てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

多面体イサム・ノグチ(2)

2006年09月22日 | 美術随想
 滋賀の展覧会を観たあとで、14年前に開かれた回顧展の出品目録をウェブ上から探し出して調べてみると、このたびの出品作と重複しているものがかなりあるのに気づいた。実は今回、ほとんどが初対面の作品ばかりのような気がしていたのだが ― ただし大きな例外がいくつかあったが ― 実は多くの作品と再会を果たしていたことになる。これは自分でもまったく意外だったが、よく考えてみると無理もないことかもしれない。14年前のぼくは今よりもはるかに、イサム・ノグチに対する興味が薄かったはずだからだ。

 そして今回の展覧会は、ぼくが14年前に感じた「難しい」という内容をいくらか踏襲していることにもなるだろう。事実、同じ展覧会を観てきたという会社の同僚からは「難しくてよくわからん」といった嘆息が漏れるのを聞きもしたのである。だがぼくにいわせれば、抽象彫刻である以上「難しい」のはむしろ当たり前であって、そこには何の不都合もない。具象表現にありがちな“人物”や“風景”といった万人共通の言語を見つけることは、最初からできないのだ。「他の人のことは知らないが、自分にはこれはこう見える」ということを探し求めるのが ― あるいは探し“あぐねる”のが ― 抽象芸術を鑑賞するということなのであって、作品それ自体の価値よりも受け止める側の心の動きが問題なのである。「難しくてわからない」というのであれば、それもひとつの答えにはちがいない。

 しかし最近のノグチブームを傍観していると、その「難しさ」が置き忘れられているか、他のものにすり替えられているような印象がぬぐえないのであった。それだけでなく、癒しブームと深いところで手を結んでいるような気さえするのである。確かに“公園”とか“噴水”といった、まさに人々に癒しをもたらす空間として、ノグチのいくつかの作品は機能している。『ブラック・スライド・マントラ』と呼ばれるお尻で滑る彫刻や、子供の視点で考えられた遊具の数々も、“心の結ぼれ”を解放するための装置として作られていることは間違いない。しかしこのことは、ノグチがいかに深刻な“心の結ぼれ”を抱え込んでいたかの証しでもあるのではなかろうか?

   *

 今回の展覧会は年代順によらず、テーマ別の構成となっていた。最初の章に「顔」というテーマが設定されているのを見て、ぼくは初期の肖像彫刻ばかりが展示されているのかと思ったが、実際には顔の彫刻はごくわずかしかなく、いったいどこが「顔」と結びつくのか理解に苦しむような作品が並んでいたのである。加うるに、次のような解説も掲示されていた。

 《抽象彫刻を作る際もノグチは人体というテーマを放棄したわけではありませんでした。むしろ人体は様々に形を変えながら、ノグチの造形の基本テーマであり続けました。》(展覧会図録より)

 「自分にはこう見える」というのが抽象芸術の鑑賞だなどとぶち上げた手前、この解説に反対するつもりは毛頭ないが、この文章を読んでどうしても首をひねらざるを得なかったのも事実である。あくまで個人的な意見としていうのだが、ノグチは“人体を放棄した彫刻家”ではないかと、ぼくはひそかに思っているからだ。それは彼自身の肉体の中に日本人の血とアメリカ人の血が混じっていて、そのために幼いころから差別的な経験を受けていたこととも無関係ではない。言い換えれば、彼は“人体”に相当なコンプレックスをもって育ったのではないか、ということである。

 ノグチは若いころ、肖像彫刻の注文をとって生計を立てていたのは事実だ。しかし多感な青年ノグチが、街の名士のモデル ― 彼らはたいてい人種や国籍の複雑な問題を抱えてはおらず、いたって平穏であったはず ― と向き合ったとき、ノグチの心に屈折した何かが兆さなかったとは断言できない。

 そんな彼の手をとり、抽象彫刻へと導いたのが、ほかならぬブランクーシであった。上記の解説文のくだりは、ノグチよりもむしろブランクーシにこそふさわしい。彼は常に“人体”から出発しつつも、極端なまでに単純な造形を推し進めた芸術家だからである。彼はノグチを、具象彫刻のしがらみから解き放ったのだ。

   *

 ブランクーシとの出会いから数年後、ノグチは『死(リンチされた人体)』という作品を作っている。これは「顔」とは別の章に展示されていたのだが、ぼくはこの奇怪な彫刻を観たとき、まざまざとかつての記憶がよみがえってくるのを感じた。以前にも確かに、この作品の前で立ちすくんだ覚えがあったのである。調べてみると、やはり14年前の展覧会にも出品されていたものらしい。ひょっとしたら他の展覧会でも繰り返し観ていたのではないかと思えるほど、その印象は鮮やかなものだった。

 これは、ひとことでいえば首吊りの像である。鉄枠の上に木材が渡され、そこに太く頑丈なロープがかけられていて、目鼻のない人体がぶら下がっている。不自然な具合に体をねじまげ、死の苦悶を永遠にとどめたまま、おそらくは永遠にぶら下がりつづける無残な死体である。これほど残酷な、救いのない彫刻というものは、他にちょっと思い浮かべることができない。

 題名によるとこの人物は自殺したのではなく、リンチされたあげくに殺害されたものだという。日米の混血児であったノグチにとって、ひとごととはいいきれない切実なものが、人物の手足のはしばしにまでみなぎっているかのようだ。そこには確かに恐怖があり、それと背中合わせになった告発があるのである。

 しかし、それだけではないのではないか、とぼくは思う。ノグチは昔の公開処刑のように、あえて観客の前で“人体”との訣別の劇を演じてみせたのではなかろうか? 彼がみずからのコンプレックスから脱却するためには、一旦“人体を放棄”し、そこから完全に解放されることが必要だったのではないかと思うのだ。ノグチが当時としては驚くほどのグローバルな視野を獲得するにいたったのは、これ以降のことである。

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