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『面構 足利義満』(1966年、神奈川県立近代美術館蔵)
京都市の北区、衣笠山の麓に等持院という寺がある。若き日の水上勉も修行したという名刹だが、観光客がバスを連ねて押しかけるような賑やかな場所ではないようだ。ある年、片岡球子はその寺を訪ねた。そこで彼女は、運命的な出会いを果たす。
もうずいぶん前のことだが、ぼくも等持院に足を運んだことがある。けれども、あまり印象に残っていない。記憶にあるのは池泉回遊式庭園の落ち着いたたたずまいと、歴代の足利将軍の木像がひっそりと並んでいたことぐらいである。一応はひとりひとりの顔を覗き込んで歩いたが、室町幕府に対して特別な感慨があるわけでもなく、これといった思いもわかなかった。
だが、それらの像は球子の内部に激しい化学反応をもたらしたようだ。両手で抱えられるほどの小さな木像は、彼女の想像力のなかで大きくふくれ上がり、命が吹き込まれ、豪華な着物が与えられて、絵のなかにどっしりと鎮座した。『面構』最初の作品である足利尊氏・義満・義政の像は、こうして生まれた。
上の絵は、そのなかの三代将軍義満の面(つら)である。義満といっても、ぼくには剃髪した肖像画か、幼いころにアニメで見た「将軍さま」の顔しか思い浮かばない。そこで等持院所蔵の木像を写真で見ると、驚いたことに、この絵にあるような笏(しゃく)は手にしていなかった(失われたのか、最初から持っていなかったのかはわからない。なお、尊氏と義政の像は笏を持っている)。顔も、像に似せて描いているようには思えず、どことなく混血の格闘家といった感じがする。
そして、例の衣装のきらびやかさはどうだ。モデルは木の像だから、もちろん無地である(以前は柄が描かれていたかもしれないが、今では剥落している)。おおまかな人物像とは裏腹のデリケートな紋様は、どうしても百人一首の絵札を想起させずにはおかない。ひとりの将軍の姿を追求したわけではなく、球子は独断と偏見で義満にふさわしい衣装を着せてやったのだろう。「このほうがいい男に見えるわ」などとつぶやきながら・・・。
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『葛飾北斎』(1976年、北海道立近代美術館蔵)
『面構』とは題されていないが、『葛飾北斎』は明らかにそれに連なる作品である。この画狂人の身につけている着物の柄は、果たしてこれが絵だろうかと思うほど手が込んでいる。絵札のような足利将軍の服から一歩進んで、絹の光沢のような“ぬめり”を帯びて描かれているのには感心する。
このころの球子は、江戸時代の絵師の肖像を数多く描いた。写楽の「大首絵」などとちがうところは、同じ画面にその絵師を代表する仕事の一部を描き込んでいることだ。たとえばこの北斎像の後ろには、小布施に伝わる祭屋台の肉筆天井画『龍図』が描かれている。
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参考画像:信州小布施 東町祭屋台天上絵『龍図』葛飾北斎筆
北斎の『面構』で発揮されているのは、無類の想像力というよりも、偉大なる先人への敬意であり、親しみであるように思う。片岡球子は現代日本画の巨匠を目指していたわけではなく、雪舟や北斎や広重らに連なって脈々とつづく絵師の系譜の末端に、もがきながら食らいついていたのにちがいない。
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