中原中也「ノート1924」

2024年05月10日 11時34分59秒 | 社会・文化・政治・経済

「ノート1924」に、時期的に先行すると思われる、もう一冊の詩記帖があったことが、河上徹太郎の文章から確認されている。それは、河上が昭和13年に書いた『中原中也の手紙』(『文学界』10月号)で、そこには二篇のダダ詩が引用されている。なお、引用に使われた手帖は戦災で焼失した。

 

『タバコとマントの恋』

タバコとマントが恋をした

その筈だ

タバコとマントは同類で

タバコが男でマントが女だ

或時二人が身投心中したが

マントは重いが風を含み

 タバコは細いが軽かつたので

 崖の上から海面に

 到着するまでの時間が同じだつた

 神様がそれをみて

 全く相対界のノーマル事件だといつて

 天国でビラマイタ

 二人がそれをみて

 お互いの幸福であつたことを知つたとき

 恋は永久に破れてしまつた。

 

『ダダ音楽の歌詞』

ウハキはハミガキ

ウハバミはウロコ

太陽が落ちて

太陽の世界が始まつた

 

テツポーは戸袋

ヒヨータンはキンチヤク

太陽が上つて

夜の世界が始つた

オハグロは妖怪

下痢はトブクロ

レイメイと日暮が直径を描いて

ダダの世界が始つた

(それを釈迦が眺めて

 それをキリストが感心する)

この二編が引用された作品だが、この様なダダ的詩作品は「秋の暮」頃に高橋の詩と出会った以降に書かれたものと推測されるし、また前者で扱われている「恋」が、中原の私生活を暗示したものだとすれば、永井叔の証言と照らし合せ、これが1923年の12月以降に書かれた、とその上限を設定することが出来る。(註・永井叔はキリスト教系の詩人で『大空詩人』などの著書があり、それによると中原に長谷川泰子を紹介したのは永井自身であり、彼が中原と知り合ったのは1923年の12月である)しかしいずれにしても、この二つの作品と「ノート1924」の作品群との間に、大きな時間的ズレはあるまい。

二つの作品の中で取り上げられている主題は恋、時間、それに神である。用語その他に高橋の模倣を感じ取ることも可能であろう。中原の作品、特に初期作品の中に性的な表象が多く見られるところから「性象」というような概念を持ち出して、中也詩のすべてを極めて狭義に解釈しようとする試みが一部の人達によって行われているが、その論旨は余りに強引で、肯首するのに十分な説得力を持たない。

16歳の多感な少年にとって「性」の問題が大きな関心事となり、現実生活の中で性を実体験すればなおさらのこと、書かれたものの中に性的な描写が反映されていても、格別不思議なことではない。年頃で、早く一人前の大人になろうと背伸びしていた中原が、特定の異性に、そして性そのものに強く惹かれていたことは、むしろ人間として自然なあり方であり、殊更に性的な表象の部分のみを拡大視して全体像にまで敷衍言及することは、危険な方法論と言わねばならない。また、中原だけがダダ詩の中に「性」を取り入れたのではないことは、手本となった高橋の諸作品に明らかであり、中原の場合むしろ高橋の模倣から出発した事情を如実に示すものであると解釈した方が良い。「性」は人間にとって普遍的なテーマであり、余程の変わり者でない限り、誰しもが興味を持つものだ。念のため、高橋の作品をもう一つ引用してみる。

『陰萎』

スイトンの鍋の中へ入れておくれ

 私は自分さへ好けりや好い男なんだから

 貝杓子でスクウておくれ

 私は自分さへワケスの解らない男なんだから

 今まで醤油色の恋ばかりしてきた

 自分が私なんだろうか

 舌を出して御覧なさい

 糖分が欲しいでせう

汁粉を啜ると云ふ事は愛すると云ふ事だろうか

あなたは今食欲なんです

自分が箸ではさめるものは何でも私なんだろうか

何でもあなたのものです

私が情欲を匂はすとき情欲が自分なんだろうか

あなたの舌をあたゝめたく思つてゐます

自分が鼻ではないんだろうか

おなかをくすぐりはしません

私が老人になつたら西洋手拭いで独りで湿布をするだろうか

死ツ来い

この詩は『自慰』『遺精』と共に『「性」ダダ詩三つ』と題され『ダダイスト新吉の詩』の中に収められているもので、この他にも、いわゆる性的な表現は多くの作品の中に見られる。「性」は動物としての人間に深く根ざした大切な問題点であるが、作品中に散見する性的表現の言葉尻だけをとらえ、誇張し、中原を異様な変質的な人間のように扱う「評論」は拒否され、否定されなければならない。

ダダ的手法を用いた表現の中で中原は、つかの間の自由を満喫しているが、常に彼の脳裏をよぎるものは「神」であり「時間」であって、楽しいはずの「恋」も素直に喜ぼうとはしていない。恩寵によって形作られた完璧な理想体の内側から勢いよく飛び出したはずの彼であったが、気負いとは裏腹に神は遠くに去った分だけ、巨大さを増した存在となった。事実にせよ、また虚構であるにせよ「同類」と認めた相手との「恋」の結末を悲劇に終わらせている中原は、来るべき不幸を予感していたのだろうか。天国でビラを撒く神様は、確かにおどけているが、その表情は硬く虚無的でさえある。

河上が上手く引用した、この二つの詩篇に後の中原の詩型が暗示されている。それは物語詩であり、行分け定型詩である。中原は、あらゆる規約を否定するダダの渦中にありながら4,4,4,2という行分けを採用している。これは象徴的である。

これら二つの作品は、それぞれダダ的な言い回しが使われているにもかかわらず、ある一つの流れを内包した構成になっている。このことは彼が同時期に平行して私小説風の散文を書いていたことにつながるものと見て差し支えないだろう。ダダ詩の中で中原は意識的に混乱した世界を醸造しようと試みているのだが、ふたつの作品は各々、方向性をもったストーリィが軸になっている。二つの作品は明確な原因と、そこから生じる結果という形式で関連をもち、中原の表現が『神曲』の示した図式的な理想郷から脱却し切れていない側面を表示している。また一見散漫で放埓に見える表現の裏には、やはり秩序への志向がうかがえるのである。

カタカナの多用、語呂合わせ、絶対矛盾の提示による時間的錯綜などを使って中原は、自己内部の意識変革を試みているわけだが、この時点において彼自身ダダの理論的な裏づけは持ち合わせていなかった。両詩篇を見た場合、漢詩風の転回(起承転結)を思わせる部分もあり、特に末尾の2~3行は、ともに「結」そのものである。詩をどのような形で展開するかということは、ルフランとともに中原にとって最も重要な問題点であったと言えるが、物語のオチを着けるように、ここでも最終部分に重心がかかっている。

『歌詞』のほうで中原が使っている「4,4,4,2」のソネット形式は、高橋の『ダダイスト新吉の詩』には勿論、一篇も採用されていない。したがって中原は、この定型を別のところから仕入れたものと思われる。

定型詩というフォームを崩さず、意識的な混乱、錯綜の空間を創造し、現実を支配する時計の時間を全面的に拒否することによって詩人の内的空間は凝縮し、内的時間は無限に近づく。そして彼は釈迦やキリストと対等な位置へ一気に上りつめるのである。「神」を見る立場の者としての自己を顕示した作品は、この他にも書かれているが、中原の見ている神は、また、遠くの彼方から彼を黙って見詰めているのであり、そのことを彼は承知している。

形式と破格、神と自我、そして恋と悲劇、これらによって中原の原型は成立した。ダダイスト中原は、神の整然とした秩序の世界から逃れ、表現の自由を手中にした(少なくとも当時、彼にはその様に思われていた)が、彼の心情には尚、吹っ切れずに沈殿しているものがあり、その内的圧力は徐々に強まりつつあった。それは思考上、表現上の問題ではなく、私生活に密着した極めて私的な「対人圏」の問題であった。ノートの作品群に移る前に、初期散文について、少し触れておきたい。

初期散文と京都

前出の永井と知り合い、泰子を紹介され表現座の稽古場となっていた半井安次郎宅などに顔を出していた1923年の暮れ頃、中原は当時京都大学国文科の学生であった冨倉徳次郎と知り合う。冨倉は、その頃講師として立命館中学に来ており、中原は「答案の代わりに詩を書いて出し」それが二人の知り合う機会になったと伝えられている。

中也が残した散文の中で、最も早く書かれた(1923~24年)と推測されているものは『その頃の生活』と『分からないもの』の二つである。制作年次および戦後先後関係についての判断は、角川書店5巻本全集の解説者たちも示していないし、同全集第3巻の解説者大岡昇平は解説文の中で「中原の小説は冨倉氏に会ってから書き始められているので」としているが、その根拠となるものは何もない。

この二つの小説の内容を、極大雑把に言ってしまえば「恋」と「家族」である。無論、例の「落第」事件の場面も登場しているのだが、ここでは事件そのものよりも、事件によって変化した微妙な家族と「私」の心情的な在り方、お互いの関係に力点が置かれている。ダダイスト中原にとって己の「センチメンタリスム」は、何としても克服しなければならない問題であったし、それは主に血縁、家族という存在が大きな作用をしていたと言える。「感傷」を頭から否定してかかろうとする物語の主人公には「野心」があった。早く出世したいという欲望があった。「一切が私のために存在するのだ」と考えている主人公の情緒は「3,4年前」の追憶に涙しそうになっている。

これらの小説が提示している家庭生活が、中原の実生活をどれほど忠実に反映したものであるのか、それは分からない。書かれてある内容は、すべて虚構かも知れない。「恩賜」云々の件は、これに相当する事実の裏づけが家族の証言から成されているが、小説に現れている人物の対抗意識は中々のものである。中原の言う「恩賜」は、謂わば出世と名誉の象徴であり、当時の一般常識で律すれば勿論最高の価値を有するものだろう。これについて中原は、他の所(『耕二のこと』『(それは彼にとって…)』いずれも散文)でも触れているが、その心情は現実と欲望の中で複雑に曲折し、反発の態度となって表れている。秀才への対抗心は「出世したい」という野心を更にかきたてる。

京都の古本屋で見つけた「ダダ」の思想と、言葉そのものにとらわれない破格の表現方法は多くの試作品群を生んだが、中原の内部で否応なく肥大化し続けている「センチメンタル」な部分を変革し、また、生活の場の中へ持ち込むことは、山口にいる限り、故郷を意識する限り出来なかったのだが、彼は、それでも休暇毎の帰省を続けている。山口時代に培われた中原の情緒的志向は、彼の最も深い部分に神――悪魔心の反証して――と共に定着しており、一朝一夕に根底から変革できる性質のものではなかったと言える。

中原自身が例え自らの過去を否定的に整理し、或いは観念的に意識的に自らの情緒的な部分を圧殺しようという目的をもって、これらの散文を書いたとしても、彼の言う「その頃の生活」はなお、鮮明さを増し、感傷が止むことは無かったはずであり、1924年の11月に至って未だ、家族の問題をくどくどと書かねばならなかった事を見ても、それは明らかである。過ぎ去ったよき日々は、時と共に記憶の彼方に消失したのではなく、意思の力によって、より深い部分へ押しやられた形となっていたに過ぎなかった。(註・先の二篇を1923年末の作とすれば、自伝風の散文は約1年の空白の後、1924年11月21日付けで『耕二のこと』が書かれていることになる。双方とも、時期的には冬の帰省時頃に書き始められたと考えてよい訳だ)京都での学生生活を続けている中原自身の内部に、自己の行為――過去から現在、そして未来まで――を正当化しようとする動きのあったことは、これらの散文によって明らかであるし、親たちの期待に背き、故郷に背を向けてしまったことに対する、一抹の寂寥感も文章の間から感じ取ることができる。

(補註)昭和49年6月20日付で新潮社から刊行された『ダンテその華麗なる生涯』(野上素一著)が『神曲』その他について詳しく述べているが、野上氏は、その314ページで、次のように解説している。

 以上眺めたところにより、ダンテの作品とくに明治時代の末から大正時代の初  にかけて、我が国の知識人の愛読書となったが、この傾向はその後も続いた。

 

 これまでの文中において、中原と『神曲』との出会い及び相関関係を京都時代に限ってみてきたが、キリスト教的な雰囲気を中原家との関連においても、山口時代を含めて再検討すべきかも知れない。また、西光寺行きの後に現れる見神歌についても、別の角度から光を当ててみる必要があるかもしれない。

なお、野上氏の著作からすれば、中原を「宗教詩人」というような言葉で形容している河上徹太郎や、自らの作品に『神曲』の一部を引用している大岡昇平の評論の中に、中原とダンテ『神曲』との対比あるいは言及があってしかるべきだと思うのだが、今のところ、そのような評は出されていない。(大岡昇平は小説『花影』の冒頭に『神曲』浄火篇第5曲を引用しているのだが)

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