藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

梅雨空

2019-06-30 15:44:34 | 日記・エッセイ・コラム

 連日の雨である。 梅雨に入ったので、雨が降っても驚かないが、その降り方に驚きが隠せない。 「しとしと」、「じめじめ」とは降らないで、ドバー、・・・ドバーの繰り返しだ。 俗にゆうゲリラ豪雨が続いている。 子供も頃の梅雨空は、長くいつまでもジトジトジト・・・。 そんな感じだったと、思い出している。 なんとなく窓を開けて、雨を眺める、そんな風情があったような気がするが、今日の雨はそんな呑気は言っていられない。 ドバーときて、窓など開けてはいられないのだ。 湿気が余計こもり嫌になります。 今雨が一次的に止んだ。 窓を開けて空気の入れ替え、そんな気分なのだ。 ついでに向かいの山を、ボーと眺めていた。 吹き込んでくる風が心地よい。 幾日ぶりだろうかと思う程である。 明日も雨、明後日も雨。 近頃の予報はよく当たるので間違いなかろう。 いやだいやだ・・・・。 さてさて今夜の夕食は何にすべきやら、頭が回らない。 頭もつゆ模様である。


三番目は・・・

2019-06-29 09:00:43 | 日記・エッセイ・コラム

 三番目の自殺の名所は、山陽本線と旧山陽道の二番目の交差する踏切であった。 古江町と草津町の境界。 草津側、旧山陽道と、山陽本線に挟まれて「鷺神社」がある。 ここも活断層がはっきりとわかる場所だ。 山陽本線の北側は、急峻な山である。 因みに、草津とは「戦津 いくさつ」が訛って、「草津 くさつ」 となったといわれている程の港に適したところだったそうだ。 今は、埋め立てられて面影もない。 しかし、かの「毛利元就」が、「陶 春隆」を宮島合戦で打ち破り、中国地方の覇者となるべく一歩を踏み出した港である。 この神社のあたりは、嘗て山際まで海が迫り、旧山陽道は、砂浜伝いに進んだらしい。 そんなさみしい場所だから、・・・。 おまけに神社が人影を隠すところなのだ。 そこを過ぎて、街中に入っていくと、嘗ては処刑場があったお寺の前に出る。 そこは、小さな川が流れていて嘗ては、船溜まりがあったであろうことがうかがえる。その寺の後は、山がせり出していて、風よけになっていた。 その山を巡るように、山陽道は奔っていた。 そして、そこから500m進むと、かの「大石の力餅」の前に至るのだ。 現在はこの近隣一帯が、高級住宅街となっている。 私鉄が走り、山陽本線が走り・・・ おまけに海はプロジェクトで埋め立てられて、一大商業センターとなっているのだ。昔の面影が一番失われた町であろう。


さて二番目は・・・

2019-06-27 15:34:10 | 日記・エッセイ・コラム

 最初の自殺の名所から、西に山陽本線に沿って100m行き、左に折れて新己斐橋を渡ると、西日本最大の被差別と言われた福島町だ。 この町は戦国武将「福島正則」に従って武具を作る集団が、移住してきた街である。 鎧兜に必要な皮を鞣す集団がそこに存在した。今でも一大産地である。 その橋を渡らず300m進むと己斐駅である。さらに西に進むと最初に書いた「別れの茶屋」に至る。 ここで東から旭橋を渡ってきた旧山陽道が交わる。 そこから300m進むと最初の踏切が存在する。 山陽本線と旧山陽道が広島市内で初めて交差する所だ。 ここは人家も多く自殺した記憶は一度だけだ。 若く美しい女性だった。 そこから150m進むと私が生まれた家がある。 私の生家は、山陽本線と旧山陽道に挟まれた家だった。 一日中機関車の音の中で生活していたので、山陽本線に異常があるとすぐに気が付いた。 汽車が止まるといつものリズムと違うので目が覚めるのだ。 この辺りから、旧山陽道は山の手を行く。500mほど進むと、左手に戦前からあったコンクリート作りの県営住宅が4棟あり、その手前から左に曲がって畑の中の道を進むと、日本で一番古いといわれた知恵遅れの子供たちの施設、「六方学園」があった。 その先は山陽本線で残りは一面の「蓮畑」。 真夏になると天国を思わせる光景が広がる。 蓮の花が一面に咲くのだ。 そう、ここが二番目の自殺の名所だ。 昭和24年、終戦間もない時、天皇陛下が突然に、この「六方学園」を訪問された。 戦争中の食糧難の時代、経営者の田中一族が、子供たちを守った功績を高く評価されたのだ。 私が初めて「天皇陛下」をお見かけしたのがここである。 個々の蓮畑は、わんぱく坊主には、貴重な食料の入手先だった。 アメリカザリガニ、食用ガエル、取り放題だったし、ここの用水路は海につながっていたので、ウナギがいたのである。 ウナギなどは取ってきて食べるものであって、買って來るものでは無いと思っていた。 この二番目の場所から、西に向かって山陽本線に沿って1600m進むと再び旧山陽道と出会う。 そこに二番目の交差点がある。 明日はここからご案内します。 


山陽本線鉄道自殺名所四か所

2019-06-26 11:17:27 | 日記・エッセイ・コラム

 昨日「力餅」の事を記事にしたのは、この餅屋から西に400m、己斐駅から東に400mの間、約5kmの間に、鉄道自殺の名所が四か所あったからだ。 この5kmの間の、自殺の名所近辺が私の新聞配達のエリアだった。 旧山陽道は、山陽本線と広島市内で三度交差する。 まず最初が、私が生まれた家の東150mの所であるが、ここは近隣に家が多くて自殺の名所では無い。 先ずは、己斐駅の東400mの所だが、ここには戦前から修道院が有った。 嘗てはその場所が、キリシタンの処刑場だったのであるが、昭和27年ここに女学校が出来た。 清心学園である。 カソリックの学校で、修道院が東に広島市が見渡せるように建てられていて、その壁に、マリア様の像が有るのだ。 今は木が茂って、山陽本線からは見えないが、嘗ては断崖で良く見えていた。 この場所が第一の自殺の名所だった。 良く男女がひもで結びあって死んでいたりしたが、どうもこの場所は因縁の場所らしい。 処刑場の事では無く、近年この断崖が、己斐淵断層として、マグネチュード8.0以上の地震を引き起こす断層として注目を集めているのだ、 この断層は、旧山陽道に沿って西に延びていき宮島の先まで続いていると言われ始めた。 なぜ宮島に神様が祭ってあるのかと言う理由の一つが地震の震源地という理由が有るのではなかろうかと言われている。 事実、この線に沿って、地御前神社、速谷神社、小己斐神社、草津神社、旭山神社と続いている。 また自殺の名所も同様なのだ。 ところで、この清心女学校の場所での自殺は、必ずといい程マリア様の真下から、上り列車に飛び込んでたのが不思議だった。 

 


たかが100円、されど100円。

2019-06-25 14:45:31 | 日記・エッセイ・コラム

 昭和27,8年頃の100円と言えば、キャラメル一箱である。 当時広島で人気が有ったのは、「カバヤキャラメル」であった。 以前このブログで、「カバヤ」の事を書いたので、あまり詳しくはかかないが、100円手に入ったら「カバヤのキャラメル」を買っていた。 オマケガ付いていたからだ。 オマケと言っても、グリコのキャラメルのおまけと違い、此方は「ディズニー」のキャラクターが印刷されたカードが入っていた。 このカードには点数が有って、その点数をためると「カバヤ文庫」の本がもらえた。 中には一枚で交換できるカードもあった。 記憶は定かでないが、バンビが大人になった勇士の姿がそうであった気がする。 一人で集めるとなかなか貯まらないが、五人ほど集まってみんなで貯めると案外早く貯まった事だけは確かだ。 一年に一回、カバの形をした車がやってきて、そのお腹を開けると大量な本が積まれていて交換してくれた。 急ぐときは郵便で送れば送ってくれたが、一年間みんなで話し合って、次はどんな本を貰うか決めていた。 大体五、六冊は交換したように記憶している。「トムソウヤの冒険」や「耳なし芳一」・・・・30冊近く貯まっていたように記憶している。 六年生が管理して、中学生になると後輩が譲り受けていた。 そこで、蹄鉄屋の馬に世話が役立ったのだ。 その加治屋さんから西に旧山陽道を一里ほど行くと、いま一軒の餅屋さんが有った。 「大石の力餅」と呼ばれた餅屋さんだった。 広島と言えば「浅野藩」 「浅野藩」と言えば、あの討ち入り事件だ。 「広島浅野藩」の分家が「播州浅野藩」だった関係で、討ち入り後、大石内蔵助の二男が広島浅野藩に召し抱えられた。 その末裔が、明治維新の時、旧山陽道の「草津」と言うところに餅屋を開いた。 大石 力にちなんで「力餅」と名付けられて、平成の初めまで続いていたが、餅の時代ではなくなり、閉店したのは残念だった。