この期に及んで東京スタイルのホームページ

因みに、某アパレルメーカーとは関係ありません。バンド名の由来ではありますが。

僕には「あよね」ぢやなくて、「はよね」と聴こえた(いはを)

2009-10-31 15:06:00 | うんちく・小ネタ

最近動画サイトで昔のCM及びそのCMを使用したMAD(狂つてんですね、あれが)動画といふものを結構観る。

いやあ、懐かしい、といふか、恐ろしい時代になりました。公共広告機構とかJAROとか、皆もはや忘れてゐたのではないかといふやうな動画までアップされてゐる。ポストモダン的状況でございます。まあ、何がどうポストなのかと問はれると困りますが。

「あよね」と俗に呼ばれてゐる公共広告機構のCMがある。♪あーよーねーえ、ねええよーおねーえ・・・といふアフリカかどこかの歌がバックに流れ、アフリカかどこかの子供が何やら物を食べてゐるのか、ゐないのか、といつたやうなCMだ。覚えてゐるかたも多いだらう。あのCMだ。

ネットの世界では4大恐怖CMの筆頭として扱はれてゐるやうだが、僕にはこれよりも、サティの音楽がバックで流れてゐる油を被る人魚のCMの方が怖かつた。

公共広告機構のCMといふのはスポット枠の埋まらなかつたところに埋め合はせとして入れられるものである。従つて、早朝や深夜に頻繁に流れてゐた。(最近はテレビ局の自社関係CMの方がよく流れる気がするが。まあ、公共広告機構もACジャパンに改称しましたしね。これは規模縮小といふことだらうか?広告業界は大変だ。)そんなこともあつてか、AC=怖い、隙間的、都市伝説的・・・といふイメージが付きまとふ。変な想像力をかきたててくれるんですな。

しかし、ネットの世界はきちんとした歴史認識といふか時代認識がなつてゐない。例へば、JARO(因みにJAROは日本広告審査機構。公共広告機構とは別の法人だ)のCMで鍵盤ハーモニカの伴奏(調べた所によるとピアニカ前田といふ人の演奏らしい)に合はせて♪変だな、どうして、おかしいぞー、と女の人(調べた所によると小林由美恵といふ人らしい)が歌ふCMがあつた。これは1991年頃のものだが、1980年代初期と勘違ひしてゐる人がゐたりする。それから、90年代後期から00年代初頭の公共広告を「懐かしい」と平気で言つてゐる人がゐたりする。全然懐かしくない。懐かしいと思ふスパンが短くなつてゐるんぢやないのか?

まあ、ネットの世界のメインユーザーが若年齢化してゐるといふのもあるんだらうが、しかし、感覚が狂ふ。

自分は小学生の時から同時代認識といふものに敏感な性質だつたもので、といふか特に公共広告機構等の怪しげなものに対して敏感だつたので、一般的にはどうでもいいやうな認識の間違ひが気になつてしまふ。でも、やつぱり、もう少し正確に認識すべきだし、間違ひは正して行くべきだと思ふ。

あと、公共広告機構のCMがフィルム映像ぢやなくなつてきたのが1992年辺り(サイの被りもののCMが出てくる辺りだ)なのだが、さういつた所に敏感な人がもつとゐてもいいはずなのに、あんまり検索してもどういふ事情があつてなのか出てこない。技術的な転換点がこの時期にあつたんぢやないかと思ふんだけれどなあ・・・。


意思する人間(いはを)

2009-10-29 23:07:00 | 映画

まだ蚊がゐる。もうそろそろ11月といふに。

いはをです。キンモクセイの匂ひもしなくなりましたね、様あ見ろ。でも蚊はやめてほしい。

まあ、それはいい。

しかし、なんかかう頭がゴチャゴチャなんですね、昨今。何かモヤモヤしてます。

この間DVDで観た、といふか映画館でも観たんですが、「グラントリノ」の話でも書かうかなと思つたんですが、何だか面倒な気分なので、今日はよします。

よしますと言ひながら、一言。この映画は映画館で見なければ駄目です。DVD、しかもパソコンの画面で観てはいけません。感動が殺がれます。映画館で観てこそ身体の芯がジンワリと温まるやうな感じになるんです。あれは一種の連帯感ですね、他の観客との。

はい、「グラントリノ」については今日はここまで。次のお楽しみを。

さて、この間ハンガリーズのブログにこの期に及んでコメントを書き込みましたが、当然返信はありません。何だかよく分かりませんが、ここの所「この期に及んで」何かをしたくてしやうがありません。かう、なんといふか卓袱台をひつくり返すやうなね。

皆もハンガリーズのHPに書き込みをしよう!

では。


草ソフトボールチーム、小鹿ジェンキンス(いはを)

2009-10-26 23:25:00 | 日記・エッセイ・コラム

土曜日のソフトボールで身体がガタガタ。何故か太腿が筋肉痛で、日曜日は歩くのが億劫でした。

しかし、ソフトボールにせよ野球にせよ第一に大切なのは守備であると思ひました。初めて内野(といつてもセカンドですが)を少し守りましたが、頭がついていけませんでした。いきなり実戦で素人を使ふのか?とも思ひましたが、頭数が揃つてないから仕方がない。でもボコボコでした。

はい、仕事の一環として親善ソフトボールが毎年ある訳ですが、かういふのは本気の人は本当に本気になるから怖いです。でも、我がチームはボロ負けしてしまつたとなると、こんな私でも悔しくなる。

一応親善試合前々日、前日、当日朝とバッテイングセンターには行つたんですが、まあ、三日漬ぢやだめですね。ボールに当てるだけで精一杯。

さういへば球技に真面目に取り組んだことといふのがない。勝負が絡むとムキになる奴がゐる。特に球技に関してはムキになる奴が多い。私はさういふのが嫌だつた。たかがスポーツ、たかが遊びぢやないか・・・、こんな考へ方のためかギャンブル関係すらにも手を出さずにこんな歳になつてしまつたが、今考へると、きちんとあの頃ムキになつておけばよかつたと思ふ。まあ、今更だが。

球技に興味がない=集団行動が苦手=社会不適合・・・と最近自己嫌悪に陥ることがあるが、いや、今からでも遅くはない!今こそ青春を取り戻さうではないか、等と妙な事を思つたりもする。

一番のネックは、遠投が苦手といふことだ。肩の力が無いのかとも思つたが、恐らく違ふ。投げ方が悪いのである。力が上手く伝はらない投げ方をしてゐるのだと思ふ。さういへば自分はしやがんだ時に踵が地面につかなかつたり、肘と肘をくつつけるのに苦労したり、妙な部分で柔軟性がない。今更だが、最近これをどうにかしたくてしやうがない。

引越しと車とスポーツジムと、自分は今後どの分野に投資すればいいのか。

え、その前にCDとかレコードへの出費を抑へろとつて?冗談ぢやない!

と、何だか元の黙阿弥で困りもんだ。

ともかく、だれかバッティングとか守備とか遠投の仕方とか、アドバイスして下さる人を募集してをります。

では。


アーサー博士の人力ヒコーキ(いはを)

2009-10-19 14:47:00 | 音楽

土曜日呉服町のすみや本店に行つた。

CDが売れない時代といはれて早何年ほど経つのか、名盤の輸入CDが1,000円で投げ売りされてゐた。未だにCDを大量に購入する自分としてはラッキーだなと思ひながらも、何だか変だと思つた。

余りにも音楽の価値が下がりすぎてゐるのではないか?

以前にも書いたが、PC及びインターネットがこれだけ普及したことにより、今まで「もの」として捉へてゐたものが「データ」となつてしまつた。これは革命的な変化である。何故なら、例へば音楽を例にとると、テープ、レコード、CDと媒体は変化してきたものの、いづれにせよ物体を介してゐた。物体と音楽が密接に結びついてゐたことで、音楽そのものも「もの」であつたといへる。

人間の認識とは「もの」を捉へることである。確固とした対象物であるからこそ、そこに様々な印象、感情、思考といつたものが生まれる。

では、「データ」は「もの」とは違ふのか。僕は明らかに違ふと考へてゐる。

確かに、データ化された音楽だつて、音楽として捉へる分には「もの」の側面は残つてゐるが、そもそも物体と結びついてゐない。言つてみれば幽霊みたいな存在だ。PCといふ環境の中において偏在する(特にネットワークされた環境において!)化け物である。それはもしかしたら「存在」とすら言へないかもしれない。何の抵抗も無く消滅するし、その逆に増殖だつてする。つまり「重み」が全く無い(メモリの上で「データ」としての重みはあるかもしれないが、それとこれとは話は別だと思ふ。)

東浩紀の「動物化するポストモダン」(講談社現代新書)をこの間読んだが、その中でポストモダン状況にある現代は共通認識たる「大きな物語」が衰退し、その代はりに「大きな非物語」としてのデータベースが現象の背後にあると分析してゐる。僕なりに解釈すると、データベース的な社会と言ふのは、個々のデータの間に関連性は無くそれぞれに等価であり、さまざまな目に見える現象といふのはデータベースからデータを単に組み合はせたことに他ならない。

東の論を援用すると、現在のポピュラーミュージックの置かれてゐる状況といふのは、まさにデータベースから様々な要素を組み合はせて多くの人に消費されるようなデータを編集してゐるに過ぎない。東が前述の著書の中で書いてゐたことだが、多くの人々が「萌える」要素を組み合わせることによつてより効率的に感情を高ぶらせる、さういつた創作物が作られるやうな状況になつたといふことだ。そこには各楽曲ごとの価値の優劣など存在しない。それぞれに等価なデータ(の組合せ)なのである。

さて、本題。加藤和彦がよりによつて自殺した。これも土曜日すみやの邦楽コーナーで偶然知つたことだ。何気なく棚を見てゐたらサディスティックスやフォークル、それから彼のソロ作品が沢山並んでゐた。ああ、これ欲しかつたんだよなあ等と思ひ彼のソロのCDを手にとつてふと横を見ると「追悼」と書かれてあつた。一瞬体の力が抜けた。何故だと思つた。

加藤和彦の死は、忌野清四郎のそれよりも(彼は病死であり、ある程度は予測できたことだ)重い。ショックも大きい。

どうやら彼はうつ病だつたやうだが、単に病のみを原因とすべきなのか。ワイドショー等では表層のことしか捉へてゐない。「音楽を作れなくなつた」「若い人の聴く音楽が分からなくなつた」、報道によると彼はさういつたことを言つてゐたさうだが、僕には現代のポストモダン的状況が彼を苦しめたのではないかと思へてならない。

一体どこに悲しみや怒りをぶつければいいのか。さういつたものも相対化された「データ」として飲み込まれかねない。

それにしても和幸のやつてゐたことは凄い。データベースではない。今まで彼らが聴いてきた音楽を血肉化してゐるからこそできるパロディだ。それが「ひっぴいえんど」で終りだなんて・・・。


新曲できました(いはを)

2009-10-07 00:50:00 | 音楽

こんばんは。新曲できました。そして今週末は連休ではありません、休日出勤です。

曲作りは頭も使ふが喉も使ふ。メロディを考へるのは難しい。譜面が書ければいいのだが・・・。恐らく、相当頑張れば書けないこともないはずだが、相当頑張るといふのはつまりほぼ不可能といふことだ、今のままでは。

だから譜面に書かずにカセットテープMTRに少しづつメロディを録る。で、歌詞をつけてまとめて録り直す。メロディから先に浮かべばいいのだが、どうやらギタリスト根性が悪い意味で染み込んでゐるので、思ひつくのは基本的にリフ。伊福部昭的にいへばオスティナート。繰り返し同じフレーズを弾くといふのが好きなのはストーンズやツェッペリンの所為だ。どうしてもこの二バンドの影響から逃れられない。

といふか早く寝なきや。明日はきつと雨だぜ。では。