この期に及んで東京スタイルのホームページ

因みに、某アパレルメーカーとは関係ありません。バンド名の由来ではありますが。

瞬間的な完全燃焼(いはを)

2013-08-31 00:59:45 | テレビ番組

困つたことに、「あまちゃん」中毒である。以前にもそんな記事を書いたが、今日の「あまちゃん」を観て、ああなんて素晴らしいんだらうと感動してゐる自分に気付き、もはや手遅れだなと我ながら感心するやら、呆れるやらである。

僕は今まで「アイドル」に夢中になつたことはなかつた。どちらかといふと、夢中になつてゐる人の気持ちが全く分からなかつた。それこそ、AKBだとかモモクロだとか、さういつたものに対して関心すら抱けなかつたし、宇野常寛だとか小林よしのりだとかが、何でそんなにAKBにのめり込んで語つたり本を出したりするのか、正直さつぱり分からない。

しかし、今自分は確実に「あまちゃん」中毒である。

前回は「あまちゃん」を「地元とは何か」といふ切り口で論じてみたが、それと同程度にこの朝の連続テレビ小説は「アイドルとは何か」を問ふ作品であり、恐らくこのドラマにはまり込む人はアイドル的なものにもはまり込む素質を持つやうな気がする。

例によつて、僕は現時点で酒がある程度入つてゐるので、精密な論理を組み立てることはできないが、まあ、話半分に聞いて頂きたい。

アイドルは偶像であり、崇拝の対象である、と定義すれば、途端に実も蓋もない話になる。まあ、恐らく8割方間違ひではないが、真ッ先に思ひついたこの定義は在り来りで陳腐だ。

天野アキが何故アイドルとしての素質があるのか、もつといへば能年玲奈はアイドルなのか、といつた問ひを立てて、そこから色々考へた方が面白い。

このドラマにおいて、琥珀の原石を磨くこととアイドルの原石を磨くことが対比されてゐる。在り来りな存在からアイドルへ、つまり日常性を何らかの操作で祭儀性へと転換させるといふことだが、ここから抽出されるのは、最初から祭儀性を持つてゐてはアイドルとはいへないといふこと、または日常性を閉ざすとアイドルにはなれないといふことかもしれない。

才能、偶然、努力、どれが欠けてゐてもアイドルにはなれないし、さういつた操作が媒介されるからこそ、アイドルを享受する者、即ちファンはアイドルとつながり得ると考へる。

とすれば、アイドルは単に神聖なものであつてはいけない、シャーマンであるだけでは不十分といふことである。

それから、シャーマンであることを仮に認めたとして、ではシャーマンとは何か、神聖であるとはどういふことか、といふ別の問ひも発生する。

呪術と全能性、さういふ力があることで神聖であるといへる。そして、恐らく、アイドルの呪術には期限がある。その瞬間における呪術、その瞬間における全能性、もつといへば、ファンがアイドルの呪術を刹那的なものだと信じることにより、一層その瞬間的な全能性に酔ひしれるといふ働きがアイドルといふ事なのかもしれない。

そして、その呪術性は何に起因するのかだが、恐らくそれはアイドルの数だけパターンがある。天野アキ=能年玲奈については、その透明性、無垢な印象、そしてそれを際立たせるのが共演者も指摘する「キラキラした感じ」 ― 瞳である。

端的にいへば、才能といふことだらう。ただし、厳密に「才能」といふ言葉で言ひ表していいかどうかは躊躇したくなる。才能はいはば原石の状態であり、磨かなければ光らない。とはいへ、磨き込むことで「芸」になつては呪術性がなくなるし、プロフェッショナリズムが強すぎてもいけない、さういふ微妙なバランスで均衡を保つ「才能」である。

洒落に堕する訳ではない。「あまちゃん」は勿論「海女」からもきてゐるし、半人前の意でもあるが、アマチュアリズムがアイドルには必要であることを意識したタイトルではないだらうか。アマチュアであつても技術や才能はプロ以上、場合によれば経験もプロ以上、といふ場合だつて多々ある。従つて、アマチュア=半人前では決してない。

アマチュアとは、商売としてクールに割り切つた状態でないとここでは定義しておかう。でなければ、アイドルはみんなプロフェッショナルといふことになる。つまり、商売の枠組みからはみ出る余剰なものを抱く、といふことである。

完璧なショーは、出演者の一挙手一投足全てに意識がそそがれ、ショーの供物となる。それはそれで素晴らしいものであるが、ファンがアイドルを求める心理はさういつたショーとは真逆の所にあるはずだ。ショーの全体はともかく、一瞬でも良いから閃光のやうな輝きを身に受けたい、全体の内容ではなく瞬間的な完全燃焼を求めるのではないか。

アイドルの話だつたが、この瞬間的な完全燃焼を求めるといふのはロックのいはば理想的状態ではないか。

「あまちゃん」はサブカルチャー的な情報が大量にぶち込まれてゐると同時に、ロックの「精神性」も同時に大量にぶち込まれてゐる。フレディー・マーキュリーのネタ然りだ。ただ、ネタといふこと以上に、宮藤官九朗の中ではアイドルとロックンロールスターをほぼ同じものとして捉へてゐる、と断言したい。


アヒルと亀の甲(「風立ちぬ」ネタバレ注意)(いはを)

2013-08-04 00:18:07 | 映画

この所、仕事場と自宅を往復する毎日が続いてゐた。自宅から勤務先までは徒歩10分圏内なので、同じエリアからほぼ外へ出ないで一週間を終へることもしばしばといふ、小学生でも有り得ないやうな毎日を過ごしてゐる訳です。

そんな中で、日々の楽しみの中心が朝ドラになるといふのも、まあ致し方ないといへばさうなのだが、こんなことで果たしていいのかとやはり偶には思ふ訳です。

といふことで、今日は「風立ちぬ」を観に行つてきた訳です。映画館自体も久々。街に出るのも数週間ぶり。英気を十二分に養はうといふことです。

さて、ネタバレをしないやうに感想を書くのは難しいので、未見の人はこれから先は読まないでください。といつても、読む人は読むのでせうから、その辺りはそれぞれのご自由に。

イーストウッドの「グラントリノ」を観た頃辺りから、映画を観て涙を堪へるのみ苦労するやうになつてきて、今回の「風立ちぬ」も途中からそんな状態になり、大変でした。

作品を単純に分解すると、飛行機設計に「夢」を託す主人公と、結核に侵された恋人とのラブストーリーが、関東大震災から太平洋戦争前夜の日本で紡がれる、といふことにならうが、こんなのではこの映画の5%も語り得たことにはならない。

それにしても、この映画の前評判といふか、映画自体をどうかう評価といふよりも、太平洋戦争に関する見解で特にネット上ではつきり言つて無益な論争(といふか茶番)が起きてゐる。が、それと映画とは全く切り離してしまつていい。

夢にひたむきに生きることが「正しい」結果に結びつくとは限らない。しかし、その生き方は尊い。そして生き方が尊くとも、その人が全ての面で救はれるわけではない。それでも、大切なものを精一杯慈しみながら生きていく、といふことを描いてゐるのだから。

話の方向を少し変へ、昨年東京の現代美術館で開催されたの「特撮博物館」について触れたい。

このイベントは「風立ちぬ」の主人公役を演じた庵野秀明氏が総合プロデューサーであり、ゴジラからウルトラマンに至る日本の特撮映画・TVへの愛情に溢れるものであつた。

宇野常寛が書いた「リトルピープルの時代」に沿つて言へば、日本の特撮とは「ビッグブラザー」の時代が生み出したものといふことになる。ビッグブラザーとは、ジョージ・オーウェルの「1984」に出てくる独裁者のことで、国家(権力)を擬似人格化した概念である。もつといふと、擬似的な人格を持つといふことは、ある種の物語(ストーリーであり、ヒストリー=歴史といつてもいい)を持つといふことだ。

「ゴジラ」は1954年当初から、太平洋戦争の(特に空襲の)メタファーとして機能してゐた。そこで用ゐられた特撮技術は、円谷英二が「ハワイ・マレー沖海戦」といふ戦時の「国策」映画で用ゐたものが原点である。因みに「ハワイ・マレー沖海戦」の空中戦の映像は、当時のアメリカ軍が「本物」だと思つたといふエピソードがある。

ゴジラからウルトラマンへの系譜としての特撮映画への愛は、宇野常寛の論から言へば、ビッグ・ブラザーの時代に固執するといふことであり、国民国家といふ観念自体が壊死しはじめた現代(宇野がいふところの「リトルピープル」の時代)からすれば時代遅れのもの、と斬つて捨てることもできる。

しかし、円谷英二は「国策映画」(=ビッグ・ブラザーを強化するための映画)を作るために「ハワイ・マレー沖海戦」で驚異的な特撮技術を駆使したのだらうか? そんな「為にする」やうなことが彼に出来たのだらうか?

答へは「No」であらう。彼は「飛行機」が大空を飛ぶ映像を純粋に取りたかつただけである。空中戦に活劇的な魅力を純粋に感じてゐただけである。そして、さういつた映像で多くの人を純粋に驚かせたかつただけである。それが彼の「夢」でなくて何だらうか。

「特撮博物館」にジブリが一枚噛んでゐるといふことが、当初僕にはよく分からなかつたのだが、以上の「夢」を補助線として入れると非常に納得がいく。空中戦的冒険活劇の夢は、円谷英二も、宮崎駿も、庵野秀明も共通して抱いてゐるではないか!(そして、それは僕の中にもどうもあるらしい。) とすれば、「風立ちぬ」の主人公である二郎は彼らの(もしかしたら僕らの)自画像ではないか。

「風立ちぬ」のパンフレットには、宮崎駿が書いた企画書が掲載されてゐるが、そこには矛盾することを矛盾のまま描き出さうとする意志が込められてゐた。空中戦的冒険活劇の夢(=この映画でいへば零戦開発への夢)と、戦争に対する強い嫌悪感とを、何とか合理的に統合するのではなく、矛盾したまま、解決しないまま打ち出さうとする意志。それは、「生きねば」といふ映画のキャッチコピーによつて、より強化される。

さて、「風立ちぬ」は堀辰雄の小説のタイトルから取られてをり、もとを辿れば、ポール・ヴァレリーの詩から取られてゐる。「風立ちぬ いざ生きめやも」、風が起きた、さあ、生きようぢやないか、といふ一節である。(一応念のために、「風立ちぬ」の「ぬ」は連用形接続の完了の助動詞であり、否定の文ではないことを指摘しておきます。)

「風」自体には良い悪いはない。といふより、「風」の側には、良い悪いを判断する基準がない。「風」は状況ともいへるし、時代ともいへる。良い悪いを判断するのは人間である。風が起きたその時にも瞬時に判断するし、時間が経つた後でも改めて判断する。しかし、その判断がどうあれ、生きてゐるわけだし、生きなければならない。矛盾してゐようが、さうでなからうがである。

そして、かういふことは果たして制作者の「メッセージ」といへるのか。僕にはどうも、何らかの価値判断上で発せられるものとしての「メッセージ」からはみ出てゐるやうに思へる。勿論、僕が否定的な意味においてさう言ひたいのではないことはご理解頂けると思ふ。

最後に蛇足だが、文学関連でいへば、ポール・ヴァレリーから強い影響を受けた小林秀雄の影も薄らと感じられる。有名な詭弁「アキレスと亀」が映画の中でも使はれてゐるが、小林秀雄には「アシルと亀の子」といふ評論がある。主人公の二郎がアキレスのことをいつの間にかアヒルに例へてをり、この流れは「アシル(=アヒル)と亀の子」からインスパイアされたのではないかと思へてならない。