藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

遥か昔を思い出した(5)・・・

2023-12-30 13:54:58 | 日記・エッセイ・コラム

今回は長話となるので、辛抱してお読みください。

 復学して、17歳の春の終わり頃の朝礼で、再び倒れた。 気付くと、大学病院の病室に寝かされていた。 この病室には、面白い経歴の人が不思議と集まって来た。 一番古かった方は、「大江健三郎」著の「ヒロシマノート」に紹介されている方で、白血球数が12万個と言う方(名前は山名さん)、続いて「三波春夫後援会の中国支部長」、その次に、私の同級生の親父様で、「教会の牧師兼、幼稚園の園長」様、その次は、「五十を過ぎても独身の男性」で、付き添いの「其のお母さま」が大変な方。そして「私」が入院。 その次に入院してきたのが、「共生会の親分」と言う事となった。 「五十過ぎても独身の男性」の母上は、「共生会」の親分の子供の頃からの知り合いと言うか、戦争で片親を亡くしていたこの親分を、「武ちゃん、武ちゃん」と呼んで、随分可愛がっていたそうだ。 よって、この母上様には「親分」は、頭が上がらない。 七月のある日、廣島で三波春夫の公演が開かれた。残念至極だったのは、「三波春夫の後援会長」さん。「胆嚢切除手術」の当日が、公演の日と重なった。 するとその前日、「三波春夫でございます。」とばかりに、本人が見舞いに来た。大学病院は大騒ぎ。 ひと段落した頃に、「教会の牧師様」の所に、「O国会議員」が見舞いに来た。これまた原爆記念日前の事なので、警察の護衛付き。 社会党の大物議員だった。 此の議員が、私の病床の名札を見て、「君の住まいは何処ですか」と、聞いて来た。 「己斐です。」答えると、「お父さんは元気か」と聞く。 「元気だ」と答えたら、若かりし頃、平和運動全盛時代、お酒が国の管理下にあった頃、我が家には、「闇酒」が隣の、叔母が経営する酒屋から、幾らでも手に入ったので、廣島での平和運動に集まった、竹下登(後の総理)や、深津誠一(後の大野町町長)、山下三郎(後の廿日市市長)等の面々と、私の叔父、私の親父と、深夜まで酒を酌み交わした話をし始めた。 こんな面々が一室に入っていたので、事件が起きない訳がない。 ある日、銃声二発・・・。 私のベッドのすぐ横の窓に穴が二つ・・・。 天井にも二つ。 「打越組」の殴り込みだった。 警察が駆けつけて、大騒動。 それが原因で、「共生会」の親分は、個室に缶詰めとなった。 24時間、警察の見張り付き。 やっと静に過ごせると思ったのも束の間であった。 「共生会の親分」の妹が、救急車で入院してきた。 「敗血症」と言う病気に罹っていた。 大量の輸血が必要だが、「A型Rh-」と言う変わった血液型だった。 血液銀行にも多くない。 そこで、大学病院内で探したら3人いたが、「暴力団の親分の妹」には、提供したくないとの事で、主治医は困り果てていた。 数日後、「山名さん」と「私」は、「骨髄腺取」(漢字が違うかもしれない)と言う検査をする事となった。 山名さんは白血球が12万個。 正常値は、3300から8600個。 私は、1600個、症状は真反対。 方法は、「胸板骨」という胸の真中にある、縦長の骨に太い注射針を刺して、「骨髄液」吸い取って検査をするのだ。 一般的には、此の「胸板骨」と「大腿骨」で血液を作るそうだ。 但し、女性は、18歳頃、男は24歳頃までで、「大腿骨」での造血作業は止まってしまうそうだ。 その検査結果、私の「胸板骨」は、造血能力を失っていた。 「恐らく子供の頃からの、新聞配達や牛乳配達などで、重い負担を懸けたから」ではなかろうかと、推測された。 そこで、「大腿骨」の検査をしたら、「大腿骨」は、正常に造血作業をしていた。 そこで、日本では未だあまりやられていない、「骨髄移植」(現在では常識)をする事となった。「大腿骨」の骨髄を取って、「胸板骨」に注入して移植するのだ。 麻酔をしないので、その処置の痛さは、並ではなかった。 おまけに当分の間、大腿部の痛みで歩行困難。 トイレに一人で行けなくなった。 昼間は看護婦さんが対応してくれたが、夜間は看護婦の人数が少ないので、対応が無理なので、親父が付き添ってくれた。 そして、「共生会の親分の妹」の話を聞きつけ、自分が「A型Rh-」だから、血液を提供すると言い出した。 一週間に一回、一か月四回提供した。 すると、私の所に、毎日毎日、果物籠が届き始めた。 なんせ「親分」の所には、広島の繁華街の飲み屋や、屋台の仕切りや等から、毎日果物籠が捨てる程届けられてくるのだ。 おまけに、親父の為に、高級ウイスキィーが、三日に一回の割合で届けられてくるのだ。 こんな事から、後々広島市内での建築工事の時、私や、親父が関わった工事には、その筋からのクレームは無いのだった。 公共工事の入札でも、その筋の方がお住いの住所近くでの工事は、全て私の独占と言う事となった。 ある日、私の先輩が設計したビルが、施工業者が決まらずに、困っているという噂が耳に入った。施主は、「ドリームベット」の社長。私の先輩にあたる。 調べてみると、其の施工場所が、かの「親分」の事務所の、道路を挟んだ向かい側だった。 そこで、出入りしていた建設会社に、この工事を請け合うように勧めた。 この会社は当時、国鉄の仕事を中心にしていたので、二の足を踏んだが、私の噂を聞いて請け合う事となった。 現場で準備を始めたら、案の定「若い物」がイチャモンを付けてきた。 そこで私が、名詞を持って、正式に工事を始める旨、挨拶に行った。 その時は門前払いの扱いだったが、翌日再び行くと、手のひらを返した様な扱いで、「親分」と面談。 頭を下げてお願いしたら、頭を上げてくれと言う。 それからは、昔ばなしが・・・・。 その翌日現場に行くと、前の道路が奇麗に掃除されていた。 現場の担当の若い監督に聞くと、「組」の若い衆が、掃除してくれたという。 この頃が、私二十歳。 話はまだまだ続く。 

 年内はここ迄。 「皆様良いお年をお迎えください。」


遥か昔を思い出した(4)・・・

2023-12-26 16:04:07 | 日記・エッセイ・コラム

 己斐の町(現在は広島市西区己斐)は、その歴史は深い。 神功皇后が三韓征伐された時、西に向かう途上で、この街の浜辺に立ち寄られた。 村の人々は歓迎して、「鯉」を料理してもてなした。 喜ばれた神功皇后は、以後この村は、「己斐」(こい)とすると仰せになった。 この古事を物語る神社が、山陽本線のすぐ上にある。 標高150m。その山頂からは、広島市内が一望できる。 この山を「旭山」と呼び、神功皇后と共に宇佐八幡神社のご神体がともに祀られている。 嘗てここ迄が、宇佐八幡神社の影響圏の、東の最先端であったそうだ。 すぐ下を八幡川が流れていて、嘗ては三篠川と合流して、瀬戸内海に注いでいた。 嘗ては広島の地の西の玄関口であった。 その為、広島電鉄もここを起点として発展した。西に宮島(日本三景の厳島)を控えていたからだ。 国鉄の己斐駅と、広電己斐駅の間は、広い広場に成っていて、戦後此の広場が闇市となり、広島市内地一の規模であったそうである。 物資が豊かな佐伯郡と、北は緑井、可部。 東は西城、呉からの闇物資が、国鉄や、深夜に船で島々から、運ばれてきたそうだ。 我が親父様も、戦後の一時期、闇物資の運搬で、糧を得ていたそうだ。 その方法は、公人の用意した物資(炭)を、馬車で運ぶのだ。ただ運ぶのではない。 途中で、炭と米を入れ替えて運ぶのである。 米は、己斐の町で下し、入れ替えた炭は船で先回りをして、住吉神社の境内で、再びすり替えたのだそうだ。 当時広島市内には、焼け残った建物は、今話題となっている、「被服省の赤レンガ」の建物以外なかったので、そこに県会議事堂や、県庁が一時的に移転していた。 赤煉瓦の建物は、現在の建物の数倍存在した。 広島大学医学部の附属病院の多くは、其の赤煉瓦の建物であった。 私は、16歳の時、八月の終業式の朝礼で倒れた。 貧血であった。そのまま大学病院に入院、「再生不良性貧血」と診断されて、長期の入院となった。 原爆が原因なのか、はたまた、他の原因が存在するのか、結論がなかなか出なかった。 入退院は三年に及んだ。 その過程で、かの「仁義なき戦い」の方や「共政会」の親分と同室となり、顔見知りとなった。 がしかし、それ以上に我が親父様は、この親分に多大な「貸」をこの病院で作ったのだ。 その話は、次回詳しくお話しする。


遥か昔を思い出した(3)・・・

2023-12-25 14:26:01 | 日記・エッセイ・コラム

 私が生まれ育った町は、当時国鉄「己斐駅」から西に500m。 旧山陽道と、国鉄の山陽本線の線路に挟まれた平屋の家だった。 原爆では、屋根瓦が全て吹き飛び、生後四か月の私は、寝かされていた六畳の和室の畳と共に5m程空中散歩させられたそうだ。 その家から、1.5km西に行くと、かの「仁義なき戦い」の片方「打越組」が有った。 元来この地域は、江戸時代からの埋め立てで出来た土地柄で、その中でも「打越家」は、中心的役割を成した家柄だった。 事件が起きた当時、この打越家には、二人の男の兄弟が有り、お兄さんは戦前から荒れ地を開墾して農業をなさっていた。 出来る物は限られていて、この地域に有った中学校(庚午中学校)は、通称「芋中」と呼ばれていた。 つまり、薩摩芋が主力の農業だったのだ。 それ以前は、「どんぶけ田」と呼ばれた泥沼で、蓮根畑だった。 北側の山を削って埋め立てて、畑にしたそうである。大正の初めの事だ。 さてその弟さんは、特攻隊に志願されたが、直ぐに終戦。 ここからが人生の曲がり角となった。 戦後すぐに、広島の闇市を仕切ったのは「岡組」であったそうだ。 その「岡組」に足を染めたのだった。 わが父は、その「岡組」の親分の身内の方を、原爆の時に助けたそうである。 それが出来た事はまたの機会にここで記載したい。 そんな事で、我が親父の葬儀の日には、嘗ての「岡組」の親族の方が御出でになりビックリした。 なんせ、一介の年取った親父の葬式に、まさかの500人もの人が集まるとは思ってもみなかった。 親戚が30人。私の付き合いの仕事関係者10名、同じく市会議員十名。 それ以外は、なんらかで原爆の時父がお世話をした方達や、太田川放水路で溺れていた、子供を助けた関係者であった。 さて話を戻すと、「岡組」の親分が亡くなると、組は二つに割れた。片や「打越組」片や「共政会」である。 「打越組」は、社会的にはこの頃から流行り始めたタクシー会社を生業とした。 「共政会」は、暴力団取締法の抜け道として、政治団体として登録したのだ。 それを教示したのは、当時の広島の国会議員の一人である。 ただし、灘尾弘吉ではない。 さてこの二つの組織が、血を血で洗う闘争に発展した起点が、今私が住んで居る処から、東に400m。 現在、「安佐北区 区民文化センター」になっている所にあった、「可部ジャングル温泉」であった。 この温泉で、のんびりと湯につかっていた「共政会」の幹部が、襲われたのだ。 銃声と共に、一人は即死、今一人は重傷を負った。 ここからが、かの映画、「仁義なき戦い」の始まりだった。 不思議なのは、「共政会」の名付け親の国会議員と私は、昭和40年(私が二十歳の時)「藤山政治大学」で知り合い、その後、其の国会議員の経営していた建設会社の仕事を度々したのだった。 「藤山政治大学」とは、元外務大臣「藤山愛一郎」が、「若者に政治に関心を持ってほしい」との思いで始めた講座で、三泊四日でその中で、当時の日本の政治と、文化の中心で働く方たちの「講義」を聴くものだった。 その最後に、与野党に分かれて議論する場が有り、私はくしくも外務大臣の役を仰せつかって、野党に成った連中の論を、木っ端みじんに論破してしまった。 その結果、開催場所であった、「広島文教女子大学」の、学長さんに気に入られてしまった。 この方は、宮澤喜一の従姉妹にあたる方だった。・・・・・  話が長くなったので本日はここ迄。 下らない話でございます。


遥か昔を思い出した(2)・・・

2023-12-24 14:05:57 | 日記・エッセイ・コラム

 昔の話と言えば、己斐の町から広島電鉄宮島行に乗ると、20分で「楽々園」と言う停留場に着く。ここは嘗て、広島電鉄(通称広電)が経営する遊園地が有った。 戦後の子供たちのあこがれの場所で、夏はその施設の南側が海水浴場と成って、大変な賑わいだった。 この施設の中に、劇場が有り、色々な出し物がやって来た。 その中に前回紹介した「手品師」も出演していて、その芸を見た事がある。 この御仁の芸は、喉を通るものなら何でも飲み込んで、再び取り出すという芸であった。 中でも、「金魚」を飲み込んで、釣り針を飲み込み、金魚を吊り上げるという芸当を、得意としていた。 五歳の時、此の「楽々園」に海水浴に行ったら、偶々この御仁が出演していた。 裏口から入ってその芸を見て驚嘆したのを、今でも覚えている。 剃刀の刃や、スプーン、そして金魚・・・。 見事な芸だった。 それから数日たったころ、母親が「虫垂炎」になり、原爆の爆心地に有った「島病院」に入院した。 親父に連れられて、お袋の所に行ったら、かの手品師が入院していた。 父親が気が付き、事情を聞いたら、「どんな物でも、飲み込めるものなら」と、お客から手渡された小さな「瓶」を飲み込んだら、中に毒薬が入っていて、命を落とすところだったそうだ。 それは市内の劇場での事だったそうだ。 当時公演をするためには、その筋の物に挨拶しないと色々邪魔されて、大変だったようである。 それを聞いた我が親父は、当時の親分のところに乗り込んで、談判したようだ。 我が親父様は、ヤクザではない。 只々「原爆」の時に、親分の身内を助けたので、話が出来たのだそうである。 昔話はまだまだ続きそうだ・・・


遥か昔を思い出した・・・

2023-12-13 15:30:36 | 日記・エッセイ・コラム

 昭和26年、私が小学校に入る前年の事だ。 その前の年には、国鉄己斐駅前(現在のJR西広島駅)の闇市場で、アメリカのNPと日本の警察の連合と、広島のヤクザ「岡組」との間で、激しい銃撃戦が有った。 闇物資の取り締まりだったが、「岡組」の勝ち。 皆が、警察側を妨害したからだ。 この「岡組」が後に二つに分かれ、かの有名な広島ヤクザの抗争事件(仁義なき戦い)になっていった。 それはさて置き、その己斐駅前で、毎週土曜日の午後、バナナの叩き売りが有った。 その口上が面白かったが、それよりビックリさせられたのが、語られたバナナの薬効であった。 その時私は、近所の子供たちと、太田川放水路にアサリ取りに出かけて、その帰り道だった。 当時、朝の御みそ汁のアサリは、子供が河で採って来るのが常識。 貧乏な我が家においても、例外ではなかった。 幾らでも取れた。 さてそのバナナの叩き売りのおじさんが、座り込んでみていた私を捕まえて、みんなの前に連れて行った。 そしてバナナの叩き売りの口上の中で、バナナの美味さや、栄養があること以外に、薬効が有ると言い始めた。 そして、一本のバナナを剥くと、その皮で私の汗疹だらけの背中をこすり始めた。 それから私に言うには、「今晩は風呂に入らない事」と言ったのだ。 明日の朝には、汗疹が治っているという。 そのバナナの中身は、私にくれた。 実際に、汗疹は翌日には治っていた。 その時の口上では、弱った畑の野菜の周りに、バナナの皮を刻んで埋めてやると、三日で元気になると言っていた。 これは今までに実験していないが、切り傷にもバナナの皮が聞く事は確かだ。 マリヤンカ様がご紹介された、「キンランソウ」に近い薬効が有る様だ。 後に知ったのだが、このバナナの叩き売りのおじさんと、私の父は知合いであった。 どんな関係課は知らないが、私の父親は不思議なオヤジで、市内の劇場で公演する「手品師」が友人だったりした。 どうも、満州の奉天時代からの知り合いらしかった。 そんなこんなで、昔話はお終い・・・・・・。