困つたことに、「あまちゃん」中毒である。以前にもそんな記事を書いたが、今日の「あまちゃん」を観て、ああなんて素晴らしいんだらうと感動してゐる自分に気付き、もはや手遅れだなと我ながら感心するやら、呆れるやらである。
僕は今まで「アイドル」に夢中になつたことはなかつた。どちらかといふと、夢中になつてゐる人の気持ちが全く分からなかつた。それこそ、AKBだとかモモクロだとか、さういつたものに対して関心すら抱けなかつたし、宇野常寛だとか小林よしのりだとかが、何でそんなにAKBにのめり込んで語つたり本を出したりするのか、正直さつぱり分からない。
しかし、今自分は確実に「あまちゃん」中毒である。
前回は「あまちゃん」を「地元とは何か」といふ切り口で論じてみたが、それと同程度にこの朝の連続テレビ小説は「アイドルとは何か」を問ふ作品であり、恐らくこのドラマにはまり込む人はアイドル的なものにもはまり込む素質を持つやうな気がする。
例によつて、僕は現時点で酒がある程度入つてゐるので、精密な論理を組み立てることはできないが、まあ、話半分に聞いて頂きたい。
アイドルは偶像であり、崇拝の対象である、と定義すれば、途端に実も蓋もない話になる。まあ、恐らく8割方間違ひではないが、真ッ先に思ひついたこの定義は在り来りで陳腐だ。
天野アキが何故アイドルとしての素質があるのか、もつといへば能年玲奈はアイドルなのか、といつた問ひを立てて、そこから色々考へた方が面白い。
このドラマにおいて、琥珀の原石を磨くこととアイドルの原石を磨くことが対比されてゐる。在り来りな存在からアイドルへ、つまり日常性を何らかの操作で祭儀性へと転換させるといふことだが、ここから抽出されるのは、最初から祭儀性を持つてゐてはアイドルとはいへないといふこと、または日常性を閉ざすとアイドルにはなれないといふことかもしれない。
才能、偶然、努力、どれが欠けてゐてもアイドルにはなれないし、さういつた操作が媒介されるからこそ、アイドルを享受する者、即ちファンはアイドルとつながり得ると考へる。
とすれば、アイドルは単に神聖なものであつてはいけない、シャーマンであるだけでは不十分といふことである。
それから、シャーマンであることを仮に認めたとして、ではシャーマンとは何か、神聖であるとはどういふことか、といふ別の問ひも発生する。
呪術と全能性、さういふ力があることで神聖であるといへる。そして、恐らく、アイドルの呪術には期限がある。その瞬間における呪術、その瞬間における全能性、もつといへば、ファンがアイドルの呪術を刹那的なものだと信じることにより、一層その瞬間的な全能性に酔ひしれるといふ働きがアイドルといふ事なのかもしれない。
そして、その呪術性は何に起因するのかだが、恐らくそれはアイドルの数だけパターンがある。天野アキ=能年玲奈については、その透明性、無垢な印象、そしてそれを際立たせるのが共演者も指摘する「キラキラした感じ」 ― 瞳である。
端的にいへば、才能といふことだらう。ただし、厳密に「才能」といふ言葉で言ひ表していいかどうかは躊躇したくなる。才能はいはば原石の状態であり、磨かなければ光らない。とはいへ、磨き込むことで「芸」になつては呪術性がなくなるし、プロフェッショナリズムが強すぎてもいけない、さういふ微妙なバランスで均衡を保つ「才能」である。
洒落に堕する訳ではない。「あまちゃん」は勿論「海女」からもきてゐるし、半人前の意でもあるが、アマチュアリズムがアイドルには必要であることを意識したタイトルではないだらうか。アマチュアであつても技術や才能はプロ以上、場合によれば経験もプロ以上、といふ場合だつて多々ある。従つて、アマチュア=半人前では決してない。
アマチュアとは、商売としてクールに割り切つた状態でないとここでは定義しておかう。でなければ、アイドルはみんなプロフェッショナルといふことになる。つまり、商売の枠組みからはみ出る余剰なものを抱く、といふことである。
完璧なショーは、出演者の一挙手一投足全てに意識がそそがれ、ショーの供物となる。それはそれで素晴らしいものであるが、ファンがアイドルを求める心理はさういつたショーとは真逆の所にあるはずだ。ショーの全体はともかく、一瞬でも良いから閃光のやうな輝きを身に受けたい、全体の内容ではなく瞬間的な完全燃焼を求めるのではないか。
アイドルの話だつたが、この瞬間的な完全燃焼を求めるといふのはロックのいはば理想的状態ではないか。
「あまちゃん」はサブカルチャー的な情報が大量にぶち込まれてゐると同時に、ロックの「精神性」も同時に大量にぶち込まれてゐる。フレディー・マーキュリーのネタ然りだ。ただ、ネタといふこと以上に、宮藤官九朗の中ではアイドルとロックンロールスターをほぼ同じものとして捉へてゐる、と断言したい。