この期に及んで東京スタイルのホームページ

因みに、某アパレルメーカーとは関係ありません。バンド名の由来ではありますが。

悩み多き者よ

2005-09-26 00:28:00 | 音楽

静岡で飲んでくれたみなさん、部室で遊んでくれたみなさん、通りすがったみなさん、さぼおるの口げんかしてたお兄さんおばちゃんありがとうございました。よい時間を過ごさせてもらいやした。おーみです。

近所のイトーヨーカードーの中のおまけみたいな小さなCD屋で斉藤哲夫の「君は英雄なんかじゃない」とCSN&Yの「4WAYSTREET」を購入してきました。購入時、髪もしゃもしゃのおっさん店員が話しかけてきました、昨日URCのコーナー作ったんだよ、斉藤哲夫聞いたもんだよ、丁度学生の時に吉田拓郎がデビューしてね、人間なんてララーララララ ラーラ♪」と歌ってくれました。折しもパンクん家で「人間なんて」を初めて聞いて衝撃を受けたとこでした。斉藤哲夫よいです、歌が体の中に響きます。ヨーカドーのおっさんとおーみが薦めます。

村八分の未発表音源、映像のボックスが11月に出ます、しゃしゃしゃ


価値相対主義との戦ひ(いはを)

2005-09-24 09:43:00 | 映画

狭山に行く前に体の調子がおかしくなつたいはをです。2、3日寝込んでました。薬が効いて熱が下がつてますが、手元は覚束無い感じです。震へる。

たくろーさんに書き込まれた通り読者をどんどん狭めていくつもりで頑張つていきます。

前回書いたサブカルとはなんだ、オタクとはなんだと言ふ話題の続きを。

サブカルもオタクも一般的な人から見れば同じやうなもの、さう想定したくなるときがある。それは「メインカルチャー」といふものが一応は現在においてもあるといふことをどこかで信じてゐるからでもあるが、しかしながらその「メインカルチャー」といふものが非常に軽くて、厚みもへつたくれもないものになつてゐるとも思へ、即ちそれは俗悪であるので、その俗悪から身を救ふには、サブカルかオタクかの道しか残されてゐないやうに見える。自分自身がサブカル的であるか、オタク的であるかはここでは問ふことをしないが、少なくとも現在の「メインカルチャー」といふものには与したくないと考へてゐる。

つまり何がいひたいのかといふと、サブカルにせよオタクにせよ、その当人たちには何かしらの意味における選民意識が介在してゐるだらうといふことである。

それについて説明する為には、まづ「メインカルチャー」とは一体何であるかを明確化する必要がある。しかしながら、実態として「メインカルチャー」は存在してをらず、想定としてしか捉へられないものではないかと考へられる。つまり、人々が知るべきことではなく、知つてゐるだらうこと、それが今の「メインカルチャー」なのであらう。2、30年昔であれば、まだ知つておくべき教養といふ名のメインカルチャーが厳然としてあつた。だからこそ、それに対抗する為のサブカルチャーが力を持ちえた。この辺りの事情については前回も書いた。

しかしながら、今や教養的なメインカルチャーは死んで、あるのは上記のやうな総合平均としての「メインカルチャー」である。厳密かつ客観的な統計や調査によつてではなければ、ここでいふ「メインカルチャー」のごときものを題材にしてはならないが、現実問題としてさういふ統計や調査は少なくとも個人では不可能である。したがつて、大体この辺りだらうと各自で「メインカルチャー」といふものを想像によつてでつち上げることとなる。ここに「メインカルチャー」を低級な物と見る第一の原因がある。また、さういつた操作をすることで相対的に自分の立場が上にくる。これが選民意識となる。

しかしながら、詳しく知つてゐることが必ずしもいいことではないことは「電車男」以前のオタクへの眼差しからも証されることだらうし(現在においてもただ単に注目されてゐるだけで、基本的な見られ方は変はらないと思ふ)、サブカルにしたところで、オタクよりもお洒落には見えるだらうが、少し「変はつた」人といふ蔑みを含んだ見られ方をされてゐる。

と、つらつら書いてきて、果たして誰がさういつた見方してゐるのかと僕自身考へこんでしまふ。サブカル、オタク以外の一般人といふ言ひ方もできようが、それがさうだと証明できない。とすれば、僕の勝手なでつてあげになる。もしくは、サブカル、オタク的なものに対する僕自身の違和感なのかもしれない。しかし、ややこしいことにその違和感に僕は違和感を感じてゐる。

知ることを否定はしない。むしろ物知りに憧れる。では、僕の違和感に対する違和感はなんであるのか。

サブカルの特質は何かといへば、サブカル的なことに対する嗅覚の鋭さで、縦横無尽に多種多様な事柄に精通しようとする点にある。サブカル的なこととは何かといふのを説明するのはなかなか難しいが、さういふ時は具体例を挙げてみる。例へば、映画はミニシアター、音楽はインディーズ、といふやうな感覚だ。やはり、つまるところがメインに対するサブといふことである。メジャーに対するマイナーなのだ。

対するオタクの特質は何か。メジャー、マイナーに関係なく、ある一つの事象を掘り下げる点にある。ただし、掘り下げるといふ行為によつて、メジャー、マイナー問はず結果的にマイナーになる。もしくは、ある事象に特化することで居心地のいい空間をつくる。それを自分探しの一つとも考へてもいいし、若しくは仲間を見つけることで自己防衛のためのコミュニティーをつくるともいへる。

サブカルはマイナーであるとこをレーゾンデートルとし、オタクはある事象に詳しいことがかれらのレーゾンデートルである。と考へるといずれも同じに見える。それだけでなく、それぞれがそれぞれを拒絶することで成立つともいへる。サブカルがあるオタクの領域に踏み込まうとしても、向ふから拒絶されるし、それを知つてゐるから敢へて踏み込まない。逆もある。オタクが縦横無尽にジャンルを飛び越えようとしても、まづその仮定の時点でオタクではなくなるのだらうが、さういふ真似事をすればオタク的でない軽薄な雰囲気にやられてしまふだらう。

何だか阿部謹也の日本の世間論みたいになつてくるが、実際さういふ側面は強い。僕やこのコラムを読んでゐるだらう人の多くが入つてゐる(ゐた)F研にもさういふ側面があつた。むしろサブカル、オタク論を通してF研論を暗にしようともしてゐた。F研はサブカル、オタクの両義性をもつたサークルであつたし、サークル内サークルのやうな物もあつた(ある)。内部に、オタク、サブカル、「メインカルチャー」の3セクトがあるといつてもいいのかもしれない。

オタク、サブカル、「メインカルチャー」、この3セクトを統一することは不可能かもしれない。しかし、諦めていいわけではないだらう。旧来のメインカルチャーが滅びかけた80年代以降、それぞれがそれぞれにおいて価値があるとする価値相対主義が徐々に蔓延し、ビデオ→衛星放送→パソコンおよびインターネット→携帯電話とメディアの発達(といふよりむしろ細分化)によつてそれが完成の域に達してゐる。が、放つておいていいのか。少なくとも僕はそれに我慢ならないのだが・・・。


南海の大決闘(いはを)

2005-09-20 19:54:00 | うんちく・小ネタ

なんだか日が短くなつてきましたな。皆さんいかがお過ごしですか?いはをです。夏はもう終はりですか。まあ、そんなことどうだつていいですがね。

それにしても、今日は何を書かうかな。毎回この時事放談を書き終はつた後は、あれもこれもと色々書きたいことだらけなんですが、書き始めはなかなか題材が思ひ浮かばないもので、今も何を書いたらいいか迷つてゐるのです。迷ふといふか、悩んでをります。特に変はつたことをしてない、のかな?いや、前回の時事放談から色々あつたのです。まづハイドパークのフェスティバルですな。それから仕事をして、また休みで実家に帰り旧交を温め、静岡に帰つてまた旧交を温める。そんなこんながあつたわけで、何も無いわけではない。

それにしても狭山のあのライブから2週間ですか。あの激しい日差しと嵐のライブから2週間も経つたのですね。早いやうな遅いやうな、不思議な気持ちです。この感触、この感覚は何かに似てゐるやうな気がして考へてみると、サークルの合宿が終はつた後の気分に似てゐるのです。さう言へば、だいたいあの辺りの時期に合宿に行つてゐたわけだし、1日中ライブを聴き通すわけだし、しかもそこそこ遠い場所に行くわけでもあるからある意味合宿でせう。あとF研OB(なのか?)が大勢ゐたことや、近江の家に泊まつた事もより合宿的な雰囲気に花を添へてました。近江さん泊めてくれて有難う。それにしてもあの時の僕は病み上がりの上に、ライブ疲れが重なつて、もう廃人同然といふか、ある意味神が降りてました。

しかし、ハイドパークフェスとF研の合宿には大きな違ひもあるわけで、それはくじバンドが無かつたといふことです。くじバンド、即ちくじを引いてメンバーを決めたバンドのことで、どうせこの時事放談なんてF研関係者位しか読まないのだらうから説明する必要も無いのでせうが、もしものために説明しておいて、で、そのくじバンドが無いために、僕らF研勢はライブに出演できなかつたわけで、あれば参加してゐるのです。と、書いてきて何だかおかしい人の文章みたいだと気が付いたのですが、まあおかしくてもいいかなと思ひます。とにかくくじバンドが無い、ライブに出られない、ライブに出る為の練習が無い、これらが大きな相違点です。

もしも今回のフェスにくじバンドがあつたなら、そんな空想をしてみます。例へば、森山良子と同じバンドになつたらどうしようと考へてみます。もつと具体的に、ベースが立山氏でドラムがタスクでギターが僕だとしたら、一体課題曲(くじバンドには課題曲が与へられるのです、と説明しなくてもいいか)は何になるのでせう。キューティーハニーのテーマみたいのが課題曲として与へられたらどうしよう。森山さんは本気になりさうですが、バックの僕らはどうしたらいいでせう。案外タスクは割り切つてドラムを叩き、立山氏は黙々と演奏するのでせう。僕だけ困惑しさうです。或はアイアンメイデンだとかさういふメタリックな課題曲を与へられたらどうしよう。森山さんは本気になりさうですが、たすくと僕は演奏するので精一杯になりさうです。もちろん立山氏は黙々と演奏するでせう。また或はオレンジレンジみたいな最近のバンドの曲を課題曲として与へられたらどうしよう。森山さんはどうでるか分かりません。とにかく立山氏は黙々と演奏することは確実です。

下らないことを沢山書きたいときもある。何だか今日はそんな日だつたんでせうな。

それにしても森山良子の顔は正面から見たら息子の直太郎そのまんまだつたな。


ねじをしめては手が腐る

2005-09-01 23:48:00 | 音楽

 今日人生2回目のつけ麺食べて未だこの食べ物の意味するところがつかめないおーみです、まずくないです、てかうまいです、しかし納得できん、冷えた麺を暖かいスープにつけて温度プラスマイナス0。中道をいくのか。わかりにくいものは苦手です。

 さてさて懲りずにいきまっせ「おーみくんの毎週ライブを見ようイヤァー!!」オラオラ!!行ってきました9/28日比谷野音のZAZEN BOYS。
 ぶっとびでしたわ、うまい、すごい。はじめものすごく違和感を感じ、その違和感とは初めてのものに触れた時にあるもの、予測不可能なものに直面した時に感じるもの。自分がわからないもの、知らないものは気持ちを不安にさせるものです。変拍子変拍子にキメありまくりにラップ調のグラサンおっさんの声、こんな音楽はじめて、うれしいな、こんなに知らない音楽が聴けるとは全く思ってなかった。この2005年では60年代の音楽であれ2005年の音楽であれどれもだいたい予想内というのが普通でした、その中でよいものを見つけていく、新しくともある程度予想内とか。
 はじめの違和感はリズムにのっていくと序々に快感に変わっていきむちゃたのしうれしに変貌してゆく、自分の中に分解しおろしていく。
 ほんとにいいものって知らないもので衝撃的で価値がある、人が知らないものを作るってすごい。

 冷凍都市の落とし穴より