Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

若き女性農業者の思い

2009-02-28 19:03:33 | 歴史から学ぶ
 古い時代のあるお客さんの資料を紐解いている。誇りまるけで雑然と置かれていた蔵の中から古い資料を取り出した。その資料をくるんであった新聞を見ると、昭和35年11月1日とある。わたしがこの世に生を受けたころのものである。それ以来一度も紐解かれた雰囲気はなく、半世紀近く経て資料は明るい世界に復活した。コピーなどというものがないから、カーボン紙を使って複写されたものであろう。今なら失敗をしても簡単にBSで修正するが、カーボン紙上に記録するともなればそれはならない。1枚の紙に鉛筆で書くのとも訳が違う。紐解いていくと、修正した部分は極めて少ない。そこに繰り広げられる文字の羅列、計算式、結果を見るにつけ、その時代の姿を思い起こさせる。当たり前と言われればそのとおりなのだろうが、几帳面な世界が綴られている。

 こんなことでもなければ古い時代の新聞記事に目を通すなどということはない。包んであった毎日新聞の一部分からその年11月1日を少し読んでみよう。「女の気持」というコラムがある。これは毎日投稿されるものを掲載しているのであろう。全国版の新聞の投稿欄に「農村」という言葉から始まる文はすぐに目がいった。タイトルは「零細農家の願い」というもので、コラム欄の見出しにあるように女性の意見てある。「所得倍増論もありがたいことですが、現下のように消費者物価が上げられていくこの事態を、どうにかならないものかと思います。一方では農業人口を減少して、よりよい農村の建設を目さしておりますが、これが単なる掛け声だけで終ってしまわないように念願しています。農業を営む私たちに夢を与えてほしいのです」と始まる。ここでよく理解できないのは、「農業人口を減少して」云々というところで、この時代の考えは農業者を減らすという政策だったのかというところである。すでに零細農家を減らし、大規模化という流れが農家に理解されていたのか、と考えると、少し今までのわたしの考えを修正しなくてはならない。昭和35年といういまだ開田を進めていた時代にそうした流れが意識としてあったとすれば、今の農業の実態はすでに戦後間もないころから始まっていたということになるだろうか。食糧難という時代を経て、10年そこそこで戦争の跡形を消すかのように農村に、そして全国土に広まったとすれば、この時代の人々のパワーは想定外としか今のわたしには思えないのである。どうすればこれほどの変化を伴う環境に順応できたのかということである。

 しかし、その一方でこの女性が語るように、零細農家への希望も与えてほしいという意識もあった。農村地帯は一時に荒れ狂うように変化を遂げていく。投稿には農村の景気のよいことを取り上げているマスコミに対して、「機械の導入、テレビの普及、台所改善、電化生活―などといっておりますものの、それは、まだまだ全農家のかずかに限られているのではないでしょうか。一町以下の百姓では暮らしていけないということが、このごろの農村の通りことばになっているようです」と、まだまだ安定しない生活を訴えている。一町いわゆる1ヘクタール以下の農家は農業では食べていけないと言っているわけで、この後しばらくは確かにそういうことを耳にしたものである。この場合の1ヘクタールとは水稲でいうものであって、今や数十ヘクタールなければ水稲では食べられないとも言われる。今の現状が解っていたら、この時代にほとんどの農家が農業を見捨てただろう。そしてこの投稿を読んで最も心打たれたのは、この投稿者の年齢である。埼玉県入間郡坂戸町の一農婦は21歳という若さである。おそらくまだ結婚前の方だったのだろうから、結婚までの一農婦だったのかもしれないが、すでに50年近く経ているこの女性は、ご健在なら70歳である。そう意識すると、もはやお年寄りのほとんどは、前近代の暮らしをしてきたのではなく、文化生活を十二分に経験してきた人たちなのである。古き時代の新聞の一切れから、こんなことを考えたしだいである。ちなみに東京のベッドタウンとしてこの地域は当時とは一変している。
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心貧しかった孫

2009-02-27 12:36:27 | ひとから学ぶ
 8月7日午後3時と記録してあるが年代は記されていない。年代を推定できるようなものは、誌に書かれた内容くらいである。次の誌は、いつのものとも知れないノートになぐり書きされたものである。おそらくわたしが高校時代のものだろう。


「孫」

毎日テレビの前で孫の顔と付き合う。
そして手にあまる孫は、
祖父に意地の悪い質問をする。
「この番組の感想は」と。
目的のある番組を視聴したいと孫は人生観を問うのだ。

頭も白く、九十に近い祖父は、
まぶしそうに視線をあげる。
そして汚れた手で目をこするのだ。
「何だっていいじゃねーか」
一回や二回ではない、
孫は同じようにテレビの前で祖父に投げかけた。
マンネリ化した老いた生活に
テレビの映像は新鮮には映らなかったのかもしれない。

半分寝ているその顔に、
孫の意地の悪い質問は
何の苦も無かった。
ただ老い果てたその目は、テレビを追うだけである。

映像を隠す必要もない。
感想のない老いた祖父のまぶたに
頭脳との共鳴はもうない。


 この後、おそらく2年ほどで祖父は亡くなる。祖父とは長い間、テレビのチャンネル争いをしたものである。幼いころは祖父と孫の趣向が合うはずもなく、まさに〝チャンネル〟を回しては喧嘩をしたものである。今の時代とは異なり、テレビの普及過程にあっただけに、祖父も譲ることはなかった。今では絶対にあり得ないような争いであっただろう。その争いの経験から数年後、祖母が亡くなり、あれほど強い意志を孫に見せていた祖父も、急激に衰えた。かつて争いをしていたころも、そして衰えた後も、孫は祖父の対面に身体を寄せて、テレビが見えないように邪魔をしたものである。果てにはその番組で何を得ているのか、などという質問をする。意地の悪い孫であったことは確かである。それほどかつてのチャンネル争いは、その後の二人の生活に大きく影を落とした。そして孫はそのまま家を旅立った。その後あまり会話もなく、祖父は亡くなった。
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監査員という立場で

2009-02-26 23:34:17 | ひとから学ぶ
 昨日は社内の内部品質監査なるものがあって先月以来という伊那谷からの脱出であった。行動を示すという面ではすっかりさまざまな集まりにも出席しなくなったわたしは、経験からくる無意味さをつくづく感じている。それでもそういうことを実践することは、自分より若い人たちに対してどういう印象を与えるか、などという優等生的な質問は、既に愚問である。それによって何が得られるかなどということは、経験者だから言えることであって、ではその経験を生かして意義あるものにすれば良いではないか、などという意見も確かなるものではあるが、それを覆すだけの土壌が会社にない以上、空回りは繰り返されるだけである。どれほどそのために努力してきたかなどとまた口を滑らせると、「努力がまだ足りない」などという叱責を受ける。「何が必要か」ということをよく考えなさいと指導しても、どうも発想の原点がわたしとは違っていて、こちらが発信側でない以上、無駄な時間は軽々と過ぎていくことになる。それを何度も何度も経験してきたわたしは、これ以上不可能と判断したに過ぎない。

 この内部品質監査というもの、いわゆるISO関連のもので、お客様との関係と実際の業務実態とを照らし合わせると、「必要」とは少し言いがたいシステムである。それでも導入した背景にはさまざまな問題があってのこと。その問題をクリアーしたからには、導入は成功ということになるだろう。しかし、そのいっぽうで新たなる問題も感じている。果たしてわが社にとって品質とは何か、ということである。造作もないほどに整然と規定類を整え、それに沿って監査にほころびを見せないように整えられた資料。「こんなに整然と整えられて、現実の商品の品質は向上しているのか」ということになる。もちろん我が出先でもそれと同様に整備がされているが、実際に働いている我々には何もその整然さは説かれていない。ようは雲の上の世界で「どこか間違いがある?」みたいに整えていて、商品を製造している側には何もその意識は伝わっていないのである。体制とか考え方の理論が伝わっただけでOKとも言えるが、すでに導入して10年に近い。とすればその範疇を超えて違う視点が必要だし、そうなるべきだとわたしは考えている。

 だからこそ、発信される側で意図するものが得られない会議に出席することを思うと、自らの思いで行動できる監査は、ある意味わたしの思うように進められる。あらためて自らの仕事、あるいは品質というものを考える意味でも、この場面はとても価値あるものだと認識している。そのとおり、わたしの質問に対して、まじめに答えようとしているその出先のトップたちの思いは、手に取るように解る。しかし、素朴な疑問を投げかけ、それをISOに基づくところにおいて問題なく処理しようとする考えは、本来の品質ということに関しては愚かな行動だとわたしはそこで感じたりする。この感覚、体験はとても自分にとっても教えとなるし、この場面でしか感じ得ないものである。監査員の誰もがわたしのような思いを持つとも思えないが、少なくともこれは監査員として行動しない以上は体験できない。さらにいえば、自分より上司の人たちに対して、こんな具合に試問できることは、この場しかないといってよい。この体験、実はもっと多く(若い)人たちにも味わって欲しいと思う。そしてわたしのような思いができない監査員に対しては、逆に被監査側として質問を投げかけてみたいものである。冗談ではなく、まじめにやりとりされるどれほどの愚問であっても、この場でわたしのような思いをして、素朴な問いを解いていってほしいのである。
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早く引き取ってください

2009-02-25 20:02:05 | 民俗学
 沖縄ではトーカチ(88歳)の祝いの前夜カタチヌメー御願をしたという(『日本の民俗 12 南島の暮らし』)。その風習についてこう書かれている。「この御願は家族だけでおこない、二番座に当人に死装束をさせて顔をタオルで覆い、手を組ませて西枕にして寝かせる。枕元には香炉を置き、線香を立て、カタチヌメーを供える。家族が当人を囲み、三回泣き声を立てる。この習俗の趣旨は「人間の寿命は八八歳が最大で、それ以上生きると、その分だけ子孫の命が縮まる。シーをとられる。だからもういい寿命だから昇天してください。子孫のために」という具合である(前傾書)。カタチヌメーとは枕飯のことを言う。1年に何度かある「ことの日」と同様に、人生には節となる歳がある。そうした場面ごとになんらかの祝いが行われるわけであるが、88歳といえばその最後の節目となる可能性が高い。もう十分に生きたから、子孫のために逝ってくださいとばかりに繰り広げられる儀式は、翌日に再生の儀式と移るという。御願だけをみれば、明かに葬式を生前に行っているわけで、当人に対しての送りの儀式である。同書の中でも触れられているが、後に再生の意識が大きく働くようになって、今ではむしろ再生としてのものにより強く移行しているようである。

 もし再生の意図がなければ、この話は姨捨山と同じようなものである。十分に生きたのだから、無用な者は捨てるという話の発想は、どこか似ている。そして再生の意図あるものは、民俗社会においては常につきまとう。陽が暮れ、陽が昇る、これも再生の意図を示す意味付けが容易である。太陽が弱くなった冬至から、昼間が再び伸びていく様も同様である。弱まったときに再生を願って行われる霜月の祭りは、再生の予兆のある中で行われるべきなのか、それとも弱まりゆく中で行われるべきなのか、そう考えるとその期日は重要である。カタチヌメーの儀礼を見る限り、88歳になる最後の1日にこの世と別れを告げ、再び陽の上がった日に再生を喜ぶ。したがって相反するものの前は、明かに最期を示し、後は誕生を示す。人の一生を再生という視点で捉えていくと、姨捨山の話は話し半ばということになるだろうか。その後に再生としての意図があってもおかしくない。悲しい話に聞こえるが、実は再生のための前夜という考えができる。そしてそういう解き方もされている。

 果たして元来この生前葬のような儀礼は沖縄に特徴的なものだったのだろうか。姨捨山を一つのその場面として捉えれば、風習としてそうしたものが随所にあったはずである。いわゆる民俗学を知らないわたしは、勉強不足でそういう事例を認識していないが、興味深いことである。ちなみに同書ではこの生前葬のようなものを模擬葬式と呼んでいる。確かに生前葬とは意味が違うのだろう。このカタチヌメー御願は88歳に限られたものではなく、99歳など長寿の祝いごとに事例があるようだ。「もうあの世に行く年なのに、神様が後生に引き取るのを忘れている。子孫繁栄のために早く引き取ってください」と墓まで送っていくという。葬列の先頭に箒を持ったものがいて、村人はそれに出会うことを忌んで避けたという。もはや長寿の祝いというよりは本気にあの世に旅立って欲しいという雰囲気がある。「当人の祝福ではなく、子孫の幸せを祈った」と同書でも触れているように、この儀礼そのものには、当人だけではない周辺への意図も十二分にあったということになるだろうか。

 棄老という考え方は古い時代にすでにあったといい、日本では仏教の広まりとともに、その風習が戒められていったという説もある。ところが前述のような生まれ清まり的発想ではなく、年寄りを大事にするべきだというような話で成り立っている。棄老伝説は各地にあると言うが、なぜ沖縄の歳祝いのように再生をそこから読み取るようにならなかったのだろうかと思う。
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チューインガムの話

2009-02-24 19:36:56 | ひとから学ぶ
 電車に乗っていたら後部座席の女子高校生がおもしろい話をしている。まず始まったのはチューインガムの美味しい食べ方というものである。日本チューインガム協会なるところで美味しい食べ方というものを紹介していて、それによると噛んでいて美味しいのは3分間だというのである。その言葉を発した彼女の横で友人は、「えーたったそれだけなの、それじゃあもったいないじゃないの」と言うのである。口火を切った女子高校生は噛んでいて味が出るのはそのくらいで、それ以上噛んでいると味がしなくなるということをさらに続けるが、どうも彼女も3分間は「短い」という印象を持っているようである。

 この話で初めて知ったのは日本チューインガム協会なるものがあること、そしてそこでは美味しい食べ方というものを紹介しているということであった。そこで検索してみると確かに日本チューインガム協会なるものが存在していて、販売額とか歴史、そしてQ&Aなども紹介されている。ところが「美味しい食べ方」なるものは掲載されていない。彼女はどこでそれを聞いてきたのか知らないが、実に素朴な疑問であることは事実である。「いったいどのくらい噛んでいるものなのか」と。

 そんなことを思いながら彼女たちの話は続く。友人は「わたしなんかさっき口にしたガム、お昼まで噛んでるよ」と言うのである。その言葉には友人も驚いたようで「そんなにもつの」という具合だ。協会のページにも、そして菓子メーカーのページに同じような質問が載せられていた。「ガムを噛んでいたら溶けてしまった」がという問いに「ガムは口の中の温度で、ほど良い硬さになるように作られています。しかし、お茶やコーヒーを飲んで口の中の温度が上がったり、油脂が含まれている食品を食べた後に噛んだりしますと、ガムが柔らかくなり溶ける場合があります。ガムは、温度と油に溶けやすい性質があります」と言う。 なるほど女子高校生が授業中に噛んでいるぶんには、なかなか溶けないということになるだろうか。彼女は時には「溶けてしまう」らしく、溶け始めると分離してしまいなかなか固まらなくなるらしい。仕方なく飲み込むことになると言うが身体の中で消化することはないらしく、そのまま便として排出される。

 というチューインガム談義であったが、さすがに友だちもそこまで噛んでいたことはないらしく、二人で盛り上がっていた。美味しい食べ方を講義した彼女、そして反してその美味しい食べ方とはくらべものにならないほど噛んでいるという彼女。たのたの正反対の会話は、発した方と発せられた方には、まったくことなるチューインガムの認識があった。考えてみれば、どれほど口の中に入れているものなのかについては、あまり人に聞くことはない。それでもわたしの子どものころには、いわゆる風船ガムなるものが流行って、口に入れて直ぐには風船にはならなかった。したがって「どれくらい噛んだら」というような話を友だちとしたこともある。がしかし、わたしはこの風船を作るのがとても苦手であった。そんな゜経験のせいか、あまりチューインガムというものは好まない。よく口にする人が「あげる」といっても「いいよ」と言うのがわたしの口癖になった。好きではないからこのごろは口にしたこともないが、実はチューインガムは硬いものをあまり「噛まなくなった」現代人にあっては、意外にそれを補う効果があるのかもしれない。いずれにしても噛む回数、口にしている時間というものは、意外に人によって異なるということである。

 ちなみに歴史をさかのぼると西暦300年ごろのマヤ文明までさかのぼるという。そして日本では1916年(大正5年)に初めてチューインガムが輸入されたというが当初は日本の食習慣には合わなかったという。そしてアメリカ軍というと口をくちゃくちゃしているイメージがかつてあったように、戦後になってやってきた彼らからチューインガムが広まったという。日本人はやってきた彼らに「格好よさ」を見たのだろうか。そういえばプロ野球選に同じように噛んでいる姿を見るにつけ、かぶれる者たちは格好良さをそこに見ていたのだろう。
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昔話を聞いた側のイメージ

2009-02-23 19:40:49 | 民俗学
■「昔話の景色」より

 昔話に疑問を持ち始めると、それはいくらでもある。なせ子沢山な時代だったのに「子のいない」家庭が一般的なのか、なぜこれほど似たような話が、今のような情報化時代でもないのに伝わったのか、そしてその話に細かな相違点はあっても大きな改変があまりなされていないのか、など不思議なことは多い。そしてその話を聞いた子どもたちにしても、疑問を投げかけても不思議ではないのに、「そういえば」というほどに自ら疑問を投げかけた記憶はない。果たして昔話たるものをわたしの場合は誰に聞いたのか、ということになる。年寄りから聞いたものではなく、学校とか本、あるいはテレビといったものから聞いたに違いない。だからもともとわたしの場合は、ごく日常に語られる標準タイプのものしか聞いていないことになる。にもかかわらず「それほど違わない」というのは、書物などにまとめられたものからも伺える。

 かつて昔話と伝説は何が違うのか、ということを疑問に思ったものであるが、伝説はその地域特有のもの、昔話は広域的に広まっているもの、程度に受け止めていた。しかし、昔話にも地名が現れるものもあるし、その地名が単純に変えられているだという場合もある。どちらも伝承だとすればそれほど差異がないのではないか、というのがわたしの捉え方である。語る側もそれを意識して語るわけではないだろう。

 倉石忠彦氏は、かつて父親に聞いた「ズイテン坊」のことを「昔話と家族」(『信濃』61-1)の中で述べている。「狸が山寺のズイテン坊を呼び出し、一晩中寝かせない話」と言う。父親は長野市西部のいわゆる西山と言われる地域に生まれたという。そこに何度も連れて行ってもらったというが、父親の言う「山寺」を具体的に認識はしていなかった。どこの寺とも解らないが、その舞台を情景として思う描くとしても、具体的に話している語り手のイメージはつかめないのである。そのとき倉石氏は「村内にある(この場合の村内とは暮らしている空間なのか、連れて行かれていた西山のことなのか定かではないが)檀那寺をイメージして聞いていたらしい」と言う。きっと思い描いてみても、子ども心に聞いていた舞台を今になってどういうふうに描いていたかは明確ではないのだろう。さらに倉石氏は「狸が雨戸に腹を打ちつける場面では、自分の家の雨戸をイメージしていたようである」と言い、さらに「自分の家の雨戸は、朝晩開け閉めをするのが子供の役目であったからよく知っていたのである」と言う。このように子どもにとって経験している場面に置き換えてイメージしているわけで、誰でも少なからず知らない話に対しては同じことをするのではないだろうか。山寺といっても聞く側の経験で変わるし、話の場面も変わるはずである。にも関わらず、同じように伝承されていくとしたら、それぞれがイメージできる余裕のようなものがあるからではないだろうか。もし具体的な話だとしたら、イメージは固定化される。ところが余裕があるから、同じ話でもイメージされるものはまったく異なるということにもなる。ごく短い話であっても、奥はとてつもなく深い話に、聞く側が仕上げることがではきるのである。そしてその記憶が今となってはあまり定かではないというあたりも、言葉少ない話を変わることなく伝達することができるのであろう。

 こうみてくると疑問はたくさんあっても自分なりに想像できる、あるいは聞くことのできる年齢というものがあって、昔話は受け入れられているように思う。疑問と捉えて質問するようでは昔話を聞く側ではないということである。「昔むかし…」と始まった途端に「昔っていつなの」などと言ってはつまらないことになるのである。
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死刑執行までの日々

2009-02-22 19:29:39 | ひとから学ぶ


 人を殺したからといって、その償いなど被害者はなんら感じるところはないかもしれない。どれほどその態度を示そうと、それら報いというものはない。それだけのことをしのだから当たり前のことなのだ。だからこそ、形ばかりの償いの表現でも世の中は望むのだが、果たしてそれは加害者にとってどれだけのものなのかも判明しないものである。いっそすぐにでも死刑にしてもらえば、きっと加害者も何も悩むことなく、旅立つのだろう。そう考えると、死刑というものより、いかに生きていることは加害者の中での長い償いかは予想できる。どれほど早く死刑になろうと、どれほど長く生きていようと、その心はなかなか計れないものだし、もちろん死刑囚にもいろいいて当然で、長く生きることで変化を伴うのは当たり前のことなのだろう。だからこそ、「死刑」を考えるときにきていると思う。

 「昨年末は、拘置所があっせんする年賀はがきを購入しなかった」というのは、先ごろ死刑執行された西本元死刑囚だったという。信濃毎日新聞2/22朝刊に掲載された「「命」に向き合い始めて」という記事。飯田周辺と愛知県で4人の殺人にかかわった西本元死刑囚は、地裁の死刑判決で控訴することなく死刑を受け入れた。したがって事件から死刑執行まで、近在に住んでいる者としては、けっこう「早かった」という印象を受ける。それでも記事のタイトルにもあるように、西本元死刑囚の心のうちには変化が現れていたようだ。簡単に「死をもって償いたい」といったところで、被害者は帰ってこない。とすれば殺人を犯した人たちに、何を望むというのだろう。わたしは被害者でも加害者でもないが、どこか覚めてそんな関係をみる。この殺伐とした世の中に、被害者も加害者もないという場面を見受ける。すべてが被害者なのかもしれない。こと殺人に対して、「死刑」にという傾向が国民の中には強い。そのうちに「許す」ことのだきない人々ばかりになるのかもしれない。いやこの場合の「許す」というのは「死刑」に対しての許しであって、罪に対しての許しではない。

 死刑の執行を予測していたのか、西本元死刑囚は年賀はがきを必要としなかった。すでにこの世の者ではないような心持がどこかにあったのだろう。無縁墓地への埋葬を本人は望んでいたという。無縁様、いわゆる不慮の事故であったり、身寄りのない人たちの仏様である。西本元死刑囚には身寄りがなかったわけではない。しかし、殺人を犯したことで、周辺も地獄に落ちていく。栽培員制度で「死刑を言い渡せるか」などという人事にわたしは捉えない。もし身内が殺人を犯したとき、その身内の骨を引き取ることができるか、という問いの方がよりいっそう自らの問いにもなる。それほどそうした背景にかかわる人たちは深いものを体験する。死刑囚になった人でなければ経験できない怖さ。そしてその身内として非難される人々、そんな経験は誰もがするものではない。きっと、変化を見せた西本元死刑囚には、死刑確定後さま゛さまな思いがめぐっていたに違いない。そして長く執行されないことにより、償いは重いものになると思う。もちろん記事にも記されているが、その変化は「死刑」という刑の確定があったからこそ本人が答えとして出そうとしていたものかもしれない。だから「死刑」が廃止されたならば、そうした償いの過程が失われるかもしれない。いずれにしても死刑囚もそうでない人も、みな心を持ち合わせていることは確かだと、わたしは思う。

 撮影 2/18 伊那市下殿島
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1時間もあれば・・・

2009-02-21 23:00:53 | ひとから学ぶ
 昨日は電車に乗ると、以前お世話になって退職された先輩が乗車されていた。一年ぶりに見る先輩の顔に、昔と変わらない元気な笑顔を見て、自らに諭されるような時が訪れた。もちろん最初に出る言葉は、仕事の状況である。すでに先輩が退職されて10年近くになる。定年退職された先輩のころに比べれば、55歳で身を引かざるを得ない状況は大きな違いである。ちょうど先輩の退職されて間もないころから今のような状況が訪れた。先輩も口にするように「自分たちは一番いい時に辞めた」ことになるのかもしれない。そしてそれが故に、その後に退職されている人たちとは、どこか関係にぎこちないものがあるだろう。必ずそういう目で見る人がいるし、そう見られていると思う人たちもいる。OB会なるものがあって地域のOBたちと頻繁に催しがあるという。また、地域以外のOBの集まりもあるというが、そうした集まりに最近のOBは集まらないという。まさに良い時代だった人たちとその後の人たちの意識差のようなものなのだろう。そもそも最近は定年まで勤めた人がいないのだからそれも仕方のないこと。しかし、だからといって良い時代に辞めた人たちを妬んだところでどうなるものでもない。そんな雰囲気はわが社の内部だけのことではなく、格差時代とか、不況時代といわれる今では、どこかにそうした思いが存在する。

 変わらぬまだ若々しい先輩の顔を拝顔して、年老いている自分が少し情けなくも感じた。その先輩と同い年の先輩を祭典の場で遠めに拝顔して「お元気そうでしたね」というと、その方もOBの集まりにはいつも顔を出しているとか。そして「今でも写真を撮っているの」と聞かれ、たまたまその時だけ足を向けて、「ほかには行っていないです」と答えた。そういえば、昔の人たちはわたしが盛んに祭りの写真を撮っていたことを知っている。祭りの場で見た、などというとすぐにそう思い出させてしまうほど、わたしのイメージはそこにあるのかもしれない。

 約1時間の車内での会話。いつもならパソコンを打っていればすぐに過ぎる時間がなぜか長く感じた。予定外の人との会話は、1時間もあればいろいろと話せるものなのだ。それにくらべたら、1日8時間、それも5日間も顔を合わせている会社内での会話はこの1時間にも満たない。本当に最近の人たちは話をしない。まさに無口である。無駄話でもいいからすれば良いのに、それができないほど忙しいのか、それとも話をしたくないものなのか、なんともその理由ははかれない。若いころはなかなか話が苦手だった自分がそんなことを言うのもおかしな話だが、よくも口が滑らかになったものだと思う。これも「聞き取り」といって民俗の調査をすることによって得られたものなのだろう。
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昔話の景色

2009-02-20 12:23:47 | 民俗学
 倉石忠彦氏は「昔話と家族」(『信濃』61-1)において、昔話に登場する人物の背景は「欠損家族」のケースが多いと述べている。簡単にいえば何らかの不幸を持ち合わせている環境といえ、子どもがいない、とか独り身であるといった具合にかつての家の継続を前提にして幸福感があった時代にあっては、かなり不幸な身分といえるかもしれない。しかしこのことについて倉石氏は次のようなことも言っている。「かつて筆者が生まれ育った村内の家々のあり方を思い返しても、こうした家(「おじいさん」「おばあさん」だけというような家族)が全くなかったわけではないが、ごく普通の家というものではなかった」と。ようは今のように核家族化したり、同居しないのが当たり前というような家庭事情の時代ならともかくとして、かつての時代にあって夫婦に子どもがいないというどちらかと言うと普通ではない家庭事情が話の舞台とし登場するのは何なのかということになるだろう。ようはみんなが語る昔話は、なぜか老夫婦だけというような舞台が当たり前のように設定されているのである。このことについて、倉石氏はさらに「もちろん昔話の「おじいさん」「おばあさん」が、なぜ二人だけで生活しているのかは不明である。したがってこれが祖父母を意味するのか、単に老人を意味しているのかも不明である。多分、老人を意味しているだけなのであろう。しかし、この老人も平均寿命が八〇歳前後にもなった現在とはかなり印象が異なる」と言う。果たして昔話に登場してくる「おじいさん」「おばあさん」の歳はいくつなのかということになる。けして現在捉えられるような年齢ではないことは言うまでもないだろう。なぜならば、例えば笠地蔵のように「地蔵のお陰で「お金がたあんとあって、それでもって、一生楽に暮ら」すことができた」と言うのだから、余生が短いというような超高齢者ではない。さらには「じいさんとあったそうな。二人に子がなくて、あとを見てくれるもんもないから、心細く暮らしていたっけが」と言うように、この場合のじいさんばあさんの対象は孫ではなく子である。ようは爺さん婆さんとは言うが、父さん母さんでもなんら設定的には問題はない。にも関わらず、なぜ爺さん婆さんということになるかが、昔話の舞台設定の奥深いところに意図的に存在すると言える。

 もともとイメージすることで話に親近感を感じるものであって、父さん母さんよりは爺さん婆さんの方が子どもたちを対象に話を展開するにはイメージし易いということもあるのだろう。それにしてもやはりこの親には子がいないのである。子どもを対象にする昔話なのに、子どもがいないという世界は、実は聞いている子どもにとっては、非現実的な世界ということが言える。にもかかわらず素直にその世界を受け入れるのだから、架空な作り話は、実はとても子どもたちにとっては身近な世界と言えるのかも見しれない。こうした構造を探ろうとしている食石氏の視点はとても楽しいものである。

 続く
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農業という孤独な世界

2009-02-19 23:06:30 | 農村環境
 「兄弟の在りか」においてその所在における差をどう自分に納得できるか、そしてどう相手を思いやるかということついて触れた。ときに思いやりとは「何」、と問うことにもなる。交易を日々繰り返し、さまざまな顔を見、さまざまな関わりの術を養っている人たちは、心と顔は違えて表すことは可能である。それを裏腹というかもしれないが、本音と生きる術のための顔は違って当たり前と言うのだろう。しかし、場面によってはそういう術を出されても通用しない「とき」というものがある。「とき」だけではなくそれは相手によっても異なる。

 少し精神的にまいっている妻を、「病気である」と判断してしまえば、あとはつながらない。さらに悪い方向に進んでしまう。今までこの関係を育ててしまったところに問題の原点があるのだろうが、病にその原点を持っていったら、妻は救えない。そしてそうした環境を招いてしまったのは、言うまでもなくそこにいた家族であるからだ。冒頭でわたしが「交易」という言葉を使った。農業を自らが身を置く空間で営むということは、現代においてはかなり隔離されたものとなる。昔なら地域丸ごと農業をしていたし、交易といっても今のように広範にわたるものではなく、その相手も限られていた。皆がおなじことをしていればそれで安心となる。ところが現代における農業は個人企業のようなもので、個人の才覚によって大きく差となって現れる。そして誰も助けてはくれない。支えられるのは今までのつきあいと、家族ぐらいなのである。現代においては誰かがかならず外とのつながりを持っているだろうし、糸口はある。ところがその糸口が信用できないものとなれば、隔離されていた世界に毎日を暮らしていると、なかなか精神的にこたえるところが大きい。自らの中でそれをどう解消するか、それが自らの術となるのだろうが、企業的にそれを個人の資質とか言って批判をしたら、農業はやっていけない。そんな隔離された世界に、若者が入るはずもない。入ったとしても、そうした現実を知らずに個人農業に入ったら、いつか妻同様に鬱積が発散するときがあるだろう。認識していても彷徨っている妻の心の中は、継続していきたいという農の世界で不信感に陥っていることは確かなのだ。

 もはや外との関わりから遮断された世界で、苦悩する個人農業の姿と言わざるを得ない。そして維持継続なのか、それとも発展なのかというところでも意識は異なる。だからこそ一線を退いた後の老後の農業なら成り立つということなのかもしれない。今の農村で農業をするというのは、とても孤独なことなのである。自由なことては言うまでもないが、精神的な部分をどう維持していくかというところが課題といえる。そして妻のやっていた農業を、跡取りが定年後に帰農するための維持継続だという価値に置いてしまったら、妻は自らの所在をさらに不安なものに思うはずであり、まさにそこに行き着いてもいる。現代の農村に、妻と同じような境遇の農業者がいないとは言わないが、数少ないことだろう。だからこそ周囲はそれほど深くは考えてこなかったが、実は農業の現場はそんな程度に捉えられているのかもしれない。簡単に言えば趣味とでも思われているのではないだろうか。この姿で農村や農業というものを維持継続させるのは危ういのは当たり前なのである。
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「侍ジャパン」とは

2009-02-18 12:31:46 | ひとから学ぶ
 昨日の新聞スポーツ面には「侍ジャパン」という文字が大きく見出しとなっていた。よく言われるのが、なせジャパンの頭にこうした装飾語が添えられて呼ばれるかというものがある。北京オリンピックの際も「星野ジャパン」という言われ方がして、そうした呼び方に違和感を持つ人たちは、「なぜ」という問いをしていたものである。星野仙一の個人チームならともかく、日本代表なのになぜ個人の名前が付加されて、あたかも個人の趣味で作られたチームのように表現する。逆に言えば、この北京オリンピックのように惨敗をした野球チームは、後世にまで言い伝えられるほど悪い印象を与えたことも事実。そうしたときに「星野ジャパン」と言えば、そのときのメンバーが浮かんでくるほど具体的な姿を記憶から呼び戻すことができるのだろう。だからいつも変わらない名称よりは、その時々の名称を付けるのは、けして悪いことではなく、むしろ親しみ深くその時代を思い浮かべることができるだろう。そしてもし監督名ではなく、今回のように「侍」などという具体的でない名称を付加すれば、「原」というイメージが残らないことも確かなのだ。ではなぜ「原ジャパン」と言わないのか。誰が「侍」と呼び始めたのか、そのあたりに意図的なものもあっのだろう。

 質問ページを検索するとまさに前述したような内容が掲示されている。「野球 WBC 今までは長嶋ジャパン、王ジャパン、星野ジャパンと監督の名前つけてたのになんで「原ジャパン」じゃなくて「サムライジャパン」なんですか?」というものや、「よく「○○ジャパン(星野ジャパンなど)」とマスコミが謳っていますが、そう表現する意味が私には理解できません」というものがある。前者の回答として「国の代表であって王さんのチームでも星野さんのチームでも無いわけでそんなくだらない常識はずれな呼び名をナショナルチームに付けているのは日本だけです「野球日本代表」で良いと思うのですがね・・・」というものがある。一般的にこういう言葉を返すことが多いだろう。しかし、今回はなぜ「原」ではないのかということについては何も説明はされていない。前述したように、わたしは外国がどうあれ、記憶として残すにはただの「野球日本代表」よりは誰がメインであっかという意味で監督名を付与することは常識的な方法だと思う。これが「イチロージャパン」では異論もあるたろうし、「2009ジャパン」ではおそらくほとんどの人が10年後、20年後にはイメージできなくなるだろう。とすれば監督名が一番素直な名称なのである。

 さて、そこでなぜ「侍」なのかということになる。これは「原」では従来の「長島」とか「王」とか「星野」に比較すると軽すぎるという印象があるに違いない。簡単にいえば「イチロー」では異論が多いのと同じで、監督であっても「原」では納得しない人たちもいるだろうから、個人名を避けたということが言える。そしてこの曖昧な名称は、もしもの時にイメージを希薄にする助けにもなる。今までに比べると、そこには逃げがあるように感じる。逃げ口としての個人名ではないのである。

 個人名よりは支持が高いとも言われるが、むしろこれこそが日本的な曖昧表現の一つではないのだろうかと思う。そしてもっと違和感のあるのは「侍」という言葉である。武士階級すべてが「侍」と言われたわけではないようだが、必ずしもその表現に固定したものはなさそうである。外国人が捉える侍がいかなるものかもよく解らないし、また自ら侍たるものが何なのかも解りはしない。さらにいえばどこかの漫画にも登場する主人公は、「ぼくの祖先は侍じゃないから」と言うように、日本人=侍でもないし、また現在現実に侍が存在するはずもない(自称は別として)。サムライという用法もあるように、イメージ化されがちな侍という姿が、けして日本人すべてにおける特有のものではないはずなのに、「侍」と名づけることで統一感を持たせるという用法は、違和感を増すことは確かなのである。
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移動という行為のギッャプ

2009-02-17 12:43:19 | つぶやき
 乗車する駅から二つ目の駅まで、乗ってしばらくたってその二つ目の駅に間もなく到着と言うときに我に返ってその位置を認識した。「もうずいぶん前に乗ったような気がする」というのは考え事をしていたせいだ。それほど時間が経過していたというわけでもないが、それほど短い時間であったわけでもない。もう一度その時間的な位置も確認すると、やはりそこそこ時間を要している。とくに直線区間ではそれほど早くない飯田線もスピードを上げる。そんな時間が何分とはいわなくとも1分も続いていると、ずいぶんと走ったと感じる。この二つ目の駅まで「そんなに遠いのか」と思うわけだ。

 駒ヶ根駅と小町屋駅の間もそれほど遠いわけではない。駅間距離が短めな飯田線にあっては短区間な方である。わたしが何度か利用したパターンは、帰路駒ヶ根市役所に用事がある際に、小町屋で降車して市役所を訪れ、そのまま駒ヶ根駅まで歩くというものである。歩いてもそれほど遠いと思う距離ではないのに、この間電車に乗っていると、以外にもあっと言う間というほどではない。この距離を歩くとなればそこそこなんだろうと想像するが、前述したように歩けばたいしたことはない。これが乗り物と歩きのギャップのようなものである。わたしの乗車する駅から二つ目の駅まで、それほど遠いという意識はわたしにはないが、実際にそこまで歩いたことはない。以前にも触れたが、子どものころ母に連れられて生家のある駅で電車に乗ると、その二つ目の駅で降車して、母の実家まで歩いた。距離にして1キロ余といったところなのだろうが、子ども心にもっと近い駅があるんじゃないの、などと思ったことはなく、それが最寄の駅という認識であった。その実家は、現在わたしが住処としている自宅からそれほど遠いわけではなく、直線にして500メートルくらいだろうか。そう考えればその距離はまったく遠いものではない。

 しかし、そんな位置関係を歩いたとしてもきっと時間にして30分では届かない。それに比べれば電車なら10分ほど、きっと車なら5分とかからない。

 わたしはずっと地方で暮らしているし、地方も水田や畑が周囲を囲っているような広がった空間で暮らしている。そうした人間と都会の視界が遮られたような空間で暮らしている人たちでは、空間移動のギャップというものはわたしとは異なっているだろう。地方にあっては広がりのある空間を前にしているから、見えていてもそこまではたやすく移動はできない。そこで車が登場する。広がりある空間を誰も歩いているわけではないが、歩けば時間は要すがそれほど遠い実感はないはず。ところが広がりある空間は、そこに見えているものをとても遠くに追いやってしまう。だから歩くという行動をとれないのである。

 信号機に停車していて、あるいは少し渋滞していると、横を歩いている人がそれほど早足ではないのに自分を抜いてどんどん遠ざかっていく。もちろん車が動き出せばすぐに追いつくものの、「もうこんなに歩いたんだ」と車の中で他人の速さを実感することはよくある。確かに歩けば時間はかかるのだが、だからといって歩くことでとても時間を無駄にしたとは思わないわたしは、地方人の得意技を使わない。
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兄弟の在りか

2009-02-16 12:53:27 | ひとから学ぶ
 もう何年か前になる。同好の人たちのためにといろいろ働いても、結局自分のには得するものはなく、人が得を重ねていくことに対して、兄と大喧嘩をしたことがあった。なぜ兄と喧嘩になったのかは、その事例の相手が兄と同じ会社で働いていた人だったからだ。その相手のことを兄に投影して批判したことに始まる。生家に秋の祭りで呼ばれていた酒席でのこと。取っ組み合いの喧嘩になって、見事ないい歳をしたおとなというかおじさんたちの喧嘩になったわけである。父もそんなわたしに呆れて子どものころ以来というほどに「出て行け」と真っ赤になって怒ったものだった。義姉も「もう二度と来なくていいから」とわたしに言った。

 その後、そのとき悲しい思いで見つめていた母が「爺さんや婆さんが死んじまえば、身内は兄弟だけ、たった2人の兄弟なんだから仲良くしていかにゃいかんに。姉さんにだって面倒をかけるんだから」と電話をしてきて謝るようにと諭されたのである。百も承知で一匹狼みたいなことをする気短な自分が予想したように起こした事件。この歳になって嫌な思いなどしなくて良いのにと思うものの、自分の不遇を人に充ててしまったわたしの悪いところをさらけだした一場面である。親が亡くなってしまえば、まさに兄弟だけ。昔と違って子どもが少ないから兄弟も少なければ子孫すらままならない状況。確かに身内というものがとても希薄になってきた時代だけに、母のこの言葉はわたしの心にしみじみと行き渡った。

 父のそして母の面倒見てもらっているだけ、兄にそして義姉に対しては感謝の気持ちは十二分に持っている。にもかかわらずなかなか生家には何も返せないでいる自分は身勝手でありながら、こんな事件を起こした。この背景には、自分と兄の会社の待遇の違いや、わたしも自由な生き方をしてきたが、兄も趣味を十二分に謳歌してきているということをわたしが認識していて、同じ兄弟なのになぜ違う、というどこかに鬱積がたまっていたことがある。とくに自分の会社の将来に大きな不安を見出し、とても定年までは働けないという事実を知って、自らの心のうちが不安定になっていた時期でもあった。よく言うように「人のせいにしてはいけない」と解っていても、それを受け入れるだけの余裕がなかったし、自分の認識にはそんなに大きな間違いがないという自信のようなものもあっただろう。

 同じよなことは世の中にたくさんあるだろうし、誰にもあることのはず。どうしても人との格差みたいなものを自らに問うことになる。そしてとくに自分の苦労が自分のためというのならともかく、人のためになっているとなると鬱積はたまる。とくにそれを兄弟に向ければこういうことになる。特別仲が良いと言うわけでもない兄弟にあっては、当然の成り行きということになってしまうのだろうが、それと同じようなことが妻にも起きた。わたしが長い間見ていた中ではそういうことは起きそうもなかった兄弟だったはずなのに。その背景には、やはり配偶者という存在が介在してくる。結婚をして他人が入り込んでくると、それまでの関係は変化していく。兄弟の少なくなったこの時代においては、なかなかそれを解消する術がなかったりする。そして同じようなことは家族だけではなく、社会でも起きる。かつての常識では解決できないからこそこういうことになる。しかしいっぽうでかつての常識と比較するから鬱積はたまる。より以上に人のこころの動きを見、それに対応できる術を養っておかないと生きられないということになるだろうか。
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食と農さまざま

2009-02-15 22:42:56 | ひとから学ぶ
 先ごろ古家晴美氏の「自然と食のイデオロギー」(『日本の民俗4 食と農』2009/1 吉川弘文館)に触れた。同書の中に紹介されいている事象でいくつかなるほどと思わされる部分があったので、少し触れてみることにする。

 田中宣一氏の「米の配給制は、都市部では米食を制限することとなったであろうが、逆に水田の少ない山村や山がちの農村、漁村に米を普及させる効果があった」という事例に触れ、次のように述べている。「群馬県白沢村では「配給制度になったので、、そばがきはあまり食わない」、香川県高見村では「このごろの配給では……米だけで余るほどあるため、麦の消費はかえって減少した……以前は麦を多く食べた」という回答が寄せられている。漁業を生業とする沖縄県糸満町でも主食の「三度三度が芋で」あったが、「食料品の統制がおこなわれてからは、芋の値と米の値段との差があまりないので、だんだんと米の飯が多くなってきた」と報告され」云々とある。配給制による節米という思惑とは異なった動きが地域によってはあったという。もともと米が収穫できないような地域にとっては、主食としての穀類があったのだろうが、それを駆逐するように配給米が入ってきた。それが強いては潤いにまでなったのかもしれないが、果たしてその後の歴史は、潤いであったかどうかは、地域ごと異なることなのだろう。

 立科町のある集落での戦後の変化を捉えている。昭和「40年代半ばにさまざまな家庭電化製品が持ち込まれると、夜なべをやるような雰囲気ではなくなったという。(中略)景気が上向きになると村にもさまざまな工場が誘致され、観光開発が進んだ山林には立派なホテルが建てられたので、出稼ぎに出なくても働き口を求めることが可能になった。また、日常生活の中で、子供の教育費など家庭電化製品の購入以外にも現金が必要になってきたために、夫が勤めに出て農業を妻に任せるか、あるいは妻たちもパートに出るという兼業農家が激増した」まさにそんな世の中にわたしは幼少期を過ごした。農村は明るい未来に向かって進んでいるようにも見えたが、実は子どもの目にも、その先の時代が不安に浮かんだ。いや、子どもの目ではなく、「わたしの目には」と言った方が正しいだろうか。

 「それまで茶碗二杯食べていたご飯が一杯になった。これは副食が数多く食卓に並ぶようになり、主食で腹を満たす必要性がなくなったからだろう」という具合に農村の、農民の暮らしは大きく変わっていく。そして今や「勤め帰りにスーパーで惣菜やインスタント食品を買い、帰宅後、それをパッケージごと食卓に並べるという風景は珍しいことではなくなった」のは農村も同じである。ときおりパッケージごと食卓に並べることに嫌悪感を示す人もいるが、もはやそれを否定するのは男たちの特権をかざした過去を引きずっている人たちだけかもしれないが、実はそうはいえない悲しい意識の退廃なのかもしれない。
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西上の風景

2009-02-14 23:11:31 | 農村環境


 「西上」というバス停である。伊那バスの新山循環バスの停留所の一つで、「今でもここまでバスがやってくるのか」と関心させられる。きっと市が補助をして伊那バスに運行してもらっているのだろう。どのくらい1日にやってくるのだろうと調べてみると、9:34と15:43の2回である。前者は伊那営業所を8:53に出発し、10:10に再び伊那営業所に戻る。約40分ほどで循環するわけで、市内まで用事のある人は利用できることになる。停留所を見る限り、新山を網羅して周り、市内とをシャトルするというもので、市役所とか病院といった主だった主要施設へ連絡するものではない。さらに毎日の運行ではなく、月曜日と木曜日のみ運行という。その両日に何らかの意味があるのか知らないが利用しづらいというのは事実である。採算が合うはずもないものを補助で行っているから、「運行しやっているだけありがたいと思え」と言われれば、利用者にとっては確かにありがたい。しかし、何度もこの地に身を置いているが、いまだこのバスにわたしは出くわしたことはない。

 バス停の丸い表札があるからバス停と解るが、そうでもなければこの山の中でバス停があるとは気がつかない。バス停と解ると周辺が違って見えてくる。隣の建物は待合室かと思いがちだがそうではない。中にはトラクターが納められている。農地に近いところに農機具が保管されているのである。しかし、建物そのものは庇がそこそこ長く、いかにも待合室らしい雰囲気を醸し出している。もしかしたらかつては本当に待合室だったのかもしれない。そしてさらに周辺の雰囲気はこの地の源のような様相を見せる。庚申塔が並び、二十三夜塔も建つ。隣に集会施設があっても少しも不思議ではないほど、この地の中心的な空間である。とはいえ見渡しても家の数は10戸足らずといったところである。

 バス停を示す看板は、外灯に付けられている。外灯の柱が兼用されているところに臨時的な雰囲気を見せる。辻にあってバス停、そして隣に農機具小屋がぽつんと建ち、脇には石仏が建ち並ぶ。ごく山の中の中心的風景を、西上のそれらしい空間とわたしは捉えた。

 10年以上前に、新山荘を訪れたことがあった。今ではいつ営業されているとも解らないほど、最近は使われた雰囲気はない。伊那市内でもこれほど急傾斜でそこそこ広い水田地帯はない。その最も標高の高いところに、この西山の地がある。おそらくすでに専業で農を営む人は数少ないだろう。バスでもあちこち停留しても20分ほどで伊那市内へたどり着く地ではあるが、涼しげな地は意外に荒れた農地は少ないはずとトンボの楽園の保護活動をされている方は言った。

 ちなみに毎日運行されることのない市内とを結ぶこのバスは、300円という。わたしばかりではないだろうが、定期とはいえ毎日やってこないバスを、運航日にこのバス停で待つのも、よそ者にはとても不安だろう。本当に限られた人しか利用しないということになれば、むしろタクシーで補填してあげた方が無理がない方法とも思える。
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**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****