この期に及んで東京スタイルのホームページ

因みに、某アパレルメーカーとは関係ありません。バンド名の由来ではありますが。

下落合焼き鳥ムービー(いはを)

2005-11-22 23:22:00 | 日記・エッセイ・コラム

こんばんは。いはをです。

さて、今日は何の話をしようかな。

最近バブルの再来が来たと言はれてゐるやうですね。

しかし、バブル=泡であれば、そのうち破綻することが目に見えてゐるはずである。後で失敗しても悔いが残らないやうに、今存分に儲けていい思ひをしておくといふことなのだらうか。とすればクレージーだ。クレージーだが、潔い。しかし、本当はあとの事など考へてゐないと思はれる。とすれば単純にクレージーである。

まあ、某大祭の某トリのバンドが人間の生命は長くて百年といふ趣旨の歌を歌つてゐたやうに、我々は元々長くても一世紀単位でしか物事を見られないやうに出来てゐる。従つて、ややもすると非常に刹那的になるといへよう。だから、刹那的に儲けてゐる人がゐても文句はいへない。それはしやうがない。しかし、とはいふものの、である。パソコンを見ながらその日買つた株をその日のうちに売つてお金を稼いだり、はたまた、ヒルズ族みたいに地に足が付いてゐるんだか付いてゐないのだか分からない商売でもつて成り上がつて楽しいのか。おそらく楽しいといひ返される。まあしやうがない。それもそんなもんだ。

でも、泡なのである、あぶく銭なのである。さすがに人間の生活が泡でなりたつてはゐない。が、彼らはどこかで生活を泡位のものだと思つてゐるんではないか。

それもしやうが無い面はある。現に僕がかういふ風に時事放談を書き込んでゐるネットの世界みたいなものはアブク的なものだ。まあ、ここまで普及すればアブクではないのかもしれないが、でも僕は信用してゐない。信用してゐない媒体なのに活用(?)してゐるのが悔しい。それは置いておく。とにかく、かういつた新しい情報技術を全面的に信頼するといふか、もつといへば全面的に依存しては良くはない。が、世の中の流れはさういふ流れだ。さういふ流れだから乗つてしまひたくなるし、流れに逆らつて良い事があるともいへない。

流れに乗るなら一番早い流れに乗る。さういふ考へは分からないではないといふか、どちらかといへば上手で器用なやり方だと思ふ。どうせ無常の世の中ならば、やれるときにやりたいことをしておくのは当然である。現在のバブルの渦中といふか泡中にゐる人は自然とさういふ身の処し方をしてゐるのやもしれない。

しかし、とここでまた逆説を用ゐたい。

それで本当にいいのかといふ疑問は解消されはしない。かういつた後ろ向きな、懐疑的な直感といふのもあながち馬鹿には出来ないと思ふ。それは、僕自身がさういふ傾向を持つてゐるといふことも有るのだらうが、だからといつて特殊だとも思へない。

さういふ疑問はやはり泡中にゐるひともどこかで確実に持つてゐて欲しいと僕は願つてゐるが、今の彼らにとつてはそんなことどうでもいいんだらうなあ。さう思へてならない。それが怖いし、薄気味が悪い。

とまあ、そんな話を書いてきましたが、ここで話題を変へます。

昔の東宝映画中毒に犯されてゐることは前にも書いたが、とうとう「若大将シリーズ」にまで手を出してしまひました。この間は「エレキの若大将」を借りて観ました。

若大将は寡黙な青年なんですね。これがまづ興味深かつた点です。真面目で寡黙な好青年と「若大将」といふニックネームにはずれがある。しかしながら、加山雄三の顔立ちは「若大将」な感じがする。だから「若大将」は「若大将」でいいといへばいい。

ただ、寡黙な好青年なのはいいが、「巻き込まれ」型過ぎる嫌ひがある。どうも行動を起こすタイプの人物として描かれてゐないのだ。これはつまりこの当時の日本における価値からすれば、何も悪いことをしてゐないのに騒動に巻き込まれてしまふといふある意味で悲劇的な要素がある登場人物の方が、行動的な人物よりもうけが良かつたと捉へられるのかもしれない。それは敵役(といへるのか?)の田中邦衛演ずる「青大将」が非常に行動的であることからもいへる。つまり、無謬性・イノセンスといつたことが当時の日本人の美徳の上で大きな位置を占めてゐたといへる。

まあそれはそれとして、僕には田中邦衛の青大将の方が魅力的に映る。身のこなしも喋り方もへんてこだ。ある意味やりすぎだ。そこがいい。

あとは若大将の父親役の有島一郎と祖母役の飯田蝶子の掛け合ひも楽しい。僕は「キングコング対ゴジラ」を観て以来有島一郎のファンである。まあ、有島一郎だけとつてみれば「キングコング対ゴジラ」の製薬会社の社長役の方が破天荒といふか飛んでゐてすごい。

あとは若大将の相手役の星由美子がいい。いいんだからいいんだ。今は確かに歳をとつてゐるが、それは置いて置かうではないか。いいんだもん。

そんなところで。


チャタヌガチューチュー(いはを)

2005-11-09 01:08:00 | 音楽

こんばんは、いはをです。

只今「フェスティバルエクスプレス」を鑑賞し終つたところです。

コミューンといふ言葉の正確な意味はよく分かりませんが、おそらく1960年代の後期といふ時代においてはさういつたものが信じられてゐたのでせう。「フェスティバルエクスプレス」を見てさういふことを感じました。もつと言へば、無理矢理にさういふコミューン的なものを作り出す、さういふ力がある時代であつたとまでこの映画を見る分には言へさうです。

但し、非常に危ふいところでコミューン的なものが成立してゐる点が興味深く、逆説的に現実社会の侵食力の強さを表してゐるやうにも見えます。このことでつまり現実に身を任せるべきであるといふことを主張したい訳ではありません。前回の時事放談で書いたことにつながる話だと思ふのですが、現実の不可能性、もしくは現実の絶対的な抵抗といふものがあつて初めて理想が実現されうると考へられはしないでせうか。話を具体的にすると、ミュージシャンを列車に詰め込んで好き勝手させ、コンサートツアーをさせる、これが「フェスティバルエクスプレス」のコンセプトですが、ただそれだけではこのドキュメンタリー映画から見て取れるやうな理想の共同体の雰囲気は出てこないのではないかといふことです。

おそらく奇跡的なことなのでせう。それはミュージシャンの豪華さからもいへます。ザ・バンド、ジャニス、グレイトフル・デッド、・・・アメリカンロックの真髄そのものといへるミュージシャンを集めたことがコミューン的なるものを実現せしめた大きな要因であることは間違ひはないです。が、それだけで片付けていいのかといふことです。名うてのミュージシャンが何故かくも溶け合ふやうに調和したのか。これは不思議な話ではないでせうか。

「フェスティバルエクスプレス」のコンサートの興行自体は失敗であつたことは映画の中で言及されてゐるといふより、むしろひとつの大きなテーマ、若しくは問題となつてゐます。フリーコンサート幻想によつて暴徒と化した人々が会場に無断で入らうとし騒動を起こす場面もあります。これはウッドストックドリームの崩壊といふことを表してゐると概観することができ、ストーンズの「ギミーシェルター」といふライブドキュメント映画と共通のテーマを扱つてゐるといへます(さういへば「ギミーシェルター」にも「フェスティバルエクスプレス」にもフライングブリトーブラザーズは出てましたね)。

ウッドストックフェスティバルは理想を絵に描いたやうなものであり、現実問題を度外視することで成立つたものであります。従つて本来表面化するはずの諸問題はおそらく隠されるかもみ消されるかされてゐるわけで、さういふことが度々に渡つて許されるわけではないのです。さういふことが「フェスティバルエクスプレス」においてコンサートの興行として露呈してゐることは必然といへば必然であります。しかしながら、ウッドストック的な理想であるコミューン的なるものがウッドストックのフェスティバル以上に「フェスティバルエクスプレス」の移動中の列車の中で現れてゐるのです。このことは非常に重要なポイントであるのではないでせうか。

聴衆とミュージシャンが本来は一体になるのがコンサートの理想でせうが、どうも「フェスティバルエクスプレス」を見る分にはそれはある面では嘘つぱちではないかと思へるのです。フリーコンサートの思想には恐らく聴衆とミュージシャンは平等たるべきであるといふ考へ方が含まれてゐるのでせう。しかし、金を払はうが払はなからうがコンサートにおける一体化には本来因果関係などなく、ただそこには出来るか出来ないかの問題のみがあるのです。これを進めてゐへば、聴衆もコンサートに参加する限りにおいてはミュージシャン足るべきなのではないかと思ふのです。

それはそれとして、コンサートの興行的失敗も含め、「フェスティバルエクスプレス」に参加したミュージシャンは聴衆との断絶を少なからず感じてゐたのではないかと考へられはしないでせうか。それがミュージシャン同士の連帯に結びつくことも有り得る話ではないでせうか。列車の中で長時間ともにゐれば尚更でせう。

以上が僕の考へですが皆さん如何でせうか。