この期に及んで東京スタイルのホームページ

因みに、某アパレルメーカーとは関係ありません。バンド名の由来ではありますが。

モンキーマン07

2007-11-23 03:43:00 | ブログ

労働者諸君、元気で働いてをるか?
どうも、いはをです。

今日は何を書くかな。
今日は仕事場で某教授にひきとめられたり、某喫茶店で全く時期がかぶつてゐない後輩と話したり、色々ありましたが、そんなことはどうだつていいんです。私は私の中の自足した世界に閉ぢこもることにしたんです―いや、言ひ過ぎました。

まあ、しかし、ぼやきたくはなりますね。仕事場での私の発言のおよそ八割はぼやきに相当するものです。まるで泉谷しげるの名盤「春夏秋冬」なみにぼやいてます。

発する言葉一つ一つにアイロニカルな響きを自ら見出す、まあ、そんなところで。「何でこんなことになるんだらうね?」「まあ、きつと言へない立場の人間に言へない事情があるんでせうね」―そんな具合で。まあ、実際はもつと具体的にぼやいてますが、ここに書くまでもない。ぢやあ書くなとおつしやるのですか。ご尤も。真摯に受け止めますが、実際の行動に移す保障については請け負ひかねます―まあ、かうもつて回つたことを言ふのも捻くれたアイロニーの発露とでも申しますか、まあ、あんまり品は宜しくございません。

しかし、日々品よく暮らせればこれ程幸せなこともないでせう。「あらごきげんよろしう」「こちらこそ、どうもごきげんよう」等といつた具合にはなかなか行きません。「ごきげんよう」と言つた次の瞬間既に「何がごきげんよろしうだ、この間はこんな事を言つてやがつたのに、まあいけシャーシャーと、変はり身の早いこと・・・」となる。腹がきれいにはなれません。―なんですつて、前からあなたはさうではないかと仰る。まあ、それを言つちやお仕舞ひで。

まあ、辛うじて週に二日はきちんと飲む日を設けて、そこで精神のストレッチ運動をするんです。何ですか、毎日飲むんぢやないのかつて?お恥ずかしい、この歳にして尿酸が出たんです、僅かながらですが、といふことで、ある程度抑えるやう心掛けるんんでして、お酒が飲めなくなつては本末転倒でございまして。まあ、何がどう転倒してるかは定かではないのですが。

しかしまあ、色んなところで色んなストレスを溜めてるんです、私に限らず。今日私の相手をしてくれた後輩も恐らく言ひ知れぬストレスに晒されてたんでせうな。

しかし、今思へば、先輩だからつて大したこたないのに、無駄に緊張して、まあ後輩は可哀相ですね。こちらがフレンドリー且つフランクにいくら接しても、結局はぎこちない。まあ、接点も少ないし、あるめんでは当然なんですが、もつと批評的に発言してもいいのにと思ひます。

考へてみると、私は慇懃無礼発言をわざと沢山してきた気がします。「これこれかうだ」「でも、その話のここが矛盾してるんでは」とか、「ああさうですか。で、○○さんはどうですか?」とか、挙句の果てに某X氏に、「このライブのあとご飯でもたべますか?」「ええ、どうしようかな。やめとかうかな」「何で?」等と、ずけずけ、馴れ馴れしい発言。まあ、たまにはそれくらいのことを許して貰はなければね。

最近の世の中の余裕の無さが気に食わん。では。


技芸は身体と共にある(いはを)

2007-11-10 02:51:00 | アート・文化

どうも時事放談の更新が億劫になる今日この頃、いかがお過ごしですか?

さうさう、本日は私は立川談志独演会に行つてきたのです。場所はグランシップの11階コンベンションルーム。会場の規模としては鈴本と同じ位かな。

会場の音響のせゐか、家元の声が多少聞き取りづらかつたが、その分集中して耳を傾けられたとも言へます。まあ、そもそも家元の声自体そこまで通る性質のものでもありませんし、おそらく皆さん承知の上で観に来てるんでせうな。

それはさうと、直に家元の落語を聞いたのは今回が初めてで、何て言ふのか、小説でも「現代小説」と言ふべきジャンルがあると思ひますが、さういふ感じがしました。「無意識」領域を「現代小説」ではテーマにすることが多いと私は勝手にさう考へてるのですが、家元がイリュージョンといふ言葉で説明してゐるのはつまりさういふ「無意識」領域―この不穏なる領域を落語の世界において解放するといふことなのでせう。従つて、我々が寝てゐる時に見る夢の不条理な感覚、さういふものが家元の落語の骨組みと言へると思ひます。

夢の不条理は目が覚めた後で気付く。それは当然のことであるが、不条理を不条理であるとして排除することが人間の精神をある面では締め付けてゐると若しかしたら言へるのではないか、その証拠に落語などといふ馬鹿馬鹿しい噺を人は求めてゐるではないか―家元の落語の端々からかういふロジックが迸る。それはマクラにおいて家元がまさに論理的に自分の落語について語るときは勿論、噺の本筋にありながらも自由自在にその噺とは別の地点へ飛躍したり、はたまた逆に元の筋へ着地したり、または噺の本筋にその噺自体への批評・分析を挿入したり、さういつた融通無碍な動きそのものが不条理であり、しかしそれでゐて家元の噺を聞く我々はその不条理を自然と受け入れてゐる。これは何だか狐につままれてゐるぞと感じながら、つままれることが気持ち良いのである。

シュールといふのはシュールレアリズムを略した言葉だらうが、家元の落語はまさに超現実を志向しようとする。落語といふ芸にもともとさういふ要素が含まれてゐるのだらうが、家元はそれを意識的に捕まへ、そして拡大させる。今回の独演会の後半で「へっつい幽霊」が口演されたが、この演目自体が、例へば「へっつい」(=カマド)にとり憑いた幽霊だとか、その幽霊がよりによつてそのカマドに自分で塗りこんでおいたお金に未練があるだとか、幽霊を簡単に受け入れる渡世人の熊だとか、最終的に幽霊と熊がサイコロを振つて博打をするだとか、シュールの塊の様な、夢みたいな噺だ。それをリアリズムの側面から説得力を持たせるのではなく、シュールレアリズムの側面から説得力を持たせる。そもそも上記の通り噺の流れ自体がシュールなのであるから。

しかし、説得力を持つといふことはある意味ではリアルであるといふことでもあり、換言すれば、落語を聞く者にとつてはシュールレアリズムの世界がリアルなのである。パラドックスであるが、どうもさうでしか在り得ないのだから困りものなのである。

まあ、かういふシュールな世界は論理による担保が何処かに無いと成り立たないと家元は考へてゐるやうで、確かに理知的な前提を置くことで、文学や哲学に比肩する、現代を切り裂く一つの表現法へと落語を「昇華」させてはゐるが、いかんせん理屈で雁字搦めな感もある。それはそれでいいのではあるが、さういつた所が「クセ」や「臭み」になる場合もあるし、私自身さう感じることがある。(しかし、ある種のスノッブはかういふ「クセ」を求めがちで、私にもその気はあるのだが)

しかし、家元は自分の何処となくチャーミングな資質によつて「クセ」や「臭み」を帳消しにしてゐることが今回の独演会で非常に強く感じられた。これはメディアを通してでは感得出来ない要素であり、家元のファンは彼の理屈よりも、このチャーミングな面を愛してゐるのではないか。そして、この面こそが家元最大の「無意識」の側面なのかもしれない。