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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「被差別部落の民俗」より・前編

2011-07-15 12:48:10 | 民俗学

『信濃』6月号は例年通り地方史学会の動向を掲載している。長野県民俗学関係の動向については、平成22年度版としてホームページにアップさせてもらった。担当の細井雄次郎氏は刊行物についての紹介のなかで、宮本袈裟雄氏の『被差別の民俗』から「氏は被差別の調査研究においては、調査者は自らの調査を被差別の人々の解放に役立つものとしなくてはならないし、少なくともそうした意識を明確にしなければならないとし、なぜならそれは常にその成果が差別の再生産に利用される危険性をはらんでいるためである」という部分を引用している。そして「近年、民俗学がどのように社会に貢献できるのかについて議論されているが、その際に研究成果を利用される研究者は、自分の研究が社会に及ぼす影響についてどのような責任を負うのか、そのことについての議論はどれくらいされているのだろうか。そのようなことを考えさせられるものである」と、宮本氏の被差別の調査からの課題を現在の民俗学への課題にトレースしている。

 被差別に関することはここでも何度か触れてきている。直接被差別の民俗調査にかかわったことはないが、そもそもそうした地域の調査そのものに抵抗があるせいか、あまり機会がないのも事実だ。いわゆる被差別でなくとも、わたしたちが行なう調査は、個人の聞き取りによって成り立つため、あらためて「誰がどう言った」ということをくり返して他の人に聞いて確かめるということはしない。もちろん同様のことを聞くことはあっても、確信を持つために繰り返し意図的に聞くことに、わたしはあまり重点を置いていない。そもそも確信できるような内容をつかんだとしても、それを生のまま報告していけるとは限らない。個人の暮らしであるからこそ、地域としては曖昧に覆うこともできる。だからこそ「いい加減なもの」と捉えられがちだが、民俗とはそういう伸縮性のあるものだと思う。だからこそ、興味本位では向かえないから、被差別の調査は難しいということになるだろう。「まえがき」において宮本氏は「「飛び込み」の調査をしたことはなく、常に被差別の関係者が同席し支援を受けてきたものであり、話者との信頼関係の構築の難しさを実感するものであった」と述べている。いわゆる共感を抱きながら問題意識を見出していくとすれば、話者との距離ができてしまうとその距離感ばかりが印象に残ってしまうような気がする。これも何度も触れてきたことであるが、被差別とは無関係だが御館被官制度のあった地域では、その具体的なことに触れるとどうしても話者との距離感のようなものを感じたものである。すると民俗事象よりも地域社会でのそれぞれの関係に重視することになる。被差別でも同じような傾向に陥るのだろうと、無経験ながらその模様を予測する。

続く


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