狭山に行く前に体の調子がおかしくなつたいはをです。2、3日寝込んでました。薬が効いて熱が下がつてますが、手元は覚束無い感じです。震へる。
たくろーさんに書き込まれた通り読者をどんどん狭めていくつもりで頑張つていきます。
前回書いたサブカルとはなんだ、オタクとはなんだと言ふ話題の続きを。
サブカルもオタクも一般的な人から見れば同じやうなもの、さう想定したくなるときがある。それは「メインカルチャー」といふものが一応は現在においてもあるといふことをどこかで信じてゐるからでもあるが、しかしながらその「メインカルチャー」といふものが非常に軽くて、厚みもへつたくれもないものになつてゐるとも思へ、即ちそれは俗悪であるので、その俗悪から身を救ふには、サブカルかオタクかの道しか残されてゐないやうに見える。自分自身がサブカル的であるか、オタク的であるかはここでは問ふことをしないが、少なくとも現在の「メインカルチャー」といふものには与したくないと考へてゐる。
つまり何がいひたいのかといふと、サブカルにせよオタクにせよ、その当人たちには何かしらの意味における選民意識が介在してゐるだらうといふことである。
それについて説明する為には、まづ「メインカルチャー」とは一体何であるかを明確化する必要がある。しかしながら、実態として「メインカルチャー」は存在してをらず、想定としてしか捉へられないものではないかと考へられる。つまり、人々が知るべきことではなく、知つてゐるだらうこと、それが今の「メインカルチャー」なのであらう。2、30年昔であれば、まだ知つておくべき教養といふ名のメインカルチャーが厳然としてあつた。だからこそ、それに対抗する為のサブカルチャーが力を持ちえた。この辺りの事情については前回も書いた。
しかしながら、今や教養的なメインカルチャーは死んで、あるのは上記のやうな総合平均としての「メインカルチャー」である。厳密かつ客観的な統計や調査によつてではなければ、ここでいふ「メインカルチャー」のごときものを題材にしてはならないが、現実問題としてさういふ統計や調査は少なくとも個人では不可能である。したがつて、大体この辺りだらうと各自で「メインカルチャー」といふものを想像によつてでつち上げることとなる。ここに「メインカルチャー」を低級な物と見る第一の原因がある。また、さういつた操作をすることで相対的に自分の立場が上にくる。これが選民意識となる。
しかしながら、詳しく知つてゐることが必ずしもいいことではないことは「電車男」以前のオタクへの眼差しからも証されることだらうし(現在においてもただ単に注目されてゐるだけで、基本的な見られ方は変はらないと思ふ)、サブカルにしたところで、オタクよりもお洒落には見えるだらうが、少し「変はつた」人といふ蔑みを含んだ見られ方をされてゐる。
と、つらつら書いてきて、果たして誰がさういつた見方してゐるのかと僕自身考へこんでしまふ。サブカル、オタク以外の一般人といふ言ひ方もできようが、それがさうだと証明できない。とすれば、僕の勝手なでつてあげになる。もしくは、サブカル、オタク的なものに対する僕自身の違和感なのかもしれない。しかし、ややこしいことにその違和感に僕は違和感を感じてゐる。
知ることを否定はしない。むしろ物知りに憧れる。では、僕の違和感に対する違和感はなんであるのか。
サブカルの特質は何かといへば、サブカル的なことに対する嗅覚の鋭さで、縦横無尽に多種多様な事柄に精通しようとする点にある。サブカル的なこととは何かといふのを説明するのはなかなか難しいが、さういふ時は具体例を挙げてみる。例へば、映画はミニシアター、音楽はインディーズ、といふやうな感覚だ。やはり、つまるところがメインに対するサブといふことである。メジャーに対するマイナーなのだ。
対するオタクの特質は何か。メジャー、マイナーに関係なく、ある一つの事象を掘り下げる点にある。ただし、掘り下げるといふ行為によつて、メジャー、マイナー問はず結果的にマイナーになる。もしくは、ある事象に特化することで居心地のいい空間をつくる。それを自分探しの一つとも考へてもいいし、若しくは仲間を見つけることで自己防衛のためのコミュニティーをつくるともいへる。
サブカルはマイナーであるとこをレーゾンデートルとし、オタクはある事象に詳しいことがかれらのレーゾンデートルである。と考へるといずれも同じに見える。それだけでなく、それぞれがそれぞれを拒絶することで成立つともいへる。サブカルがあるオタクの領域に踏み込まうとしても、向ふから拒絶されるし、それを知つてゐるから敢へて踏み込まない。逆もある。オタクが縦横無尽にジャンルを飛び越えようとしても、まづその仮定の時点でオタクではなくなるのだらうが、さういふ真似事をすればオタク的でない軽薄な雰囲気にやられてしまふだらう。
何だか阿部謹也の日本の世間論みたいになつてくるが、実際さういふ側面は強い。僕やこのコラムを読んでゐるだらう人の多くが入つてゐる(ゐた)F研にもさういふ側面があつた。むしろサブカル、オタク論を通してF研論を暗にしようともしてゐた。F研はサブカル、オタクの両義性をもつたサークルであつたし、サークル内サークルのやうな物もあつた(ある)。内部に、オタク、サブカル、「メインカルチャー」の3セクトがあるといつてもいいのかもしれない。
オタク、サブカル、「メインカルチャー」、この3セクトを統一することは不可能かもしれない。しかし、諦めていいわけではないだらう。旧来のメインカルチャーが滅びかけた80年代以降、それぞれがそれぞれにおいて価値があるとする価値相対主義が徐々に蔓延し、ビデオ→衛星放送→パソコンおよびインターネット→携帯電話とメディアの発達(といふよりむしろ細分化)によつてそれが完成の域に達してゐる。が、放つておいていいのか。少なくとも僕はそれに我慢ならないのだが・・・。