してもすでに中年に至っているわたしにはもし今会社を退いてもそれを補ってくれるような補填は無さそう。高齢化社会への制度充実は今後その世代に入っていくわたしには重要な部分なのだろうが、年金が一元化されたからといって年金の将来は見通せないからそれほど期待できるものではないことは言うまでもない。この部分は他党も具体的な政策が出されているわけではないから、この視点をもって比較することは難しい。そのほかの「お約束」も口だけだろうと言われるとそうも見えてきて、やはり自民党には「信用」という問題がつきまとう。

 さて次に本命の民主党である。民主党政権が政策を実行する手順にうたっている内容を見てみよう。子ども手当・出産支援と公立高校の実質無償化については、我が家にはまったく関係ない。今更ということでこれを上げられても喜べない。むしろ今まで子どもを育ててきた家庭にとってはこれを「格差」という。年金制度の改革についてはさほど目新しくない。医療・介護の再生あたりが最も関係するところだろうか。しかし直接的にはやはり関係してこない。農業の戸別所得補償については、「販売農家を対象に所得を補償」するといっていることから自家消費農業をしている者にとっては関係のないこと。これをもって農業再生と言えるのなら、自民党政権時代に再生されていただろう。暫定税率の廃止はけっこう影響ある。ガソリン代が安くなるわけだから「この約束は使える」というところだが、遠出もしないできることなら自動車を使わないという意識を持っている以上、必ずしも選択の重点項目ではない。さらに高速道路の無料化に至っては、ほとんど利用しない者にとっては不要である。間接的に受益を得ているという主張もあるが、自家生産消費率の高い我が家ではあまり関係がない。雇用対策については自民党の項で述べた通りである。なお、外交関係については自民党に比較して具体的な表現は少ない。

 ここまできて次の党に行く気がなくなった。どうも具体的な数値が見えないし自分の暮らしにどう影響があるかも想定しづらい。自民党が言う消費税アップは影響が大きいが、消費額の少ない我が家にとってはとてつもなく大きな問題ではない。なだれをうって政権交代に向かうこと必至なのだろうが、こうして自分の実際の暮らしに当てはめてみると、むしろ変わらないで欲しいという保守感もある。あくまでもこれは自分の暮らしを照らし合わせてみただけで、ここにいわゆる生業を当てはめると異なってくるが、おそらく多くの人は生業に照射して結論を出すことになるのだろう。しかし、これもまたわたしにとってはあまり重要ではない。なぜならば、いただける残業代を「いらない」といって損をしている人間にはもっと違うポリシーというものがある。それは生業を越えた人生観だと思っている。あれほど郵政民営化に賛同した国民が、なだれを打って逆パターンを望んでいるとしたら、「あなたたちにはポリシーと言うものがないのか」と問いたくなる。わたしは流れに乗った行動はしない。
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リニアは直線へ

2009-08-28 12:24:32 | つぶやき
 この27日の長野県市長会の動きは今後のリニア問題の一つの方向を見せたといってよい。これまでにも何度となく触れてきたリニアのこと。長野県地域の広範な人たちに受益を与えるには何を言われようと迂回ルートが当然の主張だろうということを言ってきた。もちろんそれは地域の主張であって、リニアそのものがこの地に必要なのかといったもっと住民レベルでの議論は無視してのことである。市長会には伊那・諏訪・松本などの9市が協同提案した迂回ルートによる早期実現を求める議題について、今回は採択を見送ったというものである。県内にある18ある市のうちの9市を想定すれば中南信地域の市であることは容易に解る。そしてその地域の市のうち、直線ルートで実現して欲しいと本音は願っている飯田市は当然参加していない。議論の中で飯田市長は「ルート問題に言及せずに飯田駅設置、早期実現を訴えている。採択は猶予を」と求めた。9市以外の市長の中にも「時期尚早」という意見があって採択は見送られたわけである。

 ここに何が見えてくるかといえば、結局東北信地域にとってみこれば長野新幹線が走っていて、リニアにはほとんど無縁の地域となる。以前にも触れたように名古屋方面に出るにしても、現在の中央西線を利用した方が連絡は良い。もちろん迂回ルートが実現してかなり岡谷向きに駅がてきれば別であるが。簡単に言えば無関係な人たちにとってみれば負担を強いられるともなれば直線ルートの方がありがたいという向きは東北信地域の人たちに多くあっても不思議ではないのである。そしてもし迂回したとしても、長野新幹線がある以上、通常リニアを使うことはまずないわけである。胡散臭く捉えれば、なぜ諏訪や松本あたりの人たちのために「わたしたちが迂回しろ」などと主張しなければならないのか、ということにもなる。このような足の引っ張り合いは常のことである。

 ここに飯田地域の人たちの策は、隣接する地域よりもむしろ東北信という無縁な人たちに根回しをしていけば、直線ルートはごく簡単に実現できるということが見えてくる。盛んに「県民総意」という言葉がこの問題には踊り、Bルート実現を求めている人たちは「Bルートこそ県民総意」であると思っているようだが、ここに大きな落とし穴があるわけである。

 衆議院選挙を控え候補者がどう考えているかということについて触れてみると、民主党候補者は直線ルートで飯田線の高速化ということを言っていたが票がほしくてその言動を今は表には出していない。そして「どのルートでもアクセス鉄道の整備をすすめるべきだ」と大金が必要な事業を実現するという。民主党の現状の主張とは相反して公共事業が拡大しそうだ。自民党議員は中南信地域全体の望ましい交通網体形を作ることが必要」といい現実的な費用負担のあり方も考慮するべきだという。共産党議員はそもそも「福祉、教育を優先すべき」だと必ずしも今急ぐべきことではないという。JRは中間駅については地元で負担という主張をしている。まずもってここがおかしいのである。地域に影響を及ぼす大規模施設を占用するというのに、「通してやるから自分で駅を造れ」みたいな発想が横暴なのだ。そもそも占用させてもらう条件に一県に一つの駅はJRで造ります」というのが常識というものだ。こんな発想がある以上地域交通はおろか交通政策そのものの基本理念が壊れてしまう。そして大都市圏以外の土地はみな大都市圏のためにあるみたいな発想が生まれる。JRの松本社長の言葉をもっと問題にするべきことと思うが、このことはだれも口にはしない。負担があるから無縁な者は議論などどうでも良い、ようは地域構想など二の次となる。「県民総意」などといって背景は身勝手な根拠になってしまう。そんな多数決的なものではないと思うのだが…。結論的に「リニアは直線ルート」になることだろう(もちろん既定路線的イメージを誰しも持っているだろうが、それをなんとかしようとしていた長野県内の意志はとても「Bという結論には至らないだろう」という意見)。

 県歌「信濃の国」を県民のほとんどが歌ったことがあるという不思議な県民。統一できないこの地域をなんとかしようとした歌であったのだろうが、いざとなってみれば自己の益しか持ち出さない県民であるということは、さらに今後あからさまになっていくことだろう。遠慮することはない。自分も自地域のエゴのために振舞おう。
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高貴な女たちの無言

2009-08-27 12:38:53 | ひとから学ぶ
 ある会社の窓口で来客者の応対をする女性は、窓口というだけで外向けの顔になる。そして愛想よく言葉を交わし、また挨拶をする。その女性に帰り際の道端で出会ったが、彼女は同じ会社にいる友と2人連れで歩いていた。会話をしているからこちらに気がつかないということもあるのかもしれないが、ほとんどこちらに目をやることもなく通り過ぎていった。「お疲れ様でした」という言葉が交わされなくとも、会釈程度はあってもまよいことなのだが、窓口で対応している女性とは少しばかり顔つきは異なっていた。あたかも気がつかないように通り過ぎていった理由を考えると、こちらが汚い恰好をしていたことが関係あるだろうか。そして友とともに歩いていることもその恰好とかかわりながら「こんな人は無関係」との表現にたどり着いたのだろうか。

 彼女たちは正規雇用者ではない。しかしどこかその表情に苦しさはにじみ出ず、余裕さえ感じる。時代は正規雇用者と非正規雇用者の雇用条件差の縮小を考えている。確かにすれすれのところで生活する人たちにとってはこの差の縮小は望むところである。しかしよく考えてみると、それほど稼がなくても良い人たちがいないわけではない。どれほどの比率でそうした人たちがいるかは知らないが、例えば彼女たちの高貴さにはどこかそんなものは影響のない時限のように見えたりする。労働の対価には当然差のあものではない。しかし、例えば医者が1時間働くのと、コンビニのレジをに立つのでは明らかに対価差が生じる。わたしたちは働くことの対価を何に基準を置くのかということ考えずにはその差を縮めるといっても労働差は解消されない。もちろん同じ仕事をしても差があるという意見がちまたには広がっている。そこには正規採用か非正規採用かの違いだけ。しかし、そもそも将来を見越して会社の人員を確実な計算の上で雇うことは不可能である。大会社であって業務が多様であれば人員を操作できるだろうが、小さな会社ではそれは不可能である。雇ったら面倒を見ろと言われるのなら採用に抵抗感がわく。簡単に首が切れる存在が制度上あるのなら、そこに頼らざるを得ないのはごく自然なことむ。とすればそれを補う方法が何なのかということになるのであって、非正規雇用者の正規化という考えは雇用されている側に立ちすぎた視点であることは否めない。

 ちまたでは「責任力」というわけの解らない言葉を掲げる人たちがいる。責任の力とは何を意味するのか。そもそもイメージし難い。問題があっても「わたしたちは責任を取る」とでも言うのだろうか。公の場が人が責任転嫁をしてきたことはごく当たり前のように記憶にある。彼らには後々の仕事に影響がないことを重視する。したがって前例に倣うという常識ができるし、むやみに頭を下げることができない。もうずいぶん前のことであるが、飯田市川路において治水対策として天竜川の脇にある広大な土地が盤上げされる工事が行なわれた。中部電力の責任ある立場の人がかつて地元と約束文書のようなものを交わしていたために、その洪水の要因がダムにあると認めることになって責任ある負担をした。ごく自然のようななりゆきであっても、「なぜそんな取り交わしをしたのか」という疑いがどこかにあった。公に限らずそう思わされる苦い経験で、人は一時の出来事に簡単な対応や判断ができない。それもよく解ることである。どこぞでは訴訟の場に登場して人々の同乗をかった女性が総選挙に立った。人として当たり前の政治が行なわれるとしたら、全ての人の訴えに国は責任を負っていくことになる。もちろん国だけではなく地方の役所も、また民間も。そんなうまい具合の社会になったとして、人はますますその基準に悩まされることになるだろう。

 政治の転換がやってくるさ中で右往左往して、いずれはその変化に撃沈するであろう会社で悩み続けるわが身には、すずしげに通り過ぎた彼女たちの後姿が、とても大きく感じた。
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彼女たちに見る生活差

2009-08-26 17:34:51 | ひとから学ぶ
 電車内の高校生には仲間ごとのグループがあれば、いつも一人でいる子どももいたりしてさまざまであることは言うまでもない。たった2、3両の中に閉じ込められているのだから、いくつかの印象的な子どもたちのグループは記憶に残る。もちろんそうした顔も年々変わっていくことになるが、そこには意外と変化のない風景があったりする。

 いつも電車に乗ってくると勉強のために本を広げるある女の子のグループ。グループといっても集団を形成しているだけで彼女たちが会話を交わすことはそれほどない。ひたすら勉強しているのだから当然のこととなるが、それでもそのグループのメンバーが変わることはない。一人の女の子がこんなことを口にした。「あの陸上競技場で世界陸上が始まる前にサッカーを見ていた」と。ベルリンの世界陸上はつい先日終わった。彼女はきっと夏休みの間家族なのだろうがベルリンを訪れていたということなのだろう。この言葉に続く若干の説明はあったが、この言葉を口にした彼女の上機嫌さにくらべるとその場に居合わせたメンバーの反応はほとんど無かった。その沈黙ののちも彼女らは勉強のためにうつむいていたから続く反応も確認はできなかったし、その後誰も言葉を続けなかったからその言葉がどう彼女らに漂ったのかも解らない。

 彼女たちは地域の進学校に通うグループである。身なりもきちっとしていて、服装も所有しているものも安物という雰囲気はない。彼女たちはこの地域では裕福な家庭の子どもたちと言えるのかもしれない。もちろんわたしの外見から感じる推定にすぎないが、ミニスカートでたち膝をしているきままな子どもたちとは明らかに別の空間を作り、そして彼女たちの間でもそれぞれの自分を描いている。一度も外国に足を運んだこともないわたしにはまったく別世界の彼女たちの世界、果たして言葉の先に「へーすごいね、ベルリンに行っていたの」という空気があったのか、それとも「ここでそういうこと言うの」という空気があったのか、わたしにはその先は想定できなかった。子どもたちの境遇に差があって当然のことである。ただし彼女たちの姿を見ていると、中学までは同じ色に見えていた姿が、高校という義務を離れた空間で、家の内情をうかがい知ることができる姿に変化していくことのだと思うのである。けしてそれを格差とは言わない。高齢化やさまざまな人間病に遭遇し、何事もなく平和に暮らせている家庭は少ないのかもしれない。いやその逆で不遇な暮らしに追われている人の方が少ないのかもしれない。外見だけではなかなか判断は容易ではない。自らの暮らし向きをどの位置に置いているか、あるいは感じているかによって不満の量は異なる。子ども手当てと言う支援が今後実現したとしよう。裕福な彼女たちには、さらにお小遣いが渡され、生活に苦しい彼女たちには大人たちの生活の糧となって潤う。外見でしか見えない、そして隣の財布が見えなくなったこの社会で、本当の意味で同じ益を被ることなどできないのに、わたしたちは政治に何かを頼ろうとしている。

 今日もまた、彼女たちがこの空間にやってくる。
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盆を思う③

2009-08-25 19:24:05 | つぶやき
 仏様をお墓に迎えに行くのだから送るのもお墓といえば整合しているのかもしれない。以前中川村の各地区の盆行事をアンケートでまとめた際にも、どこへ送るのかという問いに対して、「お墓」と答える例は多かった。もともと墓地だったのかそれとも昔は違うところに送ったのか、そこまで詳細に確認はしていないが、中川村の隣に生まれたわたしにとっては「昔は川へ送った」のではないかと思っている。川が身近にない地域ならともかく、中川村なら村の名前に「川」がついているように川との関わりが深い。したがって川へ流してもまったく不思議ではないのである。墓地から迎えてなぜ川なのかということになるが、そもそも墓地から迎えているものは川に送っている仏様ではないのではないだろうか。このあたりに祖霊と新仏の違いがあるのだろう。以前にも触れたように伊那市近辺では新仏は同市美篶の段丘上の原っぱにある六道地蔵尊へ迎えに行く。境内の松の枝に降りてくると言われ、松の小枝を折って「これにお乗りください」といって迎えにいったのである。今でこそ松の木が大木になってしまい、手の届くところに松の枝はなくなったてしまった。これではお迎えできないため、六道地蔵尊の祭りを担っている人たちが松の枝を用意していて、お金を払うといただけるというわけだ。イメージとしては依り代に降りてきた仏様は、帰りは水に乗って流れていくという具合で、上から下へという図式はイメージし易い。

 ところで京都で精霊迎えに行くのは六道さんで知られる珍皇寺である。8月初旬の精霊迎えの季節に訪れたことはないが、ふだんはまったく人気のない境内が、精霊迎えにはお迎えの人々で賑わうというのだからふだんとは大違いである。ここでは高野槇の葉を買い求めて行くのだそうで、この高野槇に乗って先祖が帰っていくと言う。六道地蔵尊の松の枝と同じなのである。京都でも珍皇寺から迎えられた祖先の霊は、加茂川や堀川で送られる。

 中川村で調べた際に調査をされた方の一人が飯島町の高遠原の出身で、子どものころの盆の様子を教えてくれた。それによると、13日の午後3時ころになると家族みんなで墓へ行ったといい、行きがけには辻になっているところに麦わらを置いていったと言う。墓地では父親が「皆様今年もお盆が来ました。お迎えに来ました。子どもも元気で来ました」と拝礼し、残しておいた一把の線香に火をつけてそれを持って家へ帰って行く。そして行きがけに置いていった麦わらに火をつけ、線香を1本ずつ立てて行った。家の前で兄が麦わらに火をつけ、両手でそれを持って「マンド、マンド燃えろ」と2、3回振り回した。棚へ墓地から持ってきた線香を立ててみなで拝む。そして母親が「遠い所をおいでて、お疲れになっつらなん。ひと休みしたらお風呂へお入りなんしょ」と言って風呂の蓋を取りに行ったと言う。家族みんなでお迎えに行き、それでも道を間違えてはいけないように辻々に火を灯し丁寧に家へ迎えるわけである。この記憶のとおりに行なわれたのは昭和10年ころのことだと言う。わたしの生家に近い地域であるが、辻に火を灯すこと、そして振りマンドをすることは知らなかった。天龍村大河内では迎えの夜、百八の松明を灯し、その中をかけ踊りの集団が新盆の見舞いにやってくる。県境域にはこうした百八の松明を灯すところが今でもあり、下伊那郡ではかつて灯したというところも多い。この時代であってもそうした迎えの行為に接すると、本当にご先祖様が帰って来るんだと思えるところに心意の奥深さを感じるわけである。
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商い

2009-08-24 23:52:50 | 民俗学
 中崎隆生氏は長野県民俗の会第167回例会において辰野町のある和服商いを営んだ方の話を報告された。もともとは染色業をされていたというその方は、祖祖父の代から木曽谷へ和服の商いにでかけるようになったという。染色業とはいっても法被や暖簾などの染色程度で、和服の染色は京都に依頼したという。和服の染色の依頼を受けるというあたりから和服商へ手を出していったようで、その相手先である木曽で広範な商いができるようになると、しだいにその業に専念していった様子である。そもそもなぜ木曽だったのかということになるが、たまたま木曽平沢に縁があって始めたものが、きっと木曽谷にはそういう商いをする人がいなかった、あるいは少なかったことで商売が根付いていったようである。南は大桑村の野尻まで商いをしたというのだから木曽谷のほぼ全域である。地元の立つのでも少しは依頼されることはあっても主体は木曽谷だったという。その理由を中崎氏は晴れ着に代表されるような和服を作るには地元の商店よりはより外向きな商店、ようはよその地域の商店に足を運ぶのではないかと言うのである。この意識は確かに頷けるものであって、いわゆるマチを目当てにサトの者が買い物に出かけるのはそういう意識が少なからずあるはず。もちろん地元に店がなければ致し方ないことであるが、地元に商っている店があってもよそへわざわざでかける真意は、地元ではない物への憧れのようなものもあるわけだ。それを証明するように時代は小さな町の商店を廃業に追い込んでいった。最期に残るのはどこで買ってもそれほど変わりばいのしない商品を扱う店。そして値段にそれほど差が無い物や小額な物、そして毎日利用するものという具合になっていいく。そうした代表的な店はタバコ店といえるだろう。地域が廃れていく原点に人々のそうした意識があることも事実なのである。

 さてこの和服商が木曽に通じた理由に鉄道がある。明治末期に祖祖父が始めてから三代約90年に渡る商い。その歴史は交通と大きく関わってくる。中央西線の全線開通が明治44年のことという。牛首峠越えをして歩いていったわけではないというから、中央西線の開通がこの商いの始まりを告げる。風呂敷に見本品の反物を10本ほど持って木曽へ向かう。見本品の反物はロール状になっているものの、いくつもの布を紙芝居風につないであるものだったという。この見本品で注文を受け、京都の染色店に依頼する。その後道路の発達とともに鉄道からモーターバイクへと変わり、今の自動車へと変遷する。昭和30年、鳥居トンネルの開通とともに商いは南へと下っていく。国道19号が全線舗装されたのは昭和41年のこと。自動車を利用するようになると反物の見本を大量に持って商いするようになる。そして反物の量が増えることで見本を広げるスペースが必要となる。それまでは戸々の家を回っていたものを展示場を設けてそこで見本を広げるという具合に変化する。そして広告を新聞に折り込むようになってしだいに商いは大規模化していく。広範なエリアで商うようになると当然宿泊して商いをするのだが、道路事情が良くなるとともに、平成以降は宿泊をしなくなる。和服のニーズが下がるいっぽう、他に商う広域的な業者が登場し、10年ほど前に90年ほど続いた商いに終止符を打った。商いは変化の連続である。長い時間同じものを商う店は稀な例といえる。ニーズにより一層敏感なだけに、変化は激しい。一定の地域に長年足を運んだだけに、その地域のことは姻戚関係から家と家の関係まで詳しくなる。さまざまな思いが商いの実績に横たわっていることだろう。
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新野の盆踊り

2009-08-23 21:33:42 | つぶやき

 盆といえば盆踊りがどこでも行われたものだが、例えば今わたしの住んでいるところにそのようなものはない。かつてあったのかそれとももともと無かったのか聞いてもいないが、わたしの生家のあたりでは今から40年ほど前は、地域の中心で必ず盆踊りというものをしていた。いつごろからその盆踊りが行われなくなったか知らないが、盆に里帰りした人たちが顔を合わせる機会がそこにはあったのだろう。

 この22日、阿南町新野ではウラボンの盆踊りが行われた。このウラボンであるが、いわゆる盂蘭盆と思いがちであるがどうもこの場合のウラボンは違うようだ。盆のことそのものをふつう盂蘭盆という。これは中国の盂蘭盆会からきているもので、過去、現在、未来を見通す能力を得た釈迦の弟子の目連が、亡き母が餓鬼となって苦しんでいるのを知り、飯を鉢に盛って供え救おうとした。しかし、飯は火炎となって亡き母は救われず、なお苦しみから逃れることはできなかった。目連はそのことを釈迦に訴えて教えをこうた。釈迦は目連の母は罪が深く、お前1人の母に対する超能力をもってしても救うことはできない。また梵天帝釈といえども救えないものなのだ。ただひとつ可能なことは、十方の衆僧が年に一度自恣する7月15日に、百昧の飲食を分器に入れて衆僧の供養をすることだ。そのことによって母だけではなく、7世の父母も救われるであろうという話が起源である。盆の起こりであるが、新野でいっているウラボンのこととは違うことが解る。ちなみにウラボンという呼称が長野県内で使われているのかとみてみると、北信では7月30日や31日のことをウラボンと言っているところがある。これは盂蘭盆の入るに日を意味しているようで、長野市若穂岩崎では「7月31日から8月13日までをウラボンという」と言っているように盂蘭盆を示していることになる。また東信でも中信でもほとんどウラボンという呼称の例はなく、あっても盆の期間のうちの一日を指してそう呼ぶ程度である。ようは新野のような盆の終わったあとにウラボンが存在する例はないのである。そして南信にいたると新野だけではなく、阿智村前原で「8月23日、24日をウラボンという」とか同じ備中原で「8月23日をウラボンという」といった事例がある。事例はあるが希少なもので、この場合のウラボンは裏の盆という印象が強い。24日といえば地蔵盆の日であるが、ここでは同じ日をウラボンと呼んでいるわけである。

  そんなウラボンの踊りを長野県民俗の会例会で訪れた。久しぶりの新野であった。13日から17日の朝まで行われる本番の盆踊りとは異なり、地元の人たちが中心の素朴な踊りの日である。盆の間はお客さんが来るため、とくに女衆にとっては踊りをする余裕がなかなかない。踊りへの思いが強い地域だけに、踊りを踊りたい人たちのために24日のウラボンに一日だけ盆踊りをするのだという。実はこの24日に踊りをするというのは少し前にはあまり知られていなかった。今でこそポスターにもウラボンの踊りが記載されるようになったが、そもそも地元の人たちだけの楽しみの踊りの日であったわけである。毎年決まった24日では人が集まりにくいということで、昨年から第四土曜日に日程が変更されたという。とはいえ、かつて昭和60年代に訪れた時と今年をくらべてもそれほど人出に変化はない。さすがに本番の踊りとは輪の大きさが違う。午後9時に始まると、50人ほどの踊り手の輪ができる。時計が翌日になるころには、標高800メートルを越える新野の夜は「涼しい」ではなく「寒い」に近い。最初は小さな子どもたちがたくさん輪に加わっているが、しだいに輪からはずれていく。それでも思いの強い子どもがいつまでも踊りたいと親の説得に拒否したりする。そんな光景が何度か見られた。午前1時ころになるとずいぶんと人も少なくなるが、それでも午前6時までずっと続く。音頭とりの台には中学生が代わる代わる上り、延々と続く踊りの担い手となる。とても朝まで見続ける体力はなくそのあたりでお暇するが、朝まで踊り続けた仲間の話によれば、もっとも少なくなったのは午前5時前の20人くらいだったという。最後は再び50人ほどの輪となって、午前6時を迎えたという。朝方、宿泊した旅館の家の者が控えている部屋に子どもたちが雑魚寝で何人も眠っていた。この日ばかりは最後の夏を楽しむ徹夜のひと時だったのだと感じた。

  参考に「新野盆踊り」について触れたわたしのモノクロ写真のページがある。 また、「音の伝承」に平成4年8月24日の録音が置いてある。

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二段水路

2009-08-22 13:27:53 | 西天竜

 

 写真の水路は上は手前側へ流れていて下は向こう側に流れている。伊那市小沢というところの春に富士山を思わせるシバザクラを植えて観光客の目を楽しませてくれているところの近くにある水路橋である。手前側には約1ヘクタールほどの水田があり、その水田から西、いわゆる木曽山脈側には水田はなくなる。ようは天竜川の端から権兵衛峠に向かって上っていくと、このあたりを境にして水田地帯から畑地帯と様相を変える。ちょうどその境界域にある水田に、この用水路は水を供給している。そもそもこの水は西天流用水路の水で、同水路の末端部にある揚水ポンプで中央自動車道を越えてさらに西に送られ、この地までやってくる。ようは機械的に送られてきた用水なのである。水が貴重であるがゆえ、いったん水路橋を越えた水は余った水は再び戻って下流域の水田を潤すことになる。それなら必要な分だけ送れば良いのに、とは思うのだが水田に用水を毎日毎時間掛けているわけではないわけで、その調整は少ない面積の中では止めるか流すかという二極の選択となってしまう。それを解消するには随時用水の供給のスイッチ操作をする人が必要になってしまうわけで、1人の人がすべて耕作していれば良いが、複数の人たちが耕作しているとなればそういう調整は容易ではない。

  ということで、随時水がやってくるが不要な分は再び戻っていくという無駄のない方法がこうした二段水路になったわけである。小さな洞を渡るために水路橋が架けられているがこの水の流れと水路橋の姿を見ていると水の流れの不思議さを描いてしまう。岡谷市川岸で天竜川から取水された水は、米の道と言われた権兵衛峠のすその近くまで揚げられている。たった1ヘクタールほどとはいっても長い時間の中で企てられてきた先人たちの思いがここにある。

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盆を思う②

2009-08-21 12:34:38 | つぶやき
 先般盆棚を新盆でなければ作らなくなったと言ったが、あくまでもわたしの記憶ではそう思えたわけであって、かつては必ず盆に棚を作っていたわけではない(棚という概念もさまざまで多様であるということは承知している)。『大河原の民俗』(S49.大鹿村教育委員会)によると、「新盆の家のみが盆棚を作り、一般の家では仏壇をそのまま利用する」とある。わたしの生家では記憶にある時期からずっと新盆でなくとも盆棚を作っていたもので、わたしはそういうものなのだと思っていたが、必ずしもそうではないということがわかる。供えられるものも新盆に限らずほとんど変わりなかったが、新しい仏様を迎えることが少なくなった現代では、むしろ新盆の時だけ意識するとなると、その作法も忘れてしまいがちである。だからこそマニュアルが必要ということになるのかもしれない。そういう意味では民俗誌に記された「盆」の項は大事な部分であるのだろう。

 仏様はお墓から迎えてくるという。盆の間は墓参りをしても空っぽだから無意味なことということを教えられた。仏教で葬式をあげればそれなりに墓もあって供養をすることになるのだろうが、果たしてこのあたりのストーリーはどうなっていくことだろう。例えばわが家のように「墓はいらない」と言っていると盆月に入っても墓そうじが必要ないのか。そしてなにより13日の夕方が近づくと仏様を迎えに墓に行ったものであるが、どこへ迎えに行くことになるのだろう。当たり前のように盆を迎え、当たり前のように送っているが、わが家でもいずれはそんなとまどいの時を迎えることになるのだろう。もちろんそれは分家したわが家にとって初めて死者が出たときのことであって、普通に考えればわたしが知らないところの話になるはず。わたしはそんなとまどいもなく、この世を去ることになるわけだ。あくまでも順番に逝ったらということではあるが。

 前述の『大河原の民俗』によれば、「下青木ではウラボン・ウラドムライということをする。これは位牌を分ける習俗と関係があり、たとえば、嫁の実家の親が死ぬと、嫁も位牌を分けてもらってくる。そして嫁が嫁いだ先、いわゆる婚家でも、その年は新盆と同じように盆棚を作って飾り、親戚・組合がボンミマイに来てくれる」と言う。嫁に対しての大変な気遣いであって、ここまでしてもらえば嫁いだ後も両家は密接にかかわっていくことだろう。この方式に則れば分家した家でもその家から死者が出なくとも位牌を所有することになる。この場合の位牌がふだん仏壇という特定の場所に収められなくとも、盆には棚を設けて供養されるということになるのだろうか。そこまでの記述は見られない。位牌を分けるという習俗は長野県内では佐久に顕著のようであるが、このあたりではあまり聞かない。それでも時おり「位牌を分けてもらった」ということを聞くことはある。下青木のようなところならともかく、嫁いだ先で分けられた位牌をどうしているのか、などと心配する。もちろん下青木の事例でもふだん位牌の収納についての記述はないわけで、婚家の仏壇に並べられているのだろうか。

 さて生家での仏様迎えはこうだった。明るいうちに墓地に家族で迎えに行く。麦からで迎え火を墓地で焚き、家に帰ると砂盛りをした上で同じように麦からで迎え火を焚く。このとき仏様に旅の疲れをとってもらうよう風呂の蓋を開けておく。というようなものであった。盆の間は家族が多くなったような錯覚を覚えるのは、来客があるばかりではなく「迎える」という気持ちがそこにあるからなのだろう。当然のこと身のまわりは綺麗に、そして当然のことであるがこの日の風呂は新しい湯が張られる。
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空間で生きられる制限

2009-08-20 17:37:25 | 農村環境
 理学博士の瀬戸昌之氏は生活クラブ事業連合生活協同組合連合会の「生活と自治」8月号において「入会地の悲劇」のことに触れている。「100頭の牛が飼える草地で10人が10頭ずつ飼っている。そのうちの一人が牛を11顔に増やすと、1頭分の過放牧による草地への悪影響が生じるが、それは10人で分かち合うことになる。つまり彼は1頭分の利益を独占し、不利益は10分の1。みんなが競ってより多くの牛を飼い、やがて草地は崩壊する」というものである。これはわたしたちの住む空間には共有のものがあり、その共有のものは平等に利用して収益を得る財だという例えで利用されたものである。歴史の中では入会地をめぐっての争論は絶えなかったわけで、共有といってもその境界域は伸縮性があったために争論も起きやすかったともいえる。かつての入会地であっても「入会地の悲劇」のようなことは必然的に起きえたことなのだろうが、そのためにムラの掟が設けられて、強いてはムラ八分というものも生まれたわけである。ムラ八分はけして虐めではなくムラの秩序を守るための救いのある制裁だったといえ、現代にイメージされるものとは異なるだろう。

 公共域の拡大は今のわたしたちの空間と意識をとても大きなものに変えてしまったことは事実で、ムラというものが狭い領分であればそれぞれが狭い領域で相互に干渉可能だったはず。境のない空間の公共意識はかつてのヨソのムラであっても今では公共域ということになるわけで、どこでも誰にでもその公共空間は利用可能なのである。今でも風習として残る送りの行事。例えば飯田市の天竜川東岸で2月のこと八日近辺に行なわれる「風邪の神送り」は、狭い領分である現在の集落単位で神送りをし、隣ムラ境に悪い神様を送っていくのである。たまたまここでは送り継がれているが村境に送る、あるいは捨てるという意識の連続性であって、ムラ内から外へ出すという意識共通する。送る場所は公共域であって、かつムラ内ではないというところに意味がある。時代は変わりとてつもなく大きな行政区域になっても、こうしたかつての狭い領分が意識されているのは山間部ほど強いといえる。公共空間の拡大とともに、かつての領分ではなくもっと広い公共空間を意識して送るようにならなかったのが救いでもある。ところがこれはあくまでも神という実在しない、とくに自らに災いが起きたとしてもその行為の災いだと証明できることではないから変化を伴わなかったわけで、現実的な益に被ることであれば、どれほど伝統的なものであっても、その境界域は変化を遂げていったに違いないわけである。

 神送りはかつてのムラ内で了解するが、廃棄物はできることならよそへ捨てたい。この意識の典型的なものが廃棄物処理場や汚水処理場建設に対する反対運動である。そもそも狭い領分で相互で干渉しなくてはならなければ了解できることが、空間の広がりでその反対運動は比例して大きくなってしまう。不思議なもので、公共性というものを利用して人々は自らの益だけを計算するようになったわけである。瀬戸氏は「工場からの水銀やカドミウムなどを含む排水、亜硫酸ガスなどを含む排煙のタレ流しは、河川や地下水、大気などの入会地を破壊します。ところが、タレ流しで〝節減″した処理費による利益はその工場が独占します」と例える。公共域は自然界の循環作用を持ちえているから、その自然界という公共域を独占して利用する人々は、入会地で例えたところの過放牧にあたるわけである。公共性とはあくまでも平等に利用できるものであって、さらには秩序ある平等が唱えられなくてはならないのだが、現実的にはそれが認められなくなったのは、やはり公共域の拡大という意識から始まったものではないだろうか。
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盆を思う①

2009-08-19 12:25:46 | つぶやき
 盆が終わってから盆のことにいろいろ触れているようなことではいけないのだが、昨日も触れたように盆は正月以上にわたしたちの心の中に残る季節であることは言うまでもない。なぜならば身内がいれば必ず人は亡くなるわけで亡くなった霊や仏というものに少なからず現代人もかかわっていく。もちろん仏教ではない人にはかかわり無いことであろうが、とくに信心している対象がなくともこの感覚は日本人から容易には取り除かれないだろう。地方にあっては多くは地元に留まることなくよそへ、とくに都会へ出て行く。家族との関わりが薄くなった現代においても、盆に帰省するという思いは、仏が盆に帰っていくのと似ている。期を同じくして家へ里へと帰る行動の原点に、盆という決まりきった期間はとても整合した心のよりどころとなっているのである。農業が衰退したとしても盆にかかわる行事はそれとは関係のないところで催されるものであって、衰退しにくい年中行事であることはいうまでもない。

 盆と正月はどちらも先祖をまつる神事であって、共通点が多い。盆の魂祭りの方は中国伝来の盂蘭盆会と結合して仏事となったが、民間の年中行事になったのは室町時代以降のことという。もともとは亡くなった霊が餓鬼世界で彷徨い苦しんでいると、現世への思いがわざわいを起こさないとも限らないため、その苦しんでいる霊を救おうとして供養される行事である。ようは亡き霊を懐かしむことになるものの、彷徨っている霊に早く仏の世界に行ってもらうように現世の人たちも手助けをしなくてはならないのである。現代人に照らし合わせればこう考えたらどうだろう。日々の日常に負われ、亡き人を忘れていると、彷徨った霊は「もうわたしのことを忘れている。亡くなったことを喜んでいる」とひがんで現世に戻りわるさをする。現世の者にとってはそんな霊を恐れることにもなりかねない。そうしないためにも盆に迎え、「けして忘れていないからどうぞ家に帰ってください」とばかりにご馳走を用意して供養するわけである。いっぽう亡くなった人を思いすぎてなかなかその思いから逃れられない人も多い。改めて盆という季節に迎えずとも毎日のようにそばに霊がいついてしまうなどいうこともないとは限らない。いつまでも彷徨っているわけにはいかない霊にとっては、盆に迎えてもらい、そして送ってもらうことで「わたしは旅立ちます」と確認できるわけである。そういう意味では常にそばにいてほしいと思っている人は、盆という行事が不要ということになるかもしれない。いつまでも霊の状態で彷徨うことになるべく。

 盆も正月もどちらも祖先をまつる神事だったというが、現代では正月は消滅しつつあり、盆は継続しそうである。正月は単純に年が改まる時という印象になりつつある。小正月の衰退がその原因でもあるが、小正月は農正月と言われるように農業と関わる部分が多い。農業の衰退=正月の衰退という構造なのかもしれない。いっぽう盆には盆であるが故の行事が拡大されて残っている。夏の祭り多くは魂祭り的な要素を含む。かつては同じような二つの季節は今では正月<盆という形になりつつあるのかもしれない。
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盆を送る

2009-08-18 12:41:09 | つぶやき
 盆月と言われる8月。盆月に亡くなってもその年のうちに新盆の法要を行う家も目立つようになった。新盆見舞いに訪れたが「うちは来年です」などと言われたという例も耳にするようになった。「あそこは今年新盆だろうか」といって悩むこともある。新盆見舞いの風習はけっこう継続されている風習の一つである。葬儀も身内だけということも多くなった最近の死者とのかかわり。地方の新盆見舞いの姿を見ていると、地方にあってはまだまだ身内だけで葬儀を済ませるなどということは稀なことだろうとうかがえる。

 8月に入るとローカルな無料配布されているような新聞に「盆」の特集が組まれることが多い。「週間いいだ」においても「お盆の迎え方」という記事が8/9付けのものに掲載された。盆飾りもままならなくなりつつある中で、こうしたマニュアル的なものが目立つようになってきている。盆だけではなく、葬儀のこと、正月のことなどかつての風習にかかわるものが多く取り上げられている。ただしあくまでもその地方の共通的な部分であって、どこも同じ方法というわけではないことは誰しも認識しているが、簡略化されるさまざまな行事にあっては、マニュアル化されたものにしだいに統一されていってしまうのだろう。その原点を担うのが葬儀や盆に関わる部分ではいわゆる葬祭センターのようなところである。解らないことがあれば葬祭センターで基本的なことは教えてくれる。言い伝えを気にせずとも、そこそこのことはできるというわけだ。

 同記事によれば飯伊地区の一般的な新盆の進め方というものが紹介されている。8月1日には家紋入り盆ちょうちんを玄関先に飾る。8月10日ころまでに新盆の祭壇を飾り、仏壇や墓のそうじも済ませる。そして8月13日に迎え火をたくのはよく知られたことで、「隣組合や近い親族が集まり新盆法宴」がされるとある。13日から15日にかけて新盆見舞いに訪れるわけである。新盆の家でちょうちんを出すのがいつなのかというところは地域や家によって異なる。近所でも7月のうちからちょうちんを掛ける家も見た。また隣組や近親の者が寄って新盆の法要をするのも13日に限ったことではなく14日であったりすることもある。近親は13日、そうでない人たちは14日などという言われ方はよくするが、お寺の都合もあって必ずしも日は定まらない。場所によっては新盆でなくとも盆に必ず檀那寺で経をあげに来るところもある。

 新盆見舞いに訪れたときの口上「お新盆でおさみしゅうございます」というのはこの地域の定番である。同じことはわたしの生家でも教わった。しかし最近の口上からは「おさみしゅう」という文句はあまり聞かれなくなった。寂しいという意味にあたるが方言と捉えられるとなかなか口にし難いのが事実。若い人たちから聞くことはない。

 さて記事には盆棚の飾り方が表わされているが、竹が四方に立てられ祭場のように描かれているのには違和感を覚える。表わされた図もそうであるが、最近は盆ごさを畳の上に垂らしている姿を見ない。生家は下伊那ではないが、ござを伝って仏様がやってくるといって畳に垂らしたものだ。その生家でも最近は盆だといって盆棚を作らない。わざわざ別の場所に作るという面倒なことをしないのである。仏壇にそのままござだけは敷いて、盆棚風にはするが、仏壇だから裾を畳に垂らすなんていうこともできない。たった3日ほどのために手をかける時代ではなくなってしまったということだろけうか。ごく普通に行なわれていた年中行事の衰退は、農家でも著しく進んでいる。
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結局、小さな犬止まり

2009-08-17 23:06:18 | つぶやき


 表は「ブリーダーになりたい」というページから借りた。小型犬と言われる犬種の代表種の体重の標準値である。ちまたでは小型犬流行で、座敷犬急増という。座敷犬だとふだん外にいないから犬を飼っているかいないかという判断が難しい。外で飼われていれば自ずと近所の人たちの目に触れる。ところが座敷犬ともなるとめったに外に姿を見せなくなるからご近所でもその姿が見えない。事実近所でも小型犬を飼っているという家を何軒か認識しているが、犬を拝見したことはない。小型だからそれほど運動しなくても良いのかどうか知らないが、我が家の小型犬は運動をしないと夜中まで吠え続けて仕方ない。加えて食も進まないからできる限り運動させるに限る。「ダンボール犬」だった我が家の犬はそのとき(3ケ月余)1.5キロだった。3ケ月時に1.1キロだったから表によるところのヨーキーやトイプードルに該当する。ところが我が家の犬はスピッツとパピヨンのミックス。表にあるパピヨンですら3ケ月で2キロあるから親よりはるかに小さい。成犬で5キロくらいを想定していたのに、まったく予想外。間もなく半年、表によるところの360日を迎えるが、現在2.2キロ。超小型犬の部類に入ってしまうほど成長が鈍かった。どうみてもチワワ系である。



 散歩に行っても動けなかったシロは世間を知らないためのおびえだった。最近はようやく慣れてきて自ら進んで歩くようになった。よその犬がふりかけたおしっこの跡に、くんくんしながらおしっこを掛けるようになってようやく人並み、いや犬並みなってきた。親ばかというのかもしれないが、表にある純血種のどの種よりも可愛いと思い込んでいる。妻の実家に避暑に行ったきりなかなか帰らなくなったラブは、2か月ほど前に倒れた。妻から「今日こないと会えないよ」と夜中に言われたものの飲んでいたから行くわけにはいかなかった。「今夜がお別れ」と悟った妻はそのまま実家に泊まって面倒をみたが、持ち直して最近は歳は感じるようになったが、ほぼ元通りに元気になった。若かったころの激しさが懐かしいが、それを上回るシロの元気さに、暗くなりがちな我が家が明るくなった。というよりわたしが和んでいる。「犬と一番会話している」と妻に言われるほど、ラブとは正反対のちっちゃな犬にいろいろ教えられている。

 夜中に吠え続けるため、「迷惑」を感じて家の中に入れるが、それでも吠える。散歩をたくさんして、さらに庭で放し飼いにして遊んであげると無駄吠えをしなくなった。既に成犬とすれば2.2キロ止まり。予想外のこと(本来の大きさになっていれば妻の実家につながれていたのに)で我が家の一員になったシロ。平日には犬の帰宅が遅いから散歩に行くことはできないから、なんとか朝方に散歩を…と思うがなかなか実践できない日々が続いて、いまだ行けたことはない。ちなみに写真はネズミではない。
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