Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

働くという意識

2009-08-02 16:02:55 | ひとから学ぶ
 しばらく前のこと、長野日報の寄稿欄に「ゆとりある生活を」という山崎衛さんの文が掲載されていた。「早起きは得する」というから犬の散歩を兼ねて休日の朝6時ころ、駒ヶ根市菅の台に出かけたという。「駐車場に入る」というから山崎さんは車で出かけたのだろう。「途中田作りをする農家の方の姿があちこちに見え、思わず「早い時間に…」と独り言」を言ったとか。まず最初にこの文に目が止まる。「そうなんだよなー、農家の朝は早い」と。わたしが頷くようにそう思った山崎さんは農家ではないわけである。「勤勉は美徳と教えられ育った私たはとかく自由時間を使うのに慣れていない」というから退職されてしばらくたっている世代なのだろう。かつては退職した後の時間、いわゆる余生という言いかたは正しくなく、今は第二の人生という言い方が適正なのかもしれないが、世の中の中枢はに実は多くの年配の方たちが存在している。かつてのように隠居をしたからといってまさに自らの食い扶持を稼ぎ、自らの生活だけを考えていれば良いという年配組ではない。もちろんそこには年金という手当てがあるわけだが、盛んに言われる年金も含め、最低限暮らしに必要な生活費とは何かということにもなる。

 山崎さんのように「早い時間に…」と思わず独り言を言うだけ、ちまたの農家を見ているわけであるが、果たして「働く」というところに共通の理解は人々にはない。それぞれがそれぞれの意識で「働く」を感じている。山崎さんが言うような自由時間を消費していれば「遊び」と捉えられる世の中に生きた人々がだいぶ減ってきた。教えの中で「勤勉は美徳」と言われ続けた人々も、いわゆる勤め人を終えればそこからは別の世界であると認識していただろうし、やはりそれは第二の人生と言うよりは「余生」が正しく見えてきたりする。「自由時間は全て遊びと言えばそれまでだが、遊びは「悪」だとつい思ってしまう」というような意識はもはや現役世代にはないかもしれない。

 さてここからはこれら意識の問題である。農家の子どもたちが自家の仕事を手伝えと言われたとき、とりあえず手伝わなければならないという意識が生まれるかどうかという個々の意識がある。ここでそう思わなければ労働意識フローからは外れる。次に手伝っていた仕事が終わった段階で、そこから自分は自由時間になると思えばフローから外れる。終わっても「まだ何かをしなくてはならないか」と思えば次に進む。間違えてはいけないのはこれはあくまでも子どもに言いつけられたことであって、わたしたちが日常行なっている稼ぎとは違う。次に親が仕事をしていてまだ手伝わなければならないとどこかで思い、「何か手伝う」と聞くか、あるいは後ろめたさがあるものの自由時間に戻るかというところになるが、これを繰り返していればもはやどちらを選択しても、いずれも意識として自由時間とは「遊びなのか」という思いが育つ。実は農家を対象にしてこういう労働意識フローを考えたが、きっと農家でなくともそういう意識は育つのだろう。しかしご承知のとおり、現代においては家業を目の当たりにして育つ子どもは少ない。「働く」という意識に金を稼ぐというものが成り立ち、そうでないものが自由時間であるとしたら、そもそもそこで働かせる側も金銭意識を持たざるを得なくなるわけで、勤勉という意識も「金勉」ならざを得ないのだろう。
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