てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

自然と同化した男 ― 犬塚勉を観る ― (5)

2012年02月07日 | 美術随想

『ブナ』(1988年)

 犬塚は、一本のブナに眼をとめ、それを繰り返し描くようになる。奥多摩地方の、東京と山梨にまたがる山頂近くに、この木はあるらしい。

 日々移りゆく我が子の成長を観察し、毎日のように記録をつけたり、写真に撮ったりする人は少なくないかもしれない。けれども、彼は自分よりもはるかに年かさの、というよりは悠久の時間を生き抜いてきたかに思えるブナを見るために何度も足を運び、幾度も絵に描いている。たとえ一年ぐらいは眼を離していたって、さしたるちがいはありそうにないのに。

 人間がある程度まで成長すると、自分のまわりのものを客観的に眺められるようになる。いわば、“分別”がつくのである。はるかな山の上に生えた一本の木に執着するなど、家庭をもった30代の男のすることではないようにも思える。けれども犬塚にとっては、毎日の食事をしたり、夜に睡眠をとったりすることと同じぐらいに、このブナから大いなる力をもらわずにはいられなかったのだろうか。

 大人の人間でも抱えきれないほどの太く頑強な幹をもち、ずっしりと大地に腰を据えながら、脇から可憐な細い枝を生やしているブナは、まるでひとりの孤独な巨人のようだ。犬塚は、我が心を寄せるべき偉大なる人影をそこに見たのかもしれない。

 ブナを描くようになってから、彼の絵ははっきりと変化したように思える。広大無辺な大地の広がりが、ある焦点に向かって収斂されてきたのだ。同じく繰り返し描いた「玉子石」と呼ばれる不思議な岩も、そうである。

 「日曜美術館」で犬塚勉が特集されたとき、司会を務めていた姜尚中は、最近の著書のなかで犬塚を取り上げ、こんなふうに書いた。

 《犬塚は、わたしは自然になりたい ― といった意味のことを、しばしばもらしていたそうです。「俺は、一本のブナの木であり、一つの石である」と。

 世の中には、「自然と人間の共生」という言葉がありますが、犬塚の作品は、そんな通りいっぺんのものではなく、「共生」をはるかに通り越して自然の中に自らが消滅してしまっているような絵なのです。》
(『あなたは誰? 私はここにいる』集英社新書)

 ブナや玉子石は、犬塚の自画像であったのか。

                    ***


『暗く深き渓谷の入口I』(1988年)

 この文章を書きはじめてから、夫人の陽子さんの文章を読む機会を得たが、犬塚はぼくが勝手に想像をふくらませていた以上に、よき父親だったようである。山から持ち帰った野草を庭に植えたり、子供にロッククライミングを教えたり、ときには家族を伴って山に登ったりもしたらしい。

 けれども、彼が本当に自然のなかに消滅してしまおうとは、誰が予想しただろう。1988年9月、「もう一度、水を見てくる」といって出かけた谷川岳で遭難し、38歳で命を落とす。

 その水とは、結果的に絶筆となった『暗く深き渓谷の入口』の連作に描かれている水である。画面の下半分を占める大きな岩は、玉子石から派生したものだろう。しかし、先ほども書いたように、それは犬塚自身であったかもしれないのだ。

 姜尚中は、この絵は彼にとっての「浄土」ではないかという。いいかえれば、“祈り”ということになろうか。若いころに仏像の絵をたくさん描いていたことを考えると、突飛な連想ではない。実際、犬塚はこの絵を中心にした三連画の構想を描き残している(ただし3枚の絵が縦に並ぶスタイルだが)。複数の絵からなる祭壇画のようなアイデアをあたためていたことは、たしかである。

 けれどもぼくは、「人を描かずに人を描く」という犬塚の言葉を、もう一度思い出したい。肉体の死とひきかえに、彼はこの絵のなかに自分を封じ込めたのではあるまいか。何千年も地上に転がっている岩が登山者を感動させるように、彼の残した絵も、今後長い年月にわたって人々の心に何ごとかを訴えかけていくにちがいない。

(了)


DATA:
 「犬塚勉展 ― 純粋なる静寂 ―」
 2012年1月6日~1月23日
 京都高島屋グランドホール

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