この期に及んで東京スタイルのホームページ

因みに、某アパレルメーカーとは関係ありません。バンド名の由来ではありますが。

「メディア」が無ければ(いはを)

2020-08-02 13:35:20 | 社会・経済
ツイッター上に連投したことを、ここに改めてまとめて掲載します。(多少手直しはしてますが。)
何か、手を抜いてる気もしないでもないけれど、素材は有効に活用しなければ。てことで、以下ご笑覧ください。


以前、東宝特撮、とりわけゴジラ等の怪獣物について、劇中で人間は、何らかのメディアを介さなければ怪獣を捉へられないといふ特質があるのではないか、といふことをツイートした覚えがある。例へば、人間側の主人公が新聞記者といふ設定が目立つのも、その一つの表れではないかと思ふ。東宝特撮に関する町山・切通理論における「科学者」の存在といふのも、一種の「メディア」として解釈できる、「人間」は「科学者」を媒介して怪獣や未知なるものと接触するのだと。このコロナ禍の中で、といふか、「コロナ禍」といふ一種の「魑魅魍魎」に対して、我々人間は、やはりメディアを通さなければ、それなりの輪郭ある現象として認識することができない。これは、東宝特撮において、メディアを通さなければ人間は怪獣を認識できないことと、構造としては同じではないか。

「コロナ禍」の前から、僕らは、やれインターネット、やれSNS、やれスマホ、といつたみたいに、現実や現象を「メディア」を媒介して捉へる、抗し難い流れの中にあつた。現実や現象に対し、何でこんなにもメディアを介さなければならないのか、朧げな違和感みたいなものを感じてはゐたけれど。しかし、そもそも社会を形作る基礎となつてるのが「ことば」であり、これだつて立派な「メディア」である。この「ことば」なしには人間としての生活を成しえないとすると、ネット、SNS、スマホといつた「メディア」に違和感を覚えるのは、妙なことかもしれない。しかし、違和感は違和感として胸の底には残存する。

さて、「コロナ禍」によつて、人間同士の直接的・物理的な交流が言はば阻害されてゐる。人間の「ネットワーク」に直接攻撃を仕掛けてくるのが、新型コロナウイルスの大きな特徴で、人間の側は、それこそ「メディア」をより複雑化・高度化させることで「ネットワーク」を防御してる感じだ。東宝特撮における新聞記者(=マスメディア)や「科学者」の存在は、「人間」にとつての「怪獣」からの防御壁である。これを換言すれば、複雑・高度化するネット世界自体が、「コロナ禍」からの現時点での一番の防御壁であるかもしれない。

と、書いてきたけれど、例へばZoomなんかを使用したオンライン会議とか打ち合はせとかが急に主流になつてきて、確かにそれで済ませられる物事がほとんどなのだけれど、そして、それが一種の「防護壁」であることも確かなんだけれど、やはり何かモヤモヤするものが胸に残らない訳ではない。そこで、ふと、90年代の東宝特撮といふか、ゴジラのVSシリーズには、作戦本部に大きなスクリーンがあつて、そこにゴジラを始めとした怪獣が映し出されて、「さて、どうする」といつた場面が頻繁に出てきたが、あの雰囲気は、何となくZoomぽい気がする。まるで、ゴジラとZoomしてる感じにも思へる。

ゴジラの90年代VSシリーズの批判として、「作戦本部でデカいスクリーンを見てるだけで、直接怪獣と関はつてる感じがしない」みたいな意見を見た気がしますが、Zoomとかのオンライン会議で感じるモヤモヤといふのは、つまりはそんなことなんではないか、とも思ひます。

いや、90年代ゴジラVSシリーズの作戦本部の大型スクリーンから醸される雰囲気は、20数年後に到来するオンライン会議の一種の予言だつたと捉へるべきかもしれない。肯定的に解釈して。

ゴジラが白熱線を吐き出せば、それは当然スピーカービューに切り替はるわけですよ。