Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

伊那田島駅

2009-08-06 17:27:16 | 歴史から学ぶ
 果樹園地帯のど真ん中にある伊那田島駅。今でこそ果樹園に囲まれているが、駅が開設された大正9年にはそっくり桑園だったはず。駅下に現在一軒の家があるが、周囲の状況からみると古い時代からある家ではないよう。無人駅で周囲に家が一軒もないという秘境のようなところに駅があることで知られる飯田線は、とくに天竜峡以南の天竜川の谷に囲まれた狭隘地にある駅が最近クローズアップされている。金野・唐傘・門島と続くトンネルの合い間にある駅は、わたしがふだん利用している沿線とはまったく様相が異なる。景観的に特徴のある場所ではあるが、このところ飯田線はこのあたりを電車が走っていない。なぜならばこのところの天候不順で崩落が予想される箇所が見つかって、天竜峡-平岡間がバスによる代行運転になっている。すでにこの区間がストップしてしばらくなるが、意外にもこの地域の人以外にはあまり知られていない。

 先日リニアに関わる現地見学において、釜沢近辺の地質が脆弱で「こういうところにはふつうはトンネルを造らない」と松島信幸氏が語ったというが、ゆっくりと走る飯田線ならともかく、あっと言う間に過ぎていってしまうような景観を眺めることはできない。したがってこの地にリニアが顔を出してもなんの徳もなく、ましてや狭隘の低地を走るともなると、崩落によって埋まってしまうなんていうことがないわけではない。これまで飯田線が長年継続できたことに歴史を感じるが、例えば東海地震、あるいは局地的豪雨などによって天竜峡以南の鉄道が大打撃を受けるということも無いとは言えないことで、場合によってはその存続が叶わないときが来るとも限らないわけである。たまたま四つの私鉄をつないで現在の飯田線につながったが、これが行き止まり路線であったなら、すでに県境域の路線は廃止されていた可能性も高い。わたしに言わせれば全国一長いローカル選は、たまたま一本になっているに過ぎず、地域の足的な視点ではかつての分離していた私鉄時代と変わらないといっても差し支えないだろう。もちろんこの景観を楽しみにしているマニアも少なくないだろうが、被災を受けたらとても復活できそうもないことが起きうるのである。なによりリニアで話題になる釜沢あたりにくらべれば、この天竜川沿いは地質がしっかりしている。これまでにも災害を何度も受けてきているが、それでも大きな選択を請われるようなほどのことにならなかったのは、まだまだ安全確保ができる環境にあったともいえる。

 さて、伊那田島の駅を見ていると「なぜここに駅ができたのだろう」と思うものだ。南側の上片桐駅からさほど離れていない。現在の市町村区域でいけば中川村の端っぽにあって同村唯一の駅である。むしろ駅ではないが大沢信号所がこの北側にあるがそのあたりの方が住民にとって利用の便は良い。もちろん伊那田島から段丘を下ったあたりの南田島や中田島の人たちにとっては遠くなるが、開設された当時の片桐村の区域をみてもその方が中心に近い。なにより大沢信号所が後に開設されたのは、上片桐-七久保間がそこそこ距離があるものの、退避できる複線箇所がないためのこと。常識的に考えればこの大沢信号所のあるあたりいわゆる上前沢あたりに駅が正式にできていれば、上下行き違いのできる駅にされていたに違いない。これはよく知られたことであるが、片桐にあったオヤカタである前沢家が鉄道開設を避けたことによる村境への迂回だったわけである。上前沢まで前沢家の力が影響していたかどうかまで調べていないが、いずれにしても前沢家の息のかかった地は避けられ、そして駅もその近辺には造られなかったのだろう。路線選定の確執はリニアに始まったことではなく、古い時代からさまざまな思惑が交錯したもの。「ふつうなら」と思うこともそうはならないから、わたしたちの思いが詰まるもの。後にまでその経緯が伝わることがまたわたしたちに歴史を積ませるのである。
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