『チェロと二人の姉妹』(1913~14年)
日本人はなぜこんなにも、マリー・ローランサンが好きなのだろう。
世界でも唯一のローランサンの美術館が、長野の蓼科高原にある。そこの所蔵品によるローランサン展は全国でひんぱんに開かれていて、ぼくも何度か観たことがあるが、このたび大阪で開催されたので出かけてきた。
マリー・ローランサンというと、黒眼がちの愛らしい娘が描かれた幻想的な絵を誰もが思い浮かべるだろう。だが芸術の都パリに生まれ、さまざまな前衛美術家たちに囲まれながら生活した彼女は、自分の作風に到達するまでにずいぶん回り道をしたようである。それはすなわち、ひとりの名もなき女性が画家として自立するまでのプロセスにほかならない。今と比べて、美術界がはるかに男性優位だった時代の話である。
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『自画像』(1904年)
マリーが21歳のときに描いた『自画像』(1904年)を観ると、その深刻な表情に驚く。後年の、愛と優しさにみちあふれた作品とはまるで別人のようだ。
彼女は、自分の容姿にかなりのコンプレックスをもっていたらしい。この『自画像』には、若きマリーの屈折した心境がありありとあらわれているように思う。自分の顔など描くに足りぬと感じながらも、彼女は自己を徹底的に見つめなおし、それが宿命だといわんばかりにすべてを包み隠さず描いた。不機嫌そうに眉間にしわを寄せ、飾り気のない白い服を着た『自画像』は、マリーの青春の記念碑としてかけがえのないものである。彼女の出発点はここだ、ということを、観る者は頭にたたきこんでおく必要があるだろう。
『自画像』(1908年)
しかしその4年後に描かれた『自画像』(1908年)を見ると、驚くほど画風が変化している。ピカソやブラックらと交流があったこのとき、キュビスムの影響を受けたのは明らかだとしても、そこに描かれているマリー自身の人格がすっかり変わってしまっているようなのだ。眼つきは挑戦的になり、われわれを鋭く見返す。自分の進むべき道をはっきりと見定めたように感じられる。
このとき彼女は、詩人のアポリネールと恋愛関係にあった。この恋がマリーを刺激し、自立を大きく後押ししたことはたしかだろう。しかしふたりの仲は、永遠のものではなかった。アポリネールは有名な詩『ミラボー橋』を書き、その別れは後世まで口ずさまれることになった。
日が去り 月がゆき
過ぎた時も
昔の恋も 二度とまた帰ってこない
ミラボー橋の下をセーヌ川が流れる
日も暮れよ 鐘も鳴れ
月日は流れ わたしは残る
(堀口大學・訳)
参考画像:アンリ・ルソー『詩人に霊感を与えるミューズ』(1909年、バーゼル美術館蔵)
アポリネールとローランサンが描かれている
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マリーはやがてドイツ人の貴族と結婚し、第一次大戦の戦禍を避けてスペインに亡命する。別れてもなお彼女を慕いつづけるアポリネールを、パリにひとり残して。
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