この期に及んで東京スタイルのホームページ

因みに、某アパレルメーカーとは関係ありません。バンド名の由来ではありますが。

チデジカの着ぐるみを脱いで何が悪い(いはを)

2011-06-28 01:18:00 | アート・文化

明日も仕事なんだから、こんな時間に時事放談を更新するのはどうかと思ひますが、まあ、いいつてことで。

ここ最近の身辺の嵐は一体何だつたのだらう?未だに全然気分が休まる感じがしません。

取り急ぎ、エアコン、冷蔵庫、テレビを買はなければ、どうしようも夏を乗り越えられないかもしれない訳で、まあ、テレビは特にいいかもしれませんが。

即ち、家電量販店にここの所頻繁に足を運んでゐる訳ですが、何といふか、店全体に近未来感が漂つてをります。殊にタブレット型コンピュータ。何なのでせうか、この機械は。こんな形で技術が発達すると予測した人は15年前に何人ゐたでせうか?その代はり、空を飛ぶ自動車だとか、ホバークラフト的なスケボーとか、そんなものは今の所世間に全く蔓延つてはゐません。

スマートフォンつてのも、一体何なのでせうか。かなり多くの人が使つてゐるといふか、ほぼ普及し尽くした感もありますが、僕は全く旧来型の携帯で不自由は感じてゐないので、恐らく感覚が古いのでせう。かういつた便利だらうと思はれるものは、慎重に慎重を重ねて、やつと手にする位でないと、道具に使はれさうで気味が悪いです。

それにしても、映像にせよ、音楽にせよ、完全に「データ」化してしまひました。かくいふ私もハードディスクに持つてゐるCD全て(とレコードの一部)をデータとして落としてをり、もはや家ではCDをかけなくなつてしまひました。

でも、何度でも書いてますが、やはり音楽は果たしてデータなのでせうか?確かに、何か物を必ず媒体としなければならないとまでは考へませんが、しかし、データには「価値」が付与されるのか、この点については僕にはどうも疑はしい。

もつと言へば、そもそも「価値」といふ考へ方自体が現代においてはカビの生へたものなのかもしれないのですが、かといつて自分が宅録した音と、ビートルズでもストーンズでもマイルスでもいいのですが、さういつた先人たちの音との間にあつた差異が、限りなく無くなつていくやうな気が致します。そもそも、データ化した状況下においては、音楽を作成し、録音するといふ行為自体が、アマチュアとプロとの境目が無化してしまひます。誰でもある程度の知識があれば、それなりの音楽を作成できてしまふのですから、苦労して楽器の演奏技術を練磨したり、バンド練習をしたりして、音楽を身体に取り込むといふこと自体が馬鹿らしくなりかねません。

だからといつて、このデータ化の流れを止めること等最早無理であります。また、この流れは大文字の「歴史」や「物語」が完全に葬り去られたといふことでもあります。大きなムーブメントや、国民歌みたいなものは生まれえなず、細分化されたサークル内でのムーブメントがそれぞれに起こり、それがさらに細分化されることになるでせう。

でも、やはりどこかで違和感を感じてしまふ人が少数かもしれませんが存在すると思ひます。でも、無理に抵抗した所で恐らく馬鹿を見るだけかもしれません。

とすれば、ともかくスタンスを変へずにこの細分化状況を、少し遠くから静観し、しばし我慢をするといふのが一番賢明かもしれません。といふのも、かういつた状況はどこかで必ず飽和すると、何となくですが直感してしまふからです。

てなわけで、地デジ化の必要性が全く理解できないまま、完全移行を迎へることといたします(いやはや、やつぱり地デジ化をそんなに急ぐ必要性は0に近い気がしてならないのです)。

では、おやすみなさい。


This Wheel's on Fire(いはを)

2011-06-25 00:12:00 | アート・文化

ネットが再び開通いたしました。

皆さま、こんばんは。竹藪からやつと抜け出たいはをです。

さて、何を書かうか・・・。

ここの所色んな事があつて、その波がやつと落ち着いたところです。

東京スタイルの復活事業も一段落し、メンバーに無断でマイスペースに登録でもしてやらうか等と、ふと考へてしまひましたが、まあ、どうするかは気分次第です。

さて、5月に恩師の住む浦和に行きました。その時、先生から橋本千代吉の「火の車板前帖」といふ本を頂きました。

「火の車」といへば、The Band の曲にもありますね。リック・ダンコとボブ・ディランの共作の曲です。The Byrds も取り上げてますね。ついでに小鹿ジェンキンスでもやりました。まあ、そんな事はともかく、この本に出てくる「火の車」といふのは詩人の草野心平が太平洋戦争直後に開いた居酒屋の店名であります。

著者の橋本千代吉はこの店の板前で、「火の車」が営業してゐた頃、店に集つた文士や出版関係者の人間模様を非常にユーモラスに描いてをります。

僕の恩師はこの本を「すこぶる面白い」と評してをりましたが、実際その言葉の通りでした。登場する人物が非常に生き生きとしてをり、生き生きと酒を飲んでは暴れます。それにしても、この時代の出版関係者、大学教授、文士は物凄い量の酒を飲んでゐたやうで、またついでに喧嘩をしたり、深夜から早朝にかけて人の家に押しかけたり、ある意味、喧嘩以外は僕の大学時代と同じやうな、否、それ以上に破天荒な状況だつたやうです。

酒場に行けば知つてゐる人に会へる、といふのは非常に幸福なことではないかと思ひます。無茶をしようがしまいが、人と会つて一緒にお酒を飲めるのは人生の醍醐味の一つなのだといふことを、この本は教へてくれます。

で、今自分は頂き物の清酒立山を飲みながらこの放談を書いてをります。

二日酔ひのあとは、もうお酒なんか飲まなくてもいいと思ふのに、そんなことは簡単に忘れて、浴びるほど酒を飲んだらどんなに気持ちがいいことだらうと、仕事が面倒臭くなつた時なんかは強く思ふわけで、でも、浴びるほど飲むといふのはコンディションを整へないとなかなか難しいもんでございます。

まだ飲み足りない気がするので、この辺で放談のお開き。また次回。


まだまだ僕はこれからさ(いはを)

2011-06-02 20:13:00 | 日記・エッセイ・コラム

昨日は誕生日でしたが、もう歳も歳なので何もいふまい。

さて、誕生日だの何だの、忙しいのですが、こんな時によりによつて風邪をひいてしまふといふ、まあ、困つたもんでございます。まあ、もうほぼ治りましたが。

先週の土曜日なんぞは鼻水が滝のやうに、いや泉のやうに自然と湧き出で、汲めども尽きぬ事態で、まあ、だからどうしたといふもんであります。

ここの所のジャズ漬けで、この間岩波新書から出た「コルトレーン」を今日読み終はり、『至上の愛』は近々買はなければと考へてをります。

さう、未だに私はCDショップでなければ音楽を買ふ気にならない性分で仕方がありません。

さて、怒涛の週末がもう目の前です。東京スタイルが明日静岡に帰つて来ます。

それでは。また来週。