京都で、ドイツのポスターを集めた展覧会を観た。
商業芸術に関してはまったくのシロウトだし(もちろん純粋芸術に関してもシロウトであることに変わりはないけれど)、このブログで取り上げたことは一度もないが、ポスター展にはしばしば出かけている。この分野の二大巨頭ともいうべきロートレックとミュシャの作品は、それこそ街角に貼り出されているポスターに負けないぐらい、何度も観たことがある。
時代の寵児となった彼らが活躍した舞台は、パリであった。佐伯祐三が描いたパリの街にも、壁にびっしり貼られたポスターが登場するのはよく知られているとおりである。しかしドイツのポスターというのは、ほとんど馴染みがない。いったいどんなものなのか、この機会に知っておくのもいいかと思い、また以前からのドイツ好きということもあって、出かけてみることにした。
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会場に入ると、受付で四角く折りたたんだ紙を手渡される。見ると、出品作の目録が小さな字でびっしり印刷されているではないか。そのかわり展示室の壁にはキャプションが貼られておらず、通し番号が書かれているばかりである。その番号をたよりに、手もとの紙から作品名と作者名を探し出すという仕組みであった。
さらにその紙をすっかり広げると新聞の見開きぐらいの大きさになり、裏にはこの展覧会のポスターがデカデカと印刷されている、という趣向もあった。なるほどおもしろいアイディアではあるが、できれば手ぶらで鑑賞することを心がけているぼくにとっては、ちょっとしたストレスである。
しかし考えてみれば、街角に貼り出されているポスターにはもともと、タイトルも作者名も書かれていない。今度のようなポスター展でも、資料を持たずに作品だけをひたすら観て歩いたほうが、ポスター本来の接し方により近いのだろう。何せポスターの役割というのは、何も知らない人に商品や催事などの知識を手早く埋め込む、瞬間の働きにあるからだ。
過去のポスターをじっくり鑑賞するというのは、どこかへ飛んでいってしまった蝉の抜け殻を丹念に観察するのに似ているかもしれない。情報としてはすでに手遅れだが、動いている蝉を必死に追いかけまわすよりも、よりはっきりと見えてくるものがあるにちがいないのである。
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でも本当のことをいうと、ぼくがこの種の展覧会にかける時間はいつもより短い。手描きの絵画の前には数分間立ち止まっていることもまれではないが、ポスターを観るときにはゆっくり歩きながら眺めるといった感じだ。
実際のところ、街を歩いているときでも、ポスターの前に立ち止まってじっくり見るということはまったくしない。たとえば展覧会の告知とか、(本当は見たくもない)税金の納付期限とか、ぼく個人の生活に関係のあることがらでも、時間や場所を覚えるためにしばらく眺めることはあるが、ひとつのビジュアルな作品として鑑賞した覚えはないのである。
つまるところ、普段のぼくはポスターを芸術として見てはいなかったのだ。それらが美術館の壁に陳列されたところで、いきなり芸術作品に変貌したりするわけではない。商業芸術を下等に評価するつもりはさらさらないが、ぼくの関心の置きどころが、やはり個人的な創造欲から生み出された純粋絵画のほうに大きく傾いているからだろう。
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したがって、展示されているポスターの作者はぼくの知らない人ばかりだ。しかし数人だけ、ぼくにも馴染み深い名前があった。カンディンスキー、モホイ=ナジ(モホリ=ナギとも)、ケーテ・コルヴィッツといった人たちで、いずれも画家としてよく知られた人ばかりである。カンディンスキーはバウハウスで教鞭をとっていたので、商業芸術の専門家でもあったわけだが、彼のポスターはいかにも彼らしく、中央に抽象画を配したデザインであった。
同じくバウハウスの教員だったモホイ=ナジのポスターは写真を使ったオフセット印刷によるもので、ぼくの知っている彼の油彩画とは何の関連も見出せなかったが、コルヴィッツの反戦ポスターは、彼女の創作活動と深く結びつくもののように思われた。子供たちに囲まれた母親が、われわれのほうをじっと見つめている。その眼からは、しいたげられた人たちの言葉にならない思いがひしひしと伝わってくるのである。
ポスターであるから、絵の下には「戦争に反対しよう!」という文字がドイツ語で印刷されていた。だが、そんなことはわざわざ書かなくても、コルヴィッツの絵によってじゅうぶんに表現されているように思われた。
絵画とポスター芸術との境界線は、どうやらこのあたりにあるようだ。絵が語りすぎても、文字に頼りすぎても、ポスターとしてはマイナスなのである。では理想的なポスターとは、いったいどのようなものなのだろうか?
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