取手通信・ツール・ド茨城の実現へ 利根輪太郎

医学情報社編集顧問
フリージャーナリスト

不思議な均衡

2017年12月15日 08時13分38秒 | 創作欄
ドイツに行くと徹が言うと水島義房が、「羨ましいな。ぜひ、リューベックのトーマス・マンの生家を訪れてほしい」という。
水島は徹の数少ない親友の一人であった。
彼は卒論にトーマス・マンを選んだ。
そして、卒業後も文学研究と創作活動もしていた。
徹と水島は同じ女性を巡って一層、緊密となった。
大島淑子は水島義房を愛した。
だが、妻子が居たのだ。
「なぜ、徹ちゃん、水島さんが結婚していたこと私に言わなかったの」と責められたが、徹は淑子の本気度を理解していなかったのだ。
一方、水島は当時、東京駅の地下街の居酒屋の娘に恋をしていたので、淑子の思いを知りながら意思表示をしていなかった。
「一方的な、私の恋だったのね。また失恋したわ」淑子の心情に徹は同化した。
「徹ちゃん、私の傍にいてね」彼女の甘えるような声に徹の心は揺らぐ。
半年の一時期だったが、同棲しても二人は深い関係ではなかった。
あくまで男女の友情を貫くと誓いあったのだ。
「君たちは、不思議な均衡だな」とフランス文学を研究する野田勝吉が言っていた。
ドイツから徹が戻ると、淑子は行方知れずになっていた。
「徹ちゃんとは結局、腐れ縁なのね」と淑子は成田まで見送りに来た時に言っていた。
「どこか、知らないところへ行きたい」とも言っていたが、徹との縁を断ち切ったのだろう。
「水島さんが欲しいもの、私は持っているの」あれはどのような意味であったのか?
その後、二人は共に30代で逝っていまった。

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パウル・トーマス・マン(Paul Thomas Mann、1875年6月6日 - 1955年8月12日)はドイツの小説家。
リューベックの富裕な商家に生まれる。
当初は実科を学んだが処女小説『転落』が認められて文筆を志し、1901年に自身の一族の歴史をモデルとした長編『ブッデンブローク家の人々』で名声を得る。その後市民生活と芸術との相克をテーマにした『トーニオ・クレーガー』『ヴェニスに死す』などの芸術家小説や教養小説の傑作『魔の山』を発表し、1929年にノーベル文学賞を受賞した。

1933年にナチスが政権を握ると亡命し、スイスやアメリカ合衆国で生活しながら、聖書の一節を膨大な長編小説に仕立てた『ヨセフとその兄弟』、ゲーテに範を求めた『ワイマルのロッテ』『ファウストゥス博士』などを発表。終戦後もドイツに戻ることなく国外で過ごしたが、『ドイツとドイツ人』などの一連のエッセイや講演でドイツの文化に対する自問を続けた。

兄ハインリヒ・マン、長男クラウス・マンも著名な作家である。
マンから影響を受けている作家には三島由紀夫、吉行淳之介、北杜夫、大江健三郎、辻邦生らがいる。三島は『国文学 昭和45年5月臨時増刊号』で、三好行雄との対談においてマンからの影響を語っており、マンによって初めて西欧的な二元論にぶつかったと述べた。またドナルド・キーンによれば、三島は自身の代表作『金閣寺』の文体を「鴎外 プラス トーマス・マン」だと述べており、キーンは『暁の寺』にも『魔の山』からの文体的影響を指摘している(『悼友紀行』、中央公論社)。


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白川敬子(キョンジャ)と白鳥由美子

2017年12月12日 16時15分34秒 | 創作欄
徹はいじめっ子の一人であった。
相手は、額に4㎝ほどの古い切り傷があった小柄で痩せている女の子であった。
裕福な子どもたちが比較的多く通っていた小学校であり、いかにもその少女は浮いていた。
運動靴ではなく裸足でゴム草履を履いていた。
名前は白川敬子(キョンジャ)
上目でやぶにらみの印象で、常にいじけて見えた。
その少女は、沼部駅に近い通称<朝鮮部落>に住んでいた。
徹は敬子と机を並べて座っていた。
「徹君、猫好き」と下校時に問われた。
小学校へ入学して2年間、女の子に声をかけられたのは初めてであった。
多くの女の子から、徹の粗暴さが嫌われていたのである。
「猫?」徹は怪訝な顔で聞く。
「猫、3匹生まれたよ。見においでよ」
敬子はこの時も上目でやぶにらみであった。
好奇心が強い徹はみんなが敬遠していた<朝鮮部落>に入って見たくなった。
「明日の日曜なら、行くよ」
「何時?」
「10時だね」
「待っているね」敬子は、貿易商の娘の白鳥由美子と仲良しで後を追いかけていく。
徹にとって、由美子への思いが初恋ならそれにあたるのだろう。
だが、由美子と親しくなりたくとも、徹は女の子たちの嫌われ者であったのだ。
心の優し由美子はいじめられている敬子を何時もかばっていた。
「徹君、これ読んでいい子になって」由美子に渡されたのはアンデルセンの童話であった。
徹の恋が芽生えたのはその時であった想われる。
赤い靴を履いていたポニーテールの赤いリボンの女の子であった。
3年生になる3月、由美子は父親の仕事の関係でフランスへ移住して行く。
敬子とともに徹も気落ちした。
形見のようにアンデルセンの童話は徹の部屋に残った。
徹の心にしこりに残ったのは、敬子の誘いを反故にしたことであった。
「徹、朝鮮部落なんかに、近寄るんじゃないよ」母親に止められたのだ。
徹は3年生になってから「いい子」になろうといじめっ子を止めた。
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みんな同じね 持ち時間

2017年12月12日 11時38分49秒 | 創作欄
みんな同じね 持ち時間
あなたは何時も 遅れて来るのね一時間
待つことに 私は慣れて本を読む
音楽喫茶のファンタジー
生演奏のピアノの曲

みんな同じね 持ち時間
鍵をあずけて 寄り道をする一時間
待つことに 私は慣れて毛糸編む
川のある街ファンタジー
琴が奏でる春の海

みんな同じね 持ち時間
から松の道 あなたと歩む一時間
待つことは 待たせるつらさと同じこと
湖畔の宿のファンタジー
ミサで奏でる神の曲
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日常の中に真の幸せが存在する

2017年12月06日 20時24分26秒 | 創作欄
<人生を最も豊かにする>のは、人間関係である。
身近な人との良い人間関係にある人、いざという時に頼れる人がいるいるほど、人生の満足度が高かった。
日常の中に真の幸せが存在する。
徹は2度、友人にお世話になった。
救急車を呼びたいほど、体の異変を感じた時、2度も友人に電話をかけて、夜間なのに病院へ連れて行ってもらった経験がある。
1度目は林さんに、とりで医療総合センターへ。
2度目は春川さんに、取手東病院へ。
息子には、午前2時に体の異変を感じて、取手医師会病院へ。
その時は、父が遺した高血圧剤を試しに飲んで、脱水状態となり胸が絞めつけられるような苦痛と呼吸困難になったのだ。
家族や友人たちに恵まれ幸せだと再認識した。
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人生には岐路がある

2017年12月06日 19時16分54秒 | 創作欄
団地には多くの子どもたちが躍動する姿があった。
いわゆる団塊の世代の子どもたちと、それに続く両親を持つ子どもたちであった。
徹より若い人たちは日本を担う世代であり、勤勉で生き生きとしていた。
徹は妻の幸恵と母の宣子の諍いに手を余していた。
「母親の気持ちはどうであれ、まず、家を出るべきだな」大学の同期生の岡田雅史はキッパリとした口調であった。
一度も親元を離れたことがない徹は親離れがしていなかった。
新婚の息子夫婦に干渉する母親も子離れができなかったのであろう。
結局、岡田に促がされて、徹は神奈川県の相模原市内の実家を出る気持ちを固めて、千葉県船橋の雇用促進住宅を見に行く。
築15年で家賃は2DKで5500円と格安であった。
団地住まいを外から見学したのだった。
帰宅して妻に報告した。
「競馬好きのあなたは、舟橋へ住みたいのね」と妻が苦笑する。
「来週の日曜日は、茨城県の取手にある雇用促進住宅を見に行く予定だ」と徹は告げた。
「あなたに、任せるけど、住むならきれいな部屋の方がいいわね」と幸恵は言う。
岡田に聞くと、茨城県の雇用促進住宅は築まだ2年であった。
家賃は当時、9800円。
そこで、見学には行かずに取手への移住を決めた。
人生には岐路がある。
選択することで、その後の命運も決まる場合があるのである。
思えば、神奈川県の百合ヶ丘の借家から相模原市内に移転しなければ、妻の幸恵との結婚もなかっただろう。
徹と幸恵は同じ町内に住んでいたのだ。
人生に、もしもはないのであるが・・・。
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生きて病院出るからね

2017年12月04日 11時43分03秒 | 創作欄
医療の進歩が期待されるが、最も進行度が高い「ステージ4」のがん。
完治に至る道はまだ遠い感じがする。
特に若い人の場合である。
死に至る病との印象は否定できない。
「こんなに早く転移するとは・・・」医師が絶句したほどであった。
母の大腸がんの進行のことが思いだされた。
母はベットから何度も手を突いたり、肱を突いたりして何とか起き上がろうとした、それが叶わなかった。
徹は、母の手を引いて起こしてやった。
だが、体は支えがなく倒れかかる。
姉の真紀子が慌て、母の両肩を支えた。
当時のベットはリクライニング式ではなかったのだ。
張りのあった母の声もささやくように弱く、擦れていた。
腹筋も働かなくなっていたのだ。
「こんなになったんだよ」人工肛門を示したのは1か月前であった。
徹は顔をそむけたくなった。
「お前、酒、あんまり飲んじゃだめだよ。肝臓がんの人、昨夜亡くなったよ」母は6人部屋の向かいの空きベットに視線を送った。
亡くなったのは町田のバーを経営していた40代の女性であった。
酒ばかりではなく、肝炎ウイルスが災いしたそうであった。
「私は、生きて病院出るからね」と母は決意を示した。
毎年、検診を受けていた母が、「腹が痛い。どうしたんだろうね」と言っていた。
祖母は胃がんで46歳で亡くなっている。
母もがんを頭の片隅に置いていて、検診を欠かさなかったのに、皮肉な結果となった。
徹は母のがんを頭のどこかにしまい込んでいて36年間もの間、検診を受けてこなかったのだ。
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スーパームーン

2017年12月04日 05時26分41秒 | 創作欄
一周り大きな月や寒の空

スーパームーンは、何か不思議な輝きを放って見えた。
街灯のない路地に、人影がくっきりと浮かんだ。

今年最大の夜の満月。
12月3~4日の日の出前。
今年最も大きく見えるとされている満月が11月3日夜に、師走の夜空にひと際大きく輝きを放っていた。
国立天文台によると、見かけ上で今年最小だった6月9日の満月と比べて1割以上大きく、約3割明るかったというのだ。




12月4日午前5時




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恩田が闘争に挫折

2017年12月02日 17時00分01秒 | 創作欄
大学院にいた恩田友彦が大学紛争に加わった。
徹は大学中に大学学生自治会に反発しており、「校歌練習」をボイコットしたことがある。
強制的に近い校歌練習であるが、強引に校門を出る。
「お前、何科だ」と自治会の役員に囲まれる。
「バイトがあるんだよ」と徹は彼らを押し除ける。
「鍛え直してやる。部室へ来い」と胸倉をつかまれた。
彼らの部室に連れ込まれてシゴキを受けた学生が居たことも話に聞いていたので、徹は手の拳で相手の腕に一撃を加えた。
「痛てい!このやろう。石を握っているのか」鬼の形相となるが、逃げ足の速い徹は猛ダッシュで駅を目指す。
数人が100㍍ほど徹を追ってきたが振り切る。
「大学自治会は大学の犬か」と恩田に同意を求めた。
「まあ、大学の秩序もあるからね。学生自治会も一概に無視できない」恩田は冷静である。
「自治会などはなくすべきだ」と徹は自説を曲げない。
そのようなこともあって、社会人になった徹は、学生の闘争に共感していた。
だが、後輩たちに会って先輩として激励するだけの立場に過ぎなかった。
理知的な恩田までが、大学側に批判的になっていた。
「理事者側は責任を取って、みな退陣すべきだね」
「そうだね」と徹は恩田の心情に応じた。
結局、恩田は闘争に挫折を味わった。
そして大学院も止めてしまった。
大学の教官を目指していた恩田は、2年後に女子高校の国語教師になっていた。
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日大紛争は、1968年(昭和43年)から1969年(昭和44年)にかけて続いた日本大学における大学紛争である。
ただし「紛争」との呼称は批判的ニュアンスのものであり、学生運動の立場からは日大闘争と呼ぶ。
紛争は、理工学部教授が裏口入学斡旋で受領した謝礼を脱税していたことに加え、国税局の調査で日大当局の莫大な使途不明金が明るみに出たことで、学生の怒りが爆発したことに端を発する。
学生らの抗議運動は、経済学部生の秋田明大を議長とする日本大学全学共闘会議(日大全共闘)を中心に、一般学生や教職員組合、父兄会をも巻き込み、全学的な広がりをみせた。
同年9月には学生側が大衆団交を通して、古田重二良会頭を筆頭とする当局に経理の全面公開や全理事の退陣を約束させた。
しかし、まもなく当局はこれを反故にして、全共闘が封鎖している校舎の解放を警察に要請。
学内に警視庁機動隊が投入される。
1968年9月4日未明、経済学部本館のバリケード封鎖解除に出動していた機動隊員1人が、学生が校舎4階から落とした約16kgのコンクリート片を頭部に受けて殉職した。
これを受けて警視庁公安部村上健警視正は記者会見で「警視庁はこれまで学生側にも言い分があると思っていたが、もうこれからは手加減しない」と憤りをあらわにした。
村上の言葉通り、当初警察は日大当局の腐敗に対して立ち上がった学生らを『学生さん』と呼んで同情しており、大学進学率が10%台であった当時においてエリートである学生らを慮って『奴らの将来を考えてやれ』と力説する幹部もいたほどであったが、この事件で学生に対する怒りは警察全体に広まり、警察の新左翼学生らに対する姿勢は一転した。
それまで警察は学生の検挙よりも解散を重視していたが、徹底的な取締を行うようになった。
一方、日大全共闘も急進化により一般学生の広範な支持を失い、1969年(昭和44年)春には紛争は収束した。
日大全共闘はその後も少数の学生で活動を続けたが、1970年代初頭には自然消滅した。
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射撃場

2017年12月02日 10時51分36秒 | 創作欄
大学院にいた恩田友彦が突然のように、「村上から射撃を教わろう」と言う。
中学生のころ福島の田舎で、空気銃を兄とともに使った経験が恩田にはあったのだ。
徹はパチンコでスズメを狙った小学生時代を思いだした。
そこで後輩の三浦昭吾も誘って五反田へ向かう。
射撃場は新宿にもあったが、なぜ五反田であったのかよくわからない。
駅から徒歩3分くらいのビルの3階にその射撃場がある。
受付には美しい黒髪の女性が居たのだ。
自衛隊で射撃訓練を受けてきた村上に銃の構え方、引き金の引き方、標準の合せ方の手ほどきを3人が受ける。
的までの距離は25㍍。
呼吸を整え、息を止めてタイミングを計る。
誘った恩田が一番下手だった。
「生活の乱れが出たな」と恩田は浮かぬ顔をした。
目黒の大きな屋敷に下宿していた恩田は、嫁に行き娘を連れて戻ってきた34歳の大家さんの娘と深い関係になっていたのだ。
下宿の女主人は夫を戦争で亡くして一人娘を育てた苦労人であった。
徹を親友と信じていた恩田は、10歳年上の人との愛慾を明かしていた。
4人で駅前の立ち飲み屋へ寄る。日本酒は50円だった。
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<参考>
昭和42年の物価
【物 価】
公衆浴場 32円   都バス 30円   地下鉄最低 30円
新入社員向け背広既製服 1万7000円前後  コーヒー 70~80円
地方公務員平均月収(在職25~30年) 6万7086円  大工日当 2700円
ガソリン 1リッター 50円   民宿(1泊2食付) 880円  かけそば 60円
【物 価】(昭和43)
国鉄普通運賃 上野 → 青森 2060円  東京 →大 阪 1730円
朝日新聞 朝夕刊セット 月決め 660円   米(10kg) 1520円
総理大臣月給 55万3300円   封切映画館入場券 450円
大学卒 初任給 3万200円  ビール 127円  かけそば 70円

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人間を書くのだ

2017年12月02日 09時47分25秒 | 創作欄
面白く書かなくてはいけない。
そして真実ではてはいけない。

人間を書くのだ、真実の人間が書ければ<面白さ>は附いてくる。
作家・山本周五郎

24歳の徹は、まだ、学生気分が抜け切れず、営業の仕事の途中で大学に立ち寄り、大学院に進んだ同期生を訪ねたり、後輩の顔を見に行く。
大学を2年で中退し自衛隊へ入隊した村上哲也もその日、国文学科の研究室に顔を出していた。
「村上、どうしたんだ?」と徹が訪ねる。
「自衛隊に入ったが、自衛隊は戦地へ行かない。だから、辞めた」口ヒゲの村上は苦笑した。
在学時代に徹と村上は詩論で度々、議論となる。
シュールリアリズムを信奉する村上に対して、徹は自然派を自認していた。
学友の多くは中世・近世の文学を学んでいたが、徹は近代・現代文学に傾倒していた。
村上はある日、「我々学生は何を言おうが、しょせん空論に過ぎない。俺は戦争・紛争が起こったら戦地に行く」と意外なことを言う。
そして外人部隊を夢にたりし、やがて自衛隊志向となる。
平和主義者で人道主義者の亀井駿一は「多くの犠牲者の上に、日本の今の平和憲法がある。村上、文学は平和を築くためにあるんだ」と諭す。
亀井は武者小路実篤の文学に傾倒していたが、卒論は万葉集をテーマとした。
その後、学生紛争が起こったことで、大学の門が閉ざされた。
それを契機に徹の学生気分も抜けた。
そして大学院へ進む夢も断ち切れた。
詩や小説を書き続けるために、勤め人・社会人から離脱したいと思っていたのだ。
親の経済事情も徹が遊び人になることを許さなかった。
「勝手をしたいなら、家を出て行くんだね」母親は強い口調で言い放つ。
親に依存してまで「詩は書く必要がるのか」と思い直した。
徹には家を出る闘志・覚悟も欠けていたのだ。

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シュルレアリスムは、フランスの詩人アンドレ・ブルトンが提唱した思想活動。一般的には芸術の形態、主張の一つとして理解されている。日本語で超現実主義と訳されている。シュルレアリスムの芸術家をシュルレアリストと呼ぶ。

日本ではフランス語と英語の発音が混同され「シュールレアリスム」、「シュールリアリスム」、「シュールレアリズム」、「シュールリアリズム」、「シュルレアリズム」、「シュルリアリズム」、「シュルリアリスム」といったバリエーションがあり、日本語のカタカナ表記においては様々である。
「シュール」は「非現実的」「現実離れ」の意味によく使われる。1970年代前後に「シュール」が日本の広告媒体で頻繁に使用された例がある。
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自然派(とは
バルザックやジョルジュ・サンドなどヨーロッパの〈農民小説〉の影響のもとに,ロシア最初の農民小説《村》(1846)、《不幸なアントン》(1847)を書く。
農民(ナロード)を主人公とし、それを共感をもって描くという手法は、ツルゲーネフに大きな影響を与えたが、彼はこの2作により、ゴーゴリによって代表される文学上の新流派〈自然派〉の最も重要な作家とみなされた。
工科学校出身だった彼は,学校の後輩ドストエフスキーを文壇に出したが、その40年後チェーホフを発見するという大きな貢献をロシア文学史に対して果たした。

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外人部隊
日本は、世界の中でも「戦争に行かなくても良い珍しい国」ですが、その日本人の中でもフランス外人部隊に志願して戦場に向かう人が存在しています。


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取手競輪場の周辺

2017年11月26日 03時20分10秒 | 創作欄
時間はあるのに、何か日々空回りしていた。
やるべきことがあるのに手が着かない。
こうして人生は無為に過ぎて行くのか?
朝から酒が飲みたくなり、稲葉酒屋へ向かう。
学校へ向かう中学生たちとすれ違う。
昨年、肝臓がんで死んだ酒友だちの小杉勝雄は「おいネイちゃん酒飲むか?ニキビ治るぞ」とすれ違った女学生にワンカップを見せ高笑いをする。
「俺もあのようなバカな小杉のような酒飲みになった」と野村徹は自嘲する。
利根川の堤防の草の上に腰を下ろして酒を飲む。
雲雀がさえずる快晴の空を呑気な気分で見上げる
失業して約1年が過ぎたが職を探す気にもなれない。
「独身であるから真剣になれないだよ」と母親の貞子は言うので、「そんなの関係あるか」と開き直る。
結局、昼の時間帯となり部屋を出る。
「昼食べて行きなよ。ソバだよ」と台所で母親が声をかけるが、「外で食う」と無視する。
市民会館の傍の郵便局で2万円を下ろす。
3年前に日光の温泉旅館の風呂場で心筋梗塞で亡くなった父親が遺した郵便貯金はまだ600万円余残っていた。
温泉好きの父親は農繁期が終わると俳句仲間たちと旅行をしていた。
「親父も満足の人生だっな」と徹なりに納得した。
父親が嫌っていた競輪場へ徹は利根川沿いに歩いて行く。
途中にある河川敷のゴルフ場を眺める。
水曜日であるが、ゴルフに興じる人たちがいる。
「遊び人の俺と同じか」
土手を下ってふれあい道路を渡り、その道に面した寿司屋に入る。
競輪客を目当てに定食をやっている。
昭和47年、取手競輪場周辺には屋台の店も居酒屋もあり繁盛していた。
白山通りがシャッター通りになるずっと前のことだ。
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彼女からの電話

2017年11月24日 06時13分09秒 | 創作欄
何年前であっただろうか、は厚生労働省・日比谷クラブの会見室の机で創作を書いていた。
広報課から派遣されている若い女性職員が「珍しい、木島さんが原稿を書いている。どこか遠くを見ているような目ね」と親しみがこもった笑顔を向ける。
木島徹は第一国会記者会の担当職員への思慕にも似た感情を、その女性職員にも抱いていた。
「木島さんは、松原智恵子と吉永小百合、どちらのファンですか?」と問われた。
なぜ、そのようなことを聞くのだろうかと思い、彼女を見たら少し松原智恵子似であったのだ。
当時、26歳の彼は、一人の女性に翻弄され初めていた。
30歳まで彼女との関係は続いた。
「しばらく、私よ。徹ちゃん、まだ結婚してないんでしょ。私の友だちの吉井智子どう?もらう気ある?」彼女の電話は妻が取り継ぐ。
傍に妻がいるので、答えようがない。
「元気にしているのね。智子、徹ちゃんに会いたがっているのよ」
「そうですか。分かりました」
「また、連絡するわ。赤坂に来て」
妻が「今の誰?」と聞くので、「大学の後輩、同窓会の案内だ」と誤魔化す。
記者クラブの机で、彼女と桜が満開の仙台に行ったことを創作風に記していた。
記者クラブ担当の若い女性職員は彼女に似ていた。
散策した仙台各地の風景を思い浮かべていた。
「夢見ているような目ね」と若い女性職員は笑顔を見せ、乱雑な新聞の綴じ込みを整理していた。
「そんな目ですか?」と聞く。
その人は黙って会見室を出て行く。
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呉服屋の娘

2017年11月21日 07時49分22秒 | 創作欄
上野駅から秋田まで約600㌔、約12時間の汽車の旅を二人は楽しむ気分となっていた。
二人は窓側の席に座っていた。
小野田次郎の脇には50代と想われる鳥打帽を被った男が座っていた。
絹子の脇には絣の着物を着た15歳くらいの少女が風呂敷包みを抱えるように座っていた。
少女は大宮駅を過ぎたころからずっと眠っていたが、宇都宮駅を汽車が過ぎた頃に目を覚ますと風呂敷包みから竹の葉で包んだオニギリを出して食べた。
絹子は少女を微笑んで見ていた。
絹子の妹晶子と同世代と想われた。
与謝野晶子に憧れていた母梅が最後に産んだ3女を晶子としたのだ。
長男、長女、次女の名を全てを父が命名していた。
絹子は次女であった。
絹子は美男子として地元秋田で評判でった父親似であり、秋田県高等女学校のころ「秋田小町」と噂される美女であった。
秋田県高等女学校は1928年(昭和3年)制服にセラー服を定めた。
絹子のセラー服姿もモダンで似っていた。
「君は、どんな子だったの?」次郎は絹子を知るために聞いてみた。
「家が江戸時代から続く老舗の呉服屋だったので、着物に興味があったわね」
次郎の母も横手の呉服屋の娘であった。
日本にとって、海外に誇れるものは何だろうか?
次郎は日本の国が悪い方向へと向かっていることを切実に感じていた。
日本をまともな国に導くには、共産主義以外にないと思い込んでいたのだ。
恋に芽生えた二人であったが、二人の会話は暗い話題に傾いていった。
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何かの糸

2017年11月20日 21時28分52秒 | 創作欄
思い返せば人生は偶然の積み重ねと言えた。
東京女子大生の北川絹子が同郷の東京帝国大生の小野田次郎と出会ったのは偶然であった。
あの日、突然に夕立が降らなければが、銭湯の帰りに和菓子屋の店頭の軒先で雨宿りをしなかっただろう。
不思議な出会いであった。
さらに、小野田次郎が本郷の下宿から阿佐ヶ谷に越して来なければ、また、絹子も吉祥寺から阿佐ヶ谷に越して来なければ。
何かの糸で結ばれていたように想われた。
春休みに秋田の実家へ帰る汽車の中で2人は偶然にも再開した。
呉服屋に生まれた絹子は母親が送ってくれた和服姿であった。
偶然にも次郎も袴の和服姿であった。
2人は上野駅のホームで出会って、4人がけの席に向かい合って座った。
互いに買った駅弁で朝食と昼食を兼ねて食べた。
次郎は絹子と深い仲になることを予感していた。
「私の顔ばかり、見ているのね」絹子は羞じらう。
「好きになって、いいでしょうか?」次郎は直裁に問う。
「本気ですか」絹子は二重の目を大きく見開いた。
絹子は恋愛経験がなかった。
男たちは絹子の美貌に及び腰になっていたのだ。
一方、次郎には本郷の下宿屋の娘との恋愛経験があった。
彼が東京帝国大生であることが相手の心を惹いたのだった。
勉強一筋できた次郎には、初めて親しくなった女性であり、積極的な相手にリードされたような交情となった。
だが、次郎は日本共産党に入党したことで「女との色恋沙汰ではない」と娘を避けるようになる。
「私は、遊ばれたのね」と相手は気持ちを硬化させ次郎を非難する。
相手は次郎との関係を親に打ち明けことはなかった。
次郎は結果として、本郷の下宿先から阿佐ヶ谷へ逃げたのだ。
「絹子さんは、どのような本を読んできたの?」と聞いてみた。
「少女趣味と笑われるのですが、吉屋信子の本は全部読んだのよ」
「全部ですか?」
「そう、全部」絹子は微笑む。
次郎はその笑顔に魅せられた













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キリスト教人道主義

2017年11月20日 16時53分27秒 | 創作欄
小野田次郎の兄謹一は白樺派の作家たちの愛読者であった。
その中でも特に作家の有島武郎に傾倒していた。
仙台の第二高等学校在学中に、キリスト教の洗礼を受けていた。
そしてキリスト教人道主義に目覚めたのである。
謹一は父親に反対され東京帝国大学への進学を諦めたが、大地主で村長であった父親との確執を深め、小作農家への同情心を醸成していく。
江戸時代から続く自宅屋敷には下男、下女の立場の人たちも数人おり、横暴な態度の父親に謹一は反発していた。
「我々小野田は、弱い者たち、貧しい者たちを搾取しているんだ」と謹一は弟にも自虐的に言っていた。
ロシア文学にも傾倒した兄は第二高等学校在学中の弟にトルストイの文学を勧めていた。
弟は兄と同じ仙台の下宿で、帰郷した兄が残した愛読書を読んでいた。
兄は度々、生き抜くために弟の下宿屋を訪ねいた。
「ロシアに行ってみたいな。どうだ、一緒に行くか」
兄は持参した秋田の日本酒の1升ビンから湯飲み茶碗に酒を注いだ。
酒があまり飲めない弟にも「どんどん、飲め」とすすめた。
2人は文学談義をした。
「親父は芸者遊びして放蕩ばかりで、おふくろを裏切っている。放蕩を書く作家はダメだな」兄が批判する。
「俺はトルストイよりチェーホフだな。如何にも醒めた感じがいいんだ」と弟は持論を述べる。
「彼がさめていたのは、医者で結核を患っていたからだろう。革命に熱狂することもなく、あくまで人間の理性を信じた」
「それはチェーホフが知的で人間を全体として捉えていたからだろう」と兄は分析していた。
「醒めた目を持った作家だった」弟は一口、二口茶碗から日本酒を飲む。
「俺は夢敗れて秋田・横手で百姓だ。お前は東京帝国大学を出て、東京で身を立てろ」兄は自嘲的に言い、本棚に目を転じた。
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<参考>
小作人(こさくにん、小作農や単に小作と呼ばれることもある)と呼ばれる農民(農業従事者)に土地を貸し出して耕作させ、成果物である米や麦などの農作物の一部を小作料(こさくりょう)と言う名の地代として徴収する制度。
地主に小作料を支払って田畑を借りて営農することも小作と言った。

明治維新の地租改正によって、土地所有権が公認され、土地売買が自由になるなかで、明治期に農民の小作化と地主のもとへの土地所有権の集中が進んだ。
1908年から40年に帝国農会の手でおこなわれた〈農事統計〉では、一応、経営耕地を地主から借り入れるものを小作農家としした。
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有島 武郎(ありしま たけお、1878年(明治11年)3月4日 - 1923年(大正12年)6月9日)は、日本の小説家。

白樺派(しらかばは)は、1910年(明治43年)創刊の同人誌『白樺』を中心にして起こった文芸思潮のひとつ。
また、その理念や作風を共有していたと考えられる作家達のことである。
大正デモクラシーなど自由主義の空気を背景に人間の生命を高らかに謳い、理想主義・人道主義・個人主義的な作品を制作した。人間肯定を指向し、自然主義にかわって1910年代の文学の中心となった。1910年(明治43年)刊行の雑誌『白樺』を中心として活動した。
白樺派の主な同人には、作家では志賀直哉、有島武郎、木下利玄、里見弴、柳宗悦、郡虎彦、長與善郎の他、画家では中川一政、梅原龍三郎、岸田劉生、椿貞雄、雑誌『白樺』創刊号の装幀も手がけた美術史家の児島喜久雄らがいる。武者小路は思想的な中心人物であったと考えられている。多くは学習院出身の上流階級に属する作家たちで、幼いころからの知人も多く互いに影響を与えあっていた。
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