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因みに、某アパレルメーカーとは関係ありません。バンド名の由来ではありますが。

微調整(いはを)

2011-11-26 01:29:00 | アート・文化

前回の放談を少々微調整したい。

NHK科学文化部のブログにて柳家小三治のインタビューが掲載されてゐる(気になる方は検索してみて下さい)。ニュースでは編集されてゐただらう部分も掲載されてゐたので、放談の内容を少々調整せねばならない。

やはり、小三治は談志について距離をとつて見てゐた、といへる。これは前回の放談でも触れてをり、修正の必要はない。ただし、兄弟弟子の絆といふ部分に関しては、もう少しドライな書き方の方が良かつたやうだ。

結局、小三治にとつて談志は意地ッ張りに過ぎた、といへる。何故談志が意地ッ張りになつたのかといへば、やはり前回にも書いたが様々な挫折、特に古今亭志ん朝に対する劣等感が一番大きいのではないだらうか。志ん朝の実力は認めながらも、自分に才能があるが故に、またそれを信ずるが故に、志ん朝の落語そのものを「認めた」といふ表現ができなかつたし、さうすることを自分自身に許さなかつた、といふことだ。

また、小三治はかうも言つてゐた。落語協会分裂騒動(円生が中心となつた方)についても、そのもとを作つたのは談志であると。このことへの禍根は特に落語協会側からすると非常に根深いものがある。もしかしたら、志ん朝はこの騒動に巻き込まれなければ60そこそこで亡くならなかつた、とすらいへるかもしれない。また、円生もある意味では「晩節を汚す」ことは無かつたかもしれない。そして、先代円楽が順当に「円生」を継いでゐたかもしれない(とすれば志ん朝も「志ん生」を順当に継いでゐた可能性だつてあつたはずだ)。しかしどちらにせよ、談志が「小さん」を継ぐことはなかつた。いや、余りにも個性が強すぎたがために柳家の名跡ではなく「立川」の名を襲名した。やはり、彼は「立川談志」以外の何物でもなかつた(但し、この立川談志といふ名前だつて非常に由緒正しき大きな名前である)。このことを自分自身では納得することができなかつた、のかもしれない。しかし、これは不幸なのか、何なのか。並みの人であれば、自分のある種「宿命」的なものをそのまま受け入れるところだらうが、談志はその宿命から逃れんがために、それこそ落語の世界を引掻き回し、それでも尚宿命の渦に飲み込まれるやうな「劇的」人間であつた。それはあたかも古典悲劇の英雄のやうでもある。

しかし、談志も小三治も噺家である。落語は「劇」ではない。飽くまで「落語」である。「劇」のやうな、そんな重たいものではない。基本的に笑ひ噺であり、元来軽いものである。つまり、「落語」は「並みの人間」の側につく。談志だつて当然それは理解してゐただらう。ある意味誰より知つてゐたはずだ。しかし、彼の生き方が彼をして「劇」の方を選ばしめた。「噺家」柳家小三治はかういつた生き方を当然いいものとは思へない。思へないけれど、それが立川談志の生き方であり、それを貫いたのだから、それはそれで良いのではないか、と小三治は考へてゐるのだらう。

とはいふものの、談志と小三治の平行線はなんだかとてもやるせない。意地ッ張りを止めた立川談志はやはり想像できないのだけれど、しかし先代小さんとも志ん朝とも小三治とも、何らかの形で「和解」出来てゐればなあ、とやはり思つてしまふ。そのことで芸がどうかうといふこはあるのか無いのか、さつぱり全く分からないのだけれど。ただ、この「和解」できない所も人間ぽくて、愛すべき所なのかもしれないのだが・・・。

ああ、さういへばさつきNHKで談志の「居残り左平次」が流れてゐたなあ。語り口とか、ゐずまひとか、やはり恰好良い噺家だなあ・・・と改めて思ふのです。


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