中外製薬、抗体カクテル療法による新型コロナ治療薬の製造販売承認申請

2021年06月30日 11時36分07秒 | 医科・歯科・介護

6/29(火) 18:32配信

ロイター

 6月29日、中外製薬はカシリビマブとイムデビマブの「抗体カクテル療法」について、新型コロナ治療薬として製造販売承認申請を厚生労働省に行ったと発表した。都内の同社社屋で2014年8月撮影(2021年 ロイター/Toru Hanai )

[東京 29日 ロイター] -     中外製薬は29日、カシリビマブとイムデビマブの「抗体カクテル療法」について、新型コロナ治療薬として製造販売承認申請を厚生労働省に行ったと発表した。

【グラフィックで見る】世界における新型コロナウイルスの感染状況

今回の承認申請は、新型コロナ感染症患者を対象とした海外での臨床試験、および日本人における安全性と忍容性などの評価を目的とした国内第I相臨床試験の成績に基づいており、特例承認の適用を希望しているという。

抗体カクテル療法は、2種類のウイルス中和抗体を組み合わせるもので、中外薬は昨年12月、提携先のスイスのロシュから日本での開発権と独占的販売権を取得している。

中外薬は今年5月、この療法が薬事承認された場合、日本政府が調達することで合意したと発表した。

同社の奥田修社長兼最高経営責任者(CEO)は同療法について、海外第III相臨床試験で、入院をしていない高リスクの患者の入院または死亡のリスクが低下したと説明している。

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大谷翔平 3年ぶり2打席連発でキング独走!3回27号&5回28号 3戦4発、松井の月間13本に並ぶ

2021年06月30日 11時28分43秒 | 野球

6/30(水) 9:49配信

スポニチアネックス

<ヤンキース・エンゼルス>5回無死から右越え28号2ランを放つエンゼルス・大谷(AP)

 ◇ア・リーグ エンゼルス―ヤンキース(2021年6月29日 ニューヨーク)

 エンゼルスの大谷翔平投手(26)は29日(日本時間30日)、敵地ニューヨークでのヤンキース戦に「2番・DH」でスタメン出場。第2打席に両リーグ単独トップに立つ3試合連続27号ソロ、さらに続く第3打席でも28号アーチを放ち、本塁打王争いで“独走態勢”に入った。大谷の2打席連発は3年ぶり2度目。

 初回1死の第1打席はヤ軍先発右腕タイロンの前に右飛だったが、3回の第2打席で3ボール1ストライクからタイロンの外角チュンジアップを完ぺきに捉えて右翼席にライナーで飛び込む27号ソロ。打球速度は109・6マイル(約176・4キロ)、飛距離は395フィート(約120・4メートル)。前日28日(同29日)の同カードの初回に右越え27号ソロを放ったのに続く3試合連続アーチで、26本塁打で並んでいたブルージェイズ・ゲレロに1差をつけ、本塁打王争いで両リーグ単独トップに立った。大谷の3試合連続アーチは、今月18、19、20日(同19、20、21日)のタイガース戦以来で今季3度目。また、25日(同26日)のレイズ戦から続く連続試合安打を「4」に伸ばした。

 さらに5回無死二塁の第3打席では、内角直球を捉え、またもライナーで右翼席に飛び込む28号2ランで、ゲレロに2本差をつけた。打球速度は112・4マイル(約181キロ)、飛距離は356フィート(約109メートル)。大谷の2打席連続本塁打は、18年8月3日(同4日)のインディアンス戦で10号2ラン、11号ソロを放って以来2度目。これで6月は13本目で、07年7月に松井秀喜(ヤンキース)が記録した日本人月間最多記録に並び、ア・リーグ月間MVPにも大きく近づいた。また、27日のレイズ戦で3安打して以来、今季22度目となるマルチ安打もマークした。7回1死の第4打席は左腕コーデスと対戦し中飛だった。

 前日は27号ソロを含め5打数1安打1打点で、通算打撃成績は73試合261打数72安打60打点、26本塁打、11盗塁で打率・276となっていた。

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わかりやすい
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新しい視点

 

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子どもの心の問題

2021年06月30日 11時15分52秒 | 医科・歯科・介護

乳幼児期から青年期までのこころの育ちの過程では、心身のはたらきに大きな変化が起こります。乳幼児期の世界との出会いから始まって、家庭の中での親と子の関わり、幼稚園や保育園での子ども同士の関わり、学齢期の学校での学業や様々な社会活動、思春期のこころの自立と新たな他者との出会いまで、子どもはいつも「社会的存在」としてあり続けています。

社会的存在である子どもが世界と関わるとき、さまざまな影響を受けながら、子どもの個性が育っていきます。ライフサイクルを経て育ちつつある子どもの個性が複雑な周囲の世界に対応しようとするときに起きてくる、情緒や行動の変化がこころの問題です。

子どものこころの問題とは
子どもの情緒や行動の問題が起きてくるこころの仕組みや、脳のはたらきについて科学的な研究が進み、医学、心理学、社会学などの分野でいろいろなことがわかってきました。 まだ言葉をもたない赤ちゃんの脳は、人に強い関心をもち、社会的な出来事を捉え、学習しています。それにともなって脳のなかの神経ネットワークも複雑に変化していきます。子どもが学習や集団活動に取り組む就学前後には、計画や見通しを立て、感情や行動をコントロールする「司令塔」としての脳のはたらきに関わるネットワークが急速に形作られます。

家族の子育て、学校の教育、地域社会の交流のあり方は、このような脳科学の研究などでわかってきた子どもの育ちについての医学的な知見からみても、理にかなったものです。しかしながら家族、学校、地域を取り巻く環境は急速に変化しており、子ども一人ひとりの育ちのスピードに合った対応が難しくなっている現実もあります。

子どものこころの問題とは
子どもの「育ちの力」や、ストレスから「立ち直る力」を生かす診療を行います

積み重ねられている科学的な知識を踏まえて、現在の社会の中で育つ子どもの情緒や行動の問題の意味を理解し、子どもの「育ちの力」やさまざまなストレスから「立ち直る力」を生かそうとするのが、私たちの基本理念です。

子どものこころの診療部では子ども、家族、地域などを接点にこころや発達の問題に対応している、小児医療、教育、福祉などの関連機関とのつながりを大切にしながら、こころの診療のネットワークやこころの問題を見守ることのできる人材を育てていくことに取り組んでいます。

九州大学
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心の問題特定非営利活動法人 Light Ring. All rights reserved

メンタルヘルスの社会問題とは

メンタルヘルスの社会問題についてご紹介します。

 

若者の自殺者数とその背景


乳幼児期から青年期までのこころの育ちの過程では、心身のはたらきに大きな変化が起こります。乳幼児期の世界との出会いから始まって、家庭の中での親と子の関わり、幼稚園や保育園での子ども同士の関わり、学齢期の学校での学業や様々な社会活動、思春期のこころの自立と新たな他者との出会いまで、子どもはいつも「社会的存在」としてあり続けています。

社会的存在である子どもが世界と関わるとき、さまざまな影響を受けながら、子どもの個性が育っていきます。ライフサイクルを経て育ちつつある子どもの個性が複雑な周囲の世界に対応しようとするときに起きてくる、情緒や行動の変化がこころの問題です。

子どものこころの問題とは
子どもの情緒や行動の問題が起きてくるこころの仕組みや、脳のはたらきについて科学的な研究が進み、医学、心理学、社会学などの分野でいろいろなことがわかってきました。 まだ言葉をもたない赤ちゃんの脳は、人に強い関心をもち、社会的な出来事を捉え、学習しています。それにともなって脳のなかの神経ネットワークも複雑に変化していきます。子どもが学習や集団活動に取り組む就学前後には、計画や見通しを立て、感情や行動をコントロールする「司令塔」としての脳のはたらきに関わるネットワークが急速に形作られます。

家族の子育て、学校の教育、地域社会の交流のあり方は、このような脳科学の研究などでわかってきた子どもの育ちについての医学的な知見からみても、理にかなったものです。しかしながら家族、学校、地域を取り巻く環境は急速に変化しており、子ども一人ひとりの育ちのスピードに合った対応が難しくなっている現実もあります。

子どものこころの問題とは
子どもの「育ちの力」や、ストレスから「立ち直る力」を生かす診療を行います

積み重ねられている科学的な知識を踏まえて、現在の社会の中で育つ子どもの情緒や行動の問題の意味を理解し、子どもの「育ちの力」やさまざまなストレスから「立ち直る力」を生かそうとするのが、私たちの基本理念です。

子どものこころの診療部では子ども、家族、地域などを接点にこころや発達の問題に対応している、小児医療、教育、福祉などの関連機関とのつながりを大切にしながら、こころの診療のネットワークやこころの問題を見守ることのできる人材を育てていくことに取り組んでいます。


20代の死因のうち、その約50%が自殺によるものです。
その自殺者数は年間で、約2,800人 (出典:内閣府『平成26年版自殺対策白書』より)。
自殺者のうち、6割~9割の人々が何らかの不調をメンタルヘルスに抱えていたと言われています。
つまり20代の若者の自殺の背景にメンタルヘルスの問題が関わっていることが、
  1日で5~7人
  1年で1700~2500人(年間自殺者数と上記比率より)
それだけ多くの人々がこころの健康を失い、命を絶っていることになります。
20代の若者のメンタルヘルスを向上させることが、
今日の日本社会においては、重要な社会課題だと言えます。

メンタルヘルスによる経済的損失

keizai-Sonshitu
こころの病の主な損失は、
「患者の治療・サポートのための医療・社会サービスなどの費用」(上図の医療費と社会サービス費用)
「患者本人の家庭・職場での生産性低下による損失」(同、罹病費用)
「精神疾患が原因での死亡により実現されなかった期待収入の損失」(同、死亡費用)
などがあるとされており、総合失調症、うつ病性障害、不安障害による社会的損失は、
計8兆円以上と試算されています。
メンタルヘルスによる経済的な損失は、生産性の低下や医療費の増加など、
社会が成長するために必要な資本(ヒト・カネ・モノ)に大きな悪影響を与えています。
したがって、メンタルヘルスの解消に向けた取り組みは、経済的にも必要であると言えます。

(出典:学校法人慶応義塾『平成22年度厚生労働省障害者福祉総合推進事業補助金「精神疾患の社会的コストの推計」事業実績報告書』)

また2011年、厚生労働省により、精神疾患が癌などと同様の「五大疾患」に認定されたことからもわかる通り、日本においてメンタルヘルス問題は、もはや病気の枠を超えて、誰もが損失を受ける可能性のある社会問題となっています。

メンタルヘルスの社会問題が解決されない理由

このような状況であるにも関わらず現在の日本においては、メンタルヘルス問題の「予防」に対する意識が低く、病気や不調が生じてからの対策に重点を起きがちです。結果として、今現在、健康な方がこころの健康を保つことについて十分な対応がされていません。この状況こそが、メンタルヘルスが解決されない課題であるとLight Ring.では考えています。

つまり、私たちは「予防に対する認識や施策が不足している社会状況」こそが、社会問題であると捉えています。
なぜこの問題が解決されないのか、以下の3つの原因があると考えています。

1)病気自体の問題
・本人に症状の認識がなく、異変に気づきにくい。
・精神病を患った方に対して偏見が生まれるような文化や法律があって、相談することがしづらい。
2)予防の活動がされていない
・現在の診療報酬制度では発症後の対応しか認められていないため、
 発症前の軽度な症状に対しては、医師が対応しにくい。
・本人だけでなく周囲の人の理解や協力が必要であるにも関わらず、
 それを可能にする対策が不十分。
3)国の管轄権限が不明確
・厚生労働省内のメンタルヘルスの部署においても
 労働分野と障害分野など、重複する問題であるにも関わらず国家の管轄が
 バラバラなため責任者が定まらず、総括的な対策を決めることが極めて難しい。

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競輪人間学 勝ち逃げしよう

2021年06月30日 10時26分37秒 | 未来予測研究会の掲示板

競輪場の1万円は車券が外れれば紙屑に!
大きく浮いたら、即刻<勝ち逃げしよう>。
それが鉄則。

競輪友の我孫子の勝負師タケさんは、午後3時30分過ぎに競輪場に姿を見せる。
車券を買わずにレースの流れを観ている。
11レースと12レースに絞って勝負する。

GⅢ 久留米競輪 中野カップ

6月29日 最終日5レース

タケさんの元仕事仲間(大工)のケンさんは、5レースの3-1-9 7万7,040円(176番人気)300円的中させ大騒ぎをしていた。
よほど嬉しかったのだろう。
徳さんの車に乗せてもらって競輪場へやってきたので、「当たり金だ!」と1万円札を進呈していた。
だが、その後は負け続けて、残ったのは7万円ほどに。
「相変わらず、バカだな」と勝負師タケさんは苦笑する。
競輪場の塀の外に、食堂が存在するが、2年ほどコロナ禍で閉店したままだ。
ここで、ビールでも飲んで熱くなった頭を冷ますべきだが、今はそれもかなわない。
車券を買って食堂のテレビで観戦する光景が頭に浮かぶ。

並び 3-9-4 5-2-6 8-7-1
レース評
奥出がブンブン逃げるがスピード一息で他線の捲り合戦と読める。まずは片岡ラインが本線、第二ラインに関東勢とする。

5レース

並び 3-9-4 5-2-6 8-7-1
レース評
奥出がブンブン逃げるがスピード一息で他線の捲り合戦と読める。まずは片岡ラインが本線、第二ラインに関東勢とする。

3-1 1万2,300円(34番人気)

3-1-9 7万7,040円(176番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
× 1 3 鈴木 謙太郎   11.9    
  2 1 小林 信晴 1車輪 12.2    
3 9 内田 英介 1/2車身 11.9      
  4 4 吉田 勇人 1/2車輪 11.8      
5 7 伊藤 健詞 1/4車輪 12.2      
6 5 片岡 迪之 1/2車輪 12.3      
7 2 吉川 嘉斗 1/8車輪 12.2      
8 8 奥出 良 1車身 12.7   B  
  9 6 葛西 雄太郎 3車身 12.6  

戦い終わって

戦い終わって写真

 鈴木謙太郎は他派が先行争いで脚消費する中で、グッと脚を溜め最終バック過ぎから捲上げて直線大外を強襲。昨日に続いての連勝で今開催を締めた。「昨日出して貰ったセッティングのおかげで凄い良いイメージで踏めましたね。セッティングって大事だなって初めて思いました。昨日の1着も嬉しいけど、今日の9車での1着は本当に嬉しい。まだ余力がある感じなので、もう少し爆発してくれれば」。
 連係乱れて、自らタテ踏み2着粘った小林信晴は「奥出君は余力ある感じだったし、せっかくのラインなので追い上げて様子見ようと思ったんだけど、彼も結構脚を使ってたしタレてる感じだったのでそのまま踏ませて貰いました。自分にもう少し余裕があれば良かったんですけどね。もうとにかく倒れそうにきつい(笑)」。

12レース 決勝戦

並び 1-6 9-4 8-5 7(単騎) 3(単騎) 2(単騎)

レース評
全く横一線の決勝戦。宮杯準Vで進化した吉田に期待。相手は同じく単騎稲川の自在戦。山田−吉本や岩本の一発に注。


7-8 6,010円(29番人気)

7-8-9 4万6,220円(190番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 7 吉田 拓矢   11.5    
  2 8 門田 凌 1/2車身 11.0    
  3 9 取鳥 雄吾 1/2車身 11.8   B  
4 5 香川 雄介 1/2車身 11.0      
× 5 1 山田 英明 1車身1/2 11.5      
6 2 岩本 俊介 3/4車身 11.1      
3 稲川 翔          
6 吉本 卓仁          
  4 桑原 大志

 

 

戦い終わって

戦い終わって写真

 地元の吉本卓仁を背負った山田英明が先行態勢に入ったが、すかさず取鳥雄吾がホーム過ぎに叩き切り主導権。その3番手に乗っていた吉田拓矢が捲りを放ちV奪取。「取鳥さんのところに付いていって、2コーナーで仕掛けた時に行けると思いました。ただ桑原さんのブロックはさすがにキツくてヤバいと思ったけど乗り越えられて優勝できて良かった。佐世保でも記念を優勝できているので九州地区は相性が良いですね。昨日の準決は疲れがあって体が重かったんですが、昨日より状態はマシでしたね。しっかり仕掛けて1着が取れたので良かった」。
 番手の桑原大志は吉田を張りながら落車。後続も乗り上げてしまい、取鳥が2着に逃げ粘るかに、後方で脚を溜め落車を避けた門田凌が直線外を伸びる。「作戦は特に考えていなかったんですが、吉田君が仕掛けた時にしっかりそこにスイッチしていければまた違う結果になったかも。見てしまって反応が遅れたのが今の現状ですね」。
 逃げ残った取鳥が3着。「山田ヒデさんが行って、すかさず構えずに反応して仕掛けられたのは良かった。ただ自分なりにカカっていたと思うけど、桑原さんが仕事をして落車してしまっているし、カカリもそれほどではなかったのかな」。

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心に火を灯す 賢人の名言 (できる大人の教養書)

2021年06月30日 10時22分37秒 | 社会・文化・政治・経済

リベラル社 (編集)

あなたが“今"求める言葉がここにある

人生は白地図です。
そこに絵を描いていく途中に巻き起こる出来事は、
誰にとっても初めての経験の連続で、
悩みや苦しみは絶えることがありません。
自分一人の力では解決できない問題に遭遇することだってあります。

そんな時、たった一言かけられた言葉が
心を大きく揺さぶり、次への一歩を踏み出す推進力となり得ます。

この本では、仕事、恋愛、人間関係など、日々の悩みを和らげてくれる
賢人の名言を紹介しています。
名作を遺した人、多くの命を救った人、国をつくった人たちも、
私たちと同じように悩み苦しみ、そこから喜びを見出し、生き抜いたのです。

ひとつひとつの言葉が、あなたに新たな力を与えてくれるはずです。
ページをめくるたびにポジティブになれますように。

●この本の特長

・賢人の言葉に救われる…名言が日々の悩み(仕事、人間関係など)を和らげる!
・ページをめくるほど前向きになる…「勇気が湧いてくる」「心を癒す」など、7つのテーマで気持ちをプラスに変換!
・教養が深まる…名言で賢人たちの視野を得る!
・言葉を贈る…誰かを励ましたい時やプレゼン、スピーチなどに!

 

色んなシチュエーションでの助言があり、とてもためになるのですが、一気に読むと逆に頭に入ってこないので、たまに本を開いて少しずつ読んでいってら良いと思います。

 

最近なんだかなぁと思っていたので、最初の力強い写真に心を奪われました。
勇気づけられる言葉や頑張ろうと思える名言、胸が熱くなる名言が、イメージにぴったりの写真と共に並んでいて、ちょっとぐっときたのもありました。
私のように最近悩んだり凹んだりしている人には良い本だと思います。

 

 

 

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◆末松謙澄 没後100年記念事業◆

2021年06月30日 09時54分39秒 | 社会・文化・政治・経済
憲法を起草した人物
 
「黄禍論」に対して国際論を味方にする
 
文の力で国を動かす
 
演劇や文学、美術の発展に貢献する
 
歴史は<今ここから>を胸に近代国家としての「日本」を創った人であった。
 
2021年4月19日 行橋市

謙澄没後100年トップ画像

 刊行物

末松謙澄没後100年記念誌『語り継ぐ末松謙澄』

 令和2年(2020年)に没後100年を迎えた末松謙澄の生涯と業績をまとめた1冊です。
 「末松謙澄と近代日本」、「文化・芸術への眼差し」、「謙澄を未来に伝える」の3つのテーマからなり、関係写真や年譜もついています。
 末松謙澄の活躍を通して、近代日本の文化や社会の動きにも触れることができます。ぜひご一読ください。

◇体裁:A5判 130ページ

◇発行:行橋市教育委員会

◇価格:500円

※郵送での購入は行橋市歴史資料館(0930-25-3133)

市報ゆくはし連載 「文化人末松謙澄」

 掲  載: 令和元年 11月1日号~令和2年 10月1日号(イントロダクションに加え、全12回連載予定)

 執  筆: 文化人 末松謙澄を考える会 会員

第0回 イントロダクション   第7回 「末松謙澄の書について」 棚田看山
第1回 「文化人 末松謙澄を考える」 徳永文晤 第8回 「末松謙澄と日本美術全書」 植田義浩 
第2回 「青雲の志をいだいて上京」 城戸淳一  第9回 「末松謙澄と演劇改良」 植田義浩
第3回

「念願の英国留学と

  英訳『源氏物語』の刊行」

城戸淳一 第10回 「末松謙澄はすごい!すごい?」 宇野慎敏
第4回 「外交の舞台で活躍」 小川秀樹 第11回 「郷土の教育に貢献した謙澄」 城戸淳一 
第5回 

「日本文化を欧米に紹介

  ~不平等条約改正に貢献~」

濱田輝夫

第12回

(終)

「精魂を傾けた大著『防長回天史』」 城戸淳一 
第6回 「欧米文化を日本に紹介」 山口裕平  

 関連イベント

第3回ゆくはし国際公募彫刻展 ―ゆくはしビエンナーレ2021―

 歴史上の人物をかたどった彫刻作品を募集し、大賞作品を市内の公共施設に設置する公募彫刻展です。

 第3回は末松謙澄をテーマに作品を募集しました。

大賞作品除幕式 & 授賞式

  日  時: 令和 3年 3月を予定

  問合せ: ゆくはし国際公募彫刻展実行委員会事務局 TEL 0930-23-0032

 

入賞作品展 & 市民賞・子ども大賞投票

  会  場:  リブリオ行橋  8月1日(土) ~ 9月30日(水)

        コスメイト行橋 10月2日(金) ~ 11月3日(火・祝)

  入  場: 無料

  問合せ: ゆくはし国際公募彫刻展実行委員会事務局 TEL 0930-23-0032

 行橋市増田美術館特別展 「末松謙澄と美術」

 会  場: 行橋市増田美術館

 期  間: 9月19日(土) ~ 12月13日(日)

 入  場: 一般500円/高校生・大学生300円/中学生以下無料/団体(15名以上)400円

 問合せ: 行橋市増田美術館 TEL 0930-23-1824

 行橋市歴史資料館特別展
 「末松謙澄没後100年記念 BARON SUYEMATSU―情熱の生涯―」

 会  場: 行橋市歴史資料館

 期  間: 10月3日(土) ~ 12月14日(月)

 入  場: 無料

 問合せ: 行橋市歴史資料館 TEL 0930-25-3133

 

 

スタンプラリー

 会  場: 行橋市歴史資料館、行橋市観光物産情報コーナー、行橋市増田美術館、

       行橋赤レンガ館、リブリオ行橋、守田蓑洲旧居

 期  間: 10月3日(土) ~ 12月14日(月)

 賞  品: 6会場中4会場のスタンプ獲得で特製「謙澄クリアファイル」、さらに6会場すべてのスタンプ獲得で行橋市オリジナルクリアファイルをプレゼントします。

       賞品のお渡しは行橋市歴史資料館、行橋市増田美術館、行橋赤レンガ館、守田蓑洲旧居の4ヶ所で行います。

       ※行橋市増田美術館のスタンプは入館が必要です(入館料がかかります)。

 問合せ: 行橋市歴史資料館 TEL 0930-25-3133

 

 

行橋市図書館 「郷土の偉人 末松謙澄」コーナー

 会  場: リブリオ行橋 1階

 期  間: 8月1日(土) ~ 12月14日(月)

 問合せ: リブリオ行橋 TEL 0930-25-1911

このページに関するお問い合わせ

文化課
電話:0930-25-1111(#1167,#1168)
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一枚の写真 末松謙澄 年譜  2)

2021年06月30日 09時48分28秒 | 社会・文化・政治・経済
別府

次が先生の著書、ロンドン時代の『若き日の末松謙澄』になるのですね。

玉江

大正九年に謙澄が亡くなってから丁度六十年目の昭和五十五年に謙澄の書簡が多数発見されました。
行橋市前田の末松本家で、当主喬房(たかふさ)氏夫人の幸子さんが明治二年建築の古い土蔵を整理していると、美濃紙に包んだ書簡の束が出てきた。表に「英国在留、末松謙澄通信書、明治十一年二月より」とあり、十二年七月までの十六通で家郷への便りだったのです。

別府

それを先生が整理され、背景をそえて『若き日の末松謙澄』の本として発表なさったのですね。英国派遣は伊藤博文の配慮なのでしょう。

玉江

そうでしょうね。明治十一年一月二十九日、英国公使館付一等書記官見習となる。英仏歴史編纂方法の研究も指示されています。数え年二十四歳。西南役も終わり、統一国家の前途と、自分の役割に青年謙澄は胸の高鳴るものがあったでしょう。
赴任にあたり伊藤博文は五十ポンドの餞別をしています。当時一ポンドは五円で邦貨二百五十円。博文の給料が月五百円だったそうですから、破格の餞別でいかに博文が謙澄に期待していたかがわかりますね。

別府

飛行機のない時代で、ロンドンまでの航海は大変だったでしょう。

玉江

明治十一年二月十日横浜港を出航。香港、シンガポール、セイロン、コロンボ、スエズ溝(十年前一八六九年にスエズ運河は開通)、を経てマルセーユ港に三月二十七日着。パリを経てロンドン着が四月一日で五十一日間の長旅です。

別府

英国滞在はいつまでで。

玉江

十九年四月帰国まで八年間です。博文への手紙は到着早々の四月末に、イギリス・ロシアの険悪情勢の分析報告をしていて有能ぶりを発揮したようです。
父、臥雲への書翰は実に克明で、ゆきとどいた内容ですが、渡英の翌十二年に臥雲、兄・房恒、師の仏山の訃報がとどくのです。

別府

帰ろうにも帰れない。たまらなかったでしょうね。

玉江

そうでしょうね。上野公使のあとは切れ者で後に文部大臣になる森有礼(もりありのり)です。
英国政界はディスリレーグラッドストーンの応酬時代、ヨーロッパはビスマルクの登場で、新日本の方向をどこにえらぶか、菊池大麓(きくちだいろく)穂積陳重(ほづみのぶしげ)馬場辰猪等、日本学生会の俊秀たちと喧喧諤諤(けんけんがくがく)の論議を交(か)わしています。
合間には欧州各国の探訪と意義ある充電の歳月だったようです。

別府

単なる外交官でなくマルチの活動ですね。資金は潤沢でしたか。

玉江

普通の留学生は年千円支給されていたそうですが、謙澄は千五百円でもたりない。
それを三井物産、徳川家、前田家がサポートしています。国の人材のためには資金を提供する美風があり、恩にきせず、受けても節を屈しなかった。明治初期の風は清爽(せいそう)ですね。

別府

大学はケンブリッジ大学ですね。

玉江

バチェラー・オブ・アーツ(文学士)、マスター・オブ・ロー(法学修士)を受けています。

別府

勉強もしっかりしたのですね。国内への眼は。

玉江

不平等条約改正にあたっての井上馨外相の方針を徹底的に批判している。憲兵制定の不可を主張したり日本政府批判も猛烈で、支持者の伊藤博文をはらはらさせたようです。
なんやかんやで、帰朝命令も噂されました。福地桜痴が心配して、いつでも帰ってこい。身柄は俺が引きうけると書翰(しょかん)をおくったりしているほどです。

『源氏物語』を英訳出版して世界へ紹介

別府

『源氏物語』も翻訳したそうで。

玉江

ロンドン時代に特筆する一面は文化面での活躍でしょうね。その第一が『源氏物語』の英訳です。
明治十五年にロンドンのトルプナー社から「“Genji MonoGatari, the Most celebrated of the classical Japanese Romance”」の題名で出しています。四十八帖全訳でなく十七帖を。
これは源氏物語が外国に紹介された第一号で、参考書もとぼしい外国での著作だけに労作でした。ウエリー訳の源氏物語より、実に四十三年も前のことです。英語界の権威の岡倉由三郎が、平明な文で相当の佳訳とほめています。
明治二十七年には丸善から翻刻版が出され、一世紀たって昭和五十年に現代風に装幀を変えて、チャールズ・タトル・カンパニーから新書版も出ました。息の永い名著ですよ。

別府

驚きましたね。

玉江

いや、まだまだ。「源義経・ジンキス汗説」を聞かれた事があるでしょう。

司会

ええ。頼朝の追討を受けた義経が生きのびてモンゴルへ渡り、ジンギス汗になったと。東北に流布されている伝説?で、西郷さん生存説と同じく一種の英雄待望論ですね。

玉江

その伝説をうまくとりあげたのが謙澄です。明治十年頃の日本は、ヨーロッパでは殆ど知られず、中国の属国ぐらいに思われていました。
それで日本の威名アップにそのフィクションを思いついた。源義経を蒙古風に訛るとゲンギギャンでジンギスカンに近い。うん、これだと(笑)。明治十二年に『成吉斯汗』(じんぎすかん)を英文で出版しているんです。

別府

ジンギスカンが義経だとは…。ヨーロッパの人たちはおどろいたでしょう。

玉江

驚いたのは西欧人だけではなく、日本人の内田弥八も(笑)。彼はこの本をロンドンで読んで興味を持ち、日本語に訳して、『義経再興記』がベストセラーになっているんです。
この二つは英文ですが、自分の本領の漢詩の面でも、ロンドンから指示して、西南役従軍の漢詩五十篇を集め『明治鉄壁集』を出版しています。

別府

後年、日本で最初の文学博士になる素地は充分ですね。

玉江

在英中に中国の、古学略史、古文学略史、ギリシャ古代理学、ギリシャ古代哲学の本を。さらにトーマス・グレーロード・バイロンパーシー・シェリーの詩を漢詩訳して郵便報知新聞に載せたりしています。

別府

まるで文化使節の役割ですね。

ホニーモーン

英訳出版「源氏物語」(明治15年)

別府

謙澄が帰国するのは

玉江

明治十九年三月で、出国して八年ぶりです。

別府

一度も帰国していないのですね。ロンドン八年を総括しますと。

玉江

一、新興国日本に必要な情報のキャッチと伝達。二、世界の中心であるロンドンの視野と見聞から政府政策への献言。三、日本が文化国である事を知らせる(現在のPR)。四、日本に相応しい西欧文化の吸収。五、総括して帰国後政府の要人として国造りの役目を担い推進するための勉学、でしょうか。

別府

さて、いよいよ帰国ですね。

玉江

帰国するとすぐ内務省参事官に。当時の総理大臣は伊藤博文、内務大臣は山縣有朋で、ウエルカム万全の陣容ですね。
翌年三月には内務省懸治局長、そして二十一年六月七日、日本最初の文学博士に任じられています。

別府

他の博士たちは。

玉江

文学博士は、末松の外は加藤弘之中村正直重野安繹(しげのやすつぐ)等六名。
法学博士は穂積陳重等四名。理学博士は山川健次郎菊池大麓等四名。医学博士は高木兼寛、小金井良精(こがねいやすゆき)といったいずれも新日本の一分野を担った錚錚(そうそう)たる面々です。

別府

帰国後に結婚も。

玉江

伊藤博文の次女生子と明治二十二年に結婚しています。末松は数えの三十五歳、生子は二十二歳でした。
旧小倉藩の一部の人たちが敵方の娘を嫁にするとはと非難しましたが、末松は、「敵将の娘を人質にとったと思えばよかろう」と笑ってとりあわなかったそうです。
愉快なのは、東京で挙式のあと二人で山口まで旅行しますが、同年五月三日の東京日日新聞は、末松が「ホニーモーン」した事を伝え、新婚旅行と訳しています。これを日本最初の新婚旅行だという人もいますね。

司会

坂本龍馬が祇園の美妓おりょうをつれて薩南へ旅したのを、最初とした話もありますね。もっとも、彼らは西欧風ホニーモーンではない(笑)。で、活躍の方は。

玉江

明治二十二年に憲法発布。翌二十三年の第一回衆議院選挙に福岡懸第八区から立候補して、征矢野半弥(そやのはんや)と争いました。
征矢野は翌年福岡日々新聞(現・西日本新聞)の社長になる人で、豊津藩校育徳館出身。末松は私塾水哉園出身で、官学と私学、士族と平民の対決で注目を浴びたそうです。以後続けて三回当選しています。
後に征矢野の紹介で末松の『防長回天史』の編纂を手伝うことになる堺利彦は自伝で「末松と云えば仏山塾出身の先輩ではあるけれども伊藤博文の婿として藩閥官権の代表者である。それが多年民権自由の功労者たる征矢野さんを圧倒するとは何事だろう。」と憤慨したと言っています。
明治二十五年、第二次伊藤内閣の法制局長官に就任、謙澄三十八歳のときでした。
ついで男爵、貴族院議員、三十一年に第三次伊藤内閣の逓信大臣、三十三年に第四次伊藤内閣の内務大臣に就任、伊藤の知恵袋と言われました。

別府

明治三十七・八年の日露戦争でまたロンドンへ。

玉江

ケンブリッジ大学卒で英国の要路に知人の多い末松を派遣してイギリスに日本の立場を訴え、支持世論を喚起させたのです。日英同盟がロシアと戦う日本にとっては何よりの支えでしたから、大きな役目だったのですね。

司会

一方、アメリカへはハーバード大学卒の筑前出身の金子堅太郎を派遣し、親日興論の喚起と学友ルーズベルト大統領に平和締結の呼びかけを工作させていますね。

玉江

郷土出身の二人の活躍ですね。その功で明治四十年に金子は伯爵、末松は子爵を与えられています。
ついで帝国学士会員、大正七年には法学博士と、官界、学界の頂点を極めたのです。

門司港開発に貢献する

家族とともに。左から
謙澄、春彦、生子、沢子(明治30年代)

別府

地元への貢献は。

玉江

視野がオール日本でしたから、あまり具体的には。でも門司港開発に力を貸した事は大きいですね。
福岡懸知事・安場保和(やすばやすかず)
が企救(きく)郡長・津田維寧(これやす)
、京都(みやこ)・仲津郡長・清水可正と門司築港計画をすすめていました。
本州と九州の交通は赤間ヶ関(下関市)の亀山宮下から北九州市の大里(だいり)への海路で、潮流も急だし、荒天の日には欠航と不便極まりない。
これを赤間ヶ関から目の先の門司浦に結べば最短距離でたいへん便利になる。門司浦を九州縦貫鉄道の起点にする構想も固まっていました。

別府

その予算は莫大で…。

玉江

築港工事費が三十九万円で地場資本だけではとてもまかなえない。
津田が思いあまって、水哉園の後輩で、内務省懸治局長の謙澄に相談するのです。謙澄は、財界のドン渋沢栄一に頼み、渋沢の斡旋で安田善次郎大倉喜八郎浅野総一郎が賛成。
明治二十二年に門司築港株式会社は資本金二十五万円(一株二千五百円)で発足。渋沢、安田、大倉、浅野は各十株ずつ計十万円を出資したのです。

別府

門司港レトロが今注目され、戦前の門司の繁栄がしのばれますが、そのきっかけに謙澄さんがからんでいたのですか。大きな貢献だったですね。

司会

金子堅太郎も八幡製鉄誘致に一役買っている。北九州の発展に、郷土出身の金子・末松がかかわっているのは興味深いですね。

玉江

築港を契機に九州鉄道の本社は博多から門司に移り、日本銀行西部(さいぶ)支店設置。商社や銀行や中央資本の進出が続出して、日本経済の縮図といえる壮大な景観だったのです。

「天覧劇」と『谷間の姫百合』

『防長回天史』未定稿

別府

文化面の活動では。

玉江

演劇改良運動があります。謙澄はロンドンの時代に演劇もよく見ています。
軍艦「清輝」が、はじめて渡航してきたとき、井上良馨(よしか)艦長(後年元帥)を芝居に誘っています。演劇が世間にありそうな様子を写している。総ての所作が、作りもののようでなく、一々真に迫るので、二人で感心したと言っています。
帰国後、伊藤博文、井上馨、渋沢栄一、福地源一郎等朝野の名士と、守田勘弥市川団十郎(九代)等を集めて、演劇改良運動を提唱するのですが、その下地はロンドンで養ったのです。
モットーは「一、従来の陋習を脱し好演劇の実施。二、脚本の著作を名誉ある業たらしめる。三、演劇、音楽会、歌唱に供すべき演技場を構造すること」の三つで、「高尚たるも世態に背(そむ)かず、(略)楽しんで淫せず、和して流れず、上等社会の觀に供して恥づる所なきの域に達せしむ」とあります。

別府

本邦初の「天覧劇」公演も演出したのですね。

玉江

外国では国王や元首が演劇を見物するのは普通だから、歌舞伎を天皇に見ていただこうと、井上馨邸に明治天皇昭憲皇太后、各国大公使などを招いて、団十郎左団次(初代)、菊五郎(五代)福助の名演で、「勧進帳(かんじんちょう)」や「操三番叟(あやつりさんばそう)」などを上演したのです。
これはたいへん話題となり、演劇界の地位向上に大きく貢献しました。団十郎は「嗚呼(ああ)、此の日はいかなる日ぞや」と感泣したそうです。

別府

謙澄さんは、好奇心が旺盛で、次々と新機軸に挑むのですね。

玉江

面白いのは、明治二十一年に英国の女流作家パーサ・M・クレイの小説『ドラ・ソルン』『谷間の姫百合』という題で翻訳し二十三年まで四巻本で発行している事です。
大変評判となり、昭憲皇太后が愛読され、侍従を通じて次巻を心待ちされている事を伝えられたそうです。

別府

内務省の局長が、外国の女流作家のベストセラー小説を翻訳する。若さを失わない人なんですね。

玉江

前後しますが『日本文章論』『青萍詩存』『歌楽論』『国歌新論』『日本美術全書(翻訳)』などの本、そして晩年にはローマ法研究に力を注ぎ、「欽定(きんてい)羅馬法学提要」を著している。
硬軟自在の見事さですね。

広く深い史観で『防長回天史』

昭和55年に発見された
謙澄の在英通信

司会

そして、そのエキスが年々評価の高まってきている『防長回天史』ですね。

玉江

『防長回天史』は文字通り読めば周防(すおう)と長門(ながと)二州の維新史ですが奥がひろい。毛利家の委嘱を受けて始めたのですが、結局は末松謙澄の編纂発行になり、彼のライフワークの一つになったのです。
毛利家が明治十二年に東京に編纂室をおき、明治維新の大業をなしとげた自負から、維新当時の殿様の毛利敬親(もうりたかちか)公(文政二1819~明治四1871)の功績を顕彰し、自藩の功業を記録するものにとの意向でした。
井上馨が斡旋役で、編纂を長州出身の杉孫七郎(子爵)と品川弥二郎(子爵)に頼むが断られる。関係者が生存しているから、誰もがしりごみするのです。
困って伊藤博文に相談すると、末松ではどうかとなった。

別府

井上と末松、不思議な因縁ですね。毛利藩の維新史を、幕府方だった小倉藩領出身の末松謙澄に頼む。なかなかの度量ですね。

玉江

結果的にはそれがよかったのです。末松は、第一に防長二州の維新史にとどめず、維新全史とする。第二に編纂人は末松に一任する、この二つを条件に毛利家歴史編輯所総裁を引き受ける。明治三十年のことです。

玉江

謙澄はケンブリッジ大学在学中ヨーロッパの近代的な実証史に興味をもっていましたし、封建社会から近代国家へ移行する歴史の執筆は魅力だったのですね。

別府

そうして、近代史家末松謙澄の出現ですね。で、謙澄が選んだ編纂の面々は。

玉江

それが、逆賊足利尊氏を評価した旧幕臣の山路愛山と南朝正統論の笹川臨風、ともに幕臣につながっている。のちに幸徳秋水(こうとくしゅうすい)と親交を結び左派の言論で知られた旧小倉藩の堺利彦といった人たちを起用しています。

別府

末松も内務大臣におされたり忙しいのによくやりとげましたね。

玉江

謙澄が引き受けてから二年目の三十二年に編集は一応終了しています。

別府

一応と言いますと。

玉江

編集事業が終わって、山路、笹川、堺等の編集人は解散、あとは謙澄と中原邦平、助手の時山弥八という人たちが整理された資料や草稿をまとめて執筆すればいいことになる。
ところが、「社会新報」が『防長回天史』は毛利氏のために筆を曲げて他藩の功労を没にしていると攻撃をはじめる。それで、「萬朝報」(よろずちょうほう)に移っていた堺利彦が『防長回天史』は公平忠実を旨にありのままに編纂したと反論するのです。
こんどは毛利家がひっこみ思案になって、延期をと言い出す。
そこで謙澄は毛利家と交渉して、一切(いっさい)の資料を自由に閲覧できる承諾と印刷前に関係者の批正(ひせい)を受ける事を条件に、自費出版を決意するのです。

別府

小倉藩領出身の謙澄が自腹で『防長回天史』を。面白いですね。

玉江

そのうち明治四十二年に伊藤博文がハルピン駅で狙撃されて亡くなりますね。
博文を失ったあとは、政治的活動を、極力避けて、博文から要請を受けた『防長回天史』の完成に全力を注いだのです。
第一巻は、明治四十四年八月二十日に刊行され、大正九年八月に初版本第十二巻が完成するのです。
博文に推薦されてから二十四年の歳月を経ている。維新回天史にはそのぐらいの熟成期間が必要だったのですね。

司会

そうして、客観記述、総合的構成、史料主義を貫いた近代歴史叙述として年々評価の高まる維新史が誕生したのですね。

玉江

回天史で明治維新の初期を天保改革においたのが卓見と評価されています。各藩とも財政が窮迫し、武士の貧困化、大飢饉、百姓一揆の続発、大塩平八郎の義挙もおこり、封建社会の基盤がゆるぎだしたときでした。
アメリカ船モリソン号が日本漂民七名をつれて浦賀にくるし、渡辺華山高野長英等の蛮社の獄もある。内外ともに封建時代の矛盾が噴出した時代なのですね。
老中水野忠邦の改革は失敗に帰しましたが、長州・薩摩・土佐の西南雄藩は有為な人物を登用し、幕末の政局を動かせる経済改革を成功させて、維新回天の基盤を築いたのです。

別府

その天保時代を、明治維新の初期とした歴史家、末松謙澄の面目躍如ですね。

玉江

さらに謙澄は初版の完成をすすめながら、再編にとりかかる。そして九月中旬に再版のために緒言を書いて間もなく、枢密院に出席中、気分が悪くなり、流行性感冒に急性肋膜炎を併発して、大正九年(1920)十月五日に数えの六十六歳で亡くなっています。
その緒言は
〈一、予カ毛利公爵家ノ依嘱ニ依リ、本書ノ編纂ニ着手セシハ、二十有余年前ノ明治三十一年ニ在リ。其後、若干年ニシテ故アリ、其事中止トナレリ。既ニシテ、予ハ公爵家ノ容認ヲ得テ、全然、自費、自力ヲ以テ、其業ヲ継続スルコト無慮十年、其間、事故ノ為メ、偶々、間断アリシ外ハ、殆ント一切ノ政治上、社交上ノ功名モ、義務モ之ヲ抛(なげう)チ、日トナク、夜トナク、心、若(もし)クハ手ヲ、此事ニ労セサルノ時、殆ント之(こ)レナク、本年六月末日ヲ以テ、全部十二巻ヲ完結シ、九月中旬ニ至リ、修訂ノ功ヲモ竣(おわ)リタルモノナリ。
一、本書防長ノ二字ヲ冠スト雖(いえど)モ、維新ノ事業ニハ防長ニ州ノ関係其半(そのなかば)ニ居ルノミナラス、本書ハ当時ノ大勢及ヒ諸藩ノ関係ヲモ其要ヲ併叙セルヲ以テ、実ハ維新全史ト異ナラス。読者ノ幸ニ此見地ヨリ観察センコトヲ切望ス。(略)〉、とあり実に堂々たるものです。(傍点は編集にて)

別府

謙澄さんはその完本を見ないままで亡くなって残念だったでしょう。

玉江

『修訂防長回天史』全十二巻は謙澄逝去の翌大正十年三月に、著作者末松謙澄、発行者末松春彦(嗣子)で刊行されています。

司会

末松謙澄は日本の夜明けと発展を客観的に見続け記録したのですね。外交、政治、文学、歴史と、実に大きな歩みの人でしたね。


お話:
さくら銀行 代表取締役会長 末松 謙一 氏

あくなき知識欲のひと

末松謙澄さんは、会長の大伯父さんですね。会長のお名前にも「謙」の字が。御一統の矜(ほこ)りでしょうね。

末松

父が謙澄にあやかれと思ってつけたのです。
子供のころ、学校の成績が悪いと、すぐに謙澄を引き合いにだして叱られる。迷惑でしたな(笑)。
でも名前をけがしてはいけないと、大切な芯のところで大きな励みになっていました。

会長から御覧になって謙澄さんの魅力は。

末松

身びいきでしょうが、謙澄の「飽くなき知識欲」には敬服しています。
生まれたばかりの明治日本は、いわば仮普請(かりぶしん)で、皆がそれぞれ分担して固めていかねばなりませんでした。
謙澄は外交、政治、文学、歴史、etcと、今で言えばマルチ型ですが、当面の問題にひたむきにチャレンジしたのですね。
だから語られる人によって、政治家にされたり、文学者にされたり、歴史家にされたりといろいろで、当人は苦笑しているでしょう。

それぞれが日本の夜明けを築いた立派な足跡ですが、美術面でも。

末松

洋画家の草分けとされている山本芳翠(ほうすい)と昵懇(じっこん)でした。演劇改革に情熱を燃やしていましたから、謙澄は芳翠に、新しい舞台背景のジャンルまで期待していたふしがあります。
ライフワークになった『防長回天史』の編纂では、糖尿病で視野がうすれた眼を、史稿すれすれに近づけて朱筆をいれていたと聞いています。
晩年、道で謙澄とすれちがった私の父が頭を下げると、どなたですかと言ったそうですから、よほど悪かったのですね。
目が悪くなったのは、日露戦争のとき、親日世論を喚起するために英国へ渡りましたが、そのときの過労が原因だと親父は話していました。

謙澄さんの日常は

末松

ロンドンで八年間も外交官生活をしていながら、日常は純和風の暮らしぶりだったそうです。家では和服で通しましたが、無頓着な人で前をはだけたままでも平気だったとか。
宮中の晩餐会に召されたときも、たいがいの方はほとんど手をつけずに記念に持ち帰られたもののようですが、彼はだされたものを全部たいらげたうえ、生子夫人の皿まで箸をつけるので、大伯母は恥ずかしくて仕方がなかったそうです。

伊藤博文から福地桜痴まで、当代一流の人に引き立てられますね。よほど魅力のある人だったのですね。

末松

それはよく分かりませんが、回顧談で、こんな話を聞かされたことがありました。
枢密院会議の席で、厳しい質問をするが、決して追い込まないで、必ず逃げ道を残していたそうです。
維新で冷や飯をくった小倉藩領出身のハンディにたえ、多くの人の温情で道を拓(ひら)いてきた謙澄だけに、人の苦衷(くちゅう)がよくわかっていたのでしょう。
その意味では、ふところのひろい苦労人だったようです。

謙澄さんの活動は若い国家、明治日本が背景にあってですね。

末松

東南アジアの若い国々をよくまわりますが、大蔵大臣はじめ指導者たちが四十代の若さで目を見張ります。
明治維新後の新興日本を担った若い群像をほうふつさせますね。
日本も明治維新、終戦と、社会変革の大きなうねりがあって、若い俊英を輩出しました。戦後半世紀をへて、新しい時代を開くときでしょう。
末松謙澄に思いを馳せながら、第三のうねり、明日が見える若い俊英登場が待望されてなりません。

---末松謙一氏は「末松謙澄」の弟・凱平氏の嫡孫にあたられます。


聞き手:
福岡シティ銀行 広報室 土居善胤
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一枚の写真 末松謙澄 年譜  1)

2021年06月30日 09時40分06秒 | 社会・文化・政治・経済

「故郷と歴史」 対談:平成7年7月

司会・構成:土居 善胤


お話:
日本近代史研究家 玉江 彦太郎氏
聞き手:
福岡シティ銀行 常務取締役 別府 正之

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。

司会

一枚のこの写真から、お話をうかがいましょう。この写真は今日の主人公末松謙澄(すえまつけんちょう)が数え歳二十四・五歳のときですね。

玉江

明治十一年か十二年に、ロンドンの英国公使館で上野景範公使をかこんでの写真です。
官途について三・四年目。時の実力者の伊藤博文に目をかけられて、一等書記官見習で渡英したばかりですね。

別府

一人一人が新生日本を背負っている面(つら)がまえがいい。明治日本の夜明けを感じさせる風が吹いていますね。見ていて飽きない。
それぞれに、後年は活躍を。

玉江

大臣や公使、日銀総裁や実業界と活躍していますね。

司会

明治維新の薩摩長州の人たちの事はよく知っていても、地元出身で活躍した人たちの事はあまり知らない。今日の末松謙澄はその典型でしょう。

伊藤博文
(天保十二1841~明治四十二1909)幼名俊輔。長州出身。公爵。松下村塾に学び維新に活躍。憲法制定に参与。首相、組閣四度。枢密院議長。貴族院議長に歴任。日清戦争講和全権大使。ハルピン駅で暗殺された。

一流のひと

末松謙澄

玉江

慶応二年、徳川幕府の第二次長州征伐のとき、小倉藩は長州の奇兵隊に攻めこまれて城を焼いて京都(みやこ)・田川郡方面に敗退しますね。俗に御変動と呼ばれる丙寅の役(へいいんのえき)ですが、かつての幕府だから維新になってどうしても分が悪い。
その中から、末松謙澄は躍り出ている。新政府に入って一流の外交官となり、ロンドン時代に世界最初の『源氏物語』の英訳出版をして、いまも読みつがれている。政治家となり、最初の文学博士となり、逓信・内務大臣を歴任して伊藤博文の知恵袋となる。
国の興亡をかけた日露戦争では、英国で日本支持の世論を高め、その功績で子爵に列せられている。
小倉藩の出身では、陸軍に奥保鞏(おくやすかた)元帥(弘化三1846~昭和五1930)が出ていますね。この二人が歴史にのこる活躍をした巨きな人物です。謙澄が編纂した『防長回天史』は毛利藩の維新史をこえて、広く維新正史としての評価が高まっています。そして四度総理大臣になる伊藤博文の次女・生子(いくこ)の婿にもなっている。

英国公使館の庭で(明治11年4月~12年6月の間)。
上野景範公使(前列中央)。
富田鉄之助(後の日銀総裁、前列右端)
末松謙澄(後列右端)。

別府

まことに壮観ですね。ではその末松謙澄の出生から。

玉江

今から百四十年前の安政二年に、豊前国京都郡前田村(現、福岡県行橋市)の大庄屋、末松七右衛門房澄)と母伸子の四男として生まれています。男女五人ずつの十人兄弟でした。
幼名を千松線松とも言います。のちに謙一郎、さらに謙澄とあらため、「のりずみ」のつもりが皆が「けんちょう」と呼ぶので、サインもK.Suyematsuに。号は青萍(せいひょう)、青い水草の意です。父の七右衛門は臥雲の号を持つ歌人でした。

別府

幼時から学問尊重の家風の中に育ったのですね。大庄屋の坊ちゃんで、大事にされて…。

玉江

でも幼いときから鼻っ柱が強かったようですね。頭を剃「そ」られるのが大嫌い、それで寝ているときに剃ったら、癇癪をおこしては生「は」やしてかえせと周りを困らせたようです。

別府

勉強のほうは。

玉江

十一歳のとき村上仏山という漢学者の塾、水哉園(すいさいえん)に入門しています。同年、二十四人の入門者がおり、筑前筑後、遠くは肥後あたりからも来ていたほどですから、仏山は名声が聞こえた大先生だったのです。

別府

そして漢詩がまた絶品とか。

玉江

仏山先生の影響が大きいのですね。御変動のどさくさで家が暴民に焼き打ちにあって、一家離散になる。
そのとき仏山先生が線松少年を自分の家に引きとり、戦乱のおさまるまで7カ月間親身の面倒を見てくれる。この間の感化は大きかったでしょうね。

別府

数えの十二歳の頃ですね。人物をつくるのは、幼少期の試練が大切なのかなあ(笑)。
父臥雲の国学、仏山の漢学、上京しての洋学と、やはり時代が必要とする人物は、時代が育てるんですね。

生涯の友高橋是清

司会

謙澄が青雲の志を抱いて上京したのは明治四年、十七歳のときですね。

玉江

大庄屋も焼き打ちにあって、四男坊主の上京までは、とても手がまわらなかったでしょうね。後年「学ブニ常師ナク、居スルニ定マル処ナシ。落魄シテ都門ニ過スコト数年」と述懐しています。
上京して開明派の漢学者として知られた大槻盤渓(おおつきばんけい)(享和元1801~明治十1877)や、洋学者の近藤真琴(天保二1831~明治一九1886)の攻玉社(こうぎょくしゃ)の塾にも通い土佐出身の顯官、佐々木高行(後侯爵)の書生になっている。これから運命の出会いが始まるのです。

攻玉社
攻玉社は近藤真琴が、外国の石(洋学)を砥石にして玉(大和魂)を攻「みが」くということで塾名とした。福澤諭吉慶応義塾中村正直同人社と並んで明治の三塾の一つ。海洋学の専門塾で、日清、日露戦を指揮した将星たちは攻玉社出身が多い。

別府

興味津々ですね。

玉江

明治新政府は、西洋に追いつくことが一番と、たいへんな高給で外人教師を招聘(しょうへい)していました。その一人がアメリカ宣教師フルベッキです。
開成学校(のち大学南校→東京帝国大学)の教師で、教育、法律、行政に献策。岩倉遣外使節派遣、徴兵令、学制制定への貢献が大きかった人です。
この人のところに、のちの日銀総裁、総理大臣の高橋是清(たかはしこれきよ)がいたのですね。佐々木の令嬢静衛(しずえ)がフルベッキの娘さんに英語を習いにくる。そのお伴が謙澄で、高橋が話しかけて懇意になった。
その頃、東京師範学校が設立され、官費学生を募集しました。謙澄はその難関をパスするのですが、是清が君は広い天地で活躍する人だ、先生でしばられるなと辞めさすのです。
それから、謙澄は漢学、是清は英語の交換授業を始めるのです。レッスンは最初からパレーの万国史だったそうで、すごいものです。

別府

明治の若者の意気溌刺(はつらつ)さが感じられる風景ですね。

玉江

高橋是清は後年、その風貌からダルマ蔵相と親しまれますが、昭和十一年の二・二六事件で陸軍若手将校の凶弾にたおれます。謙澄より一歳上で、ともに十八・九歳の出会いです。
ところが師範中退で佐々木夫人がおかんむり。官費のいい学校に受かったのに、辞めるような我儘者は世話できない…と。それで高橋のところに転がりこむのです。

別府

それでは交換授業は成果があったでしょうね(笑)。

玉江

そのときに謙澄は退学記念写真を浅草の写真館で撮っているから意気軒昴たるものですね(笑)。

※攻玉社
攻玉社は近藤真琴が、外国の石(洋学)を砥石にして玉(大和魂)を攻「みが」くということで塾名とした。福澤諭吉の慶応義塾、中村正直の同人社と並んで明治の三塾の一つ。海洋学の専門塾で、日清、日露戦を指揮した将星たちは攻玉社出身が多い。

「この御仁は」と伊藤博文

謙澄の山岳父となった
伊藤博文

別府

それはそれで生計の方は(笑)。

玉江

そこで二人の着想がいい。明治開化で次々と新聞が発刊されているが、外国事情をのせている新聞がない。フルベッキ先生の所には英米の新聞がたくさん来る。特にロンドンの絵入新聞は面白い。あれを翻訳して売り込めば商売になると。
これは名案だと売り込みにまわったが次々と断られて、やっと岸田吟香(きしだぎんこう)東京日日新聞が買ってくれた。甫喜山景雄(ほきやま)という人が君等は一カ月いくらで暮らせるのかときくので、五十円だと答えたら月々五十円をくれたそうで、愉快ですね。
その縁で明治七年に東京日日新聞の日報社に入社するのです。高橋も文部省の役人になっていて彼の芝の家に同居し激論を交わす。それがペンネーム笹波萍二の社説となったのです。

別府

田舎出の若者が自力で道を拓いた。ほっとしますね(笑)。

玉江

それが数えの二十歳ですからね。
ところがすぐに福地源一郎(桜痴)が主筆として入社するのです。福地は長崎の人で、幕府の外国方に出仕して遣外使節に随行し、新政府の岩倉遣外使節にも同行している。明治を代表する言論人です。
謙澄はあんな大物がきたのでは、自分の前途がないから、辞めようと言いだす。是清は「大物が入れば師事すればいい。それだけ君の前途がひらける」と激励するのです。

別府

もつべきはよき友ですね(笑)。

玉江

福地は紙面一新をはかって、社説欄を設け、二十歳の謙澄を執筆者に抜擢する。「笹波萍二」の誕生です。
そして彼の書いた*「元老院批判」「教務省廃止論」などが、ときの権力者伊藤博文や、山縣有朋(やまがたありとも)の目を引くのです。

別府

明治という若い時代のたぎりを感じますね。

玉江

入社早々の頃でしょうが、東京日日の首脳の回顧では、ハイカラ謙澄は弁当に牛乳をかけて食べていたそうで、不思議な事を思ったそうです。
福地は、謙澄をつれて銀座へよく食事に出かけていました。あるとき、官員馬車がとまり、先生と声がかゝる。声の主は伊藤博文で、二言三言。そして「この御仁(ごじん)は」ときく。
福地が豊前出身で論説の末松謙澄と紹介。伊藤は笹波萍二の論説に関心をもっていたし、隣国豊前人に親しみを覚えて「遊びに来られよ」と誘うのです。

別府

決定的な運命の出会いですね。その博文もまだ、三十五・六歳ですね。

玉江

博文は訪問した謙澄を歓待して、ストックホルムで買ってきた「ローマ史論」を記念にくれる。それから山縣有朋ともつながるんです。

別府

長州出身の二人は、自分たちが攻めこんで、城の焼滅、幼主をかついでの敗退となった、小倉藩への償いの気持ちも…。

玉江

あったかもしれませんね。
山縣有朋とも「給料を倍出すから俺の所へ来い」「福地への恩義があるから、それはできない」。そうした問答があってさらに目をかけられたそうです。

別府

そのふれあいから謙澄が官途につくのですね。

玉江

明治八年十二月二十八日の事で新聞人笹波萍二の活躍はわずかに二年でした。
そしてすぐに江華島問題解決のため、黒田清隆全権を補佐する井上馨に随行して渡韓し、修交条約の起草に加わります。二十一歳、出仕して翌日の渡韓です。驚きますね。
謙澄の記によればこのとき、井上が近々英国へ派遣されるので「足下同行の意アルヤ。アラバ随行セシメン」と言う。謙澄は「小子洋行ノ志此ニ年アリ。閣下モシ随行ヲ許セバ豈(あに)之ヲ辞センヤ」と随行を頼むのですね。
ところが、なしの礫(つぶて)で、井上は外の人間を連れて行く。約束違反だと面白くないのでたてつくが、いくら鼻っ柱の強い謙澄でも相手が、伊藤博文の盟友井上では歯がたたない。(笑)。

  • 山縣有朋
    (天保九1838~大正十一1922)長州出身、前名狂介。陸軍元帥、公爵。松下村塾に学び、維新に活躍。徴兵令を制定。内相、首相を歴任。日清・日露で功をたて、後に枢密院議長。元老として権力をふるった。
  • 井上馨
    (天保六1835~大正四1925)通称聞多「もんた」。侯爵。長州出身。維新に活躍。外相、農相、内相、蔵相を歴任。後年元老。

西南の役へ

別府

それから明治十年の西南役ですね。

玉江

征討総督本営付を命じられる。山縣有朋の引き抜きですね。有朋の幕下に入った謙澄は得意の健筆をふるいます。
城山にこもった西郷さんへあてた山縣有朋の降伏勧告状は情理を尽くした一世の名文ですが、謙澄の筆になるとも言われています。

司会

このあたり、司馬遼太郎さんの名作『翔ぶが如く』でも圧巻で、〈「辱知生(じょくちせい)山縣有朋、頓首(とんしゅ)再拝、謹デ西郷隆盛君ノ幕下ニ啓ス。有朋ガ君ト相識(し)ルヤ、茲(ここ)ニ年アリ。君ノ心事ヲ知ルヤ蓋(けだ)シ又深シ」という文章ではじまっている。
格調はかならずしも卑(ひ)くなく、後年、冷酷と老獪(ろうかい)をもっておそれられた人物とおなじ人間が書いたかとさえ疑われる。山縣は年まさに四十であった。多少の若さを残し、多少の感傷とみずみずしさを残しつつ、暮夜、幕営の灯のもとで、西郷を想う気持の昂(たかぶ)りを懸命に抑えつつ書いている光景が、目にうかぶようである。〉(文藝春秋刊)とありますね。

玉江

勧告文を続けましょうか。「窃(ひそ)カニ有朋ガ見ル所ヲ以テスレバ、今日ノ事タル、勢ノ不得已(やむをえざる)ニ由(よ)ルナリ。君ノ素志ニ非ルナリ。有朋能(よ)ク之ヲ知ル。」(略)
「君が人生ノ毀誉(きよ)ヲ度外ニ措(お)キ復(ま)タ天下後世ノ議論ヲ顧ミザル而巳(のみ)。嗚呼(ああ)君ノ心事タル寔(まこと)ニ悲シカラズヤ。有朋、コトニ君ヲ知ル深キガ故ニ君ガタメニ悲シムコトマタ切ナリ。」(略)「ソレ一国の壮士ヲ率イテヨク天下ノ大軍ニ抗シ劇戦数旬百敗撓(たゆ)マザルモノ既ニ以テ君ガ威名ノ実ヲ天下ニ示スニ足レリ」(略)
「願ハクバ、君早ク自ラ図(はか)リテ一ハコノ挙ノ君ガ素志ニアラザルヲ明ニシ、一ハ両軍ノ死傷ヲ明日ニ救フ計ヲナセ。(略)故旧ノ情有朋切ニコレヲ君ニ翼望(きぼう)セザルヲ得ズ。書ニ対シテ涕涙(ているい)ノ如ク、イワムト欲スルコトヲモ悉(ことごとく)スアタワズ。君幸二少シク有朋ガ情懐ノ苦ヲ察セヨ。涙ヲ揮(ふる)ウテ之(これ)ヲ草ス。書、意を悉(つく)サズ。頓首再拝」とあります。
司馬さんによれば、「山縣はこの手紙をさきに人吉の段階で書き、それを多少あらたに筆を加えたらしい」とあります。
有朋は歌人、散文家としても出色の人でしょう。そして周辺に謙澄が補佐していた。一幅の絵がうかびますね。

ロンドン八年

 
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明治の説得王・末松謙澄 言葉で日露戦争を勝利に導いた男

2021年06月30日 09時32分26秒 | 社会・文化・政治・経済

山口 謠司 (著)

明治の国難を救った知られざる偉人!

言葉で日本を創り、日本を守った男がいる。末松謙澄(すえまつ けんちょう)、福岡県行橋市に、日本がアメリカと不平等条約を結んだ翌年(1855年)に生まれた。
明治になってもまだ江戸の匂いの濃かった時代、日本という国の名前はあっても、ひとつの国としての形はまだ何も定まっていなかった。国としての「歴史」も、「議会」も、「憲法」も、「新聞」も、それらを書き記すための皆が分かる標準語としての「日本語」すらなかった。
日本をどんな国にするのか――政治家として、また多才な文化人として、西郷隆盛への降伏勧告状、大日本帝国憲法、下関条約の締結文の草案を書き、明治維新史『防長回天史』を編纂。日露戦争では日英同盟の強化などにより日本の窮地を救い、近代日本の礎を作った。
謙澄の作った道を今の私たちは歩いている。彼は何を目指し、何をしたのか――世界を舞台に活躍し日本の国際化と近代化に果たした謙澄の足跡を辿る。

【末松謙澄(安政2〈1855〉~大正9〈1920〉)主な業績】
●西南戦争において、西郷隆盛への「降伏勧告状」の草稿作成
●「大日本帝国憲法」の起草
●『源氏物語』を初めて英訳出版し世界へ紹介
●ウィリアム・アンダーソンによる日本美術史の先駆的研究書“The Pictorial Arts of Japan” の編纂に寄与。後に日本語に翻訳出版して日本美術史の発展に大きく貢献
●「演劇改良会」を主唱発足し演劇の近代化を推進
●日露戦争では渡英して黄禍論を抑え、ロビイストとして日本の勝利に大きく貢献
●晩年には、司馬遼太郎も数々の歴史小説執筆にあたって参考にし、いまなお明治維新史研究の第一級の基本史料とされる『防長回天史』(全12巻)を出版

【末松謙澄をめぐる主な人物】
義父:伊藤博文/生涯の友:高橋是清/ケンブリッジ大学の学友:オースティン・チェンバレン/西南戦争の際の上官:山縣有朋/「日朝修好条規」締結の際の上官:井上馨/「東京日日新聞」時代の先輩:福地桜痴など】

■著者略歴
山口謠司(やまぐち ようじ)1963年、長崎県生まれ。大東文化大学文学部教授。中国山東大学客員教授。博士(中国学)。大東文化大学卒業後、同大学院、フランス国立高等研究院人文科学研究所大学院に学ぶ。ケンブリッジ大学東洋学部共同研究員などを経て、現職。

『炎上案件 明治/大正 ドロドロ文豪史』(集英社インターナショナル)など著作多数。『日本語を作った男 上田万年とその時代』(集英社インターナショナル)で第29回和辻哲郎文化賞受賞。

 

著者は明治期の人物を中心に研究しており、『日本語を作った男 上田万年とその時代』などの著作で知られる。
 本書は、伊藤博文の女婿で、政治家やジャーナリスト、歴史家としても活躍した末松謙澄の生涯を総合的に紹介したもの。
 名前はときとき目にするのだが、どんなひとかはよく知らなかった。本書を通して、その人物や業績を理解できたのはありがたい。とくに若き日のイギリス留学時代や、のちに日露戦争工作で再訪したときのことなどは、詳細にとりあげられており、当時の日本とイギリスの関係についてもよく分かる。
 演劇改良運動や『源氏物語』の英訳なんてこともしていたのか。
 長州の歴史をまとめた『防長回天史』の執筆を巡っては、日本近代史をいかに描きだすかという葛藤も見えてきて、興味深い。

 

本屋での立ち読みから購入したことをお断りします。
末松さんのお名前は、幕末から明治に活躍された方々について短く紹介されていた文庫本(本の名は失念しましたが、15年くらい前に読んでいました)により、知っていましたが、その際の知識は、伊藤博文公のお婿さんという程度のものでした。
本書により、この方の、政治外交学術から文学演劇にまで至る、素晴らしい業績を知りました。
この方についての良いことしか記載されていないご本かもしれませんが、このような方がいらっしゃった明治時代の日本の幸せをしみじみと感じました。

 

 

 

 

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速報】青酸連続殺人事件 最高裁が筧千佐子被告の『上告を棄却』死刑確定へ

2021年06月29日 16時34分14秒 | 事件・事故

6/29(火) 15:04配信  MBSニュース

 夫や交際相手などの男性に青酸化合物を飲ませ殺害した罪などに問われ、一審・二審で死刑判決を言い渡された筧千佐子被告(74)の上告審判決で、最高裁は6月29日に被告側の上告を棄却しました。これで、死刑判決が確定することになります。

 筧被告は2007年~2013年にかけて、夫や結婚相談所で知り合った交際相手ら4人の高齢男性に対して青酸化合物を飲ませて、4人のうち3人を殺害し、1人を殺害しようとした殺人と強盗殺人未遂の罪に問われていました。

 一審の京都地裁(2017年11月)、二審の大阪高裁(2019年5月)では死刑判決が言い渡されていました。

 6月8日に最高裁で行われた上告審の弁論で、弁護側は「筧被告の認知症が進行し、訴訟を受けられる能力がない」などとして、裁判の打ち切りと無罪を主張していました。一方で検察側は「完全責任能力があった」として上告の棄却を求めていました。

 6月29日の判決で最高裁は「被害者らの殺害により、財産的利益を得ようとした動機に汲むべき点はない。青酸化合物を飲ませたのは計画的かつ巧妙だ」と指摘しました。また、「高齢であることなどの事情を考慮しても死刑はやむを得ない」として上告を退けました。

400
学びがある
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わかりやすい
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新しい視点

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競輪人間学 発想の転換

2021年06月29日 10時57分20秒 | 未来予測研究会の掲示板

悔しさを如何に生かすかが、命題である。
失敗は成功の因でもあるのだ。
だが、多くの場合、その失敗が失敗のままに終わっている。

1)本命ラインは買わない。
2)オッズは見ないこと。
3)固定観念に囚われない
4)思い込みを排する。

<発想の転換>で夢を追うことだ。
自分流の<勝負の型>を追及する。


GⅢ 久留米競輪場 第27回 中野カップレース

2日目 

並び 4-1 7-5-3 6-2-8

レース評
岡崎の力量が一枚上。自力を繰り出し押し切る。真田がマーク食い下がろう。一発秘めている小原が穴で四国連係に一考。

買った車券は以下

7-5-3(5.3倍)3000円
7-5-2(14.6倍)1000円
7-5-4(8.9倍)2000円

だが、5番選手は1番に張られてまさかの落車。
車券は紙くずに。

悔しさをバネに、「どこかで、7-5を軸に買おう」と決意!
だがこの日は出ない。
出走表を見ると、3日目の4レースが、2-7-5の並びだった。
「いけるかも」と狙いを定めた。
そこで、7-5からの総流し200円。
結果は、7-5-4 7万2,730円(188番人気)
前日、2万円を失ったが、幸運にも取り戻せたのだ。

2日目 5レース




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
× 1 4 小原 周祐   11.6   中団先捲り
2 7 岡崎 智哉 1/8車輪 11.5   後方B捲る
3 2 飯田 辰哉 6車身 12.1     飲まれ踏直
  4 8 梅原 大治 1/2車身 12.1     前団飲まれ
  5 6 樋口 開土 4車身 12.7   B 先行捲られ
6 1 上田 学 大差       3半絡んで
3 坂上 忠克         3半乗上げ
5 真田 晃       S 3半絡んで

戦い終わって

戦い終わって写真

 すんなり中団確保した小原周祐が最終2コーナーから捲り発進。やや出が悪い様にも見えたが捲り切って岡崎智哉の追撃振り切って勝利。「すんなり良い位置が取れたし、サッと行けてれば落車もなかったと思うんだけど、モコモコとした様な感じだった。前もタレてない様な感じではあったけど…。ちょっと脚力が落ちてる様な感じですね」。
 最終バックから捲り上げての2着は岡崎智哉。「行ける所から行こうという感じだったんですが、持ち出しただけで仕掛けられてない。行こうとする体が仕上がってないというか、原因が良く分からなくて…。前回いじったセッティングが良くないのかもしれない。何とか修正したい」。

-------------------------------------------------------

3日目 2021年06月28日 

4レース

並び 2-7-5 1-9-6 3-4-8

レース評
自力3人だがスピード評価なら片岡が一番。

坂本修との岡山ワンツー車券だ。林の先行迫力も魅力一杯で九州の独占車券特注。

 3日目 4レース




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 7 大塚 玲   11.7   捲乗り一気
  2 5 飯田 辰哉 1車身 11.7   マーク続く
3 4 古川 貴之 1/2車身 11.7     離れ乗換え
4 1 片岡 迪之 1/2車身 12.1   SB 主導権争い
5 2 菊池 竣太朗 1/4車輪 12.1     捲り切れず
  6 8 坂本 晃輝 1/8車輪 11.7     前が遅れて
7 9 坂本 修一 3/4車身 12.1     被り内追上
  8 6 木村 直隆 1/4車輪 11.7     前が離れて
× 9 3 林 慶次郎 3車身 12.5     1周踏合い

 

戦い終わって

戦い終わって写真

 打鐘で発進した林慶次郎をすかさず打鐘2センター過ぎにスパートした片岡迪之が叩く。ただ坂本修一はマークを外してしまい、菊池竣太朗が片岡に乗る形に。菊池が捲りを狙ったが片岡に合わされ不発。大塚は菊池を捨て外を踏んでの1着。「ジャンの4コーナーで片岡の番手に菊池が乗れたから、付いていけ、付いていけと応援していましたよ。ただ片岡に菊池が合わされちゃったからね。菊池もタレてきていたから、少し早いかと思ったけど外を踏ませてもらいました。1着が取れたし調子は良いですね」。
 1着の大塚にピッタリと続いた飯塚辰哉が2着。「菊池も先行する気持ちで踏んでいたから、ああいう形になれたんだろうね。自分は前の状況はちゃんと分かっていなかったから、ただ前に付いていっただけ。本当に前2人のおかげ。最後は誰かに内から来られるのが嫌で締め込んでしまったけど、それが菊池だったとはね。申し訳ない事をした」。

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創作人生の計算(6)

2021年06月29日 02時35分49秒 | 創作欄

有楽町駅から山手線に乗って目黒駅へ。
二人は目蒲線に乗って、田園調布駅へ降り立った。
「この駅舎素敵でしょ」ほほ笑む看護婦の津山典子は天使のように映じた。
「いい笑顔ですね」率直に讃えた。
「亡くなったママが、<笑顔は典子の誇りよ>と言っていたの」
彼女は鏡の中の自分に微笑みかけてながら笑顔を創った。
両手と胸を大きく広げて、バレリーナ―を真似て体をタウンさせた。
道行く人が、典子が優雅に回転する姿を振り返る。
「わたくし中学まで、バレを習っていたの」
駅の時計が午後10時を示していた。
15分ほど歩くと、閑静な住宅街が夜のとばりに包まれていた。
見上げれば星の輝きが増していた。
「流れ星!」感嘆する彼女の甘い声に改めて気付いた。
声美人という表現が当てはまる人だった。

大きな邸宅の離れの家屋が彼女の下宿先であった。
共同のトイレがあるが、風呂はなかった。
「何か、話てみて、あなたのこと、知っておきたいの」
二人は向き合って座っていた。
座布団はない。
看護婦の津山典子の部屋に初めて泊って日のことが忘れられない。
3畳一間の下宿で、本棚と座り机だけがある、閑散とした部屋だった。
隣の部屋には彼女の同僚が住んでいたが、この日は夜勤で留守だったので、久岡武雄を誘ったのである。
「性は、どう処理しているの?」そんなことを問われるとは思わなかった。
明治の人・夏目漱石に傾倒する生き方を貫いてきた久岡は、それまで性の未経験者だった。
いわゆるモラルバックボーンを貫く行き方だった。
「わたくしのこと、抱こうなどと思わないでね」彼女から釘を刺された。
「この人は、どんな生き方してきた」のだろうかと想ってみた。
この人に<女>の見えない部分が秘められているとしたら、それは何であるだろうか。
津山典子という<女>に囚われていくような、危うい違和感を覚えたのだ。
実は、久岡の卒論は「漱石文学女性論」だった。
論文の指導教授から「女性論は、止めなさい」と指摘されたのだが、彼はそのテーマに拘泥した。
彼女の存在が一つの<題材>になるような予感がした。

 

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創作 人生の計算 5)

2021年06月29日 01時23分43秒 | 創作欄

「記者さんは、忙しいのね」魅惑的な表情で微笑む。

彼はそん笑顔とミニスカートに幻惑された。

日本看護協会で出会った時とは全く違う容姿であり、付けまつげの化粧で変貌していたので唖然とした。

しかも、タバコを吸っていて、灰皿の置きタバコの煙を消しながら、「コーヒーでいいかしら?」と問いかける。

実は彼はコーヒーが苦手でソーダーを好んで飲んでいた。

「看護の仕事は、ストレスが溜まるので、タバコに頼ってばかり。健康に良くないのだけど」彼女は肩をすくめた。

彼はタバコを吸わなかったのに、何故か彼女がタバコを吸う姿に特別なものを感じ始めていた。

「タバコ吸う横顔、似あっていますよ」口から出た言葉に彼自身、戸惑う。

タバコを吸わない相手に気づかって、彼女は顔を横に傾けてタバコの煙を噴き出していた。

緑色のソーダーを飲み終えた後、彼は取材者の立場となり、「ところで、看護婦のストレスの原因は何ですか?」と問う。

「男患者の身勝手さや厭らしさ」
看護の現場は、過密な労働実態絶対的な人手不足だという。
とにかく忙しすぎて、時間内に仕事が終わらない。
昼休みも短縮している。
家に帰ると、疲れすぎて何もする気にならない。
食事もままならず、1 口食べてはナースコール対応に追われる。自分がトイレに
入っている暇もない。
次のナースコールの対応に走らなくてはならない。
「ちょっと待ってて下さいね」と何度言わなくてはいけない。
毎日病院の中を走り回っている。
取材する記者の立場では、見えな医療現場の暗部である。

看護の場でよくあるのは、患者の採血や血圧測定、清拭などのときに、患者から胸やお尻、腰などを触られるケース。
 さらに、夜間は鳴り響くナースコールの数。
淡々と語ると津山典子はため息をついた。

「人生には、引き算、足し算があるものね」看護婦の津山典子の言葉は、唐突に聞こえた。
<この人は、外見に似合わずに精神は精細なのだろうか?>久岡武雄は相手の瞳を改めて見詰める。
「看護学校時代に、親友と思っていた人から、<あなたと付き合って、少しも良いことがない>と言われて、とてもショックだったの」は煙草の煙を天井に向けるように噴出した。

ホテルのラウンジカフェは、昼間はおしゃれで商談などの用いられるが、夜は大人の雰囲気がただようシックなバーにも変貌する。
恋人同士がゆっくり会話を楽しむ場であり甘さも漂う。
久岡はこれまで、女性と二人きりで会話することがほとんどなかった。

赤坂プリンスホテル・旧館は、「李王家東京邸」で、1930(昭和5)年に完成した。
どこか気品が漂う津山典子は、クラシックな建物に同化するように想われた。
これは、慾目であっただろうか。

「野菜不足なのよ。サラダが食べたくなった。銀座へ行きましょう」彼女は席を立った。
ホテル前で客待ちをしていたタクシーに乗り込む。

デートで銀座のサラダ専門店へ

生野菜は勿論、根野菜を中心に食べれるだけ食べる店だった。
野菜専門の店だけあってやはり野菜が美味しい。
野菜でお腹いっぱいになるのが美容と健康的にも良いようだ。
デザートもある。
客は大半が女性たちで、久岡武雄は店では浮いた存在に映じただろう。
「良ければ、私の部屋へ来ませんか」
意外な誘いだった。

 

 

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創作欄 兄と妹 徹の青春 12

2021年06月29日 01時05分24秒 | 創作欄

2012年3 月17日 (土曜日)

徹が17歳の時に、浅沼稲次郎暗殺事件(1960年10月12日)が起きた。
東京都千代田区にある日比谷公会堂で、演説中の日本社会党委員長・浅沼稲次郎が、17歳の右翼少年・山口二矢に暗殺されたテロ事件である。
徹は妹の君江を強姦した男たちに制裁を加えるために群馬県沼田の街中を探し回っていた。
家の古い桐箪笥の中に、江戸時代から伝わる脇差や小柄が収められていた。
脇差は、刃長 一尺八寸二分五厘(55・3㎝)である。
小柄は刃長11・5cmだった。
それを剣道の竹刀袋に納めて徹は沼田の街中を歩き回っていた。
徹は君江の強姦事件を契機に高校を中退してしまった。
父親は怒り、「家を出ていけ!」と怒り、徹を何度も殴りつけた。
徹はその痛みを3人の男たちへの報復の導火線とした。
「徹さん、怖い目をしている。嫌い!」

徹は常軌を逸して、血走った異様な形相をしていた。
加奈子は徹からやがて離れていく。
そのような時期に、浅沼稲次郎暗殺事件が起きた。
しかも、右翼少年・山口二矢は奇しくも徹と同じ17歳であった。
社会の世情に疎く、考え方が甘かった自分への憤りも日々つのってきた。
「兄貴として、15歳の君江の身を守ってやれなかった。俺が悪かった。おれはダメな人間なんだ。一生この十字架を俺は背負っていく」
徹は悔やんでも悔やみきれなかった。
君江は、「私が強姦されたことを警察に訴えたら、私は死ぬからね」と泣いて訴えた。
加奈子は風呂を沸かして、3人の男たちによって蹂躙され君江の体を丁寧に洗ってやった。

実の姉のように優しい気持ちを込めて洗ってやった。
「私たちが、悪かったの。許してとは言えないけれど。死ぬことだけは思いとどまってね。君江さんが死んだら、私も後を追って死ぬ。本当よ。いいわね」

加奈子は3人の男の精液で汚された君江の膣を念入りに洗浄してやった。
「妊娠するかもしれない」
加奈子は産婦人科へ連れて行こうとしたが、君江はそれを頑なに拒絶した。
あの日(8月5日)外出していた父にも母にも君江が強姦されたことは知らせることが出来なかった。
君江を溺愛していた父親は当然、愛娘が強姦の被害を受けたことを警察に届けるだろう。
その結果、君江は自ら命を絶つかもしれない。
徹は頭が混乱して、頭を掻きむしった。

2012年3 月18日 (日曜日)

創作欄 徹の青春 13

稲穂が豊かに実る田圃の先にはテーブル状の珍しい山容の三峰山が見えていた。
右には戸神山の尖った山容が望まれた。
市街地の田圃では秋の深まりの中で稲刈りが始まっていた。
沼田城址のシンボルである「御殿桜」は樹高約17㍍の巨木であり、紅葉していた。
春には200余の桜が市民の目を楽しませていた。
4月の上旬に御殿桜は満開となり、ソメイヨシノは4月中旬満開となる。
どれも大きな桜である。
徹は加奈子と夜桜見物に来たことを思い出していた。
そして徹から離れていった加奈子への未練が断ちがたく、紅葉した桜を見あげて涙ぐんだ。
徹は高校を中退してまで、妹の君江を強姦した男たちを探し回っていた。
「何処かで出会うはずだ」
沼田公園の突端の約70㍍もの崖から真下に清流の薄根川が青い水を湛えて流れていた。
小学生の頃、徹は従兄弟たちと夏にはその川で泳いだり、魚釣りをして遊んでいた。
薄根川の木橋を渡ると町田町の観音堂への道に至る。
その観音堂の裏で藤沢勝海は、17歳の女子高生を強姦した。
だが勝海の悪運が尽きる日が来た。
君江を強姦した3人の1人の17歳の少年が、「自慢げに強姦は面白い」と遊び仲間に吹聴したのである。
「やってみるか?」と少年が誘うと2人が興味を示して応じた。
彼らはたまたま通りかかった小学生6年生の女の子に声をかけた。
大柄な子どもであり、胸も膨らんでいたので、中学生に見えたのである。
3人は強引に女の子の体を押さえつけて、桑畑に引きずり込んだのであるが、女の子は恐怖心から金切り声を発して助けを求めた。
16歳の少年の1人が慌て女の子の口を封じたが、偶然、道を自転車で通りかかった2人の警察官の耳に届いていた。
2人は逃げたが、君江を強姦した17歳の少年が逃げ遅れて取り捕らえられ、強姦未遂で現行犯逮捕された。
そして少年の自供で藤沢勝海も逮捕された。
徹が男たちに報復を加える前であった。
徹は毎日、男たちを探し回っていたが、その日は徹が通っていた高校の国語の教師の佐田次郎に路で出会った。
「徹から少し話を聞きたい。いいな」
佐田は徹を喫茶店へ誘った。
徹はコーヒーが飲めないのでミルクにした。
佐田はコーヒーを美味しそうに飲んだ。
「徹はコーヒーが苦手か?」
徹が黙って肯くと佐田は微笑みを浮かべた。
徹は喫茶店へ入ったのは初めてであったので店内を見回した。
レジの傍にはジュークボックスが置かれていた。
レジ係りとウエイトレスを兼ねている若い女性は、赤く髪を染め厚い化粧をしていた。
壁にはルノアール画・イレーヌ・カーンダンベルス嬢の肖像の複製画が飾られていた。
徹はポニーテールの加奈子の横顔をそれの絵に重ね見た。
「徹にどのような事情があったかは聞かないが、学校を途中で辞めるのは惜しいな。徹には徹でなければ、果たせない使命があるはずだ」
「使命?」
徹は胸の中で、報復が使命なのかと思ってみた。
「自分を大切にすることだ。惜しい。もったいない。できれば、徹には大学へ行ってもらいたいんだ」
佐田は高校の教師のなかで、徹にとって一番好感が持てる教師であった。
大学を出て2年目の新米教師であるが、生徒への接し方に熱いものが感じられたのである。
「人に会う約束があるんで、今日は時間がない。今度、会った時はじっくり語りあいたい。徹には良いものがある。立ち直るんだ。いいね」
佐田が握手を求めてきた。
柔らかい温かい手の感触が徹の手に伝わってきた。

 

2012年3 月22日 (木曜日)

創作欄 徹の青春 18

徹の母親の江梨子がうつ病になったのは、3年前のことである。
原因は、夫の佐吉の浮気問題であった。
狭い沼田の街のことであり、江梨子はお花の稽古仲間の一人から聞いた。
「言おうか、言うまえか迷っていたのだけれど、私、見てしまったの」
お花の稽古仲間は7人いたが、その人とは格別親しかったわけではないので、江梨子は相手を訝って見詰めた。
4月の中旬で沼田城址公園の桜が5分咲きであったのに、昨夜降った雪が開花した桜の花びらと蕾を包み込むように積もっていた。
2人は立ち止まってそれを見た。
「雪が降り積もって桜が、かわいそうね」と江梨子は言った。
相手はまだ言い淀んでいる様子であった。
「あなた、何を言いたいの」江梨子は促した。
「あなたの旦那さんが、女の人と寄り添って歩いているところを、見てしまったの」
相手は気まずそうに俯いて言う。
「あなたは、私の夫を知っているの?」
江梨子は改めて相手の横顔を凝視した。
「実は、あなたの旦那さんとは尋常小学校の同級生だった。田代幸恵と言えば佐吉さんは覚えているはずよ」
田代幸恵は親しげに笑みを浮かべた。

「そうなの。世間は狭いのね」
だが江梨子は微笑むことができなかった。
城掘川に江梨子は目を転じた。
「私の家は、横塚町の菊屋商店の裏にあるの。遊びに来てね」
田代幸恵は、夫の佐吉について詳しく話すことなく立ち去って行った。
その夜から江梨子は不眠症になった。
「本当に夫の佐吉が浮気をしているの?」
浮気をすることなど江梨子には、とても信じ難いことであった。
江梨子は夫が戦死して、夫の弟の佐吉と再婚していた。
家長制度の名残りであり、兄嫁と義弟の関係からして如何にも日本的な結びつきであった。
一方では、明治時代の貞操観念から夫を亡くした妻は「2夫に交えず」(操正しき女は未亡人になっても、再婚しない)という教えもあったのである。
沼田祇園祭の8月5日、君江が強姦された日に佐吉は農協の旅行だと言っていたが、ある女の人と2人で新潟県の湯沢温泉に行っていた。
1956年(昭和31年)、経済企画庁は経済白書「日本経済の成長と近代化」の結びで「もはや戦後ではない」と記述、この言葉は流行語になった。
君江の強姦事件は、それから4年後(1960年)に起きた。

「徹、おぎょん(祇園祭の別称)には君江1人では行かせるな。何かあると困るからな。兄貴のお前が確りと面倒を見るんだ。いいいな。分かったか」
佐吉は旅行で家を出る前の夜、徹に釘を刺すように言った。
例年なら父親の佐吉が、沼田祇園祭に娘を連れて行っていた。
結果として、父親佐吉の浮気旅行が裏目に出たのだ。
浮気相手は、いわゆる戦争未亡人であり、妻の江梨子と同じ立場の人で会った。
18歳で結婚し、20歳で夫を戦争で失っていた。
江梨子の夫と同じ高崎陸軍歩兵第十五連隊で、昭和16年から始まった太平洋戦争の激化により、十五連隊は南方パラオ諸島に派遣され、ペリリュー島の攻防をめぐってアメリカ軍と激戦を交え、2個大隊分(約2000人)が全滅し、昭和21年(1946)、日本に帰還できたのは1個大隊分の人たちだけであった。

2012年3 月22日 (木曜日)

創作欄 徹の青春 19

徹の母親の江梨子は、うつ病を発症して病院通いをしていたが、信仰を得てから劇的に変化を遂げた。
それはほとんど奇跡的であった。
説明できない「何ものか」の存在を確信したのである。
「宇宙の法則」と呼ばれている教えを信じて、毎日祈り捧げていた。
1時間、2時間、3時間。
すると、内面から湧きあがるものを感じ始めた。
「不思議な現象は、誰にも起こるのです。ところが、多くの人はそれを無視します。例え不思議な現象が起こったとしても、単なる偶然だと思ってしまいます」
江梨子を信仰に導いた高校の教師をしている大月杏子が確信を込めて言っていた。
「本当だったのね」
祈り終えて江梨子は歓喜を抑え難くなった。
江梨子は、娘の君江を産んで2年後に子宮筋腫となり、子どもが産めない体となった。
さらに32歳で子宮頸がんとなった。
その後、夫との夜の営みに段々と抵抗感を抱くようになっていた。
夫の佐吉は若かったので不満を口にした。
18歳で徹を産んだ江梨子は、35歳になっていた。
夫の浮気に対して、「北風ではなく、太陽でいこう」と決意していた。
また、江梨子は母親として、15歳の娘の君江を信仰へ導いた。
「信仰はね。信じることから始まるの。いいわね。知識でも知恵でもないの。まず、信じること」
確信を込めて諭した。
君江は教えられるままに、母親の後ろに正座して祈った。
「君江は、素直な性格なので、不思議な現象が内面から湧いてくるわよ」
江梨子が君江を振り返り微笑んだ。
「おかさん、綺麗になったね」と君江が感嘆したように言う。
「そうね。内面が美しくなれば、それが面にも表れるはずね」
江梨子はうつ病を患っていた時には、暗く沈んでいてその表情から40代の女に見えていた。
君江は何かを会得したように、短期間で劇的な変貌を遂げた。
「宇宙の法則」に感応したようであった。
まず驚いたのは兄の徹であった。
徹は自分に課せられた十字架を一生背負っていく覚悟を決めていた。
「君江には、どうか幸せになってほしい。そうでなければ、俺の幸せもない」
徹は思い詰めていた。
「兄ちゃん、私のために高校を辞めてしまって、ごめんね。高校へ戻ってね。私はもう大丈夫だから。死ぬなんて2度と言わないからね」
徹が居間で太宰治の小説「人間失格」を読んでいる時、君江が徹の脇に並ぶように正座して言った。

徹は妹の君江を改めて愛おしく思った。

君江の容貌は母似であった。

「お前は、兄貴に段々似てきたな」

徹は戦死した父似だと義父が言っていた。

 

 2012年3 月23日 (金曜日)

創作欄 徹の青春 20

加奈子は徹との気持ちが離れていくなかで悲嘆に暮れていた。
徹の妹の君江を強姦したと思われる犯人の3人が逮捕されたことを新聞で知ってから、心の動揺を抑え難くなっていた。
君江は、「被害を警察に届けたら私は死ぬ」と泣きじゃくっていた。
「私はどうしたらいいの」
眠れない夜が続いていた。
16歳の乙女心は日々沈黙に堪え難くなっていた。
誰にも話すことができない、それはとても辛いことであった。
まさかと思ったが、8月5日に自分が交番を訪れたことを、あの時の警察官が覚えていたのだ。

高校からの下校途中に警官から呼びとめられて、交番に連れて来られた。
「あんたに協力してもらいたいんだ。頼むよ」

横柄に思われた警官が、帽子を脱ぎ汗を拭うと真摯な眼差しを加奈子に向けた。
加奈子がしばらく迷いながら沈黙をしていると、街の巡回から50代と思われる警官が自転車で戻ってきた。
「この子がどうかしたのか?」
戻ってきた警官は、交番の丸椅子に座る加奈子に視線を向けた。
加奈子はこの警官は信頼が置けると思った。
いぶし銀のような雰囲気であり、懐の深さを感じさせたのだ。
その警官は定年を間近に迎えていた。
「実はね、私は長年沼田で警察官をやってきたが、今度の事件のような犯人は初めてなんだよ」
交番の奥から加奈子のためにお茶を運んできて老警官は、しみじみとした口調で言うのだ。
逮捕された勝海は、24歳であったが強姦常習犯であり、実にふてぶてしい態度をとり続けていた。
だが、逮捕されて2週間後に義母が農薬を飲んで自殺をしたことを取り調べの中で聞かされると、それまでの態度を一変させた。
心に非常な衝撃を受けたのだ。
子どものころイジメにあっていた勝海を、義母は不憫だと実の子ども以上に溺愛していた。
東京大空襲で戦災孤児となった姉の子である勝海を、母性本能から哀れに思い引き取り育ててきたのだ。
ところがまさかであった、勝海は強姦常習犯として逮捕されてしまった。
「私の育て方が悪かったのだ」
義母は自分を責め抜いて、挙句の果てに自死の道を選んだ。
狭い月夜野の土地の目とマスコミの取材攻勢にも堪え切れなかったのだ。
「おい、勝海よく聞け! お前のおふくろが、農薬を飲んで自殺をしたのだ。そろそろ、洗いざらい話すんだ」
取調官は鋭い視線を勝海に向けて促した。
勝海はそれを聞かされると突然、取調室の机にうつ伏せとなり声を張り上げて泣いた。
そして9件の強姦の全てを、洗いざらい出すように自白した。
だが、強姦の被害届は3件のみであった。

 

 2012年3 月23日 (金曜日)

創作欄 徹の青春 21

老警官は加奈子の心を解きほぐすように、帽子を脱ぐと穏やかな口調で語りかけてきた。
「言いたくない事情があるんだね。分かるよ」
加奈子は老警官の五分に刈り上げたゴマ塩頭を見つめた。
老警官はその頭を左手で撫で回すようにして、微笑んだ。
「帽子をとると、お爺さんのように見えるかい? 私は実は年内で引退だ。お茶が冷めるよ」
加奈子は勧められるままにお茶を啜った。
40代の警官は、黙って加奈子を見つめていた。
加奈子の心を読みとるような鋭い目の光を放っていた。
「8月5日の夜のことを詳しく話してもらえないだろうか?」
加奈子はお茶を二口、三口飲んだ。
そしてあの夜のことを語り始めた。
「君江さんを1人で家に帰した私たち2人が悪かったのです」
加奈子は涙がこみ上げてきて、両手で顔を覆った。
2人の警官は無言で加奈子を見つめていた。
突然、突風が吹いて交番の窓ガラスが揺らいだ。
西に傾いた秋の陽射しに、冬の気配が感じられる時節となっていた。
老警官が加奈子に問いかけ、40代の警官が鉛筆を手に加奈子の話を筆記していた。
話し終えると加奈子はそれまで背負ってきたものが、いくらか軽くなったような想いがしてきた。
「ご苦労さん、家まで送って行きたいが世間の目もあるからね」
老警官は加奈子を交番の外に送る出しながら微笑みかけた。
加奈子は疎遠になってしまった徹に無性に逢いたくなった。
高校を中退してしまった徹は、相変わらず街中を彷徨していた。
だが皮肉であった。
徹は報復の炎に燃えていたのであるが、君江を強姦した3人の強姦犯人たちは警察に逮捕されていた。
加奈子は徹の報復を、「愚かな行為だ」と何度か思い留めるように諭してきた。
竹刀袋に江戸時代から家に伝わる脇差を隠し持って、徹は沼田の街中を彷徨っていたのだ。
「もう、徹さんにはついていけない」
16歳の加奈子が常軌を逸した17歳の徹から離れていったのは当然なことであった。
「でも、君江さんのことを警察に話してしまった以上は、直ぐに徹さんに会わなければならない」
加奈子は急ぎ足で徹の家へ向かった。

2012年3 月24日 (土曜日)

創作欄 徹の青春 23

沼田公園のある崖上の台地に最初に沼田城を築いたのは、鎌倉時代以来この地方の有力者であった沼田氏の12代万鬼斎顕泰である。
天文元年(1532)の頃であるとされている。
沼田城は倉内城とも呼ばれていた。
そして時代が経て、2万7千石の真田氏初代沼田城主となった真田信幸は、近世的な城郭の整備にとりかかり、二の丸、三の丸、堀、土塁、大門等の普請の後、慶長2(1597)年(一説には12年)には天守が完成したと言われている。
だが、天和元年(1681)11月、5代真田信利は江戸両国橋用材の伐出し遅延と失政の名目で城地は没収、改易となった。
沼田城は幕府に明け渡され、翌2年に城はすべて破却されて堀も埋められしまった。
大正5年(1916)、旧沼田藩士の子である久米民之助は、城地の荒廃を惜しみ私財を投じて購入して公園として整備し、大正15年(1926)に沼田町に寄付した。
断崖に面した本丸西櫓台の石垣や城址公園入り口の駐車場脇に残る三ノ丸土塁、わずかに残る本丸堀、西櫓台石垣、堀跡の一部などに城址としての名残をとどめているに過ぎない。
徹と加奈子は子持山が見える沼田城址の断崖の上に立っていた。
眼前に見える子持山を2人は見つめていた。
小学生の頃、学校の遠足で登った山だった。
「加奈子との別れの予感がするんだ」
徹はセーラー姿の加奈子の姿を目に焼き付けるように見つめた。
加奈子は恋心が既に覚めていたが、思わず徹の手を握り締めた。
密着した加奈子の豊かな腰の温もりが徹に伝わってきた。
「徹さん、高校に戻ってね。そのまま高校を中退してはダメ。実は私は音大を目ざしているの」
「音大?」
加奈子はしばらく沈黙して子持山を見つめていた。
徹は加奈子の瞳を見つめ、次の言葉を待った。
加奈子は子持山を見つめながら、母のことを想っていた。
子持山を見つめながらその山容に母と自分を重ね見た。
高い峰が母の姿であり、小さい脇の峰が自分の姿である。
昭和20年、東京は空襲の戦火に見舞われていた。
加奈子の母親の時子は、1歳の加奈子を連れて沼田の実家に疎開した。
「母はね、東京音楽専門学校を出ているの」
加奈子の母親の時子は、高校の音楽教師である。
徹は、「それがどうしたのか」と思いながら加奈子の話を聞いていた。
加奈子の母の時子は、声楽家を目ざしていた。
だが、戦争がその夢を打ち砕いたのだ。
時子は東京音楽専門学校のピアノ講師と恋愛関係となり結婚した。
東京の根津で新婚生活を送っていたのであるが、夫は昭和20年軍隊に招集され戦地へ赴いたのだ。
そして太平洋上で戦死している。
南方へ向かっていた戦艦が、アメリカ軍の航空編隊の空爆で撃沈されたのだ。
加奈子は話終えると目を輝かせるようにして、進路について明かした。
「母の果たせなかった夢を、私がかなえようと思っているの。私、必ず声楽家になるわ」
徹は高校を卒業する加奈子を待って、結婚したいと願っていた。
徹には格別、将来に果たすべき夢があるはずではなかった。

 

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大胆、勇気、前進のみ

2021年06月28日 11時06分17秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼過去がどうあれ、大事なことは、今から、いかなる一歩を踏み出すかだ。
▼たとえ怖くとも、新しい試みをするごとに驚きと希望と喜びがある―米国の作家・スタインベッグの言葉
▼思いにまかせぬ境遇にあって、あれこれ考え過ぎても、身動きとれなくなってしまう。
まず、できるこtおから目標を立てて、一歩、前へ進めば、そこから希望の活路が広がる。
▼万人に共通する「生命」を見つめることで、人は一切の差異を超えて理解し合えるものだ。
自分が変われば環境を変えられる。
▼学歴や地位、知識や富があっても、自分の生命を変えていかない限り、本当の幸福はない。
▼幸福は、誰かがもたらしてくれるものではない。
自分自身の手でつかみとるものだ。
▼世界を救えるのは、大胆、勇気、前進のみ―米国の詩人・ロバート・フロストの言葉
勇気の一歩は、未来の世代に受け継がれる。
今日より明日へ、一歩前進を!
▼どんな逆境にあっても<絶対に負けてではならない>と奮起することだ。

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