Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

落穂のない稲刈り

2009-09-30 12:30:48 | 農村環境
 先の土曜日から3日間、妻の生家の稲刈りをした。5枚ある田んぼのうち最も大きな田んぼを祭典で実家に呼ばれた土曜日に稲刈りをしたが、大きいとはいっても一反歩は下る。大きな畦畔を含めて一反歩ほどだろうか。実家の祭典に行くということから午後もわずかしか働けない。そんな中で今年は例年大きな労力となっていたおじさんとおばさんが来ない。したがって妻と2人だけの稲刈りとなる。例年は稲を刈るのとハザを突くのはおじさんの仕事。したがって妻の実家の稲刈りを手伝うようになってこの二つの作業をしたことはほとんどない。しかしおじさんがいないのだからそれはわたしの仕事。実家でもしたことのないハザ突きを初めてすることになる。

 さてまずは稲刈りである。一条刈りという小さなバインダーで刈るわけであるが、妻の実家のあたりではコンバインで刈る家は少ない。いっぽうわたしの実家のあたりではハザ掛けされている風景などほとんど見ない。同じ山間地域と都会の人から見れば見えるだろうが、同じ山が見えていてもまったく異なる環境がそこにある。ようは伊那谷でいえば天竜川の右岸と左岸では異なるということ、そしてその天竜川の風が吹く地域とそうでない地域で異なる。妻の生家のある地域は左岸であって天竜川の風は吹かない。しかしわたしの実家から見える山が、妻の実家からもしっかりと見えている。不思議なことである。実家で教えられたことで最も記憶に残っているのは、いかに落穂をださないかということになる。刈られた稲の束を乱雑な運び方や置き方をすれば束から稲穂が抜け落ちる。もちろんそれを後で拾えばよいことであるが、そのくらいなら抜け落とさない刈りかたをするにこしたことはない。すべての作業が自らの判断の中で進むとなれば、できれば綺麗な仕事をしたいと思うのはわたしの性格である。バインダーを操作しながら思うのは、まず刈り残しのない作業である。ところが必ずしも等間隔で畝が揃っているわけでもないし、狭い田んぼで曲がりくねっていたりすると、思うようにいかないもの。「しまった」と悔やむほどではないのだろうが、どうしても刈り残しの株が出たりする。無理をすれば素早く進む作業なのだが、そんな落穂のことを頭に入れながら操作するからおじさんがやっていた例年よりは少し時間を要しているのかもしれない。

 「しまった」を何度か繰り返したものの、例年よりは綺麗に処理できた。その証拠に妻も「いつもより落穂が少ない」と褒めてくれる。おじさんが刈るとけっこう刈り残しが多かったものだ。次ぎはハザ突きである。こうしたふだんはしない仕事をしている間に妻は稲を運んだりしているが、ふだんはわたしの仕事。掛けるときのことを考えて運んでいたわたしとは違って、あまりそのことを考慮していない。前述したようにわたしの場合は稲穂が落ちないようにハザ際に置く。ようは掛ける際に穂が抜け落ちないように綺麗に積まれていることが求められる。強いてはそれがハザ掛けの時間にも影響する。得意のハザ掛けの仕事はわたしの作業から減ってしまったが、いつもなら刈られた稲がハザに掛かるまでを連続的に作業していた。それがわたしの仕事だったからだが、今年はその仕事はわずかしかできなかった。いずれにしても落穂のない綺麗な仕事をするには、刈り取りから始まるということになる。とはいえ、ハザが今ひとつで波を打っているのはそんな田んぼの綺麗さをいっきに台無しにする。今後の課題である。
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自民党の行く末

2009-09-29 12:30:05 | つぶやき
 「小泉改革以降地元の声が通らなくなった」、だから自民党が国民の声を聞かなくなった、という理論はまったくおかしなこと。もし本当にそう思っている自民党員が多いとしたら、もはや自民党に「再生」はないだろう。実は民主党の過激な政策展開は、きっとどこかにほころびが出る。そのほころびをつけば、自民党が政権を奪還できることは容易のように思うのだが、それは夢の話。いかに河野太郎氏が地方票を多く取ったにしても、やはり自民党は利権集団で「ある」ということを結果的に自民党員外に掲げたことになるのだろう。国民の多くが自民党の再生に期待しているというのに、自民党は「何も解っていない」というのが事実のようだ。

 そもそも小泉改革は、今までの利権的な票取りによって意見を容易に聞くことはできないという宣言のようなものだったはず。そういう意味ではけして小泉改革は間違っていなかったはず(小泉を否定していた先生方もとりあえず流れに沿っていたわけで、自民党体質そのものが小泉改革と相反するところにあったはず)。西村氏が言うように確かに地方は疲弊したかもしれないが、必ずしも地方を相手にしていなかったわけではない。その路線はけして間違っていない以上修正を加えても、今までの改革の道を簡単に否定してしまってはならないわけである。強いてはそれが民主党との対立軸ではなかったのだろうか。もはや業界のためにある自民党なのかそうでない自民党を目指すのか、そういう段階にきているはず。ところが年老いた権力者はどうしても利権にこだわる。それが政治に生涯を賭けた当選当初からの行く道だったのだから、それを転換することは容易ではないはず。自民党が誰のために再生するのか、まずここを定めない限り、この党はもはや無に化しているといえるだろう。

 ちまたでは政権与党であった自民党を批判していた時代とは違い、ふぬけの野党を批判することもなくなった。なぜならばそれほどに奈落の底に落ち、それとともに「みんなでやろうぜ」などというくだらないギャグを口にする総裁を選択した。この党に再生の兆しはまったく無い、と誰もが感じているはず。もはやこの党の党員である必要もなくなったと感じている人も多いのではないだろうか。わが社においても今後どう判断するか問われることになるのだろうが、そうした現実を見据えて社運を任せられる方針転換が必要だと強く感じるわけである。総力報道の後藤謙次は自民党の再生に必要な時間を10年と言った(9/28同番組)。そして場合によってはそれまで「持つか」という言葉もあった。その裏には民主党が「持つか」、あるいは自民党が「持つか」という捉え方があるだろうが、後藤謙次のそれは後者と思われる。まさにそれを感じさせた今総裁選であったと言える。
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原材料という食品添加物

2009-09-28 18:36:49 | つぶやき
 食品の製造年月日表示から消費期限と賞味期限表示に変更されてもう長い。その理由が業界や輸出国への配慮であったというのはその当時耳にしていたものだ。消費者の食品の選択という面では、確かに製造年月日が表示されていると、その食品の保管度合いというものが意識的に記憶に残ってくるものだ。しかし、期限だけが表示されていると、その食品の保管期限という意識はなくなり、学習能力がかなり低下するといえる。たかが食品一つにしても、このように情報が多ければそれなりの「選択」と「学習」というものが備わってくる。あまり意識しない人にとって見れば期限だけ表示されている方が解り易いという意見もあるだろうが、いっぽうでそうした期限の改ざんによる偽装があると、ではいったいいつ製造されたものなのかという不安が増大する。赤福騒動もすっかり忘れられて、赤福を土産にいただくと笑みが浮かんでしまうのはわたしだけではないだろう。ようは意識していても消費者団体が指摘するような注意深さは持てないのが現実である。

 伊藤康江さんが『生活と自治』9月号(生活クラブ事業連合生活協同組合連合会)に「疑問だらけの食品表示」という記事に応答されているものを見て「そういえば」と気がついたことがある。近ごろは「食品添加物」という表示はされず、「原材料名」と表示されている。あまり既成のおにぎりとか購入しないので最近の動向に疎かったが、先ごろも道の駅で並んでいる食品のラベルを見ながら「原材料名」という表示は違和感はあったものの当たり前のことなのだ思い込んでいた。しかし、確かにかつては「食品添加物」という表示がされていたものだ。あらためていわゆる大手の食品メーカーのものを見ても「原材料名」という表示になっている。「原材料」と言われてしまうと「添加物」というイメージではなくなる。しかし亜硝酸ナトリウムや赤色101号が原材料に名を連ねているとなんともいえない違和感を感じるのも事実。意識しない消費者にはこの並び順が原材料に占める割合であるという知識も無いほどで、そういう意味では食品添加物も原材料名であっても関係ないかもしれないが、「今日のお昼はソルビンサンK」なんて言うほど無知でありたくはない。

 同誌ではこんなことも書いている。「単品の刺身は生鮮品に分類されますが、異なる魚種の2点盛り以上は突然、加工食品に“変身”してしまう。ややこしいのは、たとえば2点モリでも本マグロとキハダマグロのように種類が同じなら生鮮になる」と言う。こんなことは少しは意識していたわたしにも知らなかったこと。こうした食品表示の不思議さに隠れて表示上の法をかいくぐるという行為が横行するのだろう。加工食品にいたっては原産国など無用の情報で、よくわが家で交わされる会話がこうだ。

 弁当にふりかけをかけているわたしに妻は「そんなふりかけに入っている梅や菜っ葉はみんな中国産の消毒まみれだよ」。わたし「こんな程度どうってことないよ」

 飯田市にある食品加工メーカー。当然のように中国に工場を持っていてそこでの生産がきっと社運にも影響するほどなのだろう。前述したように加工品である以上原産国表示は義務ではない。とくに一次加工品ならともかく二次加工しているようなものになれば原産がどこなのかまったく解らなくなる。そして原産国表示が義務化されていない以上安い材料と労働力を求めて国外に生産の場が移ったのはごく自然なこと。いくつもの原材料(この場合の原材料は添加物ではないとして)を手に入れ毎日生産していくともなれば、その原産地を特定しながら加工品を生産するのは困難なのかもしれない。そういう理由があっていわゆる原材料が多い加工品は生産者側から見れば偽装しているわけではなくとも怪しい食材が混入しても解らないということになる。それを合法的に利用することもある。政権交代が決定的になった以降に開設された消費者庁。実は意味ある行政の取り組みの始まりであり、こうした問題を解決していくことか望まれている。
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本郷神社煙火奉納

2009-09-27 21:11:45 | 歴史から学ぶ

 何度訪れても実家のある地区の祭りは思い入れがある。なにより庭花火が演じられる空間に、観客も傍観者ではなく競いをしている者と同じような意識で立ち会うことになる。こういう花火の祭典はなかなかよそにはない。

  飯島町本郷の煙火奉納は明治29年からと場内放送がされていた。まだ100年程度の歴史であるが、以前も触れたように600年の歴史があろうと100の歴史であろうが、地元の男たちにとっての思い入れは同じである。実は明治29年とは本郷神社が誕生した年である。この年八幡社と若森社、そして御射山社の三つの社が合祀されて本郷神社となったのである。しかし実際のところ明治29年からなのかどうかは明確ではないよう。飯島町では田切において天保12年に煙火打ち上げをしたことが古文書に残されているという。『本郷区誌』によれば秋祭りに煙火奉納の記録が出てくるのが青年会記録による明治29年だという。ということはおそらくそれ以前にも奉納されていもたのが、合祀によって神社が統合されたことで明確に記録として残るようになったということではないだろうか。当時の記録を見る限り「合社祭典ニ付キ盛大ニナスコト、会員一同ノ望ミニ付キ、其ノ方法ヲ煙火奉納ト獅子舞ノ二種トシ」とあるように、青年会の中で祭りの芸能を選択していたことが解る。ということはこのころは毎年行う芸能に一定したものはなくその都度決めていたということがうかがえる。

  本郷神社には立派な廻り舞台がある。慶応元年に完成したといわれる舞台は、三間の径を計る。平成6年に大改修をした際には、廻り舞台を使って演舞をしたというが、この舞台が使われた姿をわたしは見た覚えはない。何を目的にこれほど舞台を造ったかといえば、ここから飯田下伊那にかけて盛んだった歌舞伎あるいは浄瑠璃であったのだろう。結局それらは後世に受け継がれることはなく、煙火と獅子舞が継承されているということになる。ちなみに明治29年に揚げられた煙火は、打ち揚げ17本、流星2本、三国1本だったと言う。

 さて、最近は2本揚げられる三国をそれぞれの櫓に据え付けて庭花火が始まる。理由は一つ終わった後に二つ目の三国を櫓に上げるのに時間がかかることから、その待ち時間が長すぎるということもあったからだろう。しかし実際はすぐに次の三国に続くわけではなく、仕掛け花火などを仕掛ける時間を要す。かつてのように三国を櫓の下から上げるほどの時間はかからないもの、あの三国を上げる際の木遣り歌が良かったように思う。ただし酔っている人たちが上げることから櫓から転落する事故もあった。あらかじめ上げておけば危険も防げるという意味もあるのだろう。三国の櫓は前述の廻り舞台に向かって相対する。したがって廻り舞台の前で観ていれば、最後の火の粉は必ずここにやってくる。そんな場所で花火を今年も見学した。昨年のことがあるから綿の作業着を着て、その下は肌シャツという出で立ちで出向いた。そのかいあってか「熱い」という経験もなく今年は終えることができた。

 撮影 2009.9.26(かつては9月30日が祭典であったが、今は9月最終土曜日)

 参考に

  2008「それぞれの思い入れ」

   2007「ムラの祭り①」

   2006「大三国」

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祭りに呼ばれて

2009-09-26 23:44:06 | 農村環境

  今日は年に一度の実家のある地区の秋季祭典である。祭典のことは毎年触れているが、やはり印象深い祭りだから毎年、それなりに日記には記さなくてはならない。ここ最近の祭日の実家への足は電車である。今年も夕方の電車に乗って実家に向かう。昨年は一つ遅い電車だったら「遅い」と言われたから今年はまだ明るいうちの電車である。最寄りの駅に降り立つと、そこには変わらぬ風景が展開される。珍しいことではなく、毎日の通勤時にもその駅は通過しているのだが、かつて通学の際に毎日のように使っていた道を歩くのは感慨深いものがある。もうそんな歳なのだ。駅のすぐ北側に今ではずいぶん小さく見えるグランドがある。子どものころもっともよく遊んだグランドである。子どもたちだけのものではない。年に何度かこのグランドを利用して地区の催しがあった。11月3日は毎年区民運動会が開催された。大人たちのソフトボール大会や野球大会といえば、必ず子どもたちもそこに集まっていた。子どもの目から見れば広い空間だったのに、今見ればとてもグランドとは名ばかりな広さ。子どもの目と、大人の目ではこれほどの差があるのだとあらためて記憶に刻むことのできる対象物である。

  そんなグランドは、今はほとんど使われることもないようだ。そこに残っているバックネットは、すでにその機能がないほどに隙間がある。錆びきったバックネットは昔のままで、支える両側の鉄塔も錆び付いているが、そんな鉄塔に登って遊ぶのも子どものころの楽しみであった。片隅にあるトイレも昔のままだが、さすがに補修がされて少しきれいになっている。その脇にある水のみ場も昔のまま。いかに何も変わっていないかが解る。そしてトイレの脇から実家に向かって段丘を降りて行くのである。かつてはそれほど伸びていなかった木々が鬱蒼とし、まだ明るいとはいえ、夕方にもなると暗がりの中に入る。姪や甥たちも通ったこの道を下って行く。段丘の中断にある家並もわたしの子どものころとほとんど変わっていない。そしてさらに段丘を下って行く途中には歩く程度の道が近道としてあるが、誰もこの道を利用して通学しなくなったのだろう、今年は草が鬱蒼としていて、この季節はいわゆるひっつき草が目立つ。姪が最後のこの道の利用者だったのかもしれない。その道を降りたところにある道祖神は、草の中に埋もれていた。これほど手入れがされないのは、やはり人通りがないというのが理由になるのだろう。いかにも地方の空間たる様相なのだが、いっぽう正面には伊南バイパスの橋脚が何本もそびえている。80メートルはあろう橋脚の連続は圧巻である。ここに来て初めてわたしの通っていたころの風景と異なる物が現れたわけである。約40年もの間同じ風景を刻んできた時は、今変わろうとしている。でも人々の暮らしの風景は変わらない。

  さて長くなってきたので祭りのことは明日にしよう。

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歴史から学ぶ

2009-09-25 12:28:28 | 歴史から学ぶ
 『生活と自治』9月号(生活クラブ事業連合生活協同組合連合会)の現場の深窓は「〝天国と地獄〃の島」というインパクトの強いものである。「この7月、今世紀最大の皆既日食に沸いた鹿児島県・奄美大島。だが東洋のガラパゴスと謳われるこの島の自然が脅かされている事実は、あまり知られていない」というタイトルの添え書きにこの記事の狙いが見えてくる。「紺碧の海と緑の照葉樹林に覆われた山、そしてアマミノクロウサギに代表される独自の自然を砲く島。これが人々の奄美大島に対するイメージ」というが、「実際にはこの島の山中には林道が拓かれ、皆伐地が点在している」のが現実。50年で回復すると言われる照葉樹林は成長が早く、そのために林業に走った。ところが皆伐によって露になった地面には赤土がむき出しになり、雨で土が流される。海に流れ着いた赤土は漁業にダメージを与える。すぺてが連鎖している。この連鎖をもたらしたものが、奄美振興開発措置法だと記事は指摘する。沖縄に先立って日本復帰したのが1953年。本土並みの生活水準を目的に交付金によって住民生活は改善されていった。そして1970代に入ると製糖業と大島紬という二大産業が低迷し、その代わりに公共事業が増大していった。「奄美人が本来持っていたアイデンティティも壊されていった」と言う。

 1995年「アマミノクロウサギ裁判」は奄美の固有種が原告になり生存権を求めるというもので、日本の法律では動物が原告にはなれないため、裁判所は訴えそのものを退けたという。しかし判決文には「自然が人間のために存在するとの考え方をこのまま推し進めてよいのかどうかについては、深刻な環境破壊が進行している現今において、国民の英知を集めて改めて検討すべき重要な課題」との言葉が盛り込まれという。「地域住民が行政や国と現状について対等に話し合える場は、法廷にしかなかった」と言うように、公共事業が増加する中で、自然や地域を見守る人たちの悲鳴がそこにはあった。しかしそんな画期的な裁判も島の行く末にはほとんど関係がなかった。奄美振興開発措置法は延長し続けられている。長年議員を務めてきたという島内の男性の言葉を紹介しているが、そこには「昔に比べて魚もとれないし、仕事がなければ若い人はいなくなる。この辺は年寄りばかりですよ。だから土建でもなんでも、仕事があるのはいいことです」とある。つまるところこの言葉に現されている現象は、島民が本土並みの暮らしをするために描かれた物語の結末であって、方向が異なればまったく違った今を展開していたのかもしれない。それに気がついている人たちもいるが、現在まで刻まれてきた歴史を覆すことはできない。列島改造に始まった国土開発は奄美に限ったことではない。今の姿を子どものころからなんとなく予測していた自分。しかしそんなところで悩んでいても世の中はどんどん進んでいった。考えてみれば農業が、地方が衰退したのは自らの刻んできた歴史。けして国や行政のせいではないのだろうが、金に目のくらんだわたしたちにはどうにもできないことだった。この歴史こそが今後のわたしたちの進むべき道を照らしていると思うのだが、なかなかそれを学ぶ視点は人々にはない。「遅い」ということはないものの変化には耐えられないという心がある。それは高齢化社会であるからなおさらである。

 そんな社会を変える意味で政権交代があるのなら良いが、政権とはそんな小さな要望に応えるためにはない。なぜならば多数決であることは確かだから。ではどうするのか、ということになるが、国民の意識が単に自然破壊だけに目がとどいてもどうにもならない。やはり自らの踏んできた歴史を、よく見直してみる機会を持つことだろう。キーワードだけの知識を得ても、片手落ちということになる。
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一瞬の出来事が長い思いに

2009-09-24 12:28:53 | ひとから学ぶ
 「急行乗り換え駅のホーム、狙い目は二両目の優先席付近。座れるかどうか? すべり込んできた列車の車内を凝視、アッ、一人分だけ優先席が空いている。あそこだ! ドアが開き、目標の空席に突進。座れる…と思った瞬間、タッチの差で若い女性がスイと着席。」とはいかにもおばさんの描くシーンなのかもしれない。漫画家のみつはしちかこさんが『生活と自治』9月号(生活クラブ事業連合生活協同組合連合会)に掲載している連載記事「夕映え日記」の一節だ。みつはしさんは1941年生まれだから70歳に近い。おばさんと言うよりは高齢者の部類。したがって優先席を目当てにするのはごく当然の思い。ここで座れなければ新宿までたちっぱなしというから座れると座れないでは大きな違いなのだろう。わたしのように地方の電車に乗っている者にとっては人の出入りがあるからかならず席が空くときがあると考える。ところが都心に向かっていく電車となったらさらに乗客が増えることはあっても降車していく乗客はそれほど多くはないだろう。とすれば空席ができて座れるということは確率として低いだろう。そんな繰り返しがあるからこそ、空いている席をまっしぐらに狙ったのに「タッチの差」は大きい。さぞ「惜しかった」と残念がった顔をしていたのだろう、「気を取り直してつり革をつかんだ時何気に今座った目の前の女性と目が合った」と同時にその若い女性は立ち上がって席を譲ったという。「とっさに、
「あっ、いえ、そんな別に」と言いつつ、目の前のぽっかり空いた席に「ど、ど?も」と落ち込むように座ってしまっていた私。譲ってくれた女性はもう、離れたところのつり革につかまって振り向かない。〝ウワー、恥ずかしい!″」

 もちろんそのやりとりを誰も見ているわけでもなく、日常の一こまに違いがないが、たったこの一瞬に女性の思いが詰まっているようで楽しい。冒頭で「おばさんの描くシーン」と説いたが、けしておばさんに限ったことではないかもしれないが、おじさんにはこういうケースを描いても面白くない。加えて男の場合はなぜかそういう間一髪的な発想で席を狙う人はそれほど多くないし、「取られた」と恨めしい思いを顔に出すことは「女々しい」などという思いを持っている。でもこれと同じような物語をどこかで必ず経験しているもの。だから女性らしい物語なのに、男性にも十分理解のできる物語なのである。

 さてみつはしさんは「今は亡き義母は電車で「席の譲られ名人」であったが、「素早いお礼名人」でもあった。彼女は心臓ペースメーカーを入れてはいたが、弱々しい老人風情ではなかった。いつも着物を着て、しゃっきりした姿勢で電車に乗り込むと、スタスタと目指す優先席へ直行。すると、待っていましたとばかりに立ち上がって席を譲ってくれる人がいる。義母は即座に大きな声で「ありがとうございます」と言い、深々とお辞儀をしながらちんまりと着席してしまう。その一連の動作が素早く見事だった。付添い人の私は心で「スミマセン」と言いつつ義母とは他人のふりをして、少し離れたところに立っていたっけ。」なるほど少し離れていたところで立っていたみつさしさんが想像できそう。だからこそほんの一瞬のたわいもないことが、実はその人となりを描いたりする。へ お礼を言いそびれた私は、新宿までずっと席を譲ってくれた女性の背中を見つめ続けていた。終点で乗客が一斉に降りる時、ちゃんとお礼を言おう、と心の準備をしていた。」とまあ一瞬のうしろめたさが後の新宿までの長ーい時間に変わったわけである。こうう思いをまったくしない人もいるのだろうが、みつはしさんのような思いもけして珍しいものではなく、ごくふつう人の思いだと言えるだろう。
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ヒガンバナ

2009-09-23 20:58:36 | 農村環境

 モグラに関しては毎年触れている。今年は家周りの草取りが追いつかなくて、今だ一度も草取りをしていないような場所が残っている。昨日も今年初めての草取りをした生垣の下、みごとにモグラの通り道が廻らされていた。このところ雨が降らなかったということもあるが、生垣に沿って植えてあるシバザクラがずいぶんと枯れてしまった。毎年石垣の上に這っているシバザクラはある程度枯れてしまうものなのだが、今年はとくにそれが目立つ。これは天候のせだけではなく、モグラによるところが大きい。根根との土を持ち上げてしまうから乾ききってしまう。とくに根の浅いものにとってはモグラの徘徊は影響する。そんな徘徊後の地面をほったらかしにしておけば枯れても仕方ないわけだ。そういう意味では草取りが間に合わなかったということは大きい。とくに周辺の土地より済みやすいとなればそこにどんどんやってくる。我が家の庭はまさにそんなモグラにとっては好条件のようだ。

  肉食というから草の根を食べるというわけではないようだが、空洞化した土地を常に踏んでいないといけなくなる。肉食ということで害虫を退治してくれるというメリットもあるのだろうが、そうはいってもモグラの活動は激しすぎる。関西ではヒガンバナを畦に植えることが多いという。ちょうどこの季節はヒガンバナが咲く季節であるが、このヒガンバナをモグラは嫌がるという。モグラ除けにヒガンバナが良いと聞いて、妻は実家の土手に増やしている。花の咲くころには葉がないが、花のないときには葉が茂って畦を保護するともいう。

  さてそんなヒガンバナを畦に増やしているのだが、畑の端にはモグラ脅しがいくつも立っている。モグラ脅しは地面を揺らしてモグラを近づけないという意図があるらしいが、モグラは慣れてしまえば効力がなくなるという。モグラ脅しというとペットボトルで作ることが知られているが、ヒガンバナの背景にいくつも立っているものは木製のプロペラのもの。ペットボトルにくらべればより強い振動を与えることができる。我が家でも家を建ててしばらくのころは電動の振動機を地面にいくつも埋めたものだ。ところがほとんど効かない。いまだに電池切れのまま何年も地面にそれは刺さったままだ。振動といえば、これも以前「しょうぶはたき」について触れたことがあるが、モグラ叩きの行事というものがあった。モグラによって空洞化された地面を見ていると、子どもたちに地面を叩かせてモグラを避けるという意図も現実的で解るような気がする。本来はしょうぶではたくのだから病を「はたく」意味があったのだろうが、実益をそこに関連させて「もぐら叩き」としての意味も持たせたのだろう。

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兼業農家を見直すべき

2009-09-22 20:08:50 | 農村環境
 昨日に引き続き我が家の農業から農業政策に展開してみよう。

 昨日は草刈、今日は草取り、いずれも生産には結びつかない。民主党政権とともに将来が危ぶまれるわが社はこのところ忙しさが増している。その理由はいわゆる自民党政権下において実行された経済対策にかかわるもの。政権交代とともに補正予算に凍結されたものがあるが、わが社の忙しさには影響がない。出先によってはその関連の仕事が間に合わないとお客さんに怒られて日夜仕事に追われているともいう。初めて体験するシルバーウィークも、仕事をしに出勤している社員も多いのだろう。わたしのように会社から相手にされていない人間には問題外の景色である。そもそも我が家にとってみれば休日はわたしの労働力が頼りにされるからそんな会社のボランティアにつきあってはいられない。昨日も記したように、環境を保持するための小さな仕事だとわたしは思っている。しかし、実際は人の数だけに仕事は割り振られているし、給与が高い年代ともなれば、それなりに仕事はこなさなければ何を言われるか解らない。したがってわたしの日々の暮らしは自宅で時間があれば会社の仕事をする。まったく公私混同の日々。しかし無言で暗い時間を過ごすことを思えば、自分の好きな時間に仕事ができるというスタイルはけして嫌いではない。製造業のように会社でなければ仕事ができないというのならともかく、わが社の仕事はPCが一台あれば十分である。もちろん詳細に捉えると問題を含んでいるが、ここではそれについて触れない。世の中は自宅でも仕事のできる分野が多くなったといえるだろう。それならわざわざ会社に拘束されることもないし、ましてや休日にサービス出勤する必要もない。

 さて、そういう境遇には感謝しなくてはならないが、たとえば農業を昼間して夜会社の仕事をするというスタイルが実現できないわけでもない。必要な情報と現場については会社に出向かなくてはならないが、あとは自宅でも可能。逆に言えば休日に仕事に行っていたら農業はできない。それどころか自宅のさまざまな環境整備もできない。もともと兼業農家というのはふだんは会社、休日に農業というスタイルである。もちろん休日だけでなく朝早いうちに朝作りとして草刈をする人もいるだろうし、帰宅後に農作業をする人もいる。一般のサラリーマンより働いていることに間違いはなく、さらには会社の収入を農業へ補填しているとも言える。そんな兼業農家は、ある意味国の宝だと思わないだろうか。今はそうした兼業農家が無くなりつつある。規模拡大に努めたり、あるいは集落営農という苦肉の策は、結局サラリーマンをしながら農業をするというスタイルを認めない社会にする。しかし同じ農業空間の中で問題を共有する、あるいはそれぞれが環境整備をするという意識を高める意味でも農業をしていることは重要な意味を持つ。農業が大事だと本気に思うのなら、農業をしているという事実に対してもっと評価を高めるべきだろうし、仕事とは別に農業を兼務している人に対してそれ相応の支えが必要ではないだろうか。もっといえば農業関係の仕事をしている会社ならもっと農業を兼業としてやりやすい環境を整えるべきだとわたしは思う。

 結論から言えば、大規模化を否定するものではないが、それは環境によって異なる。したがって兼業農家を充実するべきである(我が家には農地がないので兼業農家には値しないが)。さまざまな理由で小規模農家から脱却できない以上、日本の農業を救う方法はこれ以外にはないと思うが…。
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ふるさとへの労働寄付

2009-09-21 20:41:27 | 農村環境
 敬老の日、梅雨明けのころに刈った大きな土手を、今年3回目になるのだろうか、草刈をした。何度も言うとおり、妻の実家の農業は自家の者だけでは進まない。妻の毎日の作業と、わたしの休日の作業が加わって成している。この場合、妻がいわゆる世間では専業主婦をしているから可能だが、ちまたで言われるような夫婦共働きを推奨する時代にはなかなか難しいこと。専業主婦には冷たい時代が訪れようとしているが、だからといって妻がサラリーマンとして働きに出ることはもう二度とないはず。夫の稼ぎだけではこころもとないが、農業を捨てることもできないから、せめて自分の食料を調達する。

 「草寄せ」で紹介した写真のころは、梅雨明けのころだったからとても暑い季節だった。そのことを思うと敬老の日はここ何日かの中では暑い方であったが、梅雨明けのころの「さあこれから暑くなるぞ」というころとは比べ物にならないほど身体が動く。たかが草寄せに苦労していたあのころが嘘のように、今日は身体が動いた。一昨日と今日と、2日がかりで正味まる1日というところだろうか、この土手との格闘は。身体が動いたのにもかかわらず、手間がずいぶんとかかった。これでもって生産性が無いという仕事なのだからたまらない。草刈後に草を寄せながら思ったのは、この草をただ腐らせるのも無駄な時間の消費だけ。前にも述べたように、たまたま下の小さな田んぼが休耕しているため、そこの端に草を置かしてもらっているが、よその家の田んぼだから本来はこの草を運ばなくてはならない。運ぶことを思えばなんとかこの草が利用できないものかと思う。やはり草を食べてくれる家畜がいれば少しでも生産につながる。ここに住んでいないから家畜を飼うというわけにはいかないが、周りを見渡しても家畜を飼っている家など今はない。義父にそんな話をすると、犬や鶏を飼うのにも精一杯と言うように、高齢者農業では不可能。かつてなら土手の草が家畜の飼料になったり肥料にもなったのだろうが、今や単なる無駄なものに成り下がっている。

 この大きな土手を片付けた後、今度は梅畑と柿畑の草を刈り始めたが、両者の間にある土手もけっこう大きい。すべて刈り終えることはできず敬老の日は終わった。妻もよく口にするが、近所でも土手の広さは最も広い。どう考えてもこの無駄な草を利用する方法を考えなくてはならない。

 そういえばふるさと納税制度というものが平成20年5月から始まった。自分が生まれ育ったふるさとを応援したいという思いを地方自治体へ寄付していただくことで実現できる制度だという。寄付金の額に応じて、所得税と居住地の個人住民税が軽減されるというが、そもそもこれは現金による寄付制度。労働による寄付ではない。我が家では妻の実家に日々赴いて、土地を守るべく農業をしている。形式上報酬はゼロ。現住所と妻の実家の自治体は異なる。簡単にいえばこれもふるさとを守りたいという寄付行為のようなもの。そもそも子どもたちが実家を訪れて労働なり地域環境整備をすることによってその地域が保全されている。自治体にしてみれば居住してくれた方が税金が入るからありがたいわけであるが、現状の地方とはそんなうまい具合にはいかない。高齢者世帯が残って税収もないが、環境も荒んでいく。地方問題の原点である。だから労働では寄付にならないかもしれないが、逆を言えば寄付金によって納税するくらいなら地域に住んでくれることの方が第1。そう考えると必ずしもふるさと納税は芳しくない制度と言えないだろうか。それがOKなら、労働による寄付も税制上の優遇はともかくとして、その実態として把握されて当然のことではないだろうか。でもないと今後のそんな地域の将来が描けない。
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命運尽きた社員の思うもの

2009-09-20 19:46:50 | つぶやき
 「地方」「地方」と訴える西村氏、「消費税を上げる」という谷垣氏、「党を再生できなければ、何らかのことを考えるのは将来あり得る」という河野氏、いずれにしても自民党の再生は多難と言わざるを得ない。河野氏が言うように「あいつの推薦人になるな」とまで言われるような組織がまともとは思えないことと、そこまで言われるのなら自民党など捨てれば良いのにと思えたりする。このまま筋書き通り野党第一党谷垣総裁誕生とすれば、行く末が案じられる。けして谷垣氏がダメとかいうわけでなかったが、まず第一に「全員野球」みたいなことを口にすることはどうにもこうにも情け内雰囲気。今までの総裁選にないほどそれぞれが詰りあっているみたいでユニークだが、今後自民党に期待したいと思っている人たちにはその希望を失わせているのではないだろうか。

 そもそも民主党の前身が誕生したころにはとても民主党に期待していた。しかしながらいわゆる新生民主党として小沢党と合体したころから期待が薄らぐとともに、田中康夫が民主党の「小沢」に傾倒していることがあからさまになると、もはやわたしの支持から漏れてしまった。今までにも政権政党に対していくらでも批判はしてきた。しかしながら自らの生活にトレースすると、自民党が消えてしまうことには一抹の不安があった。だからこそ最近の国政選挙では批判票ではなく、期待を込めた票を投函してきたつもりだ。しかしながら、では自民党が政権を持っていない以上、わたしたちの生活(会社)はいかなるかということになる。

 仕事の都合で今回も総裁選選挙の投票用紙が送られてきた。投票用紙なんて見たことのない人は多いだろう。前回の麻生総裁が当選した際には、地元の代議士事務所から○○に投票して欲しいと電話がかかってきた。すでに歴史的政変を予測していたうえに時の風からしてもはや下野致し方なしと思っていたからそのまま古紙ストックケースに収まった。下野致し方なしとはいえ、民主党にこれほど議席を取られることは避けて欲しいと思っていたが、それは自民党でなくとも他の政党がそれにかわることができればそれでも良いと思っていた。なにより多数決で決まる議会である以上、一方的な状況は好ましくない。そもそも弱い者に付くわたしの性格でもある。ということはそのわたしが自民党を支持するということは、もはや敗戦濃厚という証明だったのである。そして今回の投票である。そもそも投票用紙とはいっても単なる往復葉書である。切り離して返信をするわけだが、投票用紙とはとても思えない代物。候補者名が丸見えの投票用紙などありえるのだろうか。例えば日本民俗学会の評議員を選出する際の投票、あるいは民俗芸能学会の同じく評議員を選出する投票は、必ず封書である。そして封書といっても用紙を封印した上でのものであって、かなり厳正なものである。そこにいくとこれほど世間をにぎわせるとともに、与党時代にあっては国民の生活を左右するような政策を出すリーダーを決める投票だったわけで、それにしては貧弱なものである。ようは地方投票など価値がそれほどあるものではないと思われているのだろう。だからこそ今回のように地方票が重いときにこそ、議員たちの鼻を明かすような結果が出れば楽しい、と人事のように思ったりする。

 もはや与党でない以上、自民党への強制入党も必要ないのでは、などと思うこのごろである。もしもの話であるが、4年後に自民党が復活したとしても、わが社の命運は尽きていることだろう。

 民主党は思う存分やればよい。わが社が無用と思われるのもそう遠くのことではないかもしれない。しかし、民主党が指摘するものがすべてではない。何が決定的な問題だったかはわが社のような立場にいない以上解らないことである。このことはいつか語ることになるのかもしれない。
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駅猫と会話する

2009-09-19 19:10:35 | つぶやき
 伊那市駅には「駅猫」がいる。以前にもこの駅猫のことについては触れたことがあるが、その際にうつし出されている駅猫と今回の駅猫は同一ではない。ということでこの駅には複数の猫が姿を現す。そのつど意識しているわけではないので何匹いるのか定かではないが、最近は白地に茶と黒のまだらの入った猫がいつもわたしの前に姿を現す。彼は改札からホームに入ると、一番線ホームのベンチに座っていることが多い。そしてそこでわたしと目が合うと、必ずベンチから降りて、弧線橋の階段下にわたしより先に移動し、振り返ってわたしをうかがうのである。この行動が一度ではなく頻繁にあることから、習性になっていることに気がつく。彼はわたしが餌をくれるものだと思い込んでいるのである。以前にも別の日記で触れたが、この駅猫に餌付けをしている乗客がいる。彼はわたしと風貌が似ていて、猫から見ればほとんど同一人物に見えるのかもしれない。彼は猫専用の餌を常にカバンにしまいこんでいるようで、すでに乗車する電車が二番線に入ってくるというのに、焦ることもなくカバンからすばやく餌を取り出して「いつもの場所」に餌を置くのである。慣れたもので、わたしの時と同じようにベンチに座っていた猫は、即座に「いつもの場所」に移動してその餌に夢中になるのである。ということでわたしを同一人物と判断して、彼はわたしに餌を請うのである。

 先日はいつもと違って待合室のベンチに丸くなっていた。ところがわたしが待合室に入ると、やはりという感じに意識し始め、ベンチを降りてわたしの座ったベンチの横にやってくる。「何もあげないよ」加えて「お前のお目当ての人じゃないんだ」とつぶやくが彼にわかるはずもない。なかなか餌をくれないせいか。座っているわたしの足の下を、わたしの足に尻尾をすりすりしながら2度3度と右に左にくぐりぬける。どうやら餌にはありつけないと解ると、開いている裏口のドアのところに座って、また誰かを待っているのである。

 女子高生だけではなく、大人たちにも微笑を浮かべさせる駅猫は、この駅の特別な存在である。しかしどんなに女子高生が身体をさすろうが、わたしに気がついた際のような反応は餌付け親以外には誰にも見せない。ここをねぐらにして餌にありつける時を待っている。いまだわたしが餌付けをしている男ではないことに気がつきもせず、目が合うと必ず人違いをしていつもの動きをする。何度も「俺じゃないよ」と思うのだが、くれないことに気がつくと「ニャー」と泣き声をあげる。家路への電車を待つ人々で賑わうホームで、彼と遭遇するとわたしと彼だけのやり取りがまた始まるのである。「このおじさん、何か猫と会話している」と言う具合に。
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生きるために里を出る

2009-09-18 12:38:00 | 農村環境
 わたしたちの仕事の世界ではごく当たり前に語られることの一つに「道を造ったら人は出て行った」というものがある。歩くほどの道しかなかった山の中の一軒家や数軒の家に向けて道を開けた時代があった。長野県においてのその最後の時代にわたしも関わった。もう20年以上も前の時代のことである。今では悪者にされている公共事業全盛の時代だったのかもしれない。もちろん「せめて車が入れれば」という程度の幅の狭いもので、狭いものでは2メートルほど、広くても3メートルなら十分というかわいいものであった。そんなかわいいものの他にも幹線的な道が整備されて集落単位で連絡される道が拡幅整備されたものだ。先ごろ久しぶりに新野を訪れた際に、国道151号を走りながら、「初めて新野に行ったころには、この道はまだなかった」と仲間に説明するほどに今とは大きく異なる交通環境がかつてはあった。下條村から阿南町にかけての橋の連続区間の合い間に、谷が幾重にも重なってその谷間に旧道が朽ち果てて落石防止帯のように残っている。これがかつての国道などと説明しても、今の時代しか知らない人たちには驚きの光景かもしれない。そうした朽ち果てた歴史を積み重ねて今はある。時代が通り抜け、いまだ似たような空間はあらゆるところにあるものの、道路を造るという時代は消えてなくなった。実を言えばまだまだ未整備な地域はあるものの、時代の声にかき消されてもはや山の中は山の中で居さえすれば良い的な声が聞こえる。しかし冒頭の語りは確かなものとしてわたしの経験にはある。かつて開かれた道の奥に、今どれだけの人が住んでいるのかと思うと、わたしたちは「何をしてきたのだろう」と自らへ問う。

 この思いを忠実に表わしているものに、そうした地域に生まれ、その地域を出て行った経験を連載している「長野日報」の記事がある。江戸川短期大学名誉教授をされている北原由夫さんの書かれたものである。これまでにも何度か引用してきたが、9/12版「寂れゆく山里」の見出しは「生きるために里を出る」というものである。家や郷を見放したように出て行った者として、より強くその思いを複雑に抱きながらこれまで暮らしてこられたのだろう。出て行く者、残る者の思いを何度となくこの記事で触れられている。この日の記事のまとめとして書かれた部分に次のような一節がある。

 「里をよくしたいとの悲願が道路の拡幅を実現し、バスの乗り入れが緒に付き、流通の活発化を促すとともに生活が便利になってきた。だがこれがよそに出る環境を創り出し、逆に過疎をさらに進めてしまった」というものである。何度も日記で触れてきた旧高遠町芝平が北原さんの舞台である。けしてそれほどマチから遠くなくとも過疎に至る地域もあるわけで、芝平のような奥まったところではなおさらのことであったのだろう。しかし、だからといって道路整備がされなくともいずれは同じことになっていたわけで、結果から見れば冒頭のような説話になるが、どうにもならない既定の歴史だったのかもしれない。
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鳩山政権誕生に期待するとともに

2009-09-17 12:30:33 | 歴史から学ぶ
 「長野日報」の八面観からひとつ。9/16版ではこの日発足した鳩山内閣について期待を込めて触れている。わたしも感じたことであるが、圧勝以後メディアでは不安もある新内閣への疑問よりも「自民党の大敗を得意げに語る場面が幅を利かせ、勝者へのご祝儀のようで鼻に付いた」という。あくまでも「感じ方にもよるが」と添えているが確かにそんな雰囲気があった。いまだに野党が与党を叩くみたいな自民党批判を書いて得意そうにバカ呼ばわりしている人も多い。彼らにとってみれば二大政党などいらないと思っているはず。さらには連立した社民党や国民新党などというものも不要だと思っているはず。サイトの投票行動をみても国民新党と社民党との連立には反対という人はけっこういるし、社民党に対してはとくに連立に入るべきではないという意見が民主党へ投票した人たちに多い。確かにそういう意味では旧自民党である国民新党はともかくとして、野党として対立軸を持っていた党が与党となってどう自らの主張を通していくか、なかなかトーンダウンしてもおかしくないような部分もあるはずだ。ようはこれからは野党ではない。かつての村山政権下における旧社会党の存在のように、再び野党に戻るつもりがあるのかないのか知らないが、社民党には野党だからできる主張かあったはず。共産党が連立を組まないのは当たり前のことであるが、もし組むとしたら共産党はなくなったしまうくらいの気持ちがなければできないこと。いずれにしてもこのごろの自民党や民主党に色の違いは基本的にはなくなってきた。ようは混ざっているところがずいぶん多い。

 今後自民党が再生されるとすれば、その曖昧な色のまま再生するのかはっきりとした対立軸を出していくかによっても見方は違ってくる。このままでは雰囲気で政党選ぶ、あるいは国民の利益ばかりが優先されて政権が選択されるとも限らない。もっと大事な部分があるはず。どれほど国民に支持されまいと、根気よく説いて理解を得なくてはならないことだってあるはず。このままではそんな政権は誕生しなくなる。

 与党となった後も、あいも変わらず自民党批判をしたり、また民主党支持者たちのかつての政権への誹謗中傷が横行するようでは悲しむべき時代といわざるを得ない。それは一党独裁に近かった自民党政権のような一大政党時代を目指しているということにもなるのだろう。おそらく民主党は次期参議院選挙に大勝することで、自民党の息の根を止めようとしている。果たして万年野党と成り果てる自民党に存在価値はあるのだろうかと。

 記事では「参院で議席数が過半数にないから連立を組むでは自信のなさの表れのように思えてならない」とコメントしている。ぶれのない政治ということもある。そういう意味では民主党の支持母体である連合とのかかわりはどうなっていくのだろう。そもそも労働組合に支持してもらった政党が与党になるということは改革の妨げになることもある。より一層多様な支持者を抱えて与党として答えを出していくわけだから、今までのようにはいかない。きっと「自民党時代とどこが違うのだ」という声も流れることだろう。「説明責任」を果たさなかったこれまでの政治や官の姿を変えることができるかが大きなポイントではないだろうか。そういう点については、鳩山首相も大物幹事長も果たせていないのではないだろうか。脱官僚などという官僚への責任転嫁ではなく、いかに国民に説明していくか、それが優先されるべきことだろう。それさえできれば高速道路無料化も、農家への戸別補償もその意味が見えてくるはず。ところがその不安を解消させる説明はまだこれからである。今後の動向に注視したい。
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“そこそこ”の生き方

2009-09-16 12:27:30 | ひとから学ぶ
 わたしがそっとのぞいているページに「どんぐりの背比べ」というものがある。とても精神的につらいようで頻繁には更新されないが、時おり綴られる文に“はっ”とさせられることが多い。「生きづらさから抜け出す」ではわたしも視聴していたNHK特報首都圏の『“生きづらさ”から抜け出せるか』という番組について触れている。どんぐりさんが気にとめたと同じように、わたしも番組後半の”では女性が生きづらさから抜け出すためには?”という部分がとても印象的であったと記憶している。コラムニストの深澤真紀さんが口にしたものは男性であるわたしにも同感できる内容であった。長くなるが、その部分についてどんぐりさんのページから引用させてもらう。

「日本の女性はとてもまじめですから、増えた選択肢を全部生きなければいけないと思う。すばらしい仕事、すばらしい家庭、すばらしい趣味、すばらしい友人というふうに、あるものは全部獲得しなければ、女性として幸せではないと思ってしまったんです。そんなに幸せになろうとしないということが、いちばん大事だと思いますね。
 幸せって何?もうこれこそまったくよくわからないものじゃないですか。幸せになろうとするよりは、不幸にならない生き方を選んだほうがいいと思います。せいぜいの目的としては、機嫌よく生きるということですよね。朝起きた時、なんとなく機嫌がいいな、ほどほどに機嫌がいいな、そこそこに機嫌がいいな、というぐらいの目標にすれば、そんなに不幸にならないです。」

 というものである。「そんなに幸せになろうとしないということ」、女性が日本社会で相変わらず生きづらいということは承知のこと。それでも現代においては女性がずいぶんと表に出てきているものの、いわゆる女性の男性化、ようはそういう女性は稀な存在的な捉えられ方をされている。ふつうの女性たちいかに生きやすい環境を整えるかということが問われているのだろうが、深澤さんの言われるようにそんなに生きづらさをを反転させるようにな幸福を願わないことが大事なんだと、こと女性問題に限らず人生に対しても同様にその解釈は生かされるとわたしは思う。けして周囲の男性を含めた社会構造が何も策を講じなくて良いというものではないが、だからといってこの環境の中で意気込んで不幸になることはないと思うのだ。もちろん男性であるわたしにはその実を認識していない部分は多々あるものの、男女という性差だけでなく、人のかかわりという部分でそうした生き方をしていこうと思うこのごろなのだ。

 どんぐりさんの記事にコメントを寄せられた方がこんなことを書いている。

「(前文略)日本は強制の文化で上の立場になった人間があらゆる強制を強いてくる土壌があります。また、それを批判する土壌はあまり育っていません。そういった強制のしがらみから少し、距離をおいて生きられるだけ幸せだと思います。
 どんぐりえさんがこのブログで情報発信してくださるだけで私は孤独から少し解放されています。直接会話はないのですが、同じような感じ方をする方がいるというだけで、不安の中で安心感が得られます。
 田舎にいますが、秋市長選がありますが、区で○○さんを推薦することに総会で決めたからと〔そんな総会などなかった〕女性は飯炊きにでるようにと回覧板が回りました。8月は割り振りで平日に2回ありましたが、反対派なので参加しませんでした。田舎のそういった強制労働はすごいです。
 日本で生きづらいというわけを外国人に聞かせると
 当然だと思われることはたくさんあると思います。」

 というもの。「強制のしがらみから少し距離をおいて生きられるだけ幸せだと思います」という部分に、まじめに目標に向かうばかりではなく、ときには距離をおいて自らも、また周囲も見て感じてみることで、自分を解放することが大事なんだと教えられるのである。決めたことには「倣え」ではなく、決められたことにも疑問を持って検証していく気持ちが、そして余裕が必要なのだろう。そして場合によってはそのしがらみから逃れることも、勝ち負けという答えではなく、人それぞれの人生としてみた場合は、けして恐れることではないということではないだろうか。
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