一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

映画『山桜』……回り道をしたあとに……

2008年07月20日 | 映画
春に山歩きをしている時、思わぬ場所で山桜に出逢うことがある。
登山道からはずれた山の斜面に満開の山桜を見つけたりすると、それはそれは嬉しいものだ。
山桜は華やかさに欠けるという人もいる。
染井吉野や彼岸桜などの里桜は、花が咲いた後に葉が出てくるが、山桜は葉と花がほとんど同時に開く。
だから、染井吉野の桜並木などに比べると、山桜は少し地味な感じがする。
しかし、山で出逢う桜は、やはり山桜が良い。
山桜には、里桜にはない、しみじみとした良さがある。


藤沢周平の短編小説『山桜』は、原稿用紙換算では37枚程度の作品で、単行本ではわずか23頁ほどしかない。
題名の「山桜」同様、派手さはないが、しみじみとした佳作だ。

この作品の主人公は、野江。
5年前の18歳の時に津田という家に嫁に入ったが、2年前に夫に死なれ、子も出来なかったので実家に戻された。
1年前、磯村の家に再嫁したが、いまはその再婚が失敗だったと思っている。
磯村の家は勘定方に勤めるれっきとした家中なのに、金貸しなどをして、一家挙げて蓄財に狂奔していた。それに、野江を「出戻りの嫁」と呼び、軽んじている。
その日、野江は、叔母の墓参りをすませ、野道を物思いにふけりながらゆっくり歩いていた。
その道で、野江は一本の山桜に出逢う。
清楚な花も、これだけ折り重なって咲いていると、豪華な趣がある。
見上げているうちに、野江はひと枝欲しくなった。
壺に活けたらさぞ美しかろう。
そう思いながら、頭上の枝に手を伸ばしてみるが、とどかない。
その時、不意に男の声がした。
「手折って進ぜよう」
声を掛けた男は「手塚弥一郎」と名乗った。
夫が病死して家に戻された後、再婚話がいくつか持ち上がった時に、縁談に出てきた一人だった。
「去水流という、めずらしい剣を遣っての。大変な腕前と聞いた」
遠い親戚が持って来たその話を、父親は気に入ったのだが、野江は気がすすまず断った。
剣の名手と聞いただけで、勝手に、酒癖が悪く、粗暴な男と思ってしまったのだ。
野江は、手塚弥一郎の名を、そのころいくつか持ち込まれて流れた再婚話の男たちと一緒に忘れていた。
――このお方が……。
手塚弥一郎には、粗暴な感じなどまったくなかった。
長身で幅広い肩を持ち、頬は痩せ、眼は男にしてはやさしすぎるほど、おだやかな光をたたえていた。

「あの節は……」
野江は口ごもり、詫びるように言った。
「失礼申し上げました」
「かような場所でお目にかかるとは思わなんだ。いや、相変わらずおうつくしい」
弥一郎は、闊達に笑うと、や、おひきとめしたと言って背をむけた。野江が歩いて来た道を、逆に寺の方へ行くらしい。
茫然とその背を見送っていると、数歩行ったところで、弥一郎が野江を振りむいた。野江を凝視した眼が、鋭いものに思われた。
「いまは、おしあわせでござろうな?」
「はい」
「さようか。案じておったが、それは重畳」
弥一郎はもう一度微笑を見せ、軽く手をあげると背をむけた。今度は大股に遠ざかって行った。

『山桜』という小説で、野江と手塚弥一郎が接触するのは、この場面だけである。
野江は、この一度の出逢いで、恋におちる。
この後、弥一郎がまだ独り身で母親との二人暮らしであること、弥一郎が野江を昔から知っており、弥一郎が野江を気に入って縁談を申し込んできたことなどを知ることになる。

その頃、藩では、領内の富農と結んでしきりに農政に口をはさむ諏訪平右衛門に悩まされていた。
富農を利し、小農からしぼり上げる農政は、領内に少しずつ疲弊をもたらしていた。
そして、ついに、貧困に喘ぐ百姓たちは大挙して代官所へ強訴して来る。
だが、名家老と呼ばれた人物の裔である諏訪に、誰も何も言えない。
腫れ物に触るように、誰もが遠くからただ見ているだけだ。
そんな時、事件が起きる。
手塚弥一郎が、城中で、諏訪平右衛門を刺殺したのだ。
そのことを、野江は、夫の庄左衛門から聞かされる。

「それで、手塚というお方は、いかがなさいました?」
「同僚二人につきそわれて、自分で左内町の大目付の屋敷まで歩いて行ったそうだ」
「お腹を召されるのでしょうか?」
「むろん切腹ものだろうな。諏訪は評判の悪い人物であるが、なにせあの家は名門だ。たとえわけがあったとしても、斬ってしまっては無事というわけにはいくまい」
そう言ってから、庄左衛門はあざけるような笑いを顔にうかべた。
「手塚も妙な男だ。諏訪が死んで、藩の中にはほっとする者がいるかも知れんが、手塚本人は一文も得するわけではない」
「………」
「剣術が達者だそうだから、ひょっとしたらみんなに剣の腕前を見せたかったかな。正義派というのがいてな。ときどきこういうことをやるものだが、ばからしい話だ」
野江は着替えを手伝っていたが、思わず着せかけようとした袖無し羽織を畳に投げ捨てて座った。
この男に、手塚弥一郎の心情がわかるものかと思った。丘の麓で、桜の枝を折ってくれた弥一郎を思い出していた。あとで少し物足りなく思ったほど、淡泊な言葉を残して去って行った背が見える。
どうした、と言って振りむいた庄左衛門は、自分をにらみ上げている野江をみると、たちまち声をとがらせた。
「何だ、その顔は?」
「………」
「手塚の悪口を言ったのが気にいらんようだな。きさま、あの男と何かわけでもあるのか?」
「言葉を、おつつしみなさいまし」
「では何だ? その顔は。ふむ、それほどわしやこの家が気にいらんのなら、いつでも離縁してやるぞ」

野江は、磯村の家から去り状をもらって家に戻った。

弥一郎に出逢ってから一年が過ぎ、再び春になった。
当然切腹の沙汰がくだるかと思われたが、大目付の審判のあと、弥一郎は代官町の獄舎に移されていた。
弥一郎の処分については、執政の間に激しい意見の対立があり、春に藩主が帰国するのを待って裁断を仰ぐことになっていた。
あとひと月ほどで、藩主は帰国する――
野江は、お上の帰国が一日でも先に延びてくれればいいと願っている。
叔母の墓参りを済ませた野江は、またあの山桜のたもとに佇む。
――去年のいまごろは……。
手塚弥一郎のことで、こんなに胸を痛めるようになるなどとは思ってもみなかった。
野江は、ふと、あることを思いついて、近くにいた百姓に桜の枝を折ってもらい、それを持って、いそぎ足で町へ向かう。
向かった先は、弥一郎の家だった……。

昨年、小説『山桜』が映画化されると聞いたとき、そのキャストを見て、ちょっとガッカリした覚えがある。
田中麗奈と東山紀之が主演だという。
田中麗奈に関しては、あまり良い印象は持っていなかった。
猫顔で、眉を細く描く、現代的な顔立ちの――もっとも私が苦手とするタイプの女優だ。
東山紀之に関しては、東山紀之自身にというより、「ドラマも映画もジャニーズ系ばかり、もういい加減にしてくれよ!」という感じだった。
田中麗奈、東山紀之、どちらも、藤沢周平の世界とはもっとも遠い所にいる存在に見えたのだ。
映画の全国公開は5月31日だったようだが、佐賀では遅れて7月12日から2週間限定の公開だった。


映画は、はっきり言って期待していなかった。
ある意味、それが良かったのかもしれない。
予想以上に楽しませてもらった。
なかなかの佳作だった。
映画は、小説をほぼ忠実に再現していた。
数行しか書かれていなかった部分をふくらませて見事に映像化している部分もあり、脚本の良さも感じた。
心配していた田中麗奈だが、これが期待(していなかったのだが)以上の演技で、途中、ぎこちない仕草などもあったが、そう違和感なく見ることができた。


東山紀之の場合は、台詞が極端に少なく、ほとんどが沈黙の演技だったのだが、これが素晴らしかった。
特に殺陣に関しては、文句なしに良かった。
静かな映画なのだが、唯一、「動」の燦めきを見た一瞬だった。
篠田三郎、壇ふみ、富司純子、高橋長英、永島暎子、村井国夫などが、主演の二人をしっかりと支えていて、安心して見ることができた。
特に、壇ふみ、富司純子、永島暎子の女優三人の演技は、映画をギュッと引き締めていた。


この映画の唯一の欠点、それは一青窈の歌う主題歌だ。
いや、一青窈の歌が悪いと言っているのではない。
要はタイミングの問題なのだ。
なんと、ラストの、もっとも余韻を味わいたい部分で、この曲が流れ始めるのだ。
おかげで最後の感動する場面がぶち壊し。
余韻も何もあったものではない。
タイアップか何か知らないが、ラストに歌を流すのは、私個人としてはもともと好きではないのだが、あの部分であの曲では、いかにもタイミングが悪すぎる。
どうしても曲を流したいのなら、せめてエンドロールの時だけにして欲しかった。

ラストに問題はあるものの、それを除けば、見て損のない作品だと思った。
この映画を見た現代の若い人たちは、「たった一度逢っただけで、そこまで思い合える筈がない」と言うかもしれない。
だが、それが解らないようでは、真に文学も映画も、それに人生だって、味わうことは出来ない。
自分の感性をこそ疑うべきなのだ。

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2 コメント

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Unknown (リー)
2008-07-23 07:48:46
『山桜』は私の好きな作品です。野江の人生と自分の人生を重ね合わせてみることがあります。小説では二人がどうなったのか結末が書いてないのですが、映画の方はどうなっているのでしょうか?
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希望のある結末 (タク)
2008-07-23 20:17:57
リーさんへ

映画の方も、小説にほぼ忠実で、はっきりとは表現してありません。
でも、小説がそうであったように、映画でも、そう悲観的な終わり方ではありません。
希望が持てるような終わり方をしています。
野江と弥一郎には、幸せになってもらいたいと心から思いました。
それに、リーさんも……ね
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