今「朝まで生テレビ」をやつてますね。それにしても、僕はこの番組を最初から最後まで通しで観た事が無い。また、観るつもりもない。何故なら、ひどく疲れるから。
田原総一郎は元気だ。もう歳は70半ばだらうに、元気だ。今日も元気さうだ。この人はいくつになるまで頑張るのだらう。まあ、そんなことどうだつていいやうな気もするが、彼が元気なうちはTV業界も何とか持ちこたへられるやうな気がする。ただ、このことは田原総一郎がTV業界を一人で支へてゐるといふ意味ではない。彼が「時代の鏡」だからである。
「時代の鏡」といふ言葉を安易に使つたが、要するにこれはある時代のある現象を象徴的に演じてしまふ宿命にあるといふことだ。オルタモントの悲劇の頃、即ち1969年頃のローリング・ストーンズなんかが典型的な「時代の鏡」の例だらう。特に本人たちの意思とは関係なく象徴的な事件に巻き込まれる感じが、まさに「時代の鏡」である。
さういへば、三島由紀夫が自決して今年で40年だが、彼は意識的に「時代の鏡」になつた人のやうな気がする。何と言つても「仮面の告白」の主人公が「自分は生まれた時の記憶がある」と言ひはる位だから、徹頭徹尾意識的であることを意識したのであらう。でも、何でそんな堂々巡りな自意識を持つてしまつたのだらうかと考へると、やはりさういふ時代にさういふ巡り合はせになるやうに生まれたからだと言ふほかない。幾らなんでも生まれる時代を自分で意識して選ぶなんてことはできないから、さういふ意味で自分の意思とは関係なく「時代の鏡」になつたと、無理やりかもしれないが、言へないことはない。
三島の文体は絢爛豪華でまさにユキオ・デラックスな感じだが、それと同時に非常に正確かつ理知的な印象を受ける。同じく正確無比で理知的な文章の作家として思ひ浮かぶのが昨年生誕100年を迎へた大岡昇平である。
大岡は「俘虜記」や「野火」、「レイテ戦記」といつた戦争文学で有名であるが、「武蔵野夫人」や「花影」といつた恋愛小説なんかも書いてゐる。「野火」が世に出た頃、福田恒存は「この作品を読むと、自分も頭が良くなつたやうな気がする」といふうな事を文芸時評として書いてゐた(もしかしたら「俘虜記」だつたかもしれないが、いづれにせよ彼の戦記ものの特徴として、過去に起きた事を「正確に」再現するといふ性質があげられ、確固たるフィクションの世界が構築されてゐる)。
実際「俘虜記」も「野火」も正確無比かつ理知的で、切れ味が鋭く、現代日本文学の極みの一つではないかと思へる。が、あまりにも切れ味が鋭すぎて、僕には大岡昇平といふ人はとても性格が悪いのではないかと疑はしくすら思へてくる。性格が悪いといふと言ひ過ぎかもしれないので、ひねくれてゐる、とか、素直ではない、とか、色々言ひ換へ言葉を考へてみたが、どれもけなし言葉になつてしまひ、始末が悪い。まあ、あまりにも頭が良すぎるとそんな印象になつてしまひます、仕方がない。
ただ、戦記物よりも恋愛物の方が心理描写が中心となるだけに、ひねくれた印象がより強い。近代的な批評精神が大岡根底にはあるのだらうが、これは何でもかんでも斬りこんでしまふ刀みたいなもので、大岡昇平によつて日本の近代批評精神が完成されたと言へるほど、きれいに手際よく登場人物の心理分析がなされてゐる。ただ、具体的にどんな風な感じなのかと問はれると困る。何故なら、これらの本を読んでから数年経つてしまつてゐるからだ。でも、本当にきれいに、容赦なく切り刻んでましたので、是非「武蔵野夫人」や「花影」を読んでみて下さい。
大岡昇平はもともとスタンダールの研究者であつた。現在も新潮文庫から出てゐる「パルムの僧院」は大岡訳である。だがしかし、彼が研究者だけでなく小説家にもなつたのは何故かといへば、自身の徴兵体験が最も大きなきつかけであつたことは、非常に「ベタ」で色んな人が書いてゐることながら、やはり否定できないだらう。とにもかくにも、戦争を直接兵卒として体験したことで現実の認識の仕方が変化してしまつたのであれば、彼もまた「時代の鏡」であつたといへよう。
あ、大岡の晩年のエッセイ「成城だより」を去年買つたのに、積んだままになつてゐる。読みたい本は沢山あるが、なかなか「積読」状態から抜け出せない、つて状況で本日の閉会の挨拶とさせて頂きます。では。