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因みに、某アパレルメーカーとは関係ありません。バンド名の由来ではありますが。

冬の夜中の徒然に(いはを)

2017-12-19 22:37:03 | 日記
中学1年の頃の話だつたか。

といふか、その前段の話として、どことなく影のあるやうな人と急速に仲良くなるといふことがあつた。
それが何故なのかは分からない。

小学5・6年の頃にそんな人と急に仲良くなり、お互ひの家に遊びにいくといふこともしてゐた。
彼はどちらかといふと、不良といふ訳ではないが、わりとさういふ友達が多い人で、自分はさういふグループには入つてゐなくて、つまり奥手だつたわけだが、そんな人と何故か妙に仲良くなつた。

彼が何故どことなく影があつたかといふと、片親といふ表現が適切かどうか分からないが、さういつた家庭だつたからかもしれない。
母親が家庭にはゐなくて、父親と祖父母がゐるといふ、そんな家だつた。

彼の父親には自分も色々と遊びに連れていつてもらひ、お世話になつたものだ。
産業展示館みたいなところで、「ゴジラ博」なんかがあつて、それに連れていつてもらつたり、そんなことを覚えてゐる。

中学校に入り、クラスが分かれ、彼とは疎遠になつてしまつた。

そんなこんなで少し月日が経つたある日曜日の朝、突然電話が掛かつてきた。
彼のお婆さんからの電話だつた。
曰く、彼の父親が心臓発作で急逝したのだが、朝早くから彼は外に出てゐて連絡が付かないが知らないか、との内容だつた。

朝起きたばかりでその電話に出たといふこともあるが、いや、そもそも中学1年生が突然そんな話を聞いて、何が出来る訳でもなく、ただ茫然と立ち尽くしてしまつた。

その後どうしたか記憶が定かではない。親に話をして方々に連絡をしてもらつたのかもしれない。
結局彼は別の友人と朝釣りの出かけてゐたとのことであつた。

次の日だつたか、その次の日だつたか、よく覚えてゐないが、ともかく彼の父親の葬儀に出た。
疎遠になつてゐたとは言へ、友達は友達である。何かしらの言葉を掛けるべきであつたが、しかし、彼の顔を見たら言葉が出なくなつてしまつた。何を言ふべきか、言葉が出てこない。

他の同級生は「元気を出せよ」といつたやうな慰めの言葉を掛けてゐたやうに覚えてゐるが、よくそんな言葉が軽々しく出るものだと、その時は思つた。しかし、それは彼に何も言葉をかけられなかつた自分をどうにか正当化しようとしてゐただけなのかもしれず、今となると後ろめたさが残つてゐる。

人は突然亡くなることもある、といふことを暫く茫然とといふか、足が宙に浮いたやうな気持ちのまま考へ、数日を過ごした覚えがある。

何故こんなことを書いたかといふと、仕事場の同僚といふか先輩のお母さまが、何の前触れも無く倒れて、そのまま息を引き取つたといふことが最近あつたからだ。まだ60代の前半だつたとのことで、何ともいへない。通夜ではお孫さんたちが目を泣きはらしてゐて、とても悲しかつた、といふかつらいものがあつた。

ケースは違ふし、年齢も違ふ。友人のお父さんは、今考へると恐らく30代後半から40代前半だつたのではないだらうか。今の自分からはそんなに遠くない年齢である。それはともかく、とにかく突如としてさういつたことは起こり得るといふことなのである。それに対して僕らは何が出来る訳ではなく、ともかく事に対応する他なくて、しかし、気持ちはどうにも収まりが付かない。

教訓めいたことはいくらでも言へる。例へば親孝行は出来るうちにしておくべきだとか・・・。しかし、とはいへ、それにも限界はあるし、何よりも常にさういつたことを意識してゐたら、こちらの身が持たない。

結局、さういふことが起きたら、足が宙に浮いたやうな気持ちになるものであるし、それをどうかう出来る訳ではない。
でも、何かを語りたいといふか、言葉にしたくなる。だれが読んでくれたり、聞いてくれたりするわけではないのであらうが。

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