カミーユ・ピサロ『立ち話』(1881年頃、国立西洋美術館蔵)
『立ち話』は、例の松方コレクションに含まれていた作品である。一見すると、微笑ましい場面が描かれているように誰しも思うだろう。ふたりの女が時間も忘れて立ち話に興じるという、どこにでもある光景だ。
けれども、ぼくにはそうは見えない。日本でも少し前までは、垣根や塀を挟んでお隣さんと会話をする習慣があったかもしれないが、この絵はそんなのどかな場面をとらえているのだろうか?
まず気になるのは、絵のなかの空間を二分する木製の柵が、極端なまでに右に傾いて見える点である。背後の木々がほとんど真っ直ぐ立っているのに、この角度はあまりにも不自然で、また画面に不安定な要素をもたらしている。
さらには、その柵に腕をのせて、ほとんどもたれかかるようにして立っている左側の女の表情が、決して楽しそうではないのだ。彼女はある問題を抱えており、深刻めいた顔を隠しようもなくさらけ出してしまっているという感じなのである。その一方で右側の女は、相手の顔に真摯な視線を向けてはいるが、まるで柵の向こうに閉じ込められているように見えなくもない。
この場面から、いったいどんな会話が聞こえてくるというのだろうか。少なくともぼくには、毒にも薬にもならないような世間話とは思われぬ。ピサロがユダヤ人であったことをふと思い起こすと、20世紀にユダヤ人たちが受けた絶望的な迫害の記憶がこの絵の上に重なって見えてくるのも、ある意味では仕方のないことなのかもしれない。
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参考画像:カミーユ・ピサロ『小枝を持つ少女』(1881年、オルセー美術館蔵)
『立ち話』は、第7回の印象派展に出品された作品である。そのとき、有名な『小枝を持つ少女』も出品されていた。
この絵は別名『羊飼いの娘』とも呼ばれ、仕事の合間に腰を下ろして休んでいるところだ、といわれている。だが、本当にそれだけだろうか。一見すると、羊飼いの扮装をした赤ずきんのようで愛らしくもあるが、枝の先を見つめる彼女の顔はくつろいでおらず、その眼は暗い光を宿している。
この少女が何歳ぐらいかはわからない。おそらくは野原を駆け回って遊びたい盛りにちがいない。けれど、それなのに・・・。
われわれは『ハイジ』のアニメの影響か、放牧をなりわいとする農家の人たちは何となく呑気で楽しい暮らしをしているように錯覚しがちだが、真実とはほど遠いのであろう。ピサロの絵は、ふとそんなことを考えさせてくれる。
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