この期に及んで東京スタイルのホームページ

因みに、某アパレルメーカーとは関係ありません。バンド名の由来ではありますが。

戯曲(?)「売り手時代の採用面接」(いはを)

2024-02-25 23:15:24 | 日記・エッセイ・コラム
Twitter上に、こんな戯曲(?)を投稿した。急に思ひついて、一気に書きたくなり、ドドッと投稿した。
多少荒削りな気はするので、微妙に修正してここに掲載する。

「売り手時代の採用面接」

面接官「それでは、私どもの会社をお選びになつた理由から教へてください。」

受験者「急にそんな重いことを。お互ひ初対面なんですから、もう少し軽い話からしませんかね。」

面接官「はあ、確かにいきなりだつたかもしれません。申し訳ございません。それでは、今日はどのやうにしてここまで見えたんですか。」

受験者「交通手段ですか。電車と徒歩ですね。御社は町中なので、駅から歩くのには丁度良いですね。まあ、、その丁度良さで御社を選んだのかもしれません。」

面接官「ウォーキングがご趣味なんですか。」

受験者「まあ、趣味といふ程のものではございません。そもそも他人にひけらかすやうな趣味などございません。人知れずやるもんですよ。」

面接官「まあ、でも、何かしらのものはあるのではないですか。やはりウォーキングですか。」

受験者「ウォーキングといふか、歩きながら瞑想してるやうなもんですよ。いや、勿論眠つてる訳ではありませんよ。歩くと頭が働くんですよ。今日はどんな予定で、どうしようかな、といふ具合に。」

面接官「…確かに、脳が活性化するかもしれませんね。では、どういつた所をウォーキングされるんですか。」

受験者「どういつたところも何も、家の周りだとか、大学へ歩いていくとか、アルバイトへ歩いていくとか、その程度のものですよ。ひけらかすやうなもんではござんせん。」

面接官「それでは、大学ではどういつたことを学ばれてゐるんですか。」

受験者「まあ、履歴書に学部と学科が書いてございますので、さういつたことです。多少詳しくいへば、社会の構造とか、さういつたことを俯瞰でみる学問ですね、はい。」

面接官「社会を俯瞰で…、どういふことなんですかね」

受験者「まあ、例へていへば、かういふ就職面接なんてものについて、企業側がどういつた目的だとか意図だとか、まあ、色々あると思ひますが、さういつたもの自体が社会制度に規定されてると、さういふ学問です。」

面接官「…はあ、さうですか。では、さういつた学問的知見を今後仕事をしていく上でどう活かしますか。」

受験者「活かせるかどうか、それは会社に入つてみないと分かりません。御社が風通しのいい所であれば、それなりに活かせると考へますが、いかがですか?」

面接官「んん…、話題を変へまして、私どもの事業については、どの程度お調べになつてゐますか。」

受験者「まあ、説明会だとか、HPだとか、さういつた所で情報はお聞きしましたが、そもそも、さういつたもので会社の何が分かるとお考へですか。結局、上澄みでせう。いくら頑張つても上澄みですよ。」

面接官「…、いや、我々としても多くの方に分かりやすい様に工夫をしてをりまして、例へば先輩社員との座談会とかですね…」

受験者「まあ、工夫は認めますけれども、本音で話すのは難しいですよ。先輩の方々は頑張つてましたが、奥歯に何か挟まつてましたよ。話したくても話せない、といふのは、なかなか辛からうと。」

面接官「…、それでは話を変へまして、学生時代に力を入れたことは何ですか?」

受験者「まあ、そんな他人にひけらかせるやうなことはやつてません。学業も人並み、アルバイトも人並み、サークルも人並みですよ。あへて言へば、力の抜き所を見つけるのに力を入れましたね。」

面接官「具体的に仰つていただけますか。」

受験者「最近の大学は出席が厳しかつたり、その反面、物価は高いは、生活は苦しいはで、アルバイトもそれなりにやらないと回らないんですよ。それなりに実入りのいい仕事は、遅い時間の飲食店だとか、割とハードだつたりするんですよ。飲食店は人手が足りてないから、シフトも過密に入れられる傾向があつて、まあ、人によつてはアルバイトに支配されてる者もあります。そんな中で、自分のやりたいと思へることもやらないと、バランスが取れない訳です。ここまで、お分かりですか?」

面接官「…、はい…。」

受験者「あつちを立てれば、こつちが立たないといつた状況で、いかにバランスを取るか、といふのは、なかなかに大変なんですよ。それに加へて、友達付き合ひもある訳で、バランスが取れてないと『付き合ひの悪い奴』になつてしまつて、面白くない訳です。分かりますか?」

面接官「…、はい。」

受験者「だからこそ、力の抜き所が重要なんです。勿論、学生の本分は勉学ですから、手を抜いてはダメです。だから、手を抜かないでできるバランスで履修する。これが第一点、前提条件です。」

面接官「…、はあ。」

受験者「その上で、アルバイトのシフトをどう入れるか。これがなかなかに難儀で、他のスタッフもゐるし、どこで忙しくなるかも流動的。気を抜くとシフトが真ッ黒になる訳です。さうなると、『自分はアルバイトの為に生きてる』と勘違ひしだすわけです。分かりますか?」

面接官「…、はあ…。」

受験者「そもそも、人手が足りてないことが間違ひな訳です。そんなシステムを導入せざるを得ない、といふ点で、本来は失敗なんですが、それはともかく、まづは友人を数名アルバイトに引きずりこみました。まあ、それなりに報酬は良いので無理強ひではありませんでした。これで人員は確保できました。」

面接官「…、はあ。」

受験者「あとは、いつが繁忙期か、これを読むことです。これについては、ある程度の期間働くと勘が付いてくるので、そこまで難しくありません。一番難しいのは、シフトのバランス、交渉ですね。これも勘の問題ですが、相手をきちんと読まないと間違へます。」

面接官「…、はい…。」

受験者「特に『いいよ、いいよ』とシフトを代はつてくれる親切な人、かういふタイプが難しい。御社にも居るでせう、さういふ人?」

面接官「…、はあ…。」

受験者「かういふタイプの人は、溜め込みやすい上に、あるレベルを超えると、裏で不満を言ふやうになる場合がある、かといつて親切にある程度乗らないと、それはそれでストレスになつてくる。この方には実に苦労しました。」

面接官「…、はあ…。」

受験者「まあ、この辺まで話せば、『学生時代に力を入れたこと』の体にはなるでせうかね。いかがですか、もし補足すべき点があればしますが。」

面接官「…、はい、結構です。では、ご自分の長所はどんな所ですか。」

受験者「んん。かういふことを申し上げるのもなんですが、今までお話ししてきたことで、大体察しがつくんではないかと思ひますがね。もし、補足すべき点があればしますが、いかがですか。」

面接官「…、結構です。では、短所はどんな所と考へますか。」

受験者「それもお察しの通りかと存じますが、話が若干長い点と、まあ、多少ふてぶてしいところでせうか。この点についてもエピソード込みで話さうと思へば話せますが、いかがですか。30分位かかりますが。」

面接官「…、いや、結構です。」

面接官「では、最後に何か聞いておきたいことや、言つておきたいことはありますか。」

受験者「最後ですので、ここまでご無礼なことだらけで大変申し訳ございませんでした。とはいへ、ここまで私の話に付き合つてくださり、その度量、懐の深さは、まさに御社の美風ではないかと存じます。正直に申し上げて、多少御社を試してみたところがございました。気分を害されるのではないかと思ひながらも、どこまで受け入れられるのか、異端を排除する会社ではないか、さういつた所を確かめたのです。御社は私のやうな異端、といふか無礼者でも話を聞いてくださつた。それだけでも素晴らしい社風だと感じます。このやうな私でも御社の一員としてくださるのならば、自分の出来得る限りのことを精一杯やつて参る所存です。」

面接官「ありがたうございました。それでは、本日の選考はここまでです。お疲れさまでした。」

受験者「お時間をいただき、ありがたうございます。色々申し上げましたが、これで私を採用したら、本当に度量の広い企業だと考へますよ、流石!と。あ、余計なことを申し上げましたね。では、これにて失礼します。」

面接官「……、(溜息)」




青い鳥が逃げていく(いはを)

2023-07-29 22:29:18 | デジタル・インターネット
ブログ。SNS全盛の今、何故ブログを書かねばならないのか。
と、そんなことを書きながら、たまには投稿しておかないと、何か悪いといふか、長文も書いておいて損はない気もするしな、といふ気分で、キーボードをカチカチやつてる訳です。

かういつたマクラなんか、SNSで書いてる暇や場所が無いもんですが、長文が投稿できるブログなら、マクラだけ書いても別に構はない位、ある意味では自由度が高い訳です。

さて、ではSNSの何が良いのか。双方向性?、リアルタイム性?、依存性?…、依存性は良い面ではないですな。しかしながら、常にチェックできる気軽さや簡便性が依存を生むといふ意味では、SNSに頻繁に投稿する人といふのは、何らかの依存状態にあることは言へるでせうね。かくいふ私もその渦中にゐるのかもしれません。

さて、Twitterから青い鳥が逃げてしまひました。いや、正確に言へば、イーロン・マスクによつて放逐され、「X」になつてしまつた訳です。

青い鳥のロゴに思ひ入れがある訳でも何でもないと、自分では思つてますが、それにしても「X」のロゴ、馴れない。何か気持ちが悪い。すかした感じを出さうとして、ことごとく失敗してしまつてゐる、そんな一種の「痛さ」みたいなものを感じてしまふ。そもそも、イーロン・マスク氏自体、何となく掴みどころがないといふか、ふざけてるのか本気なのか分からない恐ろしい感じがあります。

Twitter自体が、エコーチェンバーになつたり、ヘイト言説の温床になつたりと(ヤフコメの方が酷い気もしますが)、それ自体に問題があるといふか、モデレーションが効いてないといふ面はある訳で、なすべきことはそこなんでせうけれども、むしろモデレーションをより効かさない方向へと舵を切つてるやうに見受けられます。マスク氏がTwitterを買ひとつて以降、その傾向はますます顕著ではないかと。

青い鳥が逃げた、或ひは放逐されたといふのは、辛うじてあつたTwitter上の「希望」「自由」「良心」が追ひやられたといふことを象徴してゐるのではないかと、何となく感じる訳です。

それにしても、「希望」「自由」「良心」といふ言葉、昔の自分であれば「こんな言葉を使ふのは恥づかしい」と思つただらうなと感じます。
でも、この「恥づかしい」と思ふ気持ち自体が、80年代~90年代サブカルチャーの冷笑的なものの見方からの影響で、その冷笑自体がヘイトだとか右傾化だとかに繋がる要因ではないかと、最近思ふやうになりました。
おそらく、このブログの前身の「時事放談」の頃の文章なんてのは、さういつた悪しきサブカルチャーの影響で、それこそ「恥づかしい」部分が多分にあるのではないかと思はれます。
まあ、それも含めて自分たちといふことで、そのまま残しておきます。いや、もしくは、別の文脈で読めるところもあるかもしれませんしね。

最近アップした動画を(いはを)

2022-10-22 23:09:30 | 音楽
ブログを書くのは久しぶりである。
最近はTwitterばかりやつてゐた。それでいいのかよく分からない。

140字以内に何が書けるのか、それは大したことは書けない。
しかも、140字分まるまる使ふことが殆どで、それでも書ききれない場合はスレッド化する。
しかしそれだと埋もれてしまふので、意味があるのかどうなのか、といふところである。

といふわけで、前回はコロナ禍で世の中がどう変はるのかといふ話題を書きましたが、どうも、変はつたんだか、変はつてないんだか、変はつたことに気付かないのか、そんなところである。
凡そ、変はつたことに気付かないといふのが真実に近い気がします。

それから、7月の選挙前のあの事件について、あれで世の中がギアチェンジしてゐるだらうことは、何となく確かなやうに感じます。
一般的にも「宗教右派」なるものを認識しだしてきたといふ点で、大きな変化ではないかと思ひますが、そこからどうしていくかは私たち次第と、そんなところでせう。

ここの所、色んなことを考へます。
例へば、80年代から90年代にかけての日本のサブカルチャーとは一体何であり、今の我々にどんな影響を及ぼしてゐるのか、とか。
結局、何でもかんでもネタにして、相対化して、それが冷笑に転じ、そのままゴロゴロと権威主義にまで転落したといふ皮肉。
相対化によつて権威をその座から引きずり降ろしていたつもりが、権威主義になつてしまふといふのは、一体どういふことなのか。
まあ、この件についてここで詳しく書くのも面倒なので、今回は触りの部分だけといふことで。

なんといふか、長文を書きたいといふ欲求が、年々薄まつてきてゐるんでせうかね。
歳を取るといふことなんでせうか、よく分かりません。ともかく、10年前なら日本のサブカルチャーの転落について、長文でゴリゴリ書いたんでせうな。
といふか、10年前はそのことに気付いてゐなかつたかもしれません。

さて、ここで本題。

タイトルに記しましたとおり、最近アップした動画のURLを貼り付けたいと、そんなところです。
最近アップしたとはいへ、映像自体は3年前のものです。コロナ禍前です。弾き語りのライブの練習映像といつたところですな。

誠に遺憾に存じます(植木等カバー)


忘れることの肯定(弾き語りVer)


春に


ムーンライトながら


あと、同じ時期の動画ですが、2年位前にアップしたものですね。

「三時の子守唄」(弾き語りカバー)


「君は変わっちゃったネ」(弾き語りカバー)


といふ訳で、恥も外聞もなく、動画を貼り付けました。
宜しくお取り計らひくださいますやう、何卒何卒、お願ひ申し上げます。

「メディア」が無ければ(いはを)

2020-08-02 13:35:20 | 社会・経済
ツイッター上に連投したことを、ここに改めてまとめて掲載します。(多少手直しはしてますが。)
何か、手を抜いてる気もしないでもないけれど、素材は有効に活用しなければ。てことで、以下ご笑覧ください。


以前、東宝特撮、とりわけゴジラ等の怪獣物について、劇中で人間は、何らかのメディアを介さなければ怪獣を捉へられないといふ特質があるのではないか、といふことをツイートした覚えがある。例へば、人間側の主人公が新聞記者といふ設定が目立つのも、その一つの表れではないかと思ふ。東宝特撮に関する町山・切通理論における「科学者」の存在といふのも、一種の「メディア」として解釈できる、「人間」は「科学者」を媒介して怪獣や未知なるものと接触するのだと。このコロナ禍の中で、といふか、「コロナ禍」といふ一種の「魑魅魍魎」に対して、我々人間は、やはりメディアを通さなければ、それなりの輪郭ある現象として認識することができない。これは、東宝特撮において、メディアを通さなければ人間は怪獣を認識できないことと、構造としては同じではないか。

「コロナ禍」の前から、僕らは、やれインターネット、やれSNS、やれスマホ、といつたみたいに、現実や現象を「メディア」を媒介して捉へる、抗し難い流れの中にあつた。現実や現象に対し、何でこんなにもメディアを介さなければならないのか、朧げな違和感みたいなものを感じてはゐたけれど。しかし、そもそも社会を形作る基礎となつてるのが「ことば」であり、これだつて立派な「メディア」である。この「ことば」なしには人間としての生活を成しえないとすると、ネット、SNS、スマホといつた「メディア」に違和感を覚えるのは、妙なことかもしれない。しかし、違和感は違和感として胸の底には残存する。

さて、「コロナ禍」によつて、人間同士の直接的・物理的な交流が言はば阻害されてゐる。人間の「ネットワーク」に直接攻撃を仕掛けてくるのが、新型コロナウイルスの大きな特徴で、人間の側は、それこそ「メディア」をより複雑化・高度化させることで「ネットワーク」を防御してる感じだ。東宝特撮における新聞記者(=マスメディア)や「科学者」の存在は、「人間」にとつての「怪獣」からの防御壁である。これを換言すれば、複雑・高度化するネット世界自体が、「コロナ禍」からの現時点での一番の防御壁であるかもしれない。

と、書いてきたけれど、例へばZoomなんかを使用したオンライン会議とか打ち合はせとかが急に主流になつてきて、確かにそれで済ませられる物事がほとんどなのだけれど、そして、それが一種の「防護壁」であることも確かなんだけれど、やはり何かモヤモヤするものが胸に残らない訳ではない。そこで、ふと、90年代の東宝特撮といふか、ゴジラのVSシリーズには、作戦本部に大きなスクリーンがあつて、そこにゴジラを始めとした怪獣が映し出されて、「さて、どうする」といつた場面が頻繁に出てきたが、あの雰囲気は、何となくZoomぽい気がする。まるで、ゴジラとZoomしてる感じにも思へる。

ゴジラの90年代VSシリーズの批判として、「作戦本部でデカいスクリーンを見てるだけで、直接怪獣と関はつてる感じがしない」みたいな意見を見た気がしますが、Zoomとかのオンライン会議で感じるモヤモヤといふのは、つまりはそんなことなんではないか、とも思ひます。

いや、90年代ゴジラVSシリーズの作戦本部の大型スクリーンから醸される雰囲気は、20数年後に到来するオンライン会議の一種の予言だつたと捉へるべきかもしれない。肯定的に解釈して。

ゴジラが白熱線を吐き出せば、それは当然スピーカービューに切り替はるわけですよ。

世界は壊れるのか、変はるのか(いはを)

2020-04-25 22:49:10 | ブログ
随分とこの時事放談には記事を書いてゐなかつた。
ツイッターで何となく賄へる感じがして、長文を書く気にならなかつた。しかし、この状況において、ある程度の分量の文章を書き残して、一種の目印にしておいてもいい気がして、久方振りに書いてゐるところである。

この時事放談を開始したのは2004年で、16年も前の話であるが、それから随分と状況が変化した。しかし、自分自身は変化してゐるかといふと、正直あまり意識してゐなくて、ある意味では変はらないし、またある意味では随分と変はつてしまつた所もあるだらう。そんなものであると言へばそんなものであるが、もし何かしらの変化があるとすれば、内発的な変化といふよりも状況が変はつたことによつて自分もそれに順応したと、さういふことなんだと思ふ。ただ、その順応の仕方にしたところで、自分のやり方でしか順応できない訳で、さうしたら結局変化なんてものは無いといふことにもなる。

外的変化といへば、世界中が新型コロナウイルスにより不安の只中にあり、このウイルスの恐ろしさは、その神出鬼没的な症状の発生もさることながら、人と人との直接的・物理的接触を断ち切るところにある。要は、今まで当たり前のやうに行つてきた、人と直接話をするとか、一緒に何か作業をするとか、さういつたこと全般が、ウイルス蔓延阻止のために自粛しなければならないことになつてしまひ、そのことにより深刻な社会的、経済的、精神的な打撃を世界中の人々が、ある意味「平等」に被つてゐる。

このウイルスがもたらした一種の世界中の人々の「平等性」とでもいふべきもの、それは非常に暴力的なものであるのは確かだが、そのことにより「人間の社会」といふシステム全般を根本から改変しなければならない訳であり、それがある意味では大きな進歩に結びつく可能性と、逆に、その改変により人間性の根幹が破壊されてしまふ可能性と、両方あるのではないかと思はれる。

例へば、インターネットを始めとする情報・通信技術が発展してゐたことで、人間同士の物理的接触なしでも密なコミュニケーションが図れる、といふことがある。もし、インターネットが、もつといへばスマートフォンが普及してゐない状況で今回のコロナショックのやうな事態が起きてゐたら、一体どうなつてゐただらうかと考へると、「あつて良かつたスマートフォン」「あつて良かつたインターネット」と思つてしまふ訳であるが、しかし、インターネットがここまで普及してゐなければ、グローバリズムの進展も限定的であつた可能性もあり、世界全体が恐怖に慄くといふ状況にはなつてゐなかつたのではないかとも考へられる。要は、今回のコロナショックとでもいふべきものは、グローバリズムの進展が大きな要因としてあり、更にはグローバリズムの進展の大きな要因にはインターネットを始めとする情報・通信技術の発展がある、といへるだらう。

そもそも、経済も、物流も、我々が思つてゐる以上に途方もなくグローバルに動いてゐる、といふのが現実であらう。そして、そのグローバルシステムに我々は知らず知らず依存しきつてゐる。いくら反グローバルを個人的に志向しようとしても、システムがさうなつてしまつてゐるので、それこそお釈迦様の掌の上の孫悟空みたいな状況である。だからこそ、逆説的にグローバリズムといふのは物凄く暴力的ともいへる。

もしかしたら、我々はどこかで気付いて軌道修正すべきだつたのかもしれない。グローバル化は世の趨勢としても、ローカルで自足できるシステムをリスクヘッジとして保存しておいて、緊急時はグローバル回路を切るといつた仕組みを作つておくべきだつた。しかし、費用対効果とか、効率とか、さういつた価値基準が、行政の世界でも、ビジネスの世界でも横行してゐる訳で、結局ブレーキはかけられずに今に至つてゐる。

となると、やはりパンデミック状態が完全に収束しない限り、コミュニケーションの主流はオンラインといふことになり、我々はその状況をその内当然のこととして受け入れるやうになるだらう。そして、もしパンデミック状態が収束したとしても、変質してしまつたコミュニケーションスタイルを元通りに戻すことは不可能になる、と僕には思へてならない。

現時点での欲望としては、一刻も早く元通りの、コロナショック以前の人間社会に戻つて欲しいと僕は思つてゐるし、多くの人だつてさう感じてゐるのではないかと思はれるけれども、この状況が長期化すれば、さう思つてゐたこと自体忘れてしまふのではないかと思ふ。そして、いつの間にか変質したコミュニケーションスタイルに順応し、それを半ば当然のこととして、その後の生活を送ることになるのではないだらうか。

いや、正直言つて、どんな形になるか分からないが、コミュニケーションスタイルがコロナショック以前から全く変質してしまふといふのは、「以前の感覚」を引きずつてゐる現時点の感覚からすると、一種のディストピアのやうにも思へてしまふ。いや、その段階に至る前に、それこそ社会的・経済的・精神的な大混乱を経なければならないことが予測され、それもやはり一種のディストピアであり、恐ろしい訳であるが、仮にそれを乗り越えて次の段階に至つたとしても、今現時点の感覚からすると、「それが本当にコミュニケーションか?」と思ふやうな、摩訶不思議なといふか、もしかしたら嫌悪感を催すやうなものになる可能性はある。逆に、揺り戻しのやうなものが起きる可能性もある。まあ、どうなるか分からないことを今心配しても詮無きことかもしれないが。

詮無き事かもしれないけれども、いや、だからこそ、この段階で自分の感じてゐることを言語化し、どこかにまとまつた形で残しておく必要があるのではないか、といふ直観があつた。それは、例へば、2004年のまだ大学生だつた頃の自分が何をどう考へ、拙いながらもそれを文章化し「時事放談」といふ形で残してゐて、数年経過してみて、「この時はこんな感じだつたのか」と納得したり、思ひ起こすことができたからである。それが何の役に立つかは全く分からないけれども、でも記録しておくべきではないかと思へて仕方ないのである。

さて、これから僕らは一体どうなるのか、仕事は、学校は、社会は、一体どう変化するのか。しかも現場レベルで、オンタイムでその対応をしていかざるを得ない訳で、状況に引きずりまはされがちであるが、福田恆存ではないけれど、どこかで精神を静止させなければならない。といふわけで、今回の時事放談と相成りました。