Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

やられてもやり返さないという志

2009-08-09 21:11:16 | ひとから学ぶ
 やられたらやり返す、これはだれしも普通に持つ意識かもしれない。しかし、こと戦争となるとそう簡単に行動に出るわけにもゆかないのが複雑な世界での立場。「専守防衛」という日本の基本的思想は、攻撃を受けたときにのみ武力を行使して、自国を防衛することを言う。果たして攻撃されてそれを防ぐだけの能力があるかはともかくとして、このごろは世界的な軍事行動に参加することで、自国にいなくとも自衛隊が攻撃を受ける可能性がある。そこには単純に専守防衛という言葉ではくくれない難しい問題がある。共産党や社会党がやられてやり返していたら戦争肯定になってしまうからそれはやるべきではないというのはよく解る。戦争のない平和な世の中にしたいという心にはその気持ちが強くある。武力行使に平和は訪れないし、いつまでたっても核はなくならないかもしれない。その意味では共産党や社会党の主張は正しい。ところが国の政権を執る者にとったらそういうわけにはいかない。なぜなら攻められて国民が被害を被っているのに、丸腰で「戦争反対」と主張していても、犠牲者は納得しない。ようはすべての国民の安全を守ろうとすれば、やられてもやられても無抵抗というわけには行かないし、国民はそんな政権を許さないだろう。ようは政権を持つ可能性がないからこそ、「平和」を旗印にやられてもやり返すべきではないと言えるのかもしれない、それらの党の存在は。だからといってそれらの党が不要だとはわたしは思わないが、どれほど「平和を」と唱えていても、いざとなればけして戦争を否定するはずもないのがわたしたちの歴史ではないだろうか。もちろん歴史を積み重ねたからこそ二度としてはいけない戦争なのであるが、もし本気にわが国が攻められたとき、果たしてかつての戦争経験を担保にして「手を出さない」と言い切れるだろうか。自国民を守るために抵抗する、あるいは敵となる相手の中枢を刺激するという方法は「自衛」という目的に沿ったものとなる。

 しかし「平和」を主張する以上、わたしとしてはやられてもやり返さないという考えを支持する。もちろん政権とは別物である。政権としては前述したように国民を守ろうとする意識は当然のものである。いや、そけは国民ではなく国を護るという意味かもしれない。しかしそれを否定するものでもなく、そのためにもし安保に頼るのではなく自国による防衛力を高めたいと言うのならそれも仕方ないだろう。国民が望むのなら。やられてもそれは自分の運命と思い、がまんするくらいの気持ちが無くては、とても平和はやってこないというのが、この地球上の現状ではないだろうか。したがって「平和」を唱えることは必要だろうし、「戦争はしない」と言えても、たとえ政権が専守防衛のために密かな行動をとっても、それもまた自分のことだと納得したいと思う。もちろん主張すべきことは必要だろうが。かなり乱暴な主張かもしれないが、「平和」を掲げるのなら、身内に不幸なことがあっても、それを運命だと納得するくらいのものがなくては、この世に目的としたものはやってこないということである。
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