取手通信・医学情報社 山本 嗣信 (やまもと つぐのぶ)

医学情報社編集顧問
フリージャーナリスト

“国づくりは人づくり”その根本は教育

2016年11月30日 23時15分38秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力
★「いい方向へ、いい方向へと自分でとらえ、自分で『そうなる』『そうなってみせる』と決めることである」
★苦労が人をつくる。
挑戦が未来を開く。
★助け合う心を育てる。
5割近くも人が「近隣との日常的な交流」がない。
★強い国土とは、強い心の人間、そして人間同士の強いつながりのことだと思う。
★東日本大震災でも、「近所の人の行動や呼び掛け」が、自分自身の避難のきっかけになったと感じている人が多くいる。
★“つながり”が強ければ、いざという時に助け合い、支え合うことができる。
★地域社会において、隣近所との付き合いを深める日頃からの交流など、近隣同士が「声を掛け合うこと」が大切。
★“国づくりは人づくり”その根本は教育。
★防災教育の根幹は、命を大切にするということ。
“命の教育”なのだ。
「他人の命を守る」ことを徹底的に教える。
★個人主義を基調とした民主主義教育が徹底されるなか、「人を大切にする」「人をいたわる」といった公的精神が薄れて
きているのではないだろうか。
★「生命の尊厳性」や「奉仕の精神」といった心の教育が失われつつある。
★残念ながら、多くの日本の宗教は、子どもや若者を糾合する力が弱まっているように感じる。
★世界を視野に入れ、正しい価値観や思想、哲学を、世界に発信してほしい。
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思い付いて赤ワインを飲む

2016年11月30日 19時28分49秒 | 日記・断片
「日本酒が苦い、美味しくない」と父親が言う。
尋常ではないと思う。
「長くないわね」と知人の久保山さんの奥さんが言う。
その父は半年後逝く。
ところが、当方も同じように日本酒が苦くなる。
そこで、コーラで日本酒を割っている。
さらに、日本酒をやめ、梅、リンゴ、梨、桃、ブドウなどのチューハイやリキュール酒を飲んでいる。
ここ半年くらいの状況であるが、今日、思い付いて赤ワインを飲む。
すると、一番、合う感じがしてきた。
貧血気味とされるので、血液色の赤ワインが体に合う感じがしてきた。
また、赤血球の形成を助ける栄養素のビタミンB12や葉酸なども補給。
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老人会の会合へ行けなくなる

2016年11月30日 19時11分14秒 | 日記・断片
明日は午前10時から、月1回の老人会の会合。
当方は活動報告が、予定されていたが、取手東病院へ午前9時に行かなければならない。
今日は、「明日、家族と一緒に来て下さい」と言われている。
家人は今日は、「東京演歌ライブ」へ東京・亀有のリリオホールへ行く予定。
このため、家を出る前の家人には取手東病院のことは伝えていない。
問題が地元の関係。
組織活動の一員なので、即入院と言われたものの、当方の状況は簡単ではない。
代理人が必要なので、大ごとにはしたくなかったが、結果的に皆さんのお世話をかけることとなる。
心苦しい。
しかし、何が起こるか分からないものだ。
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大腸から出血?!

2016年11月30日 11時09分43秒 | 日記・断片
午後9時まで食事を終えて、翌日の午前9時過ぎからの胃カメラ検査にのぞんだ。
先日より、待合室には患者が溢れていた。
5~6倍くらい人が待っていたように思われる。
まず、血圧を自分で待合室で計測。
前回は上が182であったが、今日は162であった。
200を超えていたのは10年ほど前。
下は96であった。
30分ほど待つ間、スポーツ新聞を読んだり、テレビを見ていた。
大型のデジタルカメラの映像を見ている人が隣の席にいた。
覗くと紅葉の写真であった。
呼ばれて、6番の部屋に入る。
ゼリー状の麻酔薬を5分口に含む。
胃カメラの検診が40年ほど前に受けたが、吐き気がして何度もゲッという感じとなり身を震わせた。
女性が肩や腕を押さえていた。
2度とやりたくない検診であった。
今日の会計は1230円であった。
「胃は、大丈夫で何ともないけどが、ここかで出血しているな。輸血が必要だ。大腸から出血かな、即入院だね。血液が半分になっている。このままじゃまずね」
「ええ!」と半信半疑の気持ちとなる。
「明日、石津先生が診断すると思うけど、即入院間違いない。明日は家族と一緒に来て」
「大腸から出血していると思われるね」
そこまで分かるのか?
疑念が湧く。
「朝、起きたら、ふらっとするんじゃないの?運動は無理だと思うな」
前回、貧血と言われたが、臓器内で出血しているとは・・・
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「競輪はずっと続けな」

2016年11月29日 22時33分30秒 | 未来予測研究会の掲示板
★生活不活発病
体を動かさない状態が長く続くことにより、心身の機能が低下するという症状。
85歳までは自転車に乗ってあちこちに出掛けるほど元気であった人がある日、「足が痛い」と言ったきり、そのまま家に引きこもると、認知症の兆候が出始め、次第に重くなっていった。
★災害時の避難生活や体調不良などをきっかけに陥りやすく、重症化すると寝たきりになることもある。
誰でも年を取ると体が衰え、体を動かすことがおっくうとなる。

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★90歳となる「会長」
みんなが会長と呼んでいるが、本名は木島さん
息子さんに町工場を譲り、会長に退くとそれまでやらなかった競輪を始めた。
毎日、2万円を持って競輪場へやってくる。
「車券、当たりますか?」と声をかけられる。
「全然、だめだね」
「2万円もあったら、ボックス車券にすべきだな」と言うのは宮元武蔵。
だが、会長は3連単車券をバラバラ買っている。
「10点も15点買っているの?!ムダだな」と守谷の住人の佐野さん
帰りのバスで、残りの金を数える癖がある会長。
2000円、と小銭数百円。
その残った金で、夕食を食べて帰る。
会長は酒を飲まない。
長男の嫁さんが「じいちゃん、遊んできな」と毎日、2万円会長に渡しているのだ。
毎日、競輪場へ足を運んでいる間は、会長は認知症にならないだろう。
「競輪はずっと続けな」と武蔵。
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恩を知り、恩に報いるという生き方

2016年11月29日 11時22分00秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力
★「良きパートナー」とは?
最も多かったのは、“うれしい出来事があった時、一緒に喜んでくれた人”
苦境だけではなく、喜びを共有することが相手を強く「支える」ことになる。
★悩みがあれば同苦し、“勝利”した時はわが事のように喜んでくれる人がいる。
★悩みがあるから不幸なのではない。
悩みに負けないことが幸福なのだ。
自分に勝つ人に。
★恩を知り、恩に報いるという生き方。
恩を受けた“一人一人のために”
人々に貢献する人生を歩み続けたいと決意する。
★信仰を日常の生活から離れた特別な世界の事柄と考えたりするが、生活の場で直面するさまざまな課題を変革していく。
現実との戦いそのものが、仏の生命を涌現させる機縁となる。
今いる場所が自身の生命変革の舞台となる。
「信心即生活」
生活は、その人の信心の表れであると捉え、社会や生活の上で勝利していくことを教えている。








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正しい羅針盤

2016年11月29日 07時11分08秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力
正しい羅針盤、信仰や哲学がってこそ、幸福の道を歩める。
一念が変わると人生も一変する。
生命力を満々とたたえる。
その原動力は何か?
祈りであり、願いである。
「必ず勝利する」という一念・決意である。


























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飼い殺し?!

2016年11月29日 06時58分34秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力
リストラは幸にも伸びしろとなった

★「挫折力」とは、挫折を前進の力に変えることである。
「不屈力」「挑戦力」とも言い換えられる。
★挫折は、敗北ではない。
挫折を受けとめ、乗り越え、生かしていく。
挫折を積極的に受け入れ中で、厳しい時代を生き抜く力が身に付けられる。
★「挫折とは、自分の能力以上に挑戦した者だけが得られる特権であり、それが人としての伸びしろになる」
経営共創基盤・代表取締役CEO・冨山和彦さん
★55歳でのリストラ「沼田を飼い殺しにしてやる」と当時の社長は20年前に宣言し、その通りに実行したのだった。
実に稀に見る「陰湿な人間」であった。
だが、そのような人間に出会ったことが宿命。
反面教師となる。
★「その時に逃げてしまえば、“挫折”のままで終わる」
リストラは幸にも伸びしろとなった。
★「青春時代の本当の失敗は、失敗を恐れ挑戦しないことである」
1度きりの投稿で、詩を諦めた高校生時代。
結局はうぬぼれだけで、挑戦しなかったのだ。
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二俣事件

2016年11月28日 22時02分31秒 | 沼田利根の言いたい放題
2016年(平成28年)11月27日、毎日新聞掲載の記事で、事件を概要を知る。
冤罪事件をライフワークにしたいと思っている沼田利根にとっては、見逃せない記事であった。
1面から6面に記事はつづく。
食い入るように記事を読んだ。

黄ばんだ新聞の縁
―「警察官告発」の果てに66年後の巡り合い
1面見出し

冤罪 終わらぬ苦しみ
「警察官告発」の果てに
拷問のアザ 心の傷
残された人も翻弄された
6面見出し

記事を書いたのは隈元浩彦記者(オピニオングループ編集委員)

かつて二俣警察巡査の山崎岳八さん(2001年8月、87歳で死去)は、1950年11月、須崎満雄さん(2008年10月、77歳で死去)の取り調べが警察署の土蔵で行われ、拷問の末に「供述調書」が取られたと新聞社に実名で投書し、弁護側の証人として出廷した。
現職警察官の告発に、静岡地裁は偽証容疑での「逮捕」で報復した。
起訴前の精神鑑定で山崎岳八巡査は「妄想性痴呆症」と診断された。
警察側・検察側は、山崎巡査の法廷での証言を「妄言」として葬る算段だったのだろう。
現場に残された足跡のサイズが須崎満雄さんのものと合わないと明かした。
現職の身でありながら、職を賭してまで警察側の拷問の事実をバクロし、警察官の職を追われた。
最高裁は供述調書などを吟味し、1953年11月に「自白の真実性が疑われる」と結論づけ、そのうえで「原判決を破棄しなけれな著しく正義に反する」とした。

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1960年代初め、山崎岳八元巡査が名誉回復のために集めた資料の大半は自宅が不審火に遭い失われた。
そして長女に預けていた書類も、土に埋めていたため腐って土に返った。
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冤罪はなぜ起きるのか?
警察側の焦り、勇み足、捜査不足、思い込み、事実誤認、人権感覚の欠如など総合した組織的な欠陥であろうか?

さらに厳しき言及すれば、一番の問題は、「冤罪を見抜けない」裁判官の資質。

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【事件概要】

 1950年1月6日、静岡県磐田郡二俣町(現・天竜市)で一家4人が殺害されるという事件が起こった。
 同年3月、二俣に住む少年S(当時18歳)が窃盗罪で別件逮捕される。同時にこの殺人事件についても取り調べられ、その結果Sは自白した。一審、二審とも死刑を言い渡されたが、最高裁では原審を破棄、1957年差し戻し審で無罪が確定している。


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【二俣の一家4人殺し】

 1950年1月6日、静岡県磐田郡二俣町二俣(現・天竜市)、国鉄二俣駅西方500mのところにある無職Oさん方で、4人が殺害されるという事件が起こった。

 7日の午前6時頃、長男のT君(当時12歳)が目を覚ましていたところ、同じ6畳間で寝ていたOさん(46歳)、その妻(33歳)、長女(4歳)、二女(2歳)の4人が血だらけで死んでいるのを発見、Oさんの兄方に急報、二俣署に届け出た。

 亡くなったOさんは短刀で右頚部を8回刺されており、妻は左頚部と後頭部に10ヶ所の刺し傷、長女は絞殺、二女は母親の下敷きになっての窒息死だった。夫妻殺害の凶器は匕首と思われたが、現場からは発見されなかった。押し入れ内は散乱しており、強盗殺人の疑いが強かった。

 殺害現場の部屋にはT君の他、次男(当時9歳)、三男(当時7歳)が寝ており、隣室には老母(当時87歳)が眠っていたのに、誰もその凶行に気づかなかった不思議な事件だった。
 Oさんは戦争中菓子職を辞め、日本楽器佐久良工場の守衛となり、前年人員整理のため退職していた。それからは事件当時まで無職の状態である。おまけに同家は3年前の大火で、焼失して1階のバラック建てという粗末な家屋である。商店街に面したにぎやかな所にあるが、近所でこの惨劇に気づいた人はやはりいなかった。怨恨の線にしても、Oさんは酒好きだが、温和な人物であるということが近所の人の証言で出た。

 この当時、警察は自治体警察(町警)と国家地方警察(国警)の二系統あり、二俣の町警はこんな重大な事件の捜査にあたった経験が乏しかった。そこで町警は国警に応援を要請、その日じゅうに紅林麻雄警部補、松島順一部長などベテラン刑事数人が配置されることになった。紅林警部補は浜松事件捜査で表彰された実績があり、幸浦事件(1948年)、小島事件(1950年)、島田事件(1954年)なども手がけ、「オニ警部」の異名があった人物だった。


【推理材料】

 残された手がかり、現場の状況、家族や近所の人の証言は次のようなものだった。

(1)犯人は裏口から侵入したものと見られた。というのも、裏手10坪ほどの空地に雪に残った地下足袋、あるいはズック靴の足跡が勝手口に向かって6、7歩分あり、内部から外部に向かったものには見えなかったからである。

(2)O家から西の農業協同組合の板塀の上に、手袋の中に匕首を差しこんだものが発見される。この場所は逃走経路と見られ、匕首は刃渡り5寸7分、日本刀を切りつめて改造したもので、牛皮のさや部分には「K」と「A」という文字が刻まれており、血液も付着していた。この事件の、犯人が残していった貴重な手がかりだが、この出所はわからなかった。

(3)遺体の解剖は警察医・鈴木完夫氏、岸本英正氏が行った。
 Oさんの死亡推定時刻は6日午後7時20分から翌午前0時20分までの間、二女は午後11時頃(以上鈴木鑑定)、妻は午前0時頃、長女は午後10時から11時(以上岸本鑑定)という結果が出た。つまり午後10時から翌0時までの間、平均して11時頃に犯行が行なわれたのではないかと見られた。

(4)傍で寝ていた次男の証言
「事件の夜、夜警の音で眼を覚ますと、若い男が母の枕もとであぐらをかいて新聞を読んでいた。顔は新聞の影になっていて見えなかった。そのうち立ち上がって裏口から出ていったけど、こわくなって泣き出したら、兄(長男T君)にうるさいと言われたのでそのまま眠った」
 当時、Oさん方近くでは毎晩11時過ぎ自警団が鈴を持って夜警に廻っていた。次男が聞いたのはこの音であった。さらに死体鑑定の結果から、次男の見た男は犯行後、午前2時半まで現場にとどまっていたことがわかる。これは犯人が夜警を恐れたものと見られた。夜警は自治会のもの、消防団のもの、商店街のものなどがあり、午前4時頃まで続いていた。

(5)ベニア板一枚で仕切られた隣家の人の証言。
「隣りの子どもが2時半頃起きる音が聞こえた」
「Oさんの家の音は、夜中便所に起きる音も聞こえるほど壁は薄い。けれど大きな声や音は聞こえてこなかった」

(6)現場の6畳間の柱時計は11時2分で止まっていた。この時計には、犯人のものと思われる親指の血染めの指紋が付着していた。

(7)この指印と同じ血のものが祖母の枕にも付着していた。

(8)台所の土間に、手拭のような布の燃えかすがあった。

(9)隣家の人は、事件当日9時にOさん方で時報が鳴るのを聞いており、ラジオのダイヤルは900キロサイクルを指しており、スイッチはONになっていた。


 この事件はあまりにも不思議な点が多すぎる。
 強盗犯だとすれば何故あえてバラック小屋のOさん方に入ったのか。夫妻と娘2人が殺害されているのに、なぜ傍で寝ていた男の子3人は襲われなかったか。なぜ子どもたちや、薄い壁で隔てた隣家の人はこの凶行に気づかなかったのか。そして次男の見た若い男は誰なのか―――。

 1月、2月と時は流れ、捜査は行き詰まりを見せていた。その焦りからか、少しでも怪しい者、素行不良の者など300人以上の人間を容疑者として取り調べをしたという。この際、釈放となった人間が口を揃えて「ひどい取り調べを受けた」と漏らしていた。


【ある奇術師一家の少年】

 2月23日、警察は町内に住む奇術師一家の少年S(当時18歳)を窃盗罪で別件逮捕した。

 二俣には「大正座」という奇術の出し物をする劇場があった。経営者はジュリー・ベティーこと石井ジュリーである。この女性は初代フランス大使と日本人娘との間に生まれた子どもである。ジュリーは奇術師・松旭斉天一の弟子の結婚し、男の子を出産した。この男の子はSの父親で、Sからすればジュリーは祖母にあたる。
 
 Sは満州生まれ、家族は両親と弟3人がいる。二俣の小学校高等科を出たあと、叔父の経営していた興行師・松旭斎天一座に入り、小屋の電気係を務めて全国各地を巡業した。48年10月に脱退した後は祖母を頼って二俣に戻り、1年ほどゲタ工場に工員として働いていたが、父親が中華そばの屋台を始めてからはそれを手伝っていた。麻雀が好きで、小遣いに困るとコソ泥を働き、以前に背広やジャンパーを盗んで、警察の世話になったことがあった。異人の血が入り、芸人の子であることは、この小さな町に暮らす人々から白い眼で見られることになった。


 逮捕後、二俣署内の土蔵の中で行なわれた取り調べは過酷を極めたとされ、2月27日にSはついに「自分がやりました」と自白した。とられた供述調書の内容は大まかに以下のようなものだった。




自白調書


▽動機――麻雀のバクチが大好きで、のめり込むあまり金に困ってやった。

▽匕首の入手先――1月5日午後8時頃、買い物しに行こうと家を出たら、家の近くのゲタ工場の縁の下に25、6歳の白いマスクを掛け黒っぽい服を着ていた男が何かを隠して行ったのを見て、その場所に行くと、白い天竺の布の中に匕首があった。それを自分の家に持ち帰り、縁の下に隠しておいた。

▽手袋の入手先――1月6日午後6時半頃に、表に遊びに行って大正座のところまで来ると大正座あとの広い道路に面したところにあった丸太の上に落ちていた。

▽当日の行動――午後7時半頃、家で夕食をとった後、昨日拾った匕首を皆に見せようと思い、縁の下からこれを取り出し、ズボンのポケットに入れ、新町の方に歩いて遊びに行った。貸し本屋や電器店などいくつかの店を冷やかしていたら8時半になり、友達にも会えないのでうろうろしていたところ、なんとなくOさん宅であるバラックの前を通りかかった。人の声がしなかったため、裏口のガラスをそっと開けてみると鍵はかかっていなかったので侵入した、部屋内を物色した。

▽殺害時刻――午後9時頃




 自白調書によると、SがOさん宅に押し入り、殺害したのは午後9時ごろとなっていたが、Sは事件当夜の11時前後から、二俣の遊郭付近の路上で父親の屋台の手伝いをしており、麻雀店の女主人も11時頃にSが出前を持ってきたことが証言していた。
 このため遺体鑑定による午後11時前後殺害と、柱時計の件と矛盾するが、警察は「時計の針を動かして犯行時刻を偽装したのだろう。一体どこから思いついたのだ」と追及した。
 これはSが愛読していたという探偵小説の中に、江戸川乱歩著の「パレットナイフの殺人」があったからだった。この小説では犯人が殺した相手の腕時計の針を回して止め、アリバイを作るという偽装工作がでてくる。警察はこれを参考にしたのではないかと見たのである。

 3月17日、Sは殺人で起訴された。


【内部告発 ~真相究明者か、精神異常者か~】

 4月12日からの第1回公判の前日、Sは「私の自白は警察の酷い取調べによるものであります。私は真犯人ではありません」という上申書を提出した。
 また審理に入り、判決が迫ったある日、読売新聞に殺人事件捜査に加わっていた二俣署の山崎兵八巡査の投書が掲載され、「Sは拷問によって自白させられたもので真犯人ではありません」と記されていた。

 山崎巡査は二俣署員だが、当初から国警主体の捜査に疑問を持っていた。現場の状態などから、「Sをクロとする事実は見当たらない」と紅林警部補に進言していたが、紅林警部補は耳を貸さず、山崎巡査は特捜班から外され、さらに刑事係から他の係へ移されることとなった。

 12月25日、山崎巡査は弁論で証言台に立つ。
 山崎巡査はS逮捕の前にも何十人かの容疑者に拷問があったことを明らかにした。その間、国警刑事、署の同僚などが敵意を込めた視線を彼に突きつけていた。

 その後、上司である小林署長の証言が始まる。
「事件発生当日の朝、山崎は二俣署の刑事室におったという事実はありません。また山崎は事件発生直後、私を自宅に自動車で迎えに来たのであります。彼は事件現場に足を踏み入れていないはずであります。山崎の勤務状態は異常であります。性格は変質的で、嫌いな客が来ると、お茶の中にツバやフケを入れて出す。上司が留守の晩などは、どこかに火事が起これば良いと神様に頼む始末であります」
 
 小林署長は、いや警察は山崎巡査を精神異常者であるかのように仕立てたのである。この後、山崎巡査は辞職を勧められ、これに従った。だがそれでも独自の調査は続けた。
 この事件を独自に調査している人物は他にもいた、小池(旧姓南部)清松元刑事である。民間有志という立場で捜査協力し、小池元刑事もまた、法廷でSをシロとする証言を行った。

 1950年12月27日、静岡地裁浜松支部はSに死刑を言い渡す。裁判所は山崎・小池証言を無視し、小林署長の証言を全面的に採用したのである。
 同じ日、山崎巡査は偽証罪で逮捕、免職となっている。
 
 浜松拘置所に入れられた山崎元巡査は精神鑑定を受けることになった。名古屋大学付属病院精神神経科医・乾憲男氏が鑑定を担当し、その結果「妄想性痴呆症」という結果が出た。
 山崎元巡査は起訴されなかったものの、再就職の口も閉ざされ、新聞配達とわずかな山仕事で生活する日々が続いた。さらに自宅が不審火により焼失するということがあり、裁判資料などもすべて燃えてしまい、再び二俣事件の証言台に立つことはできなかった。なお火事の直前には、山崎元巡査の家族が不審な長靴の男を目撃していたが、警察の捜査はうやむやとなった。


【弁護士への手紙】

 1951年9月、東京高裁で、控訴棄却。
 この頃、清瀬一郎弁護士のところにある手紙が届く。「二俣事件の犯人とされているS少年は、どうもほんとうの犯人とは思えないフシがあるから、あなたの力でぜひ弁護してやっていただきたい」という内容のもので、清瀬氏はすぐにSの主任弁護人となり、最高裁に上告した。

 1953年11月、最高裁は 原審を破棄、裁判のやりなおしを命じた。その根拠として、Sの足は24cmで、返り血が着衣に付着していなかった点、匕首入手の架空性を指摘した。

 1956年9月20日、静岡地裁・矢田部裁判長は無罪判決を言い渡す。窃盗の件は本人も認めたため有罪となったが、執行猶予となっている。

 1957年10月26日、東京高裁で控訴棄却。一家4人殺しの無罪が確定した。
 拘置所を出たSは、浜松駅で両親に抱きついて泣き、同じく出迎えた小池元刑事もこれに涙した。




≪参考文献≫

岩波書店 「誤った裁判 ―八つの刑事事件―」 上田誠吉 後藤昌次郎
岩波書店 「法医学の話」 古畑種基
現代書館 「FOR BEGINNERS 死刑」 前坂俊之
講談社 「権力の犯罪 なぜ冤罪事件が起きるのか」 高杉晋吾
三一書房 「無実を叫ぶ死刑囚たち」 無実の死刑囚連絡会議編
社会思想社 「20世紀にっぽん殺人事典」 福田洋 
すずさわ書店 「無実は無実に 再審事件のすべて」 朝日新聞社編
中央公論社 「法医学秘話 今だから話そう」 古畑種基 
東京法経学院出版 「明治・大正・昭和・平成 事件犯罪大事典」 事件・犯罪研究会・編 
図書出版社 「冤罪の戦後史 つくられた証拠と自白」 佐藤友之 真壁ひろし 
図書出版会 「拷問 権力による犯罪」 森川哲郎
日本評論新社 「拷問捜査 幸浦・二俣の怪事件」 清瀬一郎 
日本評論社 「死刑 消えゆく最後の野蛮」 正木亮
批評社 「ドキュメント精神鑑定」 佐藤友之
毎日新聞社 「サンデー毎日特別号 犯人は誰だ?戦後迷宮事件特集」 
洋泉社 「実録この殺人はすごい!」 柳下毅一郎監修
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命を磨きながら努力を重ねるのである

2016年11月28日 10時06分17秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力
創造する人類
絵画、彫刻、詩歌、文学、哲学、科学、化学など。
人生をより強く、より深く。
創造の原動力である。
苦悩を抱えながらも生き生きと活動する。
課題、目的などから“逃げない”強さ。
「一日一日、一刻一刻の確実にして営々たる努力。その集積の上に樹立された成功でなければ、本物ではない」
“本物の努力”を貫く。
どんな苦労も成長のための修業である。
芸術・文学は、内面からほとばしる生命の表現。
命を磨きながら努力を重ねるのである。
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虚構を信じて協力する能力

2016年11月28日 09時50分32秒 | 沼田利根の言いたい放題
ネアンデルタール人などの競合種が滅び、なぜホモ・サピエンス(現生人類)だけが生き残ったのか?
歴史の決定的転換点は?
今から数万年前に人類の脳内で起きたとされる「認知革命」。
これは虚構について信じ、伝達する能力を得たという革命であった。
これによって神話や宗教などが生まれ、ホモ・サピエンスは無数の他人と協力できる唯一の種となった。
それが人類を地球の覇者たらしめた最大の原動力―イスラエルの歴史学者・ユヴァル・ノア・ハラリさん
貨幣や法律、国家などの文明の礎も、“虚構を信じて協力する能力”の賜物なのである。
実に大胆な推論である。
いずれにしても、人類脳の発達の中で、「神や仏」が生まれたのである。
それを虚構としていることにも納得できる。
沼田利根
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文学は日常生活の上に成り立つもの

2016年11月28日 06時00分15秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力
言葉がだんだん衰弱しているのではないかという疑念におそわれた。
心の奥底から、湧き出るような、生きた言葉がほしいと思った。
それにはどうしたらいいのか。
その一つに、自分の経験つまり過去をたどり、自分の少年期のことを散文形式で詩にしてみた。
この詩集を書いていた頃は、とても伸び伸びと自由になれた。
自分の過去を書くことによって、言葉が満ち溢れるのを感じた。
私は自分の少年時代に戻ることによって、もう一度人生を生きたのである。
私は『ゆっくりとわたし』という詩集で言葉の出発点を再確認できた。
言葉に対する疑念は払拭されたのだ。
そして今の自分はどうなのか、という素朴な疑問から生まれたのが『朝起きてぼくは』という詩集である。
文学は日常生活の上に成り立つものであるということだ。
人が生きていくための暮らし、これなくして芸術も文学もない。
まずは徹底して日々をしっかり生き抜いていくところに、詩が存在するのである。
もう一つは読みやすさという観点である。
読めば理解でき、スッと頭の中に入る。
なによりも読んで楽しいこと。
また、読んだあとに、考えさせられること、再び読み返したくなること。
そのような詩集を意識している。
とくに徹底したことは、日常の些細なことを取り上げたことだ。
どんな大きな世界も、小さなことがしっかり理解されなければ始まらない。
詩は些細なことを表現するのに向いている。
詩人・金井雄二さん
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2016年11月27日 17時58分24秒 | 日記・断片
今日の地元八重洲地区の会合では、健康について話題となった。
参加した方の中のお二人が同じような症状で目まいについて報告した。
最悪のケースとして、脳の疾患を疑ったそうだ。
どうやらお二人は、耳石器・三半規管の障害に関連しているようであった。
目まいの原因は?
当方は先日、東取手病院で「貧血気味」とも指摘されたが、「めまい」には耳が原因になるもの、脳が原因になるもの、または心因的な状態で起こるものとさまざま。
三半規管に障害が起こると体が回転するようなめまいをおこす。
耳石器は加速度や重力をとらえる器官。
ここが障害されると、ふわふわするようなめまいをおこす。
また、今日は、皆さんから過去の勉学などの思い出を聞いた。
学校以来勉学に励むことはないが、生涯勉強である。
人生の核を確かにするために学ぶのである。
人生を充実させ、地域・社会貢献のために学ぶのである。
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もう一度近代的価値を考えていかなければならない

2016年11月27日 11時27分45秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力
★文壇、論壇が明確な形を失った一方、自由や平等といった近代の価値観を否定するかのような動きが国内外で目立つ。
小林秀雄から吉本隆明、江藤淳、そして柄谷行人さんに至る、文学的素養、教養をもとに社会や政治と批判を接続していく回路が一定期間、戦後日本社会の左派もしくはリベラルな勢力の知的な資源になっていました。
文学、哲学、思想、社会問題、政治問題が交差する地点で、論壇、文壇が長らく成立していた。その状況を体現した最後の人が柄谷さんのような気がします。東京大学教授北田暁大さん
★そうですね。柄谷さんは自ら「文学は終わった」と宣言して文芸評論を閉じました。東京大学教授・小森陽一さん
★1995年以降、ニューアカデミズム世代でも、もう一度近代的価値を考えていかなければならないという形で問題を引き受けていく者と、非政治化、生活保守の方向に流れていく者とに分かれました。
相対主義的な生活保守に向かった人々にとって、戦う相手は近代です。
彼らは近代は乗り越えなければいけないといいますが、その価値はそもそも社会では共有されていない。
北田さん
★近代的価値が現在では社会で共有されていないのです。
近代的な価値観が嫌なので離脱します、という感覚と言説ばかりが目立つ傾向が広がっています。小森さん
★近代・多文化うざい、の剥奪感が蔓延している。
最悪の「ポストモダン」です。
そこに相対化の極北にあるジジェク氏(哲学者)のような人も乗った。
北田さん
★同感です。
今年は夏目漱石の没後100年で、来年が生誕150年です。
100年、150年という単位で考えると、日本の遅れて始まった近代の構図が見える。
漱石は、ヨーロッパが400年かけて進めた近代化を、日本は40年で実現したと認識しています。
日本は明治のわずか40年でやってしまったという漱石の見切り方を改めて今総括することが必要です。小森さん
★急ぎすぎた近代、短縮された近代のゆがみが明治の後期に噴出し、大正を経て昭和において噴出しました。北田さん
★明治の日本が思いついた英知を、今の閉塞感を突破するツールとして使いことが大事だと思います。小森さん
★対談の背景:北田さんが冒頭で指摘したように、日本の論壇では広い意味での文学者が重要な一角を占める時代が長く続いた。
文芸評論家以外に、小説家や劇作家らも社会や政治のテーマに関して積極的に発言してきた。
小森さんが論じた漱石は代表的な例だが、確かに文学的想像力は論壇に対し、創作と、評論やエッセーの両方で多大な滋養をもたらしてきたといえる。
すると、文壇と論壇の盛衰は常にセットで起こるろも考えられそうだ大井浩一さん
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社会の環境に大きな要因

2016年11月26日 22時15分07秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力
★日本でも、いじめや子どもの貧困などの問題は、社会の環境に大きな要因があります。
「固定化された価値観」が社会を覆っていると感じます。
日本でも、「良い大学、会社に入って、高収入を得るという将来像が、正しいのだ」と、いまだに多くの人が信じ、それが社会全体の暗黙の了解になっています。
その固定化された価値観の中では、若者は、自分の考えを持てないし、多様な将来像も描けない。
社会が“こうあるべき”という空気をつくっていて、それによって自分の人生が決められてしまう。
それに疑問を抱いたり、違和感を覚えた人が追い詰められていく。
それは、世界のどこでも起こっていることなのです。
★真のアイデンティティーを得るために必要なのは、この世界には“まがいものの存在意義”より、もっと価値あるものがあると知ることです。
多様な価値目を向け、受け入れることが、喪失したアイデンティティーを取り戻す第一歩になる。
さまざまな人や物事に価値を見いだすことができるようになれば、自らも価値ある存在だと感じられるようになると思います。
★私は、ジャーナリストになろうと思ってなったのではありません。
真実を追い掛けて、皆に伝えたい。
自分がやるべきだと信じたことをやり抜こう―その思いで走っていたら、いつの間にかジャーナリストになってました。
若い皆さんは、自分がこれが大事だと思ったら、思い切って、その道を突き進んでほしい。
自分が信じた道は、大変でも、きっと社会のためになり、人生の最高の財産になると思います。
ジャーナリスト・工藤律子さん
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