Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「豊橋行き」

2009-03-31 12:18:07 | つぶやき
 「今度二番線に参ります列車は豊橋行きです」というアナウンスが流れた。すごく新鮮な印象を受けたのは「豊橋行き」というところである。1日に走る電車のうち日中に伊那市駅にやってくる電車は午後の便はほとんど乗車した経験がある。ないのは午前中までのもので、それは南から北へ通勤しているからごく当たり前のことでもある。午前中に自宅に向かって電車を利用するなどということはあるはずもない。その午後以降の電車に乗った記憶では、「豊橋行き」という電車はほとんど記憶になかった。おおかたは「飯田行き」あるいは「天竜峡行き」である。あらためて「豊橋行き」という電車を数えてみると伊那市駅からのものは3便のみである。「意外にあるんだ」と思ったが、朝昼夕という配置である。とくに早朝に2便連続してあるあたりが、その立地上のポジジョンを表している。実は飯田駅始発の「豊橋行き」がけっこう多いことに気がつく。伊那市駅からのものの3倍近くある。約200キロほどローカル選を直接でつなぐ電車はとても少ないわけで、久しく普通列車しか走っていなかった飯田線に導入された特急「伊那路」も豊橋―飯田間しか走らない。それ以上北まで伸ばしたところでニーズがないということなのかもしれない。あるいは飯田―豊橋と飯田―辰野とは異なる世界があるのではないかなどと、いつものように勘ぐってしまう。もう大昔のことであるが、飯田線を豊橋まで乗車した時の印象は、中部天竜あたりから乗客が増え始め、豊橋の近くまで至るとローカル線という雰囲気ではなかったと記憶している。県内の飯田線を区切ると辰野―駒ヶ根、辰野―飯田、飯田―平岡、飯田―豊橋といった四つのイメージで運行されているという印象を受ける。そのイメージ外の電車が、午後5時20分伊那市駅発「豊橋行き」なのである。


 この電車に乗ることはめったにない。久しぶりに乗って新鮮な印象を受けたわけであるが、春休みの「豊橋行き」の雰囲気は少し違っていた。たった2両編成の電車は、駒ヶ根を過ぎるとふだんなら乗客がめっきり減るはずなのだが、この日は珍しく賑やかだ。両車両の様子をうかがうと、どちらの車両にも小学生くらいの子どもたちが親子連れで乗っていた。たった数人の子どもたちでも、電車を楽しんでいるからずいぶんと雰囲気が違う。先頭車両の運転席へのドアのところに立ってぴょんぴょんと跳ねている女の子の姿が見えた。背伸びをしないと前方がよく見えないようで、背伸びがあまって跳ねているのである。ふだんなら別車両の様子などうかがいもしないのに、それを実行したわたしは、やはりふだんにはない雰囲気を察知していたということだろう。思わず後部車両から異動して前に移った。女の子たちがどこまで乗車するかは定かではないが、彼女の妹は母親に抱かれて車外を眺めているが、時おりやってくる車掌さんに手を振る。ずいぶん車掌さんもそんな雰囲気に飲み込まれていた。ふと先ほど後にした後車両をのぞくと、やはり小学生らしき女の子が車掌さんにメモ用の手帳を持って質問している。そこそこ乗客の少なくなった空間で、車掌さんと子どもたちのやりとりが続く。いつしか暗くなってきたところで、先頭車両の運手席とドアのブラインドが降ろされ、跳ねていた女の子の姿はそこから消えた。きっと彼女たちが降りるのもすぐたろう、と思いながらわたしは電車を降りた。
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「仕事ばか」

2009-03-30 12:15:10 | つぶやき
 「仕事ばか」といっても「馬鹿」のことではない。わたしたちの時代ではむしろ「馬鹿」をあてて仕事漬けの人間を指して言ったりする。しかし、「ばか」という意味には別の意味もある。松村義也氏の『続山裾筆記』によれば、「仕事のはかどり方を、この辺りでは「仕事ばか」という」らしい。いわゆる「はかがいく」という時の「はか」は計りの意味になる。この「はかがいく」という言葉は今でもけっこう使われる。別に方言でもなく一般的な言葉なのであるが、実は最近の人たちはあまり使わない。だいたいが仕事を「はか」で捉えることが少なくなったのかもしれない。品質管理された世界では、あまり「はか」を重視しないのかもしれない。

 「いんねえ。みたとこはしゃかしゃかよく動くが、その割にね。そうかと思えば、見たところおうようでいて、結構「仕事ばか」のいく人もいるしねえ。性分だに」と初老を迎える年ごろの主婦たちの言葉を紹介している。動きが多い割には仕事がこなせていない人もあれば、脱談ばかりしてよそごとばかりしているように見えても仕事が終っていく人もいる。ようは「仕事馬鹿」と「仕事ばか」は相反する人間と言える部分がどこかにあるかもしれない。

 「はか」について『大言海』を引用している。「はか(計)―稲を植え、又は刈り、或は茅を刈るなどに、其地を分つに云う語。田なれば、一面の田を数区に分ち、一はか、二はか、三はかなどと立てて、男女打雑り、一はかより植え始め、又刈り始めて、二はか、三はか、と終わる。又稲を植えたる列と列との間をも云う。即ち、稲株と稲株との間を一はか、二はかとか称す」という。もともとは田の区割り、あるいは稲の畝間のことをいう言葉だったらしい。さらに松村氏は「らち」の解説に入る。このあたりでは「追いらち」という稲の植え方の言葉があった。「らち」は前述の「はか」同様畝間のことで、田植えの際に目検討で苗を植えていくことをそう呼んだ。わたしの記憶ではすでに「追いらち」植えはされておらず、多くの家は筋をつけてその筋に沿って植えていた。もちろん今は田植え機になったからそのような植え方はないが、この「らち」という言葉の方が消えてしまった言葉といえる。ところが「埒が明く」の「埒」はこの畝間の「らち」からきているという。知らず知らずに使われている言葉も、けっこう古い時代の名残りだと気がつくと想像豊かになるものである。

 冒頭でも触れたように、今では「馬鹿」をあてて利用されることがほとんどである。この時代の仕事はかつてのように身体を動かして確実に目に見える成果をあげるだけのものではなくなった。はたから見ていても「はか」を見ることができなくなったともいえる。簡単に言えばどれほど無駄なことをしていても、それを揶揄するような他人の言葉に動揺しない、あるいは動揺していたら潰れてしまうような時代になった。「いんねえ。みたとこはしゃかしゃかよく動くが、その割にね」なんていうおおらかでいながら率直に捉えている言葉が懐かしくてたまらない。今ならどう言葉に表せばこんなに楽しく聞こえることだろう、などと思いながら声一つ聞こえない社内で人の様子をうかがうのがせいぜいである。
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ETC特別割引始まる

2009-03-29 20:53:14 | つぶやき
 ETCの特別割引が始まった。様子見というところもあるだろうし、どうせ安くなるなら4/19以降にという人もいるだろう。妻の友達から昨日1000円乗り放題を使って新潟まで行ってきたというメールが妻に入った。妻はふだん高速など縁がないから「ふーん」程度で、まったく用はない。だから不満も少しはある。今回の話題が出るたびに妻は「また九州に行って来たら」という。妻の言う「また」は、国東半島へひとり旅に出たことで、それはもう4年ほど前のことである。会社のリフレッシュ休暇というものをもらって行ったものであるが、その後会社の先行きが悪くなってその特典もなくなった。特典があったから「この際に」と前から行きたかった国東半島に行ったものであるが、自家用車で当時すでにあった高速の夜間割引というものを使って行った。夜間割引の場合は大都市圏をまたいでも利用できる。3割引でもめ割引なしに比べれば大きい特典である。今では「平日夜間割引」と言われるが、かつては毎日適用だった。土日は1000円乗り放題が登場したから土日の夜間割引がなくなっただけのことである。

 当時は中央道松川ICから乗って小倉東まで乗った。片道17,000円のところを3割引で11,900円で済ませた。それと寄り道などを考えてわざわざ小倉東で降りたが、国東半島まで直接乗り入れても良かったが、走行距離が長くなれば燃料もかかるということから、距離最短で高速料金が安いというあたりを天秤にかけて少しでも料金を節約したいという気持ちがあって小倉東を採用した。だから燃料と高速代を天秤にかけられる今回の1000円乗り放題を利用すれば、小倉東ではなく、安心院まで乗っただろう。とすれば20,800円の高速料金が3割引なら14,600円となったわけだ。ところが今回の特別割引なら2,100円で済む。さらに4/29以降ならもっと安くなるのだろう。問題外の安さであって、ドライブ好きな人にはたまらないだろう。以前にも触れたが、特別目的もなくドライブをしたい人なら、混雑していそうなところを避けて楽しく休日を過ごせるはずだ。これを利用しない手はないはず。もちろんわたしにはほとんど縁のないことではあるが、そうはいってもいつかこの特典を十二分に利用したいと思うのは事実である。平日は利用できないから、世の中の暇な人は、休日に出発して、次の休日に帰ってくるなんていうことも考えるだろう。忙しく日々を送っているわたしでもそう考えている。ようはいつかやってみたいのは、休日に出発して一週間余現地で滞在して帰ってくるという企画である。約1200キロの鹿児島まで行って現地で500キロくらい走ったとして往復約3000キロ。高速料金は往復4,200円。マイカーがちょっとばかし燃費の悪い車であるが、燃料代は3万円ほど。かつての国東紀行では、高速代と燃料費ということも念頭に、キロはフェリーを利用した。それでもって総走行距離1,800キロほど。フェリー代を除いた通行料とと燃料代で合計4万余。結局燃料代がかかるから格段の安さというわけにはいかないが、2年という期限付きということもあるから、この機会にぜひと思うのは自然なことである。しかし、そんなわたしがかつてフェリーを使ったのに、これで絶対選択から漏れるということになりかねない。テレビの報道番組でこうした流れについて「競争原理」という言葉で流すコメンテーターがいたが、あくまでも国がそうさせたことである。ようは公共交通に対しての冷たい仕打ちと言われても仕方がないだろう。
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段丘の上に住む

2009-03-28 19:59:03 | 農村環境
 「背に視線を感じる」で触れたように、窪地に落ち込むような地形の上に、あるいは落ち込んでいく傾斜地にけっこう家が建てられている。戦後になってそういうところに建てられ始めたのだろうが、歴史上ではこういう場所に住む人がいなかったわけではない。しかしいずれにしても飲み水に困るような場所ではなかなか住むわけにはいかなかった。だから住んだとしてもどちらかというとそういう制限に我慢しなくてはならない人たちだったのかもしれない。そこへいくと現代では水道の普及で、もはやそうしたところは敬遠される場所ではない。

 南箕輪村の横井戸について「大泉の里 その参」で触れたが、そこでは扇状地面においても長い横井戸を掘って水を得るという努力がされていた。大泉集落の東に広がる水田地帯の真ん中に史跡として残るカネナカの井戸は、現状の地形を見る限りなぜ個々に水が導かれたのだろうというような場所である。通常はこういう場所には水が導かれないだろうし、導こうともしないだろう。にもかかわらずここに水を導いたものは何だったのかと考えると、想像ができない。耕作地を求める努力だけだったのだろうか。

 南箕輪村における集落のほとんどは天竜川から何段かに形成された段丘を利用して展開している。天竜川の端にも集落はあるが、こうした土地は水害に見舞われただろう。したがってもっとも古い集落を形成しているのは何段かの段丘の中腹である。こうした場所なら段丘がまだ上にあるため、段丘崖からの湧水を得ることができる。かつては段丘上に住む人もなかっただろうから、そこから湧出する水質は良好なものであっただろう。実はこの段丘は大雑把には直線的に南北に走っているが、その段丘を北から南に伝っていくと、けっこう激しく出入りしている。小さな沢がいく筋も横切り、その沢のせいか蛇行をする。その複雑な地形のせいか、集落内はさほど整備されることなく、狭い道が複雑に絡む。したがってその地域の人でないと認識していないような奥まった場所が沢の中に広がる。窪の天王と言われる場所は段丘上は箕輪町木下である。その段丘崖の沢に入るとわさび畑が広がる。意外な空間と印象づけるが、こうし空間がけっこう南箕輪村の段丘崖のあちこちに見られる。いかにこの地が水を得やすい場所であったかがわかるし、またそれを利用してわさび栽培が盛んであったことが解る。かつてはもっとわさびがたくさん栽培されていたという。

 以上のように段丘の下には古い集落が展開したわけであるが、今では段丘の頭を中心に家々が建てられ、集落をも構成するようになった。その段丘の頭に沿って家々を追っていくと、こうした場所にある家々は当然のように新興の住宅地なのであるが、そうした住宅地の中にもセキュリティーシステムを導入しているような超高級住宅が建つような空間もある。わたしの経験だけであって印象であるが、伊那谷において新興の高級住宅を見ようと思えば、段丘上の頂を追っていけば必ずありつけると考えている。それほど新興住宅地の展開は似通っている。なぜこのような場所を好むのかは知らないが、土地はきっと高くはない。なにより片側は傾斜地であるから山城を築くようなものである。日本人の心の中に支配イメージをもたらせるにはこういう場所がもっとも理想な場所だということなのだろうか。しかしながら、伊那谷における段丘崖上は、その多くが断層の上ということになる。簡単に言えば地震に難点があるということになるだろうが、いつくるとも解らない断層に関わる地震を気にするよりは、良好な支配地で住むことの方が心は豊かになるということだろうか。
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爪を切るときがない

2009-03-27 12:25:34 | ひとから学ぶ
 「爪を夜切るものじゃない」ということはよく親に言われたものであるが、その理由として「親の死に目に会えない」というようなものがあった。これはよく聞かれる俗信であるが、その理由を聞いてもイメージは湧かない。ウッイキペディアにはこう書かれている。「夜に爪を切ると暗くて怪我しやすいから、夜爪→世詰(世を詰める)等(中略)日本の昔の民家では、夜の明かりは火なので、囲炉裏端などで爪を切ると、切った爪が火に飛び込んで燃える臭いが、火葬を連想させた為に忌んだという説もある。昔は爪切りが無かったために、爪切りは刃物を使って行われたが、夜の薄暗い中(火の灯りはそれほど細かい作業ができるほど明るくない)では、手許が狂いやすく怪我を、最悪の場合死亡する危険性がある為に親より先に死ぬ(=親の死に目に会えない)とされた。そういうことをする無用心な人は親よりも早く死ぬと言ういみもある」とある。暗くて怪我をしやすいという理由が成り立てば、ほかの行為に対しての禁忌の理由に「夜はしないこと」というものがたくさんあってもよいはずだ。したがってよく言われる「怪我をするから」という理由はしっくりこない。ましてや夜も明るくなった現代においては、まったく通用しない理由でもある。

 このご時勢では夜切らなければ切るときがない。まさか「伸びたなー」と思っても次の休日まで待って切るなどと言うことはできない。気になる以上すぐに切りたいものだし、常に爪を気にしているわけでもない。意外にふと気がつくと伸びているということはよくあることだ。だからこそ気になったときにはすぐにでも切りたいもので、そんなことわざを信用して切らないというわけにはいかないのだ。

 松村義也氏は『山裾筆記』の中でこのことに触れている。「出爪と夜爪は切るな」というからなかなか爪を切る間もない。そこで「出た先で切る分にはいいだろう」と、朝、溝の端にかがんで切っていたら、知り合いの娘さんに「そんなところで爪を切っていると姿を盗まれますよ」と言われたという。これは朝鮮の民話の中にある「すがたを盗まれた話」からきたものという。この「出爪」についてもウィキペディアにはこう書かれている。「一部ではあるが『朝に爪を切ってはいけない』というのがある。朝に爪を切ることは、『出征前の兵士が遺品として爪を切り置いていった』ということから、『死にに行く』という考え方をしてできた迷信である」とある。「すがたを盗まれた話」について松村氏はこう要約している。「若い書生が、山の寺で三年間勉強して懐かしいわが家へかえってきた。家では自分と生きうつしの若い男が、自分になりすまして大いばりに振舞っていた。家人は、自分をあべこべににせもの扱いにして、あげくに家を追い出す始末である。仕方なくあてのない旅に出た書生は、ひとりの坊さんに出会う。坊さんは書生の顔をしげしげと見て、「あんたは、誰かに自分の姿を盗まれている」と言う。そこで包み隠さずわけを話すと「お寺で勉強しているとき、爪を切ってどこぞへ捨てはしないか」と聞く。寺の前の川で水浴びしては爪を切り、河原に捨てていたことを話すと、「その爪を食べたものがあんたの姿を盗んだのじゃ」と。それから坊さんに教わった通り、猫を一匹そでの下にかくして再びわが家へ帰る。にせの男は猫にのどぶえを食い切られて倒れる。見ると大きな野鼠だった。爪には人間の精気が宿っており、それを食べた鼠がやすやす人に化けることができたという話である」という具合である。

 『上伊那郡誌民俗篇』の俗信を開いてみると次のような事例が掲載されている。
○「あすは旅立ち やれいそがしや」と三べん唱える。「なんの爪切る猫の爪切る、どこに捨てる、竹やぶに捨てる」と三回唱える。
○一月六日、七草の水をつけて爪を切れば、その後いつ切ってもとがめる事がない。
前者には猫が登場する。「すがたを盗まれた話」にも猫が登場するが猫といえば爪のイメージがある。何か因縁があるのだろうか。また後者は爪を切る禁忌をかわす術である。禁忌があればそれを祓う方法もあるというとこに、人々のまことしやかな伝承が伝わっていておもしろい。
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「上り」と「下り」

2009-03-26 19:28:44 | ひとから学ぶ
 わたしがよく引用させていただく『山裾筆記』の著者、松村義也氏の奥様からはがきをいただいた。最近伊那谷の南と北といった地域性について触れた記事を書いたことへの感想を送っていただいたのである。それぞれの生まれ育った所、そしてよそからやってきた人たちの会話、そんな中からふと気がつく地域性のようなものを集めていくと、それぞれの地域がどういうポジションにあるかということがきっと見えてくるのだろう、とそんなことを奥様のはがきから教えられたのである。

 彼岸会に向かおうと飯田線の小町屋のホームに立った。新しくなったホームで電車を待っていると、スピーカーから「上り電車が参ります」と流れた。そこであらためて「上り」とはどちらかということを意識したと言う。鉄道の場合東京に向かって「上り」とされており、東京に向かう本線に連絡する側を「上り」としている。例えば中央東線なら東京方向が「上り」となり、東海道本線も同様に東京が「上り」となる。したがってローカル選の場合、始点と終点のどちらが順位の高い本線かということで上下が決まっているようだ。この場合中央東線よりは東海道本線が格が高い。だから東京に近いというと中央東線側が「上り」と思いがちだがそれは違う。飯田線は東海道本線につながっており、東海道本線側が「上り」となる。これは同じ中央選でも西線は名古屋が「上り」となるところからも解る。きっとふだんそんなことを意識していない人にとってみれば、なぜ東京から離れていく方が「上り」なのかと不信を抱くだろう。「そうだ飯田線は下伊那方面が上りなのだと知ってはいたけれど、何か不思議といった感じ」と奥様は述べられている。ふだん上伊那郡とか下伊那郡といった行政枠になじんでいると、自然と地図を見るように南が「下」、北が「上」というイメージを持っているのだろうが、電車に乗るとひっくり返っている。それぞれが意味あってのことなのだろうが、その意味が理解できたとしてもなじめないものを感じたりするのである。飯山線のように上水内郡側の長野が「上り」で、下水内郡側の飯山が「下り」ならすっきりするということなのだろう。では上下はどう付けられるということになるのだろうが、基本的に川の上下という関係なのだろうが、ではなぜ上佐久郡と下佐久郡にはならなかったのだろうかということにもなる。上下という位置関係に意識が働けば、南伊那郡と北伊那郡になっていても不思議ではなかったはず。にもかかわらず上下をあてたあたりから、この「不思議といった感じ」が生まれることになったわけである。

 わたしは上下の境界域で生まれ育ち、そのまま少し位置を変えたものの、同じように境界域で今も暮らしている。行政上はどらかに必ず割り振られているものの、どっちつかずのところが常にある。それを見透かされたように、境界域の人間はいざというときに相手にされない、あるいは信用されないということがある。それは「嫌なら向こうに付くだろう」という印象を与えてしまっているからである。逆に言えばどっちつかずな雰囲気を見せずに、一貫していればそうでもないのだろうが、どうしてもそういう意識をどこかに持ってしまうものだ。例えば今回記事を書いたのは『伊那路』という伊那市を中心とした郷土誌である。いっぽう飯田を中心とした『伊那』という郷土誌があって、境界域の人たちには行政枠にとらわれず、どちらかの会に傾向する人がいる。上伊那に住んでいながら『伊那』に頻繁に記事を出す人がいれば、「この人はなぜ」という具合に下伊那の人が『伊那』に書いているのと違った不自然さを覚えるものだ。どちらの会にも関わっていながら、片方にかたいれしている境界域の人間は、必ず前述したようないざというときに、天秤に掛ける可能性がある。それを自らも察知してアプローチしているが、「やはり」という感じにどっちつかずをさらしてしまう。不思議な意識なのである。
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背に視線を感じる

2009-03-25 12:35:52 | 農村環境


 南箕輪村沢尻のある風景である。最近何度か触れてきたようにこの地域はけっこう傾斜があって起伏がある地形である。正面には仙丈ケ岳が見え、景色が良いところであるからその起伏のてっぺんなら眺めは良好である。そういう意味もあって住み着いたのかは知らないが、起伏ある斜面に家が建ち並ぶ。大昔からこの地に住み着いているという人はそう多くはないはずである。

 写真では雰囲気が捉え難いのだが、この洞の低地は水田になっている。北側も南側も10メートルほどの段差になって沢状にうねっていることから水が成した地形なのだろうが、その低地に川は流れていない。細い用水路が流れているだけである。この低地の水田に入り込むと頂の上にいたときとずいぶん雰囲気が違う。その一つは雑音である。頂にいれば周辺の道路の賑わいがなんとなく感じられる。そして風が強く耳もとで身体をさすっていく音が響く。ざわついていて、どちらを見ても何かが動いているような気がする。それが低地ではそれらがまったくなく、ぴたりと風が止んだ空間に入り込んだような感じなのである。もちろんこのくぼみの中に大きな道路がないということも、騒々しさから遠ざけている。

 もう一つは視線の違いである。頂に立てば下方へやるものなのだが、くぼみの中では上へ向ける。山間の村へ入ると自然と視線が上がるのと同じなのだが、明かに空の面積は狭まる。その狭まったところに山間なら山林が目に入るものなのだが、ここでは違う。傾斜地に段々に家が建つ。かつてならそこには畑があったのだろうが、今ではほとんどが宅地である。その低地の水田地帯を歩きながら思うのは、見上げる視線の先にある家々のまなざしである。当然のことであるがそれらの家々は農家ではない。景色の良い場所を捜し求めた住人なのかもしれない。立派なお屋敷も目立つ。その低地にある水田はごみためではない。よく管理されたこの水田地帯にごみは舞っていなかったが、頂からのまなざしではこの水田はどう見えているのだろうか、とそんなことを歩きながら考えた。そしてわたしは歩いているだけであるが、ここで農業を営むということはどういうことなのだろうか。けして視線を上げた先の住人がわたしを捉えているわけではない。わたしに気がついた人などいないのかもしれない。もちろん平日の日中にどれだけの住人が在宅しているかも解らないが、いずれにしても休日に農業をするとすれば、このくぼ地の周りに多くの住人の視線を感じても不思議ではない。見下げた視線の先で繰り広げられる農業は、どう見られるだろう。などと考えると、風が弱く、農村の整然さを残した良好な空間が、とても農業のし易い空間とは思えなくなってくる。わたしにはこのくぼ地の中で、今自家でやっているような農業を繰り広げることはできない。とくに田の草取りをするには心が痛む。わたしはこの住人たちにどういう背中を向けて作業をしているのかと、水面を見ながら思うことだろう。
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自然美

2009-03-24 12:38:18 | つぶやき
 ちまたではオオイヌノフグリをはじめタンポポやホトケノザなどおおかたの春の花が咲き始め、土手の緑も濃くなってきているが、この空間に入るとなぜか相変わらず冬の色である。ちまたですっかり春色が出てきているからと思って入ってみても、こんな気持ちになる空間とはあるものだ。妻の実家の裏山からその尾根を下った洞の中まで、そこは比較的風は弱い空間である。その洞の中にあるため池は、冬場の水を満面に湛えて、溢れた水は余水吐から流れ出ている。風が弱いからきっと暖かい風景があるだろうと入ると、いつも冬の色で迎えてくれる。なかなか予想通りではない空間の一つである。せいぜい足元に咲くオオイヌノフグリの青は点々としているが、その青は目に飛び込むような青ではなく、枯れ果てた空間に紛れ込んでしまうほとで、枯葉に反射する光はより一層まぶしい。

 枯れ果てた空間は嫌いではない。折り重なるように落ち葉が敷き詰められた空間は、歩くたびに自らの足音になり、わたしのように耳の苦手な者には、ほかの音との振り分けができなくなる。しかし歩みを止めると、音のない空間に鳥のさえずりも聞こえている。冬色ではあるものの、春の音は確かにそこにある。



 つるにしがみつくように何の実なのか小枝にぶら下がっている。ほかにもたくさん吊る下がっているがどれも見事な自然美を見せる。このまま集めて歩けば立派なリースがこしらえられるほど集まりそうだ。枯れ果てた空間にこれほどの自然に造られた形を求めることができるのも楽しいものである。そう思って折り重なった落ち葉を拾い上げてみれば、たった1枚の落ち葉も見事に乾ききって形を作り上げている。足元を見つめてみると認識していなかった自然形をあらためて知ることができる。これは子ども心とも言えるかもしれないが、忙しい日々の中でも訪れたい未知な身近ではないだろうか。何もかも新しく見るような子どもの目が、わたしにも欲しい。

 今年は何もかも早いからといって、「早くしないと季節になってしまう」などとヤマツツジの様子が気になっている。昨年は一度もわたしが手を入れることはなかったが(今以上に忙しかったということなのだろうが)、裏山を眺めればススキがずいぶんと目立っている。もちろんススキばかりではなく、ツツジを妨げるような木々が伸びている。それらを昨年はすべて妻が手をかけたようだ。わたしにとっては2年ぶりの山の手入れをしながら気がついたのは、2年もたつとツツジがだいぶ成長しているということである。残念なのは花期が短いということなのだが、ほんの一瞬の美しい山の姿を楽しみに、ツツジの下草を刈るのである。白内障で見えなくなっている目でも、わたしが作業をしている姿がどことなく娘には映っているようだ。わたしから娘の姿が障害物で消えると、吠え始めることからもそれは解る。ただただ自分の納得の世界なのだが、そんなゆとりを仕事としてではなく体感できることが幸福というものだろうか。
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この会社に将来は既にない

2009-03-23 12:41:50 | つぶやき
 かつて同僚だった彼には、意外な言葉を聞いた。彼が言うにはわたしが採算性のようなことを絶えず言葉にしていたから、無駄な行動は慎まなければならないと感じたようだ。そういえば厳しさが増す中で、自分の将来をどう描くべきかということについても折に触れて話をした。当時のわが社は、まだまだ「行け行け」みたいな感じであまり現実と将来の不安定さを思い浮かべるには仕事に追われすぎていたきらいはある。冷静さに欠けていたとまでは言わないが、会社に入って少しばかり経験を積んでいればそのくらいは見えていても不思議ではないはずなのに、それが見えない人が多かったと言えるかもしれない。もう何年もそうした意識を同僚たちに言葉で表していたのに、ほかの部署の社員は何も気がつかないでいると知ったのは、2年ほど前に会社の中長期計画を見直すに当たって社員の中から自己推薦方式で委員を集めて開かれた席でのことであった。その中にはまさに会社を執行しているトップも加わっていたが、そうしたトップは別として、一般社員のほとんどの委員が会社の現状にはまったく無知だったことである。そう考えれば、わたしが同僚たちに発していた言葉は、同僚たちにとってはうわ言のように聞こえていたのかもしれない。なぜなら、わたし以外には誰もそのことについて触れなかったということなのだろうから。

 かつて同僚だった彼にそんな意外な言葉を聞いたのは、久しぶりに彼の近くで仕事をするようになった時だった。彼はわたしの言葉を常に意識していたせいか、その部署で浮いた感じであった。だからこそわたしが教えた言葉をわたしに返し、あらためて確認したということなのだろう。そんな彼はもっと意識をはっきりと表現できる場を望んで会社を辞めていった。そう考えると当時わたしがそんな会社の現状を踏まえて意識を高く持たなくてはならないということを教えた同僚は何人か辞めていった。この会社では意識を高く維持しようにも、それを受け止める土壌がなかったといえるかもしれない。ではなぜわたしはここにまだいるのかということになるだろう。わたしの若いころには、そうした意識にさまざまな方面から意見をしてくれた。そういう人たちたがいてくれたということが幸い(不幸)だったのかもしれない。受け止めてくれさえすれば、どれほどそこに矛盾を思おうと、我慢ができたということになるだろうか。辞めた同僚はその間際に大きな喧嘩をした。まさに周囲は受け止める心の余裕がなく、彼を殺してしまったのである。

 しだいに最悪な空気が広まり、いまや吸収するどころか逆に悪意にしか見えない仕打ちが当たり前のように繰り広げられるようになったわが社。かつての同僚が新たな会社で第一歩を踏んだときこんなことを言っていた。こちらにいたときは会社のトップと顔を合わせることなどめったになかったし、顔を合わせても声を掛けて話されるということもなかった。しかし、新たな職場では毎日のように社長の顔が見え、そして声を掛けてくれたという。わたしの考えを素直に受け止めた彼は、気が短かったが繊細なところがあった。彼にとってはこうした上司のなんでもないようなことがとても大事なのであった。わが社では相変わらずトップといわれる立場の人たちは出先に顔を出すことはない。わたしはこの1年そのトップといわれる人物の顔を拝見したことはない。たかが100人ほどの会社なのに働いている人たちへの配慮など何もない。そうした中でそのトップが人事をする。もはや適正な人事などできるはずもない。不信感は募り、解体していく姿がそこから見て取れる。
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豚便所

2009-03-22 23:34:19 | 民俗学
 「下品な家には雪隠なし。尿は皆豚小屋の辺に男女とも垂る。…嶋役人、富家は、雪隠板の下にも豚を養ふ事あり」という施設は豚便所というらしい(萩原左人『日本の民俗 南島のくらし』2009/2 吉川弘文館)。豚便所は豚に人糞を処理させるために豚舎と便所とを結合した施設のことと言う。これは奄美や沖縄において見られたものだというが、やはり衛生的でないということが問題となったようだ。豚コレラの流行や人と豚を介在する寄生虫が豚便所によって広がったともいう。このような中で豚舎と便所を分離して清潔にする通達がたびたび出されたようだ。ところが豚便所の廃止に対してはけっこう抵抗もあったと言う。そして戦後まで豚便所を使用する地域もあったようである。

 この地域では正月に豚を供物としたという。正月だけではなくさまざまな儀礼に肉食をしたようで、一般的な正月を認識しているわたしたちにはとても不思議な世界である。ところが沖縄の本土復帰後重ね餅が売られるようになり、餅を飾り始めたという。ところが餅の処分方法が解らないため、「捨ててしまおうか」という言葉も交わされたという。もちろん一時のことでしだいに沖縄は本土化していったことになる。それぞれの地域にお互いではまったく理解できないような風習があっても、ひとつ屋根の下に暮らすようになると、同化していく、そんな物語である。

 こんなことを前掲書のあとがきで古家信平氏が書いている。「数年前には火葬場が完成し、納骨スペースを持つ墓が作られるようになっている。それまでおこなわれていた洗骨後の納骨法にのっとり、頭骨だけを別に安置できる形式の石塔を奄美大島の石工が作っている。洗骨改装をすることによって、二度の葬儀をおこない、それによって先祖として安定するという考え方はどのように変わっていくののだろうか」と。

 そういえば井上直人氏は「「こやし」に対する文化的態度」(『長野県民俗の会会報27』)において、「東南アジア湿潤モンスーン地帯で家畜化された雑食性のイヌやブタの祖先野生種が食料としてのヒトの排泄物に引き寄せられたことがドメスティケーション(家畜化)のきっかけを作った」述べていた。「ヒトの「すてる」行為が動物との共生をもたとする説は現在のこれらの家畜の習性から推察でき」るというあたりを少し曲げて捉えれば、現代ではヒトの住む空間にしのび寄り、とくに捨てたものを荒らすタヌキの習性なども、「共生」という考え方ができるのかもしれない。ようはいろいろ言われていても、結局はどこかで共生している、そして絶滅に向かうものは、ヒトとは仲良しできない種類ということになるだろうか。
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遠山谷

2009-03-21 21:58:44 | 農村環境


 久しぶりに遠山に入った。同僚たちとともに送別会というか年度末会というか、そんなこともなければ最近は普段の暮らしのルートからはずれることはない。そんなひと時を作れたのも、同僚たちのお陰と言うことになる。ちょうど一週間ほど前、内示のあった日に飲んだ席で「結局、旅行ができなかった」という話が出て、それなら近くでいいから一晩泊まってこようかという話になった。伊那谷を離れる同僚もいることから話の種として知らない土地を知っておく良い機会と思ってわたしが口火をきった。「遠山に行こうか」と。遠山を知らない人たちにはいつもこういう場面を提供するわたしは、どこかで遠山という土地に思い入れがあるのだろう。まだ矢筈トンネルが開通する前に、何度も遠山の土地は踏んだ。初めて行ったのはもちろん仕事。当時は赤石林道と言われる過激な道を行くか、天竜村の平岡まわりの道が選択の余地だった。当時の同僚と行く時は、いつも平岡まわりだったが、上司が一緒の時は逆にいつも赤石林道まわりだった。同僚とは「疲れるから」といって平岡まわりの道を選択したものである。延々と曲がりくねった道を登り、また延々と曲がりくねった道を下る行程は、確かに現場に着くと少しまいってしまっていたものである。それでも時間的には少しばかり赤石林道まわりが早かっただろうか。もちろん遠山も南北に長いため、どこに行くかでその天秤は大きく傾くのである。

 その後わたしは夜中の祭りを訪れるようになると、毎晩のように真っ暗な赤石林道を毎日のように走ったものである。そのうちにスリルあるその道に楽しみを覚えるようになり、矢筈トンネル開通後も何度も走ったものである。祭りばかりではなく、仕事でも何度も足を運んでいる。下伊那郡の中でももっとも足を運んだ地域と言えるかもしれない。だからこそその遠山の谷がすべて飯田市になったのは複雑な思いを持つわけである。

 同僚たちとともにめざしたのは「島畑」というかつての南信濃村の宿泊施設である。本当は「やまめ荘」と言ったが、合併によって指定管理者制度に変わって、「島畑」の主人が管理人になって名前をその名前に変えて営業を始めたのである。有名な山肉料理を扱う「星野屋」の主人と双子の弟さんが「島畑」の主である。妻の知人でもあることからここで営業を始める前の本当の「島畑」にもお世話になった。主人いわく、かつて6500人ほどいた村の人口は、合併時には2200人を切っていて、さらにその人口は減っているという。真っ先に口に出た言葉は、役場が無くなって職員が村を出て暮らすようになったという。通うのが大変だと言って飯田の方に出て行ってしまうわけだが、地域を支えるということを地域の人たちが自ら避けている事例のひとつと言えるだろう。

 人ごとではないが、たとえば200戸ほどの集落があっても、子どもたちの数は少ない。その理由は年寄りの家庭が多く、若い人たちがよそに住んでいるということにあるだろう。けして通勤ができないわけでもないのに、同居したくないということもあるのかマチ場に住んでしまう。しだいに生徒数が少なくなって、いよいよそうした小さな学校には通わせたくなくなるわけだ。「いろいろ考えればマチ場の方が良い」という意識を誰しも持つことになる。この発想が消えない限り、地方には子どもがいなくなるばかりだ。けして支えられないはずもないのに、自らの理由を前面に出して地域を否定してしまう。そういうわたしに同じことを問われれば、わたしは地域の中でも良いと思っている。それは今だからこそ言えることで、もっと若かったころに同じことが言えたかどうかは解らない。いずれにしても価値観として地域がけして不本意な場所ではないということをどう理解するかということになるだろうか。

 さて、帰路旧上村の下栗に寄って来た。ここも訪れたのは久しぶりである。かつて行った集落を見渡せるポイントに行こうとしたら道路の土砂崩落で通行止めになっていた。それほど行かないところから降りる道があると認識していたので、通行止めから進んで行って見たが、かつてあったポイントへの看板がない。うる覚えであったが、そのあたりに看板がないことから、なんらかの理由で進入を避けるようになったのだろうと予測した。かつてあった歩く道も消えかけていて、雨天と言うこともあって強行に進入することはしなかったが、帰宅してから検索してみると、どうも予測どおり事故があって進入禁止にした様子。集落内から眺めた遠山川の谷は、写真からも春のイメージを十分に感じ取れる。急な斜面がほとんど地肌を見せているこの季節は、雨が降ったら土砂がますます流れるような気がするがどうなんだろう。
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めんぱ

2009-03-20 16:30:54 | ひとから学ぶ
 日々の暮らしの中での必須の道具というものがある。毎日使うものならそれだけ力を入れたくなるものでもなかなか思うものがないということはある。そう思いながらずっと不都合なイメージを持ちながらずっと使っているのが弁当箱である。最近ホームセンターなどで売られている弁当は、ほぼ形式が似通っている。おかずとご飯のスペースを平屋にするか二階建てにするか程度の違いで、基本的にはそれほど違わない。もちろん昔風にその区分けのないものも売っているが、きっと買う人は少ないのかもしれない。

 単身赴任していたときも弁当を毎日作っていたから、本当に弁当とは関わりが深い。常に持ち歩いている道具の一つともいえる。腹ごしらえしなくてはならない大事な道具なのだが、食べて空っぽになってしうと邪魔で仕方のない道具でもある。そういう意味では最近の二階建て弁当は、食べ終わると片方に収納されるからコンパクトに収まる。しかしこのところ使ったいくつかの弁当箱に納得はしていない。どこか楽しみのない弁当箱なのである。せっかくの毎日の道具なのになんとかならないものか、などと思ってもそれを叶えてくれる弁当箱はお目にかからない。

 まだ20代だったころ、めんぱというものを使った。けっこうこれは楽しみのある道具であった。昔風の大型のものではなく、小ぶりのもので檜作りだっただろうか。しかし生木ということもあって黒ずんでくると、印象は良くなかったかもしれない。新しいうちは人に見られると珍しく思われるものの少し自慢の道具であったが、黒ずんでくるとちょっと恥ずかしい道具になる。それと生木ということもあって乾きが遅いという欠点があった。拭いても樹脂性のもののように水気が取れるわけではない。常に湿気があるまま翌日の弁当詰めという具合だった。

 このめんぱは今の妻からもらったものだ。「今の」というのは理由があって、当時はまだ結婚していなかった。なぜ妻から手に入れたか記憶に無いのだが、おそらく「めんぱ」の話をしていて「おじさんの作ったものがあるよ」という話を聞いて欲しくなったのだろう。そのめんぱをしばらく利用していたが、黒ずみはもちろん傷んできたため廃棄したが、そのころにはもうおじさんがめんぱを作っていなかったため、二代目めんぱとはならなかったのである。

 めんぱのことを紐解いていたら松村義也氏が『山裾筆記』に触れていた。この本はときどき開いて参考にしていたのに今まで気がつかなかったが、松村氏が訪ねためんぱ職人は、妻のおじさんであった。「めんぱのご飯はおいしいと言って、今でもたまに注文がある。昔は「五合めんぱ」と言って大ぶりだったが、今は一合五勺か二合がせいぜい。若い衆は、もっと小さくこしらえてと言う」と聞き取っている。「材は唐檜(トウヒ)を使う」という。だから檜だとわたしは思っていたが違うのである。「檜だとしばらく匂いがとれないが、唐檜は匂いがつかない」という。「めんぱのご飯は梅干だけでも食べれる。金物の弁当だと、汗をかいたりして、ご飯本当の味というものがわからない」とおじさんは言っている。このおじさんも数年前に亡くなった。松村氏が記事を書いたのは平成4年のことであるが、すでにこのころおじさんはめんぱを作っていなかったのではないだろうか。時おり曲げ物が並ぶ店でめんぱに目が止まるが、いまだにおじさんのめんぱ以外に使っていない。
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農業高校の学ぶものとは

2009-03-19 14:45:32 | 農村環境


 そこになぜ土地を求め、また暮らそうとするのか、いろいろな理由があるだろう。しかし、新興住宅地とか新たに造成された宅地の環境などを垣間見ながら、「この人たちは毎日どういうところに視線を送りながらくらしているのだろう」という思うことがたびたびある。住まう場所を選択できるという条件は誰にもあるといえばあるのだが、かつてなら家を継ぐ者はそうした条件には恵まれなかった。もちろん生家の場所を変えて新築するということもあるが、その地域内で選択するというのがごく普通であっただろう。つきあいのエリアを越えないというのが、それまでつきあってきた人たちへの、また自分への配慮なのだ。

 南箕輪村沢尻に上伊那農業高校が移転したのは、もう30年ほど前のことである。当時そのあたりには家はそれほどなかったことだろう。その後10年、20年と経つにしたがい家は増え、そうした住宅の合い間には信州大学の学生用なのかアパートなども林立した。学生が住処を置く空間は、どことなく雑然として活気があるようでどこかゴーストタウン的な風景も見える。事実伊那インター周辺から上伊那農業高校の周辺にあるアパートやマンションの風景は、季節的なものもあるのだろうが空き家ばかり目立つ。そうした空間をどう見ているのかと関心がわく。

 南箕輪村を歩いていて、何棟ものビニールハウスの中が雑草でいっぱいと言う風景を何箇所かで見た。取り壊して片付ければよいのだがそのままにされているも。何棟も並んでいるということはかなり大規模に野菜なり花なり生産していたのだろうが、生産者に何らかの事故が起きたのか、それとも先行きのない農業に見切ったままになったのか、そのまま放置されている。上伊那農業高校の裏手のあたりにも新規住宅がたくさん増えた。そんな環境の中に、何等もの雑草状態のハウスが並ぶ。こうし他環境が農業にとって適地なのかどうかという捉え方もあるが、いずれにしても生産者は農業を停止した。それからどれほど経っているかものか、まだ停止して間もないのだろうが、ビニールがちぎりれて風に舞う音は、周辺はもちろん、少し離れていても「何の音」と思うほど大きく聞こえることがある。先ごろ伊那インター近くの段丘について触れたが、その段丘は上伊那農業高校の裏手に続いている。裏手からいきなり急な棚田とつながる空間は日陰の空間といってもよいかもしれない。その空間の雑草の生えるビニールハウス、そしてその脇の側溝にはみごとにゴミが溜まっている。このゴミが高校生がもたらしたものなのかは定かではないが、ビール缶がたくさんたまり、水路を覆っている。明かに高校から見れば裏手であって、高校関係者も目の届かないような場所なのかもしれない。しかし、これほどの空間があることは、少し周辺を歩いてみればすぐに解ること。果たして高校側は認識しているものなのかどうなのか。それとも当然のごとく高校とは無縁な者たちの仕業と考えているものなのか。そしてそうした空間で農業を営むということはどういうことなのか、農業高校だからこそ、こうした実態を学んで欲しいものである。そしてまたそこに住む人たちの視線はどこにあるのかとというところまで、複雑に思いながらその場面を捉えたのである。
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長居をしての雑談

2009-03-18 20:01:23 | 自然から学ぶ
 伊那市内のある土地改良区の方を訪ねた。この方を訪ねるときは少し余裕なときと思っている。そう考えているから忙しかったこともあってこのところ訪ねることができなかった。気持ちに余裕がないと尋ねられないということはよくある。とくにゆっくり話を聞きたいと思うときや、話好きな方に会うときは、忙しくお暇するのは失礼だと思う。だから余裕があるときにと思っているうちに時が過ぎてしまうのである。今回も忙しかったものの時間を作っての訪問である。

 この方はハッチョウトンボの保護につとめられている方で、最近とくに多くなったお役所の地元発信型事業の事務的なことにも関わっている。ハッチョウトンボで知られるようになったその地域、実は地元の人たちにはこのトンボの存在は知られていなかったという。ところがその存在を知ってからは、この地域のあちこちにハッチョウトンボが発生している場所があることが解ったという。知らなかったわたしはこの方に「お幾つのころ初めて見たのですか」などという頓珍漢な質問をしてしまった。お幾つなどというものではなく、近年になってその存在を知ったというのである。保護を始めて5年ほどになるというからそのころからこの地域にハッチョウトンボがいることが解ったということなのだ。

 以前にこのトンボのことについて触れたが、飛ぶ高さが地上から30センチ程度までで、人の視界からは見難い。それを知らない人はトンボが飛んでいるといっても解らずに、「飛んでいなかったよ」という具合になるという。地上30センチともなると、かがんでも見えない世界である。このように最近になって存在を知ったというたけに、もともとハッチョウトンボがこの地域に生息していたのかどうかはきっきりしないという。ではなぜここでは飛んでいるのかということになるのだろうが、餌になるものがあるということもあるのだろうが、耕作不利地に湧水があって常に水が流動している環境があるということも理由ではないかという。ここではそれほど深くない洞がいく筋も河川から枝状に出ていて、山間地特有の地形である。だから耕作不利地は真っ先に転作田にされた。山間の場合は、転作するといえば耕作のしづらい場所、日当たりの悪い場所、用水の条件が悪い場所ということになる。最近はさらに獣がやって来るような場所もそういう所に加わっている。

 獣といえばここではイノシシの害が少ないという。山を越えた向こう側の集落ではイノシシの害が大きいというが、こちら側にはあまりやって来ないという。それがなぜかは解らないが問題になるのはニホンジカばかりという。そのニホンジカも、今冬はあまり姿が見えなかったし、害も少なかったという。この冬は雪が少なかったことにより、ニホンジカにとって苦手な雪の中で餌を探すという必要がなかったのだろうか。そして雪が少なければ山で餌が調達できたということになるだろう。

 獣とは関係ないが、伊那谷でも高速道路沿いではよそからやってきた人が、収穫物をねこそぎ盗んでいくということが多い。人通りの多いところでは獣の害がなくて良いかと思えば、人害に会う。ここではおまわりさんがやってくると驚くと言う。どこの家も鍵をかっていないからという。盗むような人はやってこないですかと聞くと、何年か前にそういうことはあったが、最近はないという。とても昔ながらの土地である。
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でんものこ

2009-03-17 21:19:54 | 民俗学


 宴会の席にふきのとうのてんぷらが出された。そういう季節である。今冬は暖かかったということもあるのだろうが、正月前からすでにその姿を見たものだ。我が家でもこのところ「ふきんと味噌」が食事の舞台に登場している。炊き立てのご飯なら、ほかにおかずがなくてもそれだけで食べてしまうこともある。もちろん妻は、ほかのものも食べるように促すが、野にあるものが好きなわたしである。これからしばらくはそうした野にあるものが食事の場を彩ってくれる。

 松村義也氏は『山裾筆記』(平成3年 信濃教育会出版部)のなかでこのふきのとうについて触れている。駒ヶ根市の光前寺のあたりではふきのとうのことを「でんものこ」と呼ぶらしい。「でんものこでんものこ見つかれよ。わたしだけに見つかれよ」と子どもたちが口ずさみながらふきのとうを探したものだという。この「でんものこ」を利用した言葉として次のような表現を解説している。「蕗のとうはあたこちに芽を出す。そこで、どこへでも顔出す人を、あの人はでんものこのようだといった」と。

 山菜については民俗誌の中でもあまり触れられていない分野である。『長野県史民俗編』膨大な資料編の中でも、実は食生活の中であまり登場してこないのが山菜である。項目として山菜を直接取り上げているものが無いから当然のように取り上げられないということになるのだろうが、長野県のように平地の少ない土地では、耕作空間ではないところに生えてくるものをずいぶん重宝してきたはずである。ハレの食事に登場し難い食材ということもあるのだろうが、だからこそ取り上げられなかった部分である。もちろん季節ものであるから日常食卓に並ぶものではない。食卓への登場の仕方を見る限り、ハレのものに近いのであるが、なぜか登場させる場面が民俗の視点に不足していたということになるかもしれない。

 『上伊那郡誌民俗編』を開くと、季節ものの山菜や虫について少し触れられていが「その香りと共に早春のよろこびを伝えてくれる。ふき味噌、多くあれば三杯酢、いずれもいい」と簡単なものである。むしろ煮物として利用される蕗のことについて多く触れられている。利用方法が限られているし、ハレの場には利用されないから、記述してもこの程度ということなのだろう。「でんものこ」という呼び方は知らなかったが、きっと呼び方も含め山菜を採るという行為の中では、民俗があったのではないかと松村氏の記事から教えられる。加えて捜し歩く際に歌ううたがあったということも興味深い。
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