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因みに、某アパレルメーカーとは関係ありません。バンド名の由来ではありますが。

世界は壊れるのか、変はるのか(いはを)

2020-04-25 22:49:10 | ブログ
随分とこの時事放談には記事を書いてゐなかつた。
ツイッターで何となく賄へる感じがして、長文を書く気にならなかつた。しかし、この状況において、ある程度の分量の文章を書き残して、一種の目印にしておいてもいい気がして、久方振りに書いてゐるところである。

この時事放談を開始したのは2004年で、16年も前の話であるが、それから随分と状況が変化した。しかし、自分自身は変化してゐるかといふと、正直あまり意識してゐなくて、ある意味では変はらないし、またある意味では随分と変はつてしまつた所もあるだらう。そんなものであると言へばそんなものであるが、もし何かしらの変化があるとすれば、内発的な変化といふよりも状況が変はつたことによつて自分もそれに順応したと、さういふことなんだと思ふ。ただ、その順応の仕方にしたところで、自分のやり方でしか順応できない訳で、さうしたら結局変化なんてものは無いといふことにもなる。

外的変化といへば、世界中が新型コロナウイルスにより不安の只中にあり、このウイルスの恐ろしさは、その神出鬼没的な症状の発生もさることながら、人と人との直接的・物理的接触を断ち切るところにある。要は、今まで当たり前のやうに行つてきた、人と直接話をするとか、一緒に何か作業をするとか、さういつたこと全般が、ウイルス蔓延阻止のために自粛しなければならないことになつてしまひ、そのことにより深刻な社会的、経済的、精神的な打撃を世界中の人々が、ある意味「平等」に被つてゐる。

このウイルスがもたらした一種の世界中の人々の「平等性」とでもいふべきもの、それは非常に暴力的なものであるのは確かだが、そのことにより「人間の社会」といふシステム全般を根本から改変しなければならない訳であり、それがある意味では大きな進歩に結びつく可能性と、逆に、その改変により人間性の根幹が破壊されてしまふ可能性と、両方あるのではないかと思はれる。

例へば、インターネットを始めとする情報・通信技術が発展してゐたことで、人間同士の物理的接触なしでも密なコミュニケーションが図れる、といふことがある。もし、インターネットが、もつといへばスマートフォンが普及してゐない状況で今回のコロナショックのやうな事態が起きてゐたら、一体どうなつてゐただらうかと考へると、「あつて良かつたスマートフォン」「あつて良かつたインターネット」と思つてしまふ訳であるが、しかし、インターネットがここまで普及してゐなければ、グローバリズムの進展も限定的であつた可能性もあり、世界全体が恐怖に慄くといふ状況にはなつてゐなかつたのではないかとも考へられる。要は、今回のコロナショックとでもいふべきものは、グローバリズムの進展が大きな要因としてあり、更にはグローバリズムの進展の大きな要因にはインターネットを始めとする情報・通信技術の発展がある、といへるだらう。

そもそも、経済も、物流も、我々が思つてゐる以上に途方もなくグローバルに動いてゐる、といふのが現実であらう。そして、そのグローバルシステムに我々は知らず知らず依存しきつてゐる。いくら反グローバルを個人的に志向しようとしても、システムがさうなつてしまつてゐるので、それこそお釈迦様の掌の上の孫悟空みたいな状況である。だからこそ、逆説的にグローバリズムといふのは物凄く暴力的ともいへる。

もしかしたら、我々はどこかで気付いて軌道修正すべきだつたのかもしれない。グローバル化は世の趨勢としても、ローカルで自足できるシステムをリスクヘッジとして保存しておいて、緊急時はグローバル回路を切るといつた仕組みを作つておくべきだつた。しかし、費用対効果とか、効率とか、さういつた価値基準が、行政の世界でも、ビジネスの世界でも横行してゐる訳で、結局ブレーキはかけられずに今に至つてゐる。

となると、やはりパンデミック状態が完全に収束しない限り、コミュニケーションの主流はオンラインといふことになり、我々はその状況をその内当然のこととして受け入れるやうになるだらう。そして、もしパンデミック状態が収束したとしても、変質してしまつたコミュニケーションスタイルを元通りに戻すことは不可能になる、と僕には思へてならない。

現時点での欲望としては、一刻も早く元通りの、コロナショック以前の人間社会に戻つて欲しいと僕は思つてゐるし、多くの人だつてさう感じてゐるのではないかと思はれるけれども、この状況が長期化すれば、さう思つてゐたこと自体忘れてしまふのではないかと思ふ。そして、いつの間にか変質したコミュニケーションスタイルに順応し、それを半ば当然のこととして、その後の生活を送ることになるのではないだらうか。

いや、正直言つて、どんな形になるか分からないが、コミュニケーションスタイルがコロナショック以前から全く変質してしまふといふのは、「以前の感覚」を引きずつてゐる現時点の感覚からすると、一種のディストピアのやうにも思へてしまふ。いや、その段階に至る前に、それこそ社会的・経済的・精神的な大混乱を経なければならないことが予測され、それもやはり一種のディストピアであり、恐ろしい訳であるが、仮にそれを乗り越えて次の段階に至つたとしても、今現時点の感覚からすると、「それが本当にコミュニケーションか?」と思ふやうな、摩訶不思議なといふか、もしかしたら嫌悪感を催すやうなものになる可能性はある。逆に、揺り戻しのやうなものが起きる可能性もある。まあ、どうなるか分からないことを今心配しても詮無きことかもしれないが。

詮無き事かもしれないけれども、いや、だからこそ、この段階で自分の感じてゐることを言語化し、どこかにまとまつた形で残しておく必要があるのではないか、といふ直観があつた。それは、例へば、2004年のまだ大学生だつた頃の自分が何をどう考へ、拙いながらもそれを文章化し「時事放談」といふ形で残してゐて、数年経過してみて、「この時はこんな感じだつたのか」と納得したり、思ひ起こすことができたからである。それが何の役に立つかは全く分からないけれども、でも記録しておくべきではないかと思へて仕方ないのである。

さて、これから僕らは一体どうなるのか、仕事は、学校は、社会は、一体どう変化するのか。しかも現場レベルで、オンタイムでその対応をしていかざるを得ない訳で、状況に引きずりまはされがちであるが、福田恆存ではないけれど、どこかで精神を静止させなければならない。といふわけで、今回の時事放談と相成りました。

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