さてまずは稲刈りである。一条刈りという小さなバインダーで刈るわけであるが、妻の実家のあたりではコンバインで刈る家は少ない。いっぽうわたしの実家のあたりではハザ掛けされている風景などほとんど見ない。同じ山間地域と都会の人から見れば見えるだろうが、同じ山が見えていてもまったく異なる環境がそこにある。ようは伊那谷でいえば天竜川の右岸と左岸では異なるということ、そしてその天竜川の風が吹く地域とそうでない地域で異なる。妻の生家のある地域は左岸であって天竜川の風は吹かない。しかしわたしの実家から見える山が、妻の実家からもしっかりと見えている。不思議なことである。実家で教えられたことで最も記憶に残っているのは、いかに落穂をださないかということになる。刈られた稲の束を乱雑な運び方や置き方をすれば束から稲穂が抜け落ちる。もちろんそれを後で拾えばよいことであるが、そのくらいなら抜け落とさない刈りかたをするにこしたことはない。すべての作業が自らの判断の中で進むとなれば、できれば綺麗な仕事をしたいと思うのはわたしの性格である。バインダーを操作しながら思うのは、まず刈り残しのない作業である。ところが必ずしも等間隔で畝が揃っているわけでもないし、狭い田んぼで曲がりくねっていたりすると、思うようにいかないもの。「しまった」と悔やむほどではないのだろうが、どうしても刈り残しの株が出たりする。無理をすれば素早く進む作業なのだが、そんな落穂のことを頭に入れながら操作するからおじさんがやっていた例年よりは少し時間を要しているのかもしれない。
「しまった」を何度か繰り返したものの、例年よりは綺麗に処理できた。その証拠に妻も「いつもより落穂が少ない」と褒めてくれる。おじさんが刈るとけっこう刈り残しが多かったものだ。次ぎはハザ突きである。こうしたふだんはしない仕事をしている間に妻は稲を運んだりしているが、ふだんはわたしの仕事。掛けるときのことを考えて運んでいたわたしとは違って、あまりそのことを考慮していない。前述したようにわたしの場合は稲穂が落ちないようにハザ際に置く。ようは掛ける際に穂が抜け落ちないように綺麗に積まれていることが求められる。強いてはそれがハザ掛けの時間にも影響する。得意のハザ掛けの仕事はわたしの作業から減ってしまったが、いつもなら刈られた稲がハザに掛かるまでを連続的に作業していた。それがわたしの仕事だったからだが、今年はその仕事はわずかしかできなかった。いずれにしても落穂のない綺麗な仕事をするには、刈り取りから始まるということになる。とはいえ、ハザが今ひとつで波を打っているのはそんな田んぼの綺麗さをいっきに台無しにする。今後の課題である。