Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

あのころの景色⑥

2024-04-07 23:23:24 | つぶやき

あのころの景色⑤より

 飯山市桑名川の千曲川に「七ヶ巻の渡し」というものがあった。いわゆる渡し舟である。残念ながら、飯山時代に待望のカメラを取得したのに、あまり写真は撮影していない。今から思えば、フイルムカメラであるから、むやみに撮影すれば、当然フイルム代もかかるし、現像代、焼付代と要した。お金に余裕がなかったから、シャッターを切るのは限られていた。この渡し舟についても、撮影したという記憶はない。渡し舟が岸に繋がれている写真は撮ったかもしれないが、ちょっと探すのには時間がかかる。

 七ケ巻にはかつてスキー場があった。その印象がないのは、そもそも当時流行っていたスキーもしなかったから、興味がなかった。スキー場は昭和42年12月に開業し、同57年に閉鎖となっている。15年ほどの営業で終わっているのだが、昭和54年から昭和58年まで飯山に暮らしたわたしは、営業期間にここを通過しているはず。七ケ巻は、千曲川右岸にある集落。対岸が桑名川で、両者を結ぶために渡し舟があった。もちろん渡し舟を利用しなくとも、七ケ巻に入る道はあったが、いずれにしても七ケ巻は野澤温泉村。桑名川は飯山市。ようは自治体が異なる。それは今も同じだが、現在は国道117号線のバイパスが右岸に開けたため、七ケ巻の方が騒々しい。いっぽう旧道側である桑名川を通過する車は集落関係者くらいしかいなくなった。当時とは大きな違いである。

 

 

 そして渡し舟。渡し舟も廃止になったのは昭和58年だから、わたしが暮らした時期は渡し舟末期だった。ようは渡し舟が往来している姿を何度も見ている。が、写真には納めていない。栄村へ行った際に、旧道を走り、かつてのわたし船のあった場所の下流側から写真を撮ってみた。以前は渡し舟があったという看板が目立つようにあったように記憶するが、今は渡し舟のあったことを示唆する表示はないように見えた(よく見ればどこかにあったのかもしれないが)。ただ、七ケ巻側には現在も当時のケーブルを渡した鉄塔が残っていて、小屋のようなものも残っている。わずかながらのかつての名残りである。なお、昭和57年に永井修二さんが撮影された写真が「七ケ巻の渡し」にあるとともに、おそらく廃止直前のものと思われる写真が「長野県最後の渡し舟 千曲川七ヶ巻の渡し」にあった。

続く


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