【タックの放浪記】  思えば遠くへきたもんだ・・・     by Tack SHIMIZU

心に刻まれたその一瞬、心に響いたその一言、心が震えたその想いを徒然と書き記したい。この記憶から消え去る前に…

『 ひけるかな 』

2018年08月31日 | 徒然日記
『 ひけるかな 』

ぜぜ小 四年   舞

ピアノの発表会で私の出番が来た。
心ぞうがドキドキしている。

舞台は目の前にあるのに、
最初の一歩がふみだしにくい。

舞台に立つと、
気持ちが楽になった。

私はそっとおじぎをした。

ピアノの前にすわると、
しんこきゅうをして曲を始めた。

ひける、ひける。

と思いながら、しんけんに楽しく、
くいのないようにひいた。

ひきおわった。

お客さんが大きくはく手をしている。

私は、始めよりも、
深くおじぎをして、まくまで歩いた。

2008/9/3 - 2008/11/7

2018年08月31日 | 33〜40歳の頃の手記
11月7日(金):

高知での仕事は恐ろしく厳しい状況である。なんとかそれを打破すべく、そして今月のこれからを作成すべく、精神がピリピリ状態である。気を落ち着けて。
俺の今回の高知は、この火曜日から7打数4安打1見分けである。これはどんな状況下でも、仕事カバンをわずかでも開けた回数を土俵入りとし打席数としたもの。もちろん、玄関先でトレイにネックレスを一本のせて見せたものも打席数と数えている。百貨店外商平均打率、8割打者を狙う俺としては、これでは不満足な打率である。
今夜もとんちゃんにいこうかなぁ・・・。来週頭の入院手術を考えると気が重い。
今夜、結局、俺はホテルの部屋でパソコンをいじっている。晩飯は『のり弁当』を買ってきた。ビールを飲みつつ、これを食らった。
このコミュニティももうすぐおしまいである。振り返れば7年半、よくもダラダラここに日記を書きつけたものである。自分なりにも驚いている。何一つ、大したこと書いていないのだが、これはこれでおれのアーカイブである。今日からは、これまでの日記やエッセイをすべて公開することにする。そして俺は手隙の時に、それらを全部ディスクに焼き付けて、ちびらのためにしまっておこうと思う。またいつかゆっくり読もうと思う。
これまで、ここに目を通してきてくれた友人・知人達に感謝している。そして俺は今、新たなブログサイト製作に着手しはじめた。(まぁ、同じようにたわいないことしか書けないと思うが・・・。)
このサイトをお気に入りに記録してくれていた仲間へ。今後は下記のサイトもお気に入りに残してもらえるとありがたい。まだまだ使い方が全然わかっていないが、今後はそちらに、思うままに書き込んでいこうと思う。
心からありがとう。ピース

http://blog.goo.ne.jp/tackshimizu
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11月3日(月):

ちまたは三連休の最終日。俺は仕事。
朝起きると、足がすさまじくだるく筋肉痛。如何に昨日の船が揺れたかが体でわかった。
中田君と朝より車を走らせて島根県・松江にある百貨店へ新規訪問。担当部長へ商品説明する。なかなか首尾よくできたと思う。きっと来期からは取り組みが始まるであろう。あとはスタッフに任せようと思う。
しかし松江は本当に小さい街である。
そこから高知へ、日本列島を縦断する形で日本海から太平洋まで。今日の走行距離は630キロ。大方、中田君に運転してもらったのだが、さすがにロングドライブだった。
チェックインして商品を分けた後、居酒屋・とんちゃんへ行ってきた。あいかわらずの雰囲気。帰りにワインを買って、部屋で半分飲んで寝た。
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11月2日(日):

昨夜夕方より、単身白浜へ向かう。
朝、とても天候がよく、釣り日和だと勇んで船に乗ったのだが、夏より全く触っていなかったのでエンジンがかからず。バッテリーをつないでもらってようやくかかった。今でこれだと冬はかからないだろうな。
しかし今までで一番、風が強く、波が高い日だった。流石に竿を投げていても揺れが強すぎ、船酔いになってしまった。もう釣りどころではない状態。釣れた魚は、小物ばかり。アジとタイ。小さいイサキは全部リリース。
帰りにアンカーをあげようと引っ張ってもあがらず。仕方がないので、船をバックさせてひっかかりを取ろうとしたら、なんとロープがちょん切れてしまった。アンカーは海底に置きざり。
遅い昼食を上田食堂で。和歌山ラーメンとサラダの小鉢。その後、悔しいので夕方まで釣り堀へいく。これが災いのもと、帰りに大渋滞に巻き込まれ、家に着いたのは21時すぎ。それから魚をさばくはめに・・・。
でもよい休日だった。
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10月31日(金):

今朝6時台の新幹線に品川から飛び乗り、定時に京都事務所に出社した。今日は月末日である。京都、枚方、岸和田までと集金に駆けずり回る一日であった。
今月はどうにかこうにか、前年比130%強にて終了した。今期はまだ始まったばかりである。がんばりたい。スタッフらの数字が壊滅的である。なんとかさせたいと思うのだが・・・。
今月は考えてみると1日しか休みを取っていなかった。ずっと家にいなかったので、明日は朝飯をちびらとゆっくり食べてから、ゆっくり出社しようと思う。そして夕方より単身、1泊二日で白浜に釣りに行こうと決めた。盆休みぶりの船長である。船、エンジンかかるかなぁ・・・。今回は密かにジギングをしようかと思っている。狙いはカンパチである。でも釣ったことなんて一度も無い。釣れるとも思えない。でも、釣れなくてもいいのだ。楽しめたら、ゆっくりできればいいのである。波に漂いながら、ぼーっとしたい。ぼーーーっとしたい。船に揺られて、タバコをふかし、空を見上げ、海を見つめ、ただそれだけである。それでいいのである。
今はさすがに疲れた体を少しいたわりたい。そんな気分である。そして月曜日から、松江に行って、そして高知に向かう。来週は高知での戦が待っているのである。
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10月28日(火):

八戸での催事最終日。暇なので会場を抜けて部屋でここを開いた。
これまでの東京と八戸では予定通りの売上をなんとかキープできている。感謝である。
しかし八戸はやはり寒い。とても寒いのである。
昨夜は、お世話になったこちらのお客様と百貨店の人たちとで、このグランドホテルの地下にある中華料理屋へ食事会に行ってきた。しかしどうやら食べ物がオレの体に合わなかったのか、部屋に戻り、夜遅く、すべて吐き出してしまった。何年振りだろうか・・・。
明日と明後日、催事事後の外販を行い、京都に戻る。最後まで頑張りたい。
一昨日に食べたマンボウの刺身。味はイマイチだったが、とてもなごんだ時間だった。
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10月25日(土):

東京・目黒、午前4時半。昨夜はワインに飲まれホテルの部屋で野垂れ死に、さっき目を覚ました。
昨日は東京での仕事をこなし、今日から八戸へ移動である。このコミュニティのサイトが来年2月で終了とのことである。どうしたらいいのであろうか。違うところに移行することを考えなければならない。だれかおしえてくれー!
またビールを飲んでいる。
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10月22日(水):

2日間のアリカコレクション2008秋冬展がようやく終わった。結果的には目標の70%に留まった。まあ今月の前半のプレがあったので、数字的にはなんとかという感じ。これから後半戦でなんとか数字を追いかけていくのである。
明日から、東京経由で八戸への旅となる。この出張でガンガンと数字を作れたらいいと思っている。きっと寒いのだろうな。プラダの黒のコートを着ていこうっと。
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10月19日(日):

昨日、芦屋での仕事の後、早い夕方、家に帰り、一昨日に衝動的に購入した万歩計を活用すべく、琵琶湖から膳所界隈を1時間半ほど散歩した。結果、11372歩だった。これから少しずつ歩くようにして健康維持に励みたいと思う。
そして、昨夜はその後、一昨日に続き、豚豚亭へ。アスパラとワカサギの南蛮漬に鳥からを食べに行ってきた。そして家に帰り酔うまでワインを飲んだ。
ちびらは昨夜より友達の家へお泊りに行っているので、今朝はゆっくり寝て、またなくなった赤ワインを買いに膳所駅まで歩いた。なんだか歩くことを気にするようになっていい感じである。
しかし最近の万歩計とは、昔のベルトに装着するタイプと違い、ポケットに入れとくだけで歩数が計れちゃうのである。すごい!
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10月17日(金):

昨日と今日、京都と大阪へ来週のアリカコレクションの為の集客勧誘とプレセール。
石橋で昼に食べたカレーうどんはしたたか旨かった。しかし下唇がやけどしてズルズルになった。ヒリヒリイタイイタイ。
今日から2泊3日で嫁と義母が韓国旅行に出かけた。義父にちびらの面倒をみてもらっている。
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10月15日(水):

2泊4日のバンコク出張より今朝戻り、家でシャワーを浴びてすぐに会社へ。さすがにすこしねむねむである。
バンコクでは、サミーと相変わらず飲んで親交を深めてた。サミーとは付き合い始めて15年。お互い年をとったが変わらぬ友情が存在する。いい目標である。今回もたくさんごちそうになった。
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10月9日(木):

深夜、東京より戻る。東京での仕事はまずまずであった。しかし今月の目標はとても高い。アリカコレクションをどれだけ頑張れるか。それにかかっている。走り続けなければならない。
常に前を向いていこう。世相はとんでもないことになってきている。株価の暴落、円高と、これからの日本経済はとんでもないことになると思う。とてつもないインフレがやってくる気がする。気を引き締めていかなければいけない。心に余裕があれば対処できるはず。
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10月5日(日):

朝、舞にベーコンエッグ、桜にジャガイモの味噌汁を作ってもらい朝食。ベーコンエッグはベーコンはひしゃげて、卵は割れていた。ジャガイモの味噌汁はジャガイモが茹でたりず、固くてスープのみいただきました。そんなうれしい朝食を食べる横で、舞はごはんにアラをかけて、桜は少し焼いたトーストにプリンをのせのせ食べていました。
遅い午前に会社にでて、新幹線で東京へきた。4日間の滞在である。出来うることをこなしたい。
次の週末から2泊3日でBKKへ飛ぶことになりそうだ。
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10月3日(金):

今治でまたお世話になって帰ってきた。これからは取引先の名前を借りることなく、自分の力でがんばっていこうと思った。そしてお世話になった方々には感謝である。俺の次の今治は11月20日あたりとなる。
昼すぎに大阪に戻り、北摂で営業活動をした。久しぶりに食べた石橋の阪急そばはあまりうまいと思えなかった。なんでやろな。
舞が胃腸炎でしばらく学校を休んでいる。大丈夫かな。帰宅しやせたかと聞くと、1キロやせた、とのこと。大丈夫見たいや。
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10月1日(水):

朝、新入社員に書類、商品管理等々の説明をした後、広島へ新規表敬。その後、しまなみ海道を渡り今治に入った。しかしロングドライブだった。腰が痛くなるぐらい。
夕焼けのしまなみ海道は感動を覚えるぐらいきれいな風景だった。尾道からしまなみを抜けて今治に入るルート、瀬戸内海がとても美しい。さてこれからの今治をなんとかしなくちゃなと思う。
今夜はこれからモリトモさんと軽く食事に行くことになった。
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9月30日(火):

会社の決算月。今期最後の一日にて、いつもお世話になっているMさんに感謝。俺自身は、なんとか前年度と同様の売上を達成することができた。よかった。
明日から広島新規、今治フォローの出張に出かける。ロングドライブである。
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9月28日(日):

早朝より嫁は義母と東京旅行。今日は舞と桜との一日。
午前中、部屋で勉強とピアノをさせてから、大津アーカスへ。ピザとパスタのランチ。そしてゲームセンターにて遊んだ。
その後、ふと思い立ち、ジャスコへ行ってジクソーパズルを選ばせて購入。トトロの500ピース。家に帰り、早速始めた。なかなか楽しかった。もちろん簡単には完成はしない。
夕方より約束していたカラオケへ。そこで晩飯を食べながらカラオケ大会。採点数の勝負。舞が93点で優勝した。俺も本気になったが、なればなるほど点数悪く、桜と二人、機械がおかしいと、機械を罵倒して終わった。優勝した舞には、BOOKOFFにて本2冊(マンガ1冊含む)、桜にはマンガ1冊の進呈となった。
めでたしめでたし。
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9月27日(土):

今日は舞と桜の小学校の運動会だった。舞は今年が小学校での最後の運動会ということもあり、俺も見ておくべきと思い、見に行った。よく考えたら初めて学校に足を運んだのかもしれない。参観日もこれまでの行事も全く参加したことなかったな。
かけっこ、舞は3位で桜は1位だった。子供の成長ってはやいよなぁ。来年は中学生だなぁ。
最高な秋晴れだった。
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9月25日(木):

朝より第二日赤病院へ。3年近く前より首の背骨の所に脂肪腫ができてMRIを受けていたのだが、どうやらわずかずつだが大きくなっているようなので、早めに取ろうと思い立ち、行ってきた。
超音波エコーで確認した所、筋肉の上に5センチほどの脂肪腫あり。全身麻酔か局部麻酔、どちらにしますかといわれたので、怖いので局部麻酔と答えた。
手術は仕事の手があく11月10日に決まった。それから数日間の入院となる。
痛いんやろな。やだな。やだな。
明日はスタッフとともに早朝より北陸へ。俺は日帰りで帰ってくる手筈である。
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9月23日(火):秋分の日

一週間ぶりに東京から戻った。東京での仕事は、まあこんなところかって感じ。しかし特選会自体は、信じられないくらいの堕落ぶりであった。こんなんでいいんだろうかここの外商って感じ。
いろいろと飲んだ毎日だった。来年2月、ぎゃらりーおくむらでうちのインテリアの個展をしようという話になった。それにジュエリーをくっつけてはと話した。うまい水炊きを渋谷で食べながら。。。
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9月15日(月):

昨夜より嫁の実家へ行き、朝から墓を建てた儀式みたいなものに参加してきた。しかし、久しぶりに礼服を着たら、ウエストがきつくてびっくりした。これはダメだ!!!
午後3時頃、大津に戻り、小雨の中、一人1時間半ほど琵琶湖を歩いた。出来るだけ歩かないとダメだ。
夜、手羽先を揚げて、とろみ野菜炒めを作った。
明日から東京出張だ。気合たっぷりである。
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9月14日(日):

朝より会社に出て、棚卸を実施した。しかし在庫の多さには辟易である。減らさないといけないなぁ。
ここ何年かに入荷した商品はすべて写真があるのだが、それ以前より金庫に居候する商品は写真管理をしていないため、見当たらないと商品がわからない。それをなんとかすべく、今日はそれらの商品を一点ずつ撮影してパソコンに取り込んだのだが、全部終わらない。やっぱり在庫が多すぎる。全部溶かして金にしちゃおうかなぁ・・・。
明日は嫁の実家が墓を建てたとのことでその披露目会というか、法事というか・・・。是非と義父に云われて、参加せざるえない状況となった。
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9月13日(土):

今日は亀岡を回り、午後は会社にて秋のアリカコレクション展のためのDMのゲラを作成した。来月21日と22日、ホテルグランヴィア京都にて開催する。
今月も営業的には絶好調の俺だが、去年の9月に東京で個展を開催しておりそこでの予想以上の結果が圧し掛かってきているので、まだまだ予算は先の先である。なんとか期末月、がむしゃらにやらないとなぁ。
愛車のアルファ君も走行40000キロを突破し、タイヤが限界にきている。再来週、タイヤを履きかえることにしたのだが、普通のタイヤではないのでちと高い。高い。まあこれは仕方がない。仕方がない。
10月より一人営業を増員する。とりあえず12月末までは試用期間である。
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9月11日(木):

八戸から東京を廻り、今夜一週間ぶりに帰ってきた。俺の今回の出張は、自分ではとても満足行く結果であった。感謝である。
様々な問題が目の前にあるが、自分を信じてまっすぐに行きたい。いつも立ち止まって、もっとどうすればよいかと、考え考え歩んで行きたい。今日そう思った。
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9月8日(月):

久慈から八戸へ。期待していたお客様には商品見せれず。来月の八戸催事で見て頂くことにする。
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9月7日(日):

盛岡・ホテルエースより。今日は盛岡での休日であった。
映画を見に行ってきた。『ハンコック』。残念ながら期待していた以上の映画ではなかったが、それなりであった。
昨夜は山中屋へ行き、激辛たれで焼肉を食べてきた。明日から八戸エリアにて3日間頑張るぞ。
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9月6日(土):

東北は岩手県水沢の水沢北ホテルの部屋の朝。306号室。窓越しから見える風景はさびれたアーケードの屋根。隣のレンガ建てのホテル。電線と灰色の朝の空。思えば遠くへきたもんだ・・・。
朝から鼻水が止まらない。風邪ひかないようにしないと。
東京、そして昨日のこの地と、とてもお世話になった。俺としてはこのところ絶好調である。なんとかこのペースで走り続けたい。
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9月3日(水):

9月に入っていた。入った途端、福田首相が辞任とのこと。あほかと思った。こないだの組閣はなんだったのか。世界広しと云えども、こんなにしばしば政治の代表が変わる国は日本ぐらいのものであろう。今の自民党では、誰がやっても同じといえよう。結局は政治の裏の奥の深い所にいる灰色の人間が、いろんなくだらない私欲駆け引きの中、将棋盤のコマを動かしているだけにしか思えない。
また、最近ほんとうに面白くない日本のマスコミの政治関連の討論番組もどうかと思う。ニュースは要点だけ伝えればいいと思う。アナウンサーは個人的見解などしなくていいと思う。
しかし今、テレビがとてつもなく面白くない。個人的に観たいと思える番組が本当に少ない。
俺が今観たいと思う番組:
NHKおはよう日本、ガイヤの夜明け、うるるん滞在記、情熱大陸、田舎へいこう、レッドカーペット、総合格闘技、オール阪神のフィッシング情報、BSの吉田何某の居酒屋放浪記みたいなやつ。(単に個人的趣味か・・・。)
話は変わるが、本当に実力ある自由人は、どんどん海外に飛び出していく時代到来である。良くもあり、悪くもある、日本固有の保守的な枠組みにしか収まらない人達は、間違いなく、これからのやってくる世の中に置いてきぼりになるであろう。
俺も日本人ではなく、自由人になる。
そのためには自分をもっと磨かなければいけない。
明日より、東京経由で盛岡、八戸に入る。

スペイン・イタリアへの一人旅 2005 『シーザーとの再会 』

2018年08月30日 | 旅三昧!釣り三昧!
スペイン・イタリアへの一人旅2005『シーザーとの再会』

5-3-2005:

いつもより出発時間が少し遅くなったような気がする午後2:25、関西空港発アリタリア航空に乗り込む。今年は予定していた2月のスリランカ出張が津波の影響により延期という事態があり、これが今年初めての海外出張となった。

去年は無理押しして、バンコク経由のフライトを利用していたが、もっとヨーロッパへ入り込むべきとの社長の指示の下、今回はイタリアから生まれて初めての訪問となるスペインに入ることにする。2週間の旅、バンコクでの親友サミーとの常にプラスのエネルギーが蓄積できる飲み会が出来ない残念感はあるが、それはそれでまた、日本ででもその機会を持てば良い事である。

今回の大きな目的であるスペイン市場開拓を前に、かつてカナダ・トロント留学時代に出会い、未だに親交を続けているCESARへ連絡し12年ぶりに再会する流れとなった。とても楽しみである。
日本出発前に、京都にある外人観光客向けの『HANDY CRAFT CENTRE』へ出向き、彼への手土産として、有田焼の湯飲みセットを奮発して購入した。CESARは、ヴァレンシアから南にバスで約2時間の海沿いの町・ALICANTEに住んでいる。そこへ週末の2日間、世話になる予定である。

卒業シーズンからかほぼ満席のAZ794便にて、定刻通り、ミラノ・マルペンサ空港に到着した。

相変わらず退屈で、寝にくい機内では、トムクルーズ主演の『コラテラル』の映画を観て過ごした。コラテラルという意味がよくわからない。ラテラルとは確か、側面的なる意味だったきがするのだが、定かではない。帰ってから調べてみよう。

すっかり暗くなった午後7:30、マルペンサ空港よりミラノ中央駅へシャトルバスで出て、そこよりタクシーにて、常宿・HOTEL GRAN DUCA DI YORKへ。

スタッフのみんなの元気そうである。ここの所、このホテルは改装ということもあり、しばらく別のホテルに宿泊していたので久しぶりのみんなとの顔合わせとなった。

早速、バーテンダーのMARCOにスペインの情報を聴く。彼は6回訪れたことがあり、バルセロナが一番好きな街だとの話である。

ホテルにチェックインし、時計を見る。午後9:00だ。日本時間の午前5:00である。さすがに目がしょぼしょぼする。

いつも通り、さささっと東方飯店へ出向き、麻婆豆腐と炒飯にハイネケンビールを腹に詰め込み、部屋に戻った。


6-3-2005:

時差のおかげであろう。午前5:30のフロントからのモーニングコールもそれほど苦にならず、スパッと目が覚め、するりとベットを離れた。シャワーを浴びて、まだ暗い午前6:00、ミラノ・リナーテ空港へ向けてタクシーを走らせる。

途中、対向車が事故を起こしてボンネットがぺちゃんこになっていた。

「今日これで3件目ですよ」、運ちゃんは話す。

どうも週末の明け方は事故が多いらしい。

リナーテ空港に近づくにつれてフォグがかかってきた。前が見えない。

「リナーテ空港はいつもこの時期この霧なんです」と運ちゃんは言った。

そういえば、初めてイタリアに訪れた12年前も、ここは霧がかっていた。あの時はトロント留学からの帰り、直接イタリア・ポルトガルへ入り、社長と合流したのであった。あの時の事は今でもはっきりと覚えている。

リナーテ空港のBARにて、朝食を食べる。『ミラノ』と呼ばれる、フランスパンにハムとチーズを挟んだサンドイッチとカプチーノである。

本屋でヴォーグジュエリー誌と空色の手帳(9ユーロ)を購入する。

マドリッド行きのアリタリア航空には、僕を合わせたった18名の乗客であった。離陸し霧空を抜けると遠く左手には雪のアルプスの山並みが連なっている。絶景である。

「本当にスペイン・イベリア大陸は茶色いのだろうか?」という疑問の答えを確かめたく窓側の席を希望したのだが、それは正確だった。素晴らしい景色、眩しすぎる朝日に、目が開けれないほどである。気持ちがいい。朝日の当たる左頬がほんのり温かくなる。

着陸後、霧の壁を通り抜け、目前に現れたイベリア半島はやっぱり茶色であった。

マドリッド・バラハス空港よりタクシーに乗り、ホテルへ向かう。

地下鉄を乗り継ぎ行く手もあったが、今回は手元にまとまった金を持っているため、備えあれば憂いなしとタクシーを利用することにしたまでである。

チェックイン後、早速、世界3大美術館の一つとして名高いプラド美術館へ訪れた。

驚くほど広いこの美術館にて最も眼に迫った絵は、ゴヤの『着衣のマハ』であった。この絵は昔、美術の教科書で見たことのある絵である。その後、ソフィア王妃芸術センターへ出向き、ピカソ作『ゲルニカ』を観賞した。5分ほどだろうか、この『ゲルニカ』の、前に立ち止り、傍楽その絵を目に焼き付けた。

ピカソの絵はシャガールの絵と同じく、見れば見るほど想像の世界が広がる。

その後、スペインに来たならまず『パエリア』をと、一人いそいそと近くのレストランへ入り、ミックスパエリアと生ビールを頼んだ。20分ほどして現れたそのパエリアは全く持って満足いく出来栄えであった。味加減が日本人の舌にぴったりなのである。具はトリ、エビ、ムール貝などである。サフランの香りがとてもよい。 満足、満足であった。

満足した腹をなでながら、マドリッド市街を歩き回った。

残念ながら、日曜日にて宝飾店のほとんど全てが店を閉めており、明日の為の散歩となった。

歩きつかれてホテルに戻った僕は、そのままビールを飲んで寝てしまい、おきると深夜0時(日本時間午前8時)と、まだ日本時間のままの生活である。

困ったものだと、スーパーにて購入したビールをがぶがぶ飲みながら、部屋でお客さんに絵葉書を書いていた。

TVのCNNニュースで、なぜ最近、日本人が韓国へよく行くのかをこの地マドリッドで放送していた。


7-3-2005:

朝8:00、ホテルでビュッフェの朝食を取った後、セラーノ通りへ向かった。ここは、マドリッド随一の高級店が軒を並べる地区、日本でいえば表参道といったところか・・・。

街の雰囲気とジュエリーのトレンドを追いかけるべく、大きな宝石店にはとりあえず飛び込み、商品を見せてもらう。

モダンなラインは、イタリアのものとそう変わらないように思える。一部、おもしろそうなラインを見つけるが、小売店では価格的に合わない。

アンティークジュエリーの店を見つける。なかなかおもしろいジュエリーを見つけるも、価格が合わず断念する。

マイヨール広場近くのBARにて生ビールとパエリアを頼む。

昨日と今日も買ったのだが、ソルにある百貨店の地下、食料品売り場で売っている絞りたてのオレンジやグレープフルーツジュースが恐ろしく美味い。プラスティックボトルに500CCで売っている。その酸っぱさは、思い出すだけで唾液が出るほどである。

歩きつかれて夕方、部屋に戻るとまた寝てしまい、起きると午前1時。昨日も今日も夕食をとれず、ずっと日本時間が続いている。


8-3-2005:

朝6:00起床、マドリッドのホテルをチェックアウトし空港に向かう。しかし、スペインという国は、もっと物価の安い国かと思っていたのだが、そうでもないようだ。

安く思えるのは、街で買うビール(1缶0.57ユーロ)ぐらいで、ちょっとBARに食事に入っても20ユーロは取られる。EUとして通貨統合されてからだろうか、とにかく決して物は安くない。

バルセロナ空港に到着し、節約しようと、タクシーを使わず、空港バスにて市内中心地であるカタルーニョ広場まで出てからタクシーでホテルへ向かう。

ホテルは三ツ星ながら、とても綺麗で予約してくれたCESARに感謝である。

荷を解き、早速、街へ繰り出す。

目抜き通りであるランブラス通りを歩く。

歩きながら驚いた。街には活気があるのだ。人々も明るい。生き生きしている。これは正直、マドリッドの比ではなく、ひょっとしたらミラノよりも街が息づいているのではと思った。

とても印象がよい街。僕の中のヨーロッパ都市ランキングでトップに躍り出るほどである。

しばらく歩くと左手にインターネットカフェがあったので、メールをチェックした。

またテクテクと歩くと、左に大きな市場があった。(後で知ったが、サン・ジュセップ市場という有名な市場であった)道をそれて市場に入る。

すごい活気だ。

花を売る店。果物を売る店。豚を吊る店。魚介類を売る店・・・。市場は楽しい。楽しいのでぐるぐる見ながら歩いていると、店の合間にカウンターを作り、魚介類や野菜を焼いている屋台を発見した。

なにやら美味そうだし、腹も減ってきている。

言葉もまったく通じないのは承知で、カウンターの空いた席に腰掛けた。

働くオッサンが「オラ!」っと微笑む。

「生ビールを一つ!」とイタリア語で言ってみた。

イタリア語とスペイン語は極めて近い言語なので通じたようである。

次に、隣に座る人が食べているアサリと謎の縦1CM横5CMほどの細長い貝が気になり、指差してそれをオーダーする。

しかし、初めて見る貝であって、黒くて長い。ちょうど中指くらいの大きさなのである。

これらを塩コショウ、オリーブオイル、ガーリックで、いわゆるボンゴレ風に味付け、レモンを添えて出てきた。

「美味い!」一人、日本語で唸ってしまった。

新鮮な市場の魚介類をその場で焼いてもらいビールを飲む。きっと、他所よりは高いのだろうが、そんなことは今はどうでもよいのだ。

ボンゴレを食べ、フランスパンをかじり、ビールを流し込む。

ただただ、これの繰り返し。

たまに唸る。

気がつくと、日本人の若いカップルが、カウンターの後ろに立っている。唸っているのを見られたのだろうか。僕の横がちょうど2席空いていたので、どうぞ、どうぞと席を勧める。

聴けば二人ともイギリスに住んでいるとのこと。現実を逃避して日本よりイギリスに行き、バルセロナに来て、更にイギリスより逃避したくなったと彼は言った。

「あほか」と思ったが、聴かないふりをした。海外に行くとこういう輩が多い。

唸っている二人を放って、又、僕は目抜き通りを歩き始める。しばらく歩くと、空港バスを下りたカタルーニャ広場に出た。どうやらここがバルセロナのヘソの様である。

地下鉄(メトロ)の入り口が地下に伸びていたので、そこを下り、売り場で一日乗車券を購入し、まず、国鉄サンツ駅に向かう。

明後日の朝、この駅よりヴァレンシアへ向かうべく、特急列車のチケットを買わないといけないのである。

前売券売り場は、日本の銀行の窓口の様に番号札を手に待つスタイル。僕の番が来て、AM8:00発の席を確保できた。

サンツ駅で違うラインの地下鉄に乗り換え、ガウディのサグラダ・ファミリア聖堂へ向かった。この天空に4本の筒が飛び出している建造物は1882年に建築が始められ、ガウディのデザインにて彼の死後も着々と建築されている。完成までに後200年かかるらしい。

ガウディだけでなく今生きている誰もが完成を待てないのである。不思議な気分である。

芸術とはそういうものなのかもしれない。

高級ブティックが並ぶグラシア通りを歩く。この街はやはり明るい。観光客もマドリッドの比ではなく、通りには大道芸人達が人集めをし、花屋が花を売っている。人々を勧誘しながらポートレイトを書いている画家(?)もいる。

カタルーニャ広場まで戻り、マドリッドでも世話になったスペイン随一の百貨店の地下へ買い物に行く。

ビール、プチトマト、オレンジとブルーチーズ。

歩きつかれたので、部屋に戻り休もう。そして夜、又、BARへ繰り出そう。

驚くほど甘酸っぱく美味いプチトマトと、驚くほど香るオレンジを食べながらハイネケンを2本空けて僕は昼寝した。

午後8:30、BARへ行こうと出発。残念ながら、ホテル周辺は柄が悪そうである。嫌な雰囲気がする。早めに帰ったほうがよいと僕の中の危険信号が発令する。

昼間見つけていたBARで生ビールとタパスを2種類頼む。今夜はサッカーのチャンピオンシップでスペイン屈指のここバルセロナが、イギリス名門チェルシーに対戦するのだ。

頑張れ、バルセロナ! 頑張れ、ロナウジーニョ!! デコ!! エトゥ!!

酒飲む人々が熱くなり始めたので、ホテルに帰る事にした。めちゃくちゃ煙草が吸いたくなったが我慢する。


9-3-2005:

朝より耳の奥が痛い。喉も少し痛い。鼻水が止まらない。ひょっとしたら風邪をひいたかもしれない。

午前9:00、宿泊ホテルのフロントに今回新規でアポ取りしたメーカーであるR社のオーナーが来てくれた。この会社はスペインの老舗ジュエラーとしてその名声はスペイン国内に留まらず、あのカルティエの『タンク』シリーズのデザイン供給をした会社としても知られている。所有する宝飾品にもそのおもむきが覗える。

サンプルとしてカタログの女性モデルが身に着けているものを10点ほどオーダーすることにする。

オーナーであるカルロス氏はとても心安い。オジサンなのだが、そのハゲ具合は到底44歳とは思えない。僕の事を20代と思っているようである。そのままにしておく。

正午、アールヌーヴォー期のジュエリーを製作する事で世界的に有名なM社へ。その芸術的な作品の数々を見せてもらう。この会社は2つのブランドを有するが、その1つは既に日本にてEXCLUSIVEな輸入代理店を持っているので正規輸入は出来ない。ここではもう1つのブランドの輸入に関するMEETINGとなったが、卸価格を提示できるトップが不在にて、現状の価格では納得いかず仕切り直しとなる。とりあえず我らの主旨は伝えた。商材はさすがの一言につきる。

夕方、本日最後のアポであるA社に地下鉄で向かう。オーナーは英語を操れず、オーナー御令嬢でマネージメントの軸を務めるベラと約二時間話した。

ここもスペインでは名の知れたメーカーである。この二時間に自分を売り、会社を売り、朝の商談と同じD/A at 90DAYSという信用買いでサンプルをオーダーした。ベラはとても気さくで面白い女性である。仕事の枠を超えて、人として魅力を感じた。

夕日の沈む夕暮れ時の帰り道、自身納得の行く仕事の出来た僕は、昨日訪れたガウディのサグラダ・ファミリア聖堂の横をスーツ姿で歩いた。薄暗い中に天空へそびえ立つこののっぽな建造物は昨日見たより、ずっと崇高で厳粛な思い雰囲気を醸し出していた。

流石に疲れた。ホテルへ帰る途中の目抜き通りにあり中華料理レストランに立ち寄った。客が多いのは、きっと美味いのだろうと思っていたが、僕が頼んだ「Beef with Hot Souse と Fried Rice」は全くもって満点の味であった。

今回は、ここバルセロナの道標をうまくつける事が出来た。もっと掘り起こせば良いジュエラーがたくさんあるに違いなく、今後はスペイン国際宝飾展に参加するか、少しずつバルセロナに立ち寄り、新規開拓していきたいと思った。

スペインの人々は、気軽な挨拶として「オラ!」と云う。いわゆる英語の「ハロー!」、イタリア語の「チャオ!」に近い言葉のようなのだが、僕の中での「おらっ!」は、どちらかといえば、なんとなく投げやり的言葉なのでなかなか慣れる事が出来ないでいる。


10-3-2005:

僕は午前8:00のバルセロナ・サンツ駅発バレンシア行きのユーロ・メッドに乗り込んだ。これから3時間は列車での旅となる。

列車はイベリア半島東海岸沿いを、ただただ南下する。

左手の車窓には穏やかな地中海が広がっている。車窓から見えるその風景を見ていると、まるで時間が止まっている様な錯覚を受ける。

今朝起きると、喉と鼻と耳の奥が更にやばくなっており、チェックアウトの際、フロントの兄ちゃんに「個人的なものだけどどうぞ!」と薬をもらったのだが、どうやらこれがとても効いているのかもしれない。

列車に独り揺られていると、その痛みを感じなくなった。薬のおかげだろうか、はたまた、この穏やかな景色のおかげであろうか・・・。

眠ってしまっていた。

心地よい列車の揺れに目を覚ますと、車窓は変わり、オレンジ色の実をたわわと付けたみかん畑が連なっている。

「これがバレンシアオレンジか・・・」と独り納得する。そして、ピンクの花咲く畑も見える。どうやら桜のようなのである。桜畑とは生まれて初めて見る。サクランボでも取るのであろうか。

バレンシアのホテルより、スペイン大使館より入手した情報を元に、気になる宝飾メーカーに電話を入れるも全く英語が通じない。歯がゆく思いながら受話器を置く事、数回。結局、明朝のアポ1件にて終了である。

街に出るが足が重い。咳が出始める。


オレンジが生い茂っている並木道の並木を「日本だったら全部捥がれてしまうだろうな」と重いながらフィルムに納め、そのすぐ傍のオープンカフェにてピザを食べた後、ホテルに戻り静養する事にした。

深夜2:00、毛布を2枚被るも寒い。熱が出てきたかもしれない。フロントへ電話し薬を貰おうとしたが常備していないとの話。

「4つ星ホテルやろ!?」と独り愚痴るも仕方なし、とにかく水分をたくさん採って寝ることにする。

しんどい。海外に出て体調を壊すのは、新婚旅行以来である。あの時はイスタンブールで食べたムール貝に二人してあたったのであった。懐かしい想い出が頭をよぎった。


11-3-2005:

寝たり起きたりしながらベッドの中に15時間程。

午前9:00からの新規アポにはどんなことをしても行かなくてはならない。往きしに薬局で薬を購入する。この薬は粉薬なのだが、やけに量がある。きけばどうやら水に溶かして飲むようである。水に溶かすとそれはオレンジジュースになった。さすがバレンシアである。関係ないか・・・。

今朝の訪問先A社はスペイン語しか通じないようで、日本人の女性の通訳が一緒に待っていてくれた。まだ若い彼女はバレンシアに来て2年ほどとの事。ふと昔、カナダに留学していた頃の自分を思い出した。このスペイン第3の街・バレンシアに住んでいる日本人のほとんどは顔見知りだと彼女は話した。

どんな夢を持ってここで生活しているのであろうか。

ホテルの部屋に戻り、ソファーでうたた寝、熱が下がっている様なので、思い切って二日ぶりのシャワーを浴びる。

夕方までの時間を潰すべく、荷物を駅のコインロッカーに預ける(3ユーロ)。


アリカンテへの列車は、さしずめ日本でいう新快速といった感じであった。しかし驚くほど混んでおり、学生風の若者達が大きな荷物をそれぞれ手持ち乗っている。早めに待っていて良かった。危うく立ち乗りになる所であった。
2時間ほどの茶色の世界の旅。

到着したアリカンテ駅には12年ぶりにて髪が少し白くなったがほとんど昔のままのCESARと、彼の娘・ANDREAが立っていた。もじもじするシャイなANDREAに挨拶をした。この街には日本人がいないので、東洋人にいささか面食らっているのか、とても可愛らしい。

CESARの運転するシトロエンに乗り込みビーチサイドを散歩する。

12年前のトロントでの日々、CESARが自慢していた街がここにあった。自慢していた海がここにあった。

ついに僕は12年前の約束どおりここにやってきたのである。なるほど誇れるだけの素敵な街である。

CESARの家では嫁さん・MARと1歳のチビ・ALEXが待っていてくれた。笑顔が止まないであろう素晴らしい家族の生活スペースがそこにあった。

部屋でビールと手土産の茶飲みセットで入れた日本茶で乾杯した後、ビーチサイドのPIZZARIAへ5人で出かける。心温かいもてなしに心から感謝する。その後、CESARと二人で軽くBARで飲んだ。


12-3-2005:

朝、CESAR家のリビングの窓一面に広がる海に感動する。

昼前、アリカンテ市内を歩く。街に宝石店が多いことにCESARと二人して驚く。途中、市場で出かける。週末故、街のオバサン達で賑わっている。肉屋が多い。ウサギも皮をむかれ耳を取られては、何の動物かわからない。ヤギの脳みそから牛タンまるまる一本まで売っている。やはり肉食人種である。

12年ぶりにトロント留学時代に俺の当時のコンドミニアムで、CESARがフィッシュマーケットにて、鱒かなにかの大きな魚を一匹調達し、料理してくれた事を思い出した。

その後、CESAR家族と山間の村へ向かう。そのAGRESという村は、アリカンテより高速で約1時間の所にあった。茶色い山肌の中に点在するレンガ作りの家々。ポツポツと開花する桜だが、茶色の岩肌に咲く桜は、それ程魅力的には見えない。

未だに鼻水が止まらない僕だが、どうやらMARにもうつしてしまった様で、彼女も咳ごみはじめる。

いつも独り、BARでタパスとビールでの食事をしてきたので、考えてみればはじめてのレストランでの食事であった。CESARがオーダーしてくれる。出てくるお皿をみんなでシェアしたのだが、今これを書きながら思えば、風邪の僕と皿をシェアするなど、風邪をうつしているようなものである。

イカフライや数種のソーセージの盛り合わせ、野菜を塩コショウで網焼きしたもの。それぞれに美味しい。ANDREAがMARに云われ、半泣きになり鼻を摘みながら茄子を食べている。どこの国も同じである。最後は黄色いライスに豚足や野菜を混ぜて蒸したものがやってくる。これは何というメニューか訊いたが忘れてしまった。パエリアではないらしい。

しかしこのレストランは有名なのであろうか。こんな小さな山間の村なのに客が一杯なのだ。もちろん東洋人は俺一人なのだが・・・。

夕方、CESAR宅に戻る。僕の風邪は薬を飲み続けるも良くなる兆候はなく、それ以上にMARやALEXにまで波及させつつある。本当に申し訳ないと思う。

夜、CESARとANDREAとでスペインのテーブルゲームをする。金髪のANDREAは本当に可愛い。きっと素敵な女性になるのであろう。無性に自分のチビ達に会いたくなる。

ベッドに入るも寒く、服を着込んで、靴下を履いて、バスタオルを足に巻いて丸まって寝る。

薬を飲んで安静にすれば良いものの、すぐに寒空の下、出回ったりするから飲んでいる薬も利かなくなってきた気がする。

CESARの家は、CESARとMARが共稼ぎという事もあり、家の事も共同でしている。ALEXのオムツを替えるのもCESAR、風呂に入れるのもCESAR、洗濯を干したり、週末の朝、ANDREAのパンを焼いたりするのも彼の担当のようである。夜も、CESARが子供をあやしている間、MARは何やらレポートを書いている。なかなか僕には真似が出来そうにない。

「ひょっとしたらMARの方がCESARより収入がおおいのかもしれんなぁ」と思った。

まぁ僕には関係のない事である。


13-3-2005:

朝、目が覚めるもやはり体は重いままである。午前中、アリカンテのカテドラルへ連れて行ってくれると言っていたCESARの誘いを断り、部屋で昼迄、寝かせてもらう事にする。今日、午後のフライトでミラノに戻ることになっている。

午後、リビングのほうが賑やかだったので出て行くとCESARのご両親が来られていた。御父上は会社経営者らしく、きびきびとした英語がわかりやすい。

別れの時、空港に送ってくれるCESARと御父上以外のみんなに挨拶をする。ANDREAが次に会う時どう成長しているかが楽しみである。

考えてみれば、今から12年前のたった一ヶ月、カナダはトロントという街でのひょんな出会いが、今、このような温かいもてなしに変化するとは、当然思いもつかなかった。人との出会いとは素晴らしいとつくづく思った。

こんな日本からものすごく離れたユーラシア大陸の西端のイベリア半島の海沿いの街も自分がいた事を、日本に戻り、家で地球儀を廻しながら、ビールを片手に回想したいと思う。

夜、ミラノの常宿より薬局へ向かうが、抗生物質は医者の処方箋がなければ売ってくれない。仕方がないので強い風邪薬を購入する。

久しぶりにシャワーを浴びる。驚くほど髪の毛が抜けてびっくりする。


14-3-2005:

やはり体調は完調に程遠い。まだ食欲があるだけ良い方である。

朝、既存取引先・G社にて仕入れを行う。体調を社長であるアントニオ氏に話し、うまく抗生物質を裏から入手してもらう。1日2錠。これが効いてくれれば良いのだが。しかしやたらとデカイ錠剤である。飲み込むのに一苦労する。うちのチビなら無理であろう。昼よりF社にて仕入れ。

しかし、海外をしばらく一人旅にすると、嫁や子供の大切さを痛感するのは俺だけだろうか。普段、そばにいるのが当たり前で、感動を共有することを求めず、流れるように生活している事、遠く離れた地に来るとなぜかよくわかるのである。反省すべきことである。

夜、歩いていて見つけた日本食レストランの暖簾をくぐる。キリンビールと天ぷらうどん、鉄火巻きを頼むが、その味の悪さにムカついてしまうほどである。

悪いと思ったがほとんど残し、席を立った。働いている偽日本人スタッフ達は驚いた様子だったが、これが日本食とミラノに住む人々に認識されるという方が驚くというものである。

部屋に戻りなんとなく効いてきている気がする抗生物質第二段を体内に投入する。


15-3-2005:

間違いなく薬が効いてきている。

フィレンツェに向かうユーロスターに揺られながら、次第に回復しつつある体調に安心する。

いつもながらのフィレンツェへの列車の中、日本より持参した文庫本『漂泊の牙・熊谷達也著』を一気に読む。この作品、ニホンオオカミを題材にした小説なのだが、さすがは新田次郎賞を獲っただけあり、とてもおもしろかった。

日本よりホテルへFAX。営業数字が全然伸びていない様子。帰国後、頑張るだけの事である。もう焦りはしない。

フィレンツェのマネッティ氏の工房にて、オーダーしていた商品を受け取り、彼の工房で働くマクシミリア氏の夏の来日について話し合う。盆明けに企画を打ち出す事にする。

話し合っている途中、気品ある婦人がマネッティ氏の店に来られ紹介される。話しているとこのマダムはフィレンツェでも指折りの家系であることが判った。

「タック、このマダムはパレス(宮殿)に住んでいるんだよ」マネッティ氏が話す。

「もし良ければ、お茶でも飲みに来ない?」とのマダムよりの誘いに、興味本位で付いて行く事にしたのだが、行ってみて吃驚した。

マジで美術館級なのである。建物は12世紀に建てられたとの事だが、部屋の調度品は当然のこと、天井のフレスコ画は素晴らしくヴァチカン宮殿のミニチュア版なのである。部屋方々に置かれた写真には、イギリスのブレア首相(とても仲が良いらしい)やローマ法王といった大物との物ばかりである。聞けばチャーチルの遠縁であるらしい。娘は有名なダンサーでありソムリエらしい。ミキモトのモデルでもあるらしい。確かに写真に写る彼女は女優そのものである。

話を聞くと、創業994年のワイン製造会社のオーナーであった。1000年以上も続く会社なのである。会社のパンフレットをみると、かのミケランジェロが書いたこの会社へのワインに関するコメントなどが残っている。こんな出会いは初めてかもしれない。深々と頭を下げてマネッティの工房に戻ったのであった。

マネッティの工房にてフィレンツェ紋章のダイヤのブローチが痛く気に入り購入し持ち帰ったのだが、その後、日本のヴァンサンカン誌(2005年5月号)に『オーダーの頂点に君臨するスタイリスト』としてマネッティ氏が取り上げられ、僕が入手したブローチが載っていた。

フィレンツェ駅前のレストランで左唇奥に出来た口内炎を気にしつつ、パスタを食べた後、帰りの列車でミラノに戻った。


長かった出張も明日で終わりである。


16-3-2005:

午前中、日本からの指示によりS社へChain類を仕入れに行く。

昼からカドーナ駅よりマルペンサエクスプレスに乗り、マルペンサ空港へ。帰国の途につく。

振り返れば長い出張であった。

これだけ長い出張もまれである。目標にしていた仕事はこなせたと満足している。生まれて初めて訪れたスペインに新天地を見出せた事、自分なりに満足している。今後はスペイン市場もイタリア市場と同様に、気を配りたいと思う。


帰りのフライトも山盛りの日本人。この人達はいったいどこにいたのであろうか・・・。

街を歩いてもほとんど見かけなかったのに。きっとみんな缶詰のようにギュッとつまって動いていたに違いない。間違いない。間違ってても関係ない。

僕は今、ただただ居酒屋のカウンターで焼き鳥などを暗いながら、しっくり、ぽっくり、ゆっくりしたいだけである。


日本人バンザイ!





TACKのイタリア&チェコ紀行・2006 『 金坂との再会 』

2018年08月30日 | 旅三昧!釣り三昧!
 TACKのイタリア&チェコ紀行・2006 


5-3-2006:

久しぶりのヨーロッパ出張である。去年の秋ぶりとなる。今回はミラノとフィレンツェがメイン、そして週末に生まれて初めての国・チェコのプラハへ訪れる。そこに駐在する高校時代の友人・金坂に会いに行くことにしているのだ。彼とは15年以上ぶりである。とても楽しみにしている。

昨日、金坂への土産は何が良いだろうかと東京の友人と相談し、プラハではなかなか日本の食材が喜ばれるのではという答えに達し、ヒガシマルのうどんの素、カレーうどんの素、ぞうすいの素、さぬきうどん、そして絶対にチェコでは売っていないであろう昔なじみの駄菓子を購入した。そして昨夜、自宅のパソコンにダウンロードしてある曲の中より、最近俺の心にしみたものの選曲して金坂のためのCDを作った。喜んでもらえれば幸いなのだが。

関西空港からのアリタリア航空AZ795便ミラノマルペンサ空港行きの始発時間が13:55といつもより遅くなったようで、朝、京都の事務所へ車で向かい、忘れ物がないか再度確認してからタクシーで京都駅へ、そしてはるかにて関空へ向かった。

昨年、アリタリア航空を25000マイル以上利用した為、ULISSEカードという優待カードを進呈されているのだが、これにより今年は空港ラウンジや優先チェックイン、荷物重量の超過等が優遇されたサービスを受けることができるようになったのだ。

一つ予定より早いはるかで関空に向かい、いつも通りチェックイン後、2階の本屋にて5冊ほど本を買い込み出国した。

大丸のキャンペーンで毎回お世話になっている御客様からのリクエストであるエンジェルという香水を求めに免税店を廻るがどうやら関空には売っていないとのことである。結構マニアックな香水のようである。イタリアで見つかればよいのだが・・・。

飛行機に乗ればすぐに機内食が出てくるのはわかっていたのだが、なぜかカレーライスを今食べておかねばと突然思い立ち、売店にてビーフカレーと生ビールを注文する。さして美味くないどこにでもあるレトルトカレーをワシワシと1分程で平らげた。又、3年間禁煙してきた俺だが、ヨーロッパでの孤独にどうしても耐えられないという時のため、セブンスター1箱とマイルドセブン1箱を購入し、かばんの奥に押し込んだ。

そして俺は航空ラウンジ『飛鳥』へ、向かう。

常のこの時間はクレジットカードのラウンジを利用するのだが、今回は先述の理由により招待されたラウンジ『飛鳥』へ行ってみることにしたのだ。

やはし予想していた通り、カードラウンジよりもこちらのほうがはるかに良い。人も少ない。ビールもあればワインも飲み放題である。

凡人の俺は飲み放題とか『・・・・放題』というのに弱い。極めて弱い。

さっきカレーライスの時に生ビールを飲んだというのに、又、ハイネケンの缶を手に取っていた。

この空港ラウンジの受付には、恐らく75歳はゆうに越えているであろう『おばあちゃま』という呼び方に相応しい女性がちょこんと腰掛けており何とも不思議な感を受ける。更にはこの方、外人に対しNATIVEな英語を操り受け答えしているのには本当に驚いた。

「恐らく日本より海外での生活のほうが長いのだろうな」 そう思った。

「でもそれではなぜ、今こんなとこで制服を着て働いているのやろか?」

一瞬だがこの方のこれまでの人生が少し気になった。もちろん現実は知る由もない。

そんな興味あるラウンジにも飽きて、外に出て家族や友人に出国の電話をした。嫁さんは何か土産を期待している様子だが、何が欲しいとは言わない。こういうのは非常に困るのである。俺が考えなければならなくなるのだ。


定刻通り、いつも通りの離陸、いつもと違っているのは俺が既に酒が入って赤ら顔な事くらいだ。ULISSEカードの効力が利いたのか、俺の座席の隣3席が空いており、ゆっくりとではないが横になれるスペースを確保できた。これはとても幸先が良い。俺は笑顔の赤ら顔になる。

シートに添えられた機内誌を見てみると、映画『星になった少年』があった。これは確か少年がタイで象遣いになるというフィクションだったはずである。勿論未だ見ていない。

「よし、これを見よう!」 ひとりつぶやいた。

買った『密事・上下巻』藤田何某・著を読みながらビールを2缶と赤ワインの小ボトルを2本。酔って寝転がり、2,3時間の睡眠、ノコノコ起きだして映画といった具合にいつもどおりの退屈な機内を過ごした。

又、いつものように発作的に一人日本から離れ遠くへ行くという孤独感が心の奥からふつふつと湧き上がるが、これもいつもの按配でなんとか押し沈めた。


飛行機がマルペンサ空港に降り立ち、いつまでも関空からの手荷物がベルトより流れてこず、待つ人々がイライラし始めた頃、その頃合いを計ったかのようにゴトゴトとスーツケースが流れてきた。

いつものようにシャトルバスのチケットを5ユーロで購入し、いつものようにミラノ中央駅へ向かう。いつものようにタクシーに乗る前に、明早朝のフィレンツェへのユーロスターのチケットを購入する。もう午後8時半、駅窓口は全て閉まっているので自動券売機にて1等席を予約し、AMEXで購入した。41ユーロ也。

定宿であるホテルへチェックインした後、トリノ通りのスーパーマーケットに向かったのだが既に閉まっていた。メールをチェックしたくネットカフェに立ち寄るもそこも閉店しており、仕方がないのでMACにてビッグマックセットを買い、ホテルのバーでビールを2本頂戴し部屋に戻る。

シャワーを浴びて長いフライトにて疲れた体を洗いながら、ミラノは思っていたほど寒くないなと一人ふと思う。

その後、2本のビールとビックマックとほんの少しのフライドポテトをつまみ、かばんの奥のセブンスターを1本吸った後、眠り薬を飲み込んでベッドに入った。午前2時に一度目が覚めたが、又すぐに眠りに落ちた。


6-3-2006:

朝6時のモーニングコールで覚醒しシャワーを浴びる。歯ブラシや整髪剤をスーツケースに詰め込み出発だ。フロントにタクシーを呼んでもらう。

「タクシーは2分でやってきます」 とフロントマン。

ベンツのタクシーは確かに2分でやってきた。スーツケースをトランクに押し込み車に乗り込む。

「ミラノ・チェントラル・スタチオーネ・プレファボーレ!」 と俺。

「マルペンサ空港ならカドーナ駅だよ」

「いや、これからユーロスターでフィレンツェへ向かうから中央駅へいってくれますか」と、英語に切り替え話す。  

夜が明けようとする薄暗青色の空の下、スカラ座を横切りながら右手の建物の隙間よりドゥオモが見えた。天空に貫いた塔の先にはまだ明かりが灯り、夜明けの空との調和は何とも崇高なる絵になっていた。

ミラノ駅の混雑したBARで、ハムが入ったパンとカプチーノを頼み、他の人に混じりながらカウンターでそれを立ち食いする。

ユーロスターからの車窓、もうここには春が宿っているようだ。

フィレンツェのサンタマリア・ノヴェラ駅には、約束通りレオナルドが首を長くして待っていてくれた。久しぶりの再会である。

彼のカローラでフィレンツェ郊外のMEINI社工房へ向かう。途中、オリーブ畑の丘を越え、点々と在るアグリツーリスモを抜けていく。アグリツーリスモとは農園ペンションといったところか。約一週間、住み込み、そこのオーナーたちと農園で働きながら、そこで採れる農作物を食し暮らす場所である。ゆっくりと時間があれば、そんな生活も悪くないかもしれない。遠くの山々には残雪が見受けられた。

工房に到着し、メイニ氏とロレンツォに再会。とても元気そうで何よりである。2006年春のアリカコレクションに向けての打ち合わせを行う。

昼は町の食堂のようなところで4人、飯を食う。トスカーナ地方の典型と云われたズッパ(スープ)を楽しむ。なかなか美味である。

はやい夕方、メイニ氏の家に招待を受け、家族と6人で食事をごちそうになる。デカイ犬・パコが飛びついてくる。3センチにも満たない短い尻尾を最大限に振っている。

温かい家庭がここにも存在する。パコも堂々その一員である。楽しみにしていたマッシュルームのスープとラザニアを頂く。とても美味しい。俺がビール好きだと伝えてくれていたのだろう。メイニ婦人がイタリアのビールを俺のテーブルに用意してくれている。

温かい家庭がここにも存在する。

午後8時になると、もう俺の体が動かなくなる。時差ぼけにやられている。それを気遣い、早めにロレンツォが俺をホテルに送ってくれた。

部屋に戻り、冷蔵庫からビールを取り出し、栓を抜いた。カバンの奥から寂しさを紛らわせるべく薬であるセブンスターを一本抜き、ゆっくりと肺に流し込んだ。


7-3-2006:

朝6時、自然と目が覚める。

外はまだ暗いが、Gパンとシャツを着込み散歩に出かけた。ここからポンテヴェッキオ(ヴェッキオ橋)まで、片道約1キロの道のり。外はキリリとした空気、手がかじかむ程寒い。きっと氷点くらいであろう。ロマーネ通をまっすぐ歩けばポンテヴェッキオである。途中、右手にはピッティ宮殿が現れる。ちょうど空がわずかにオレンジがかる頃、俺はポンテヴェッキオの橋の上についた。橋にいるのは俺一人だ。かのポンテヴェッキオを俺は今、占領しているという満足感。やっぱり来てよかったと一眼レフで数枚写真を撮った。

「きっと今の気持ちは写真には写らないだろうな」 いつもと同じようなことを考えながらシャッターを切る。

ホテルに戻り、朝食をしっかり摂った後、シャワーを浴びてから散歩帰りに購入した絵葉書を書いた。

午前9時半になったので外出することにした。てくてく歩いてLEGEMへ向かうも取り立てて購入するような魅力的なものはなく、ラピスのきれいなネックレスを2本とサンゴの枝を求める。サンゴはフィレンツェの名工・ジョバンニ・マネッティ氏にブローチを作ってもらうために購入することにした。

その後、マネッティ氏の工房へ向かうが、先客が2人ほどおり少しバタバタしていたので明朝10時の再訪を伝えホテルへの帰路についた。帰り道、ワインを売る店を発見、今夜部屋で赤ワインを飲もうとトスカーナワインであるキャンティを求めた。2003年物、約900円也。部屋に戻り冷蔵庫に入れておく。

俺はキンキンに冷えた赤ワインが好きなのだ。

昼12時過ぎ、迎えに来てくれたレオナルドの車でまたメイニ社工房へ。レオナルドが頼まれていた香水・エンジェルを見つけてきてくれた。深く感謝。デザイン画に関して打ち合わせ、近所のピッツァリアにてピザを食べる。俺はカプリチョーザを頼んだ。この店のピザ生地は極端に薄い。これがここの自慢のようだが俺は実は厚いほうが好きだ。ここは黙って食すことにする。

その後、近くにグッチやフェラガモのアウトレットがあるというので連れて行ってもらった。

俺はシャツとネクタイ、嫁はメールで財布が欲しいと云われていたのだが、残念ながら数が少なすぎる。安いのかどうか知らないが妥協して買うのは止める事にする。気に入るものをどこかで求めようと思う。

又、イタリア国内の携帯がプリペイド方式であるらしいので、もし一度にある程度の支払いをして使えるのであればと携帯ショップへ行ってみたのだが、少なくとも11ヶ月に一度は使用しなくても追い金をしなければいけないとの話、面倒くさそうなのでやめにした。

夕方になると未だ眠くなってくる。あくびが出る。やはり俺は時差に弱い。

とても良くしてくれるメイニ氏、レオナルド、そしてロレンツォ。彼らのためにも来る春の催事は必ず良い結果を作らなければいけないと思う。

夜、彼らとフィレンツェで有名なワイナリーへ行き、2002年のキャンティを飲みながら彼らの頼んでくれたハムやポークを食べた。疲れていると酔いが回るのも早い。すぐに顔が赤くなった。

ホテルの前で別れの挨拶、そして部屋に戻る。荷が重く、ミラノに持っていけそうにない今朝入手した赤ワイン、折角なので少しでもとコルクを抜いた。

かつて読んだ沢木耕太郎著の『深夜特急』に、彼が旅し訪れる町でワインを買い込み部屋で飲んだと書かれていたことを思い出した。

「俺も同じようなことをしているな。」

もう酔って味もわからない。ボトル1/4程を飲んでセブンスターを数本吸ってベッドに入った。その後の記憶はない。

目が覚めて時計を見る。午前2時。またこんな時間に起きてしまう。仕方がないので、日本に電話した後、残りのワインを飲み始める。結局、この夜、俺はほとんどのワインを空けてしまい、翌朝8時半まで爆睡してしまう羽目となった。


8-3-2006:

目が覚めると午前8時半、酒が体に残っている。しかし起きなければとシャワーに向かう。

ジョバンニ・マネッティー氏の工房に約束の10時を少し過ぎて訪れた。

ジョバンニと折衝している途中、上品な貴婦人が指輪のサイズ直しにやってきた。 ジョバンニととても親しい様子で、話の流れで俺も会話に交わり名刺を渡した。この女性が帰りしばらくしてジョバンニが一言、

「彼女がミセス・フェラガモだよ。」

「えっ!」 

もっとはやく言って欲しかった。

ジョバンニに昼食を誘われたが、昼ロレンツォから加工した商品を受け取る事になっていたので丁重に断り店を出た。ぶらぶら歩く中、ふと立ち止まったポリーニの店になかなか格好の良い財布を見つけたので嫁さんへの土産にすることにした。たぶんこれは気に入ってもらえるであろう。そして俺は小銭入れを購入した(帰国後すぐに紛失)。

今日は天気が良い。空が青く空気が澄んでいる。歩いているだけで心地が良い。

ロレンツォに送ってもらいサンタマリア・ノヴェラ駅に着くとちょうどすぐミラノ行きのユーロスターが出発する直前であった。これを逃せばまた一時間待たなければいけない。腹が減ってはいたが待つのは嫌なので、とてつもなく長いプラットホームを必死になりながら重いスーツケースを押し押し、なんとかそれに飛び乗った。

チケットを切りにきた女性の車掌の緑のブレザーの右袖の金ボタンが外れている。

きづいていないのであろうか・・・。

きにしていないのだろうか・・・。

トスカーナの山々を車窓に列車は走る。車内レストランで、車窓からこの景色を見ながらランチを食べるのも悪くないと思い、レストランのコーチへ行ってみたが満席であった。残念である。仕方がないので座席に戻り本を読むことにした。

ミラノに戻り、いつもの定宿に入った後、スーパーマーケットへ向かい、赤ワインとハイネケン、そしてプチトマトを購入した。ホテルでお湯をもらい日本から持参したサッポロ一番カップラーメンを食べる。

その後、インターネットカフェに行きメールを確認する。弟から現在開催中の青森百貨店でのフェアの報告があった。激励した後、こちらのフィレンツェでの状況を伝えた。しばらくネットサーフィンした後、日本食レストラン・日光へ向かったのだが、そこは寿司レストラン・YOKOHAMAに変わっていた。迷わず入店する。

恐らく日本食と称し、経営は華僑あたりがやっているのであろう日本食らしからぬ日本食、切望していたトンカツは寿司レストランにはやはりなかった。キリンビール大2本とはるまきと牛肉のテリヤキを頼んだ。店内は薄暗く、どちらかといえばBARの雰囲気。アップビートな音響が鬱陶しい。かなり待たされてやってきたエセ日本食を、すばやくたいらげ、これでもかと22ユーロを払い、店を出た。

部屋に戻り、赤ワインをボトル半分飲んでぐっすり眠った。毎晩当たり前のように煙草を吸うようになっている。

部屋の浴槽で下着を洗濯した。


9-3-2006:

朝5時半に目が覚めた。

そのままベッドで日本から持参した馳星周・著の長恨歌を読みながら陽が上がるのを待つ。不夜城の完結編となる小説である。なかなかドラスティックに面白かった。

朝食を摂って部屋に戻ると隣の部屋からだろうか、ホテルカリフォルニアが聴こえてくる。今の俺には悪くない曲である。

今日一日でFARO社とSONGA社を廻った。GIMOR社の下にある店でシャツ2枚とネクタイを購入する。ピンクのシャツに合うネクタイは店のスタッフのお勧めのものにした。

ドゥオモ大聖堂に向かう。中に入り祈りの席に着く。いつものように厳格なる静寂の中にしばらく身を委ねる。毎回出張の際、時間を見て俺はここにやってくることにしている。

今の自分を見つめる時間。考えるべきことは考え、反省すべきことは反省し、修正できることは修正する時間。

夕暮れの少し前、スカラ座の脇を抜けブレラ美術館の横にあるイタリアでは名のあるブランドの宝石サロンへ行ってみた。久しぶりにそこのエマニュエルと話す。相変わらず彼の心は読めない。彼らのジュエリーは面白いと思うのだが、日本人にはちと大きすぎるのである。サンプルを購入しても良いと思ったのだが価格が合わずやめにした。

本日、香港国際宝飾展から帰国したアントニオと午後7時にホテルで落ち合い、モンテナポレオーネ通のお気に入りのイタリアンレストラン・ペッパームーンへ晩飯を食べに行く。香港国際宝飾展の状況を聞きながら、最高のボンゴレ・スパゲッティとローストビーフのスピナッチ和えをご馳走になる。やはり最高に美味い。このためにミラノに来ているといってももう過言ではないくらい毎回食べている。

香港国際宝飾展では、たくさんの日本人一般客が来ていたとの話、主催者側は何も考えず来場者だけを増やす事のみに執着しているので一般客が商社と並んで入れるようになってしまっている。こうなれば我々輸入元にとっては全く魅力のない展示会となる。まあすでに香港やBKK辺りの宝飾展にてなにかを探求できるとは、はなから思っていない。

「あそこはジュエリーではなく裸石(ルース)を求める場所だよ」 アントニオはそう語った。


10-3-2006:

ミラノの春らしい一日。今回の旅で最も気合の入った一日となった。

朝8時半よりGIMOR社にて仕入れを開始し、4月催事の準備打ち合わせを行う。毎度ながらジュエリーの仕入れとは本当に目が疲れる。集中して商材を見なければいけないからである。

昼、この旅で未だ食べていなかったトマトとバジルのスパゲッティーを歴史あるドゥオモ脇のレストランで食べ、ビールを飲んだ。VALENZAよりDIRCE REPPOSI社のヴィクトリアがホテルにやってくる。部屋で新しい製品を見せてもらうが、とりたてて心が揺れるものはなかった。2005-2006のイタリアデザイン大賞を獲ったタヒチ真珠の指輪と売れそうなネックレスを数点だけオーダーした。これらはさすがに良いデザインだと思う。

午後4時、今回ミラノで最も期待していたHASBANI社へ訪問。オーナーのハスバーニ氏も香港から戻ったばかり。今秋のアリカコレクションへの参加を提案した。彼らユダヤ人のネットワークはすごい。世界中に張り巡らされているようだ。日本市場への商いも前向きに検討しており、今回より俺はD/A at 60days(入荷60日後送金)という信用取引にて仕入れを可能にさせた。

彼の商材は正直、最も魅力あるハイレンジなジュエリーである。アリカの求めるところにマッチしておりバランスも良いと思う。

「こいつらに負けない貿易屋になりたいな」 俺は内心、そう思った。

夜はひとり普段行かない中華料理を食べに行った。色々注文したが全てはずれだった。好奇心で目新しい物をオーダーするのでなく、オーソドックスなチャーハンとか麻婆豆腐とかにしとけばよかった・・・。

部屋に戻り荷をまとめた。明日から楽しみであるプラハである。赤ワインとビールを飲んで早々にベッドに入った。


11-3-2006:

午前5時半のモーニングコールで起床、すばやくシャワーを浴びてマルペンサ空港へ向かった。空港内のアリタリア航空ラウンジにて、深くもぐるソファーに身を投げ出すと少し寝てしまう。

午前11時すぎ、プラハ空港の到着口にて金坂と再会した。長髪に髭を生やし風貌こそ昔と違えど、目の前には全くあの頃の金坂がいた。到着ロビーで交えた固い握手、この感覚を忘れてはならない。15年以上ぶりの再会である。それも遠い異国の地プラハにて。誰がこの状況を予期できたであろうか。

空港より彼の車で彼の家に向かう。そこでは金坂の奥さんと愛犬シャキールが歓迎してくれた。

「お昼ご飯をどうぞ!」 と奥さん。温かい部屋。和食を用意してくれている。異国の地に居ながら日本の空間がそこにはあった。全てがとても温かい。

「この温かい空間があるからこそ、きっと金坂も5年以上もここで生活できたのであろうな」 と、出してくれた日本茶を飲みながら俺は思った。

早速、日本から持参した和食材と俺が作ったCDをプレゼントした。そのCDの1曲目、こぶくろの『ここにしか咲かない花』を聴きながら、リビングで話す。机の上にはプラハのガイドブックとアンティークショップ所在のメモ書きがあった。金坂は俺が来る前から俺の為に観光するコースや、俺が気になるであろうアンティークショップを調べていてくれたのだ。

こんな15年以上も連絡さへしていなかった俺に対する金坂の至れり尽くせりの優しさを前に、感謝の気持ちを、うまく言葉で伝えられずにいる自分がそこにいた。

せちがなく自分なりだが生きてきた37年間、今月で38歳になる俺。ずっと遠くに置き忘れてきたものが部屋の隅から出てきたような感覚。

さりげない金坂の気遣いは昔と全然変わっていない。つっぱるが根は丸い金坂、昔と全然変わっていない。自分の事を「ワシ」という金坂、全然変わっていない。

こんな遠く5年前、金坂が着任した当時、200人ほどの日本人しか居なかったらしいここプラハにて、俺はずっと忘れていた最も大切なものを思い出せた気がした。昔、少しずつ少しずつ築き上げてきた友情、あの頃の友情、20年近く前に在ったたくさんの友情をおざなりにしてはならないと心底思った。

金坂と二人、タクシーでプラハ城付近よりカレル橋を渡り観光する。

奥さんが用意してくれた2本の黒い折り畳み傘。それを手に手に二人で石畳を歩いた。学生時代もこうやって二人並んで歩いたはずである。そういうことを忘れてはならない。

カレル橋たもとのアンティークショップで古マイセンのひな鳥の置物に目がとまった。とても気になる。明日また来ようと思った。


プラハの街は街全体が世界遺産に登録されるほど美しい。


建築物はその建築中、またリフォームの過程の中、1000年以上の時の流れに飲み込まれ、それぞれにバロック様式、ロマネスク様式、そしてゴシック様式が混在してひとつの建物になっている。『百塔の町』と云われるだけあり、天空にそびえる塔がたくさん存在する。俺にとっても初めての中・東欧の旅だからか、これまで訪れた他のヨーロッパ都市とは全く異なる印象を覚える。かのハプスブルグ家の栄枯盛衰がうかがい知れる。そしてほんの僅かだが近い昔の共産圏の色が残っているようにも思える。スラブ系民族の血であろう、女性はブロンズでブルーアイの人が多くとても美しい。

雨が降り始める。

かなり町を歩いた後、地下鉄とバスを乗り継ぎ金阪の自宅へ俺たちは戻った。

夜、お酒が飲めない奥さんとシャキールを家に残し、二人でチェコ最古のビアホールへ向かった。なんと創業は1499年である。500年以上も毎晩、毎晩人々がビールを飲んできた場所に俺たちはやってきている。考えるだけですごいと思う。ここで毎晩である。500年以上毎晩である。創業した人はそれを想像できたであろうか。

チェコは世界一のビールを愛する国民である。その摂取量は日本人の3倍以上であり、隣国ドイツをも凌ぐ。

俺たちが訪れたそのビアホールは黒ビール一筋500年って感じである。なんとこのビールはアルコール度数12度というワイン並みの自家製ビールなのである。

店は俺が思っていた通りのドイツ的ビアホールであった。長いテーブルに連なる長い腰掛けに人々は鈴なりに座りビールを楽しむ。かなりの数のジョッキを片手のお盆に乗せた黒いチョッキのニイチャンが人々の間を歩き回る。そして空いたビールジョッキを見つけると、問答無用にドシンと新しい黒ビールジョッキを置き捨て、無言で空いたのを回収していく。それぞれの客のところに無造作に置かれた手で破いたようなメモに、日本的に云えば『正』と書き記していくかのように飲んだジョッキ数を乱暴にメモしていく。これが会計の時のビルとなる。

人々は大声で笑い、歌い、アコーデオン弾きとホルン吹きが人々の間を演奏して廻る。騒然として大変な状態になっている。

俺たちが日本人であることを知った演奏家二人は、突然、『上を向いて歩こう』と『知床慕情』を披露してくれた。

「なんでそんなん知ってるの?」 って感じである。


店を出て、上を向き歩きはじめる頃、雨が雪に変わり舞い降りてくる。

その後もクラブへ行き、ビールを飲み続け、積もる話を楽しんだ。

ホテルの部屋に戻り、時計を見たら午前2時半だった。ビアホールに全くもって不似合いだったスーツを脱ぎ、パンツとシャツになる。今朝マルペンサ空港でそうした様にソファーに深くもたれながら、マルボロに火をつけ一服する。そして俺は今夜最後のビールを冷蔵庫から取り出した。


金坂よ、ありがとう。


12-3-2006:

朝、部屋のカーテンを開けるとそこは銀世界であった。そして今なお、粉雪は止まることなく窓を右から左へ流れていく。一晩で50センチ近く積もったみたいである。今日は一日止みそうにないようだ。灰色の空から容易に想像ができる。

昼前に金坂がやってきた。二人で市民会館へ。そこは現在も毎年、『プラハの春音楽祭』が開催されているアールヌーヴォー期の建物である。レストランはなにやら映画撮影に使用されているらしく入れないので反対側のカフェでランチをする。もちろん最高のピルソナービールを忘れてはいない。

街に出てカレル橋を昨日と逆方向から渡り、昨日のアンティークショップへ向かう。

雪がしんしんと降り続き寒くてどうしようもない。氷点下3度くらいか。金坂には大した事ないらしいが、イタリアよりやってきた俺には大した事であった。

値引き交渉して俺は結局、昨日見た1910年製のマイセンのひな鳥の置物とアールヌーヴォー期ドイツ製の銀彩の食前酒デキャンタとグラスセット(銀のトレイ付)をゲットした。素直にうれしい。

しかしうすうす感じていたのだが、どうしてこの国で働く人々はそんなに愛想が悪いのだろうかと思った。特に女性スタッフにそれを感じる。ホテルのレストランでもそうである。これはきって歴史的背景によるものであろうが、日本では絶対通用しないレベルである。なぜかこちらも不機嫌になってしまう。

チビらへの土産をと、金坂と色々廻るもこれはと思うものはなく、結局買わずじまいとなってしまった。

夕方、金坂の自宅へ戻ると、奥さんの手料理で夕食を用意してくれていた。愛犬シャキールも仲良くしてくれる。俺のため、金坂夫妻は午前中にスーパーへ行き和食材といろんな種類のビールをそろえてくれていた。
「ビールの飲み比べ!」 と金坂は笑う。本当に心から感謝する。

食後、金坂のPCより俺の写真部や、箕面高校同級生のサイトに二人で書き込む。写真を貼り付ける。到底今の俺の気持ちが読む人に届くわけがないとわかりつつも、「少しでも届け!」と思い書き込んだ。
明朝のホテルより空港へのタクシーを金坂に手配してもらった後、俺は金坂家族にホテルまで送ってもらった。ほんのわずかな、たった二日間の出来事であったが、俺がここで得た温かさは幾年たっても忘れられないものとなろう。


翌朝、朝食へ出て部屋に戻ると、俺より一足早いフライトにてスロバキアへ発つ金坂よりメッセージが残っていた。

「昨日はどうもありがとう。気をつけて帰ってください」 

「おいおい、それは俺のセリフやろ!」 俺は一人ぼやいた。


スーツケースに鍵をかけ、溢れんばかりの感謝と満足が俺の心に刻み込まれた事をもう一度確認し、それにもしっかり鍵をかけてから、俺はゆっくりと帰路についた。

人生、『永遠の旅人』を目指す俺だが、こんな旅をこれからも続けていけたらいいなと心底思えた。


金坂よ、本当にありがとう。





2004年初夏 ・ ポルトガル放浪記 『 想い出の立ち食いリスボンバーガー 』

2018年08月30日 | 旅三昧!釣り三昧!
2004年初夏・ポルトガル訪問記


2004年6月11日正午過ぎ、予定より30分遅れのポルトガル航空TO809便はミラノ・マルペンサ空港より多くの西洋人と、そして一人の東洋人を乗せて、リスボンへ飛び立った。

これからの2日間、2年ぶりに訪れるポルトガル・リスボンにて貴重な時間を過ごすことになっている。

新たな何かに出会うというワクワクした感覚と、孤独であるというシンシンと心を刺す感覚が混在している。

離陸後しばらく、スチュワートがバケットに入った昼食を配る。中には、パックのサラダとポークをはさんだサンドイッチ。ここ一週間、日本を離れバンコクよりイタリアへと廻り、ビタミンが取れていないのか口内炎がいくつもできて、かなり痛い。
トマトと大きくて大味な胡瓜を口に放り込む。さして腹が減っているわけでもなかったが、サンドイッチを手で千切り、口に放り込む。

「・・・」

記憶の中より何かが泡立つ。何かが僕の脳裏をノックする。更に一口放り込む。

「・・・!!」

そうだ!この味は、前にリスボンの街並みを一人歩いていた際に、ふと目に付いたBAR(バル)にて、街のおっさん達がカウンターに立ち並び食べていたサンドイッチ。旨そうなので釣られて入り、身振り手振りでそれを頼み、隣のオッサンに勧められるままチューブ入りのマスタードをたっぷりと挟んだポークに練りこんでかぶりついたあの味。

懐かしい記憶が甦る。そういう時、僕の場合、なぜか必ず鼻の先辺りがツンツンと痛むのである。

ずっと昔、泣いた後に感じた感覚。


『SAGRAS』というポルトガルの缶ビールを飲む。どういう風にこの味を表現できる?

濃い味。重い味。深い味。長く寝かせた味。


イベリア半島を横切り、飛行機はユーラシア大陸を西へ、西へ向かう。イベリア半島はとても茶色い。

リスボンの空港を出た所に僕を待ち受けていたものは、タクシーの為の長蛇の列であった。明日からサッカーのヨーロピアンチャンピオンシップス「EURO2004」がここポルトガルにて開催されるためだ。人々は、かつて日韓ワールドカップの時に見覚えあるカラフルな、それぞれの国のユニフォームを着ている。スーツを着ているのは僕ぐらいなものだ。長蛇の列をテレビカメラが廻っている。恐らく夕方のニュースにでも空港の混雑ぶりが出るのであろう。

「こんな所で顔がテレビに出ても誰も観てくれないな」

人々は朗らかで話す声も大きい。もうフェスティバルは始まっているようだ。

結局、30分近く並んでようやく僕の順番になった。ホテル・ムンディアルへと頼んだ後、早速、ドライバーとサッカーの話で花が咲いた。

「今回は、イタリアの知人に聞いたんだけど、ポルトガルは強いらしいね。どうなの?」

他のヨーロッパ人同様、愛国心高そうなこのドライバーは嬉しそうに答えた。

「そうだね。サッカーは試合が始まらないとどうなるかわからないけどね。ただ、決勝リーグには出れるんじゃないかなぁ」

第一リーグにはどの国と組まれているのか聞いてみた。

「ポルトガルのリーグは、スペインとギリシャとロシアだよ。順当に行けば、スペインとポルトガルだろうね」

「ポルトガルにはフィーゴやルイ・コスタもいるね。他にはやっぱりフランスが強いって聞いたけど」

「フランスも強いし、イタリアも強いよ。でも僕はイングランドも有力だと思っているんだ」

ドライバーはそう答えた。

乗車中、ずっと楽しく話していた事が幸いしたか、ドライバーはタクシー代をまけてくれた。そして最後に一言。

「リスボンでの素敵な時間を送ってください」

海外訪問の際、現地でのこういう風な始まりだしは、とても気持ちが良い。心から彼に感謝する。


ホテルにチェックイン後、暑くて嫌だったが、一応、外見は大切と思い、ネクタイをはめ直し、メインとなる取引先へ向かった。そこはリスボンの中心、バイシャ地区の目抜き通りに在る。個人的にはこれまで面識はなかったが、オーナーのトレス氏が待っていてくれた。この人、身長190センチはあるだろうか、茶色い口ひげをくるりんとカールさせているのが特徴的だった。如何にも金持ちといった風貌である。スーツで来たのは正解であった。ヨーロッパで我々の商材を商う場合、きちんとした身なりをしていないと、商品を見せてもらえないどころか、店に入れてもらえない事も有り得るのだ。

今回のポルトガル訪問の目的は、ポルトガルで製作されたアンティーク及びアンティーク調ジュエリーを探求する事にある。モダンな物は、イタリアの方が数段優れており、ポルトガルでの購入は不要なのだ。但し、現地にて昔ながらにハンドメイドで作られているジュエリーは、19金という通常より金の純度の高い地金を用いており、また、エナメル等を用い、独特な味あるものなのである。ほとんどこれまで、日本市場にまだ広まっていないものなのである。

商談後、一度ホテルに戻り、軽装に着替えた後、バイシャ地区を歩き回った。

バイシャ地区の中心であるロッシオ広場には、たくさんの人々が集まり、日光浴を楽しみながら、道にはみ出すぎているオープンデッキに腰掛け、恐ろしく大きなジョッキでビールを飲んでいる。

ヨーロッパで唯一、『侘び寂び』がわかる国民と云われるポルトガル人。

「サウダージ」という過ぎ去った過去を懐かしむ心を持つ人々の街。その建物にも石畳にも、道端で佇む乞食の手にするアコーディオンから奏でる物哀しい音色にも、これまで訪れたヨーロッパの他の街とは違う何かがある。僕には、その街並みとビールを呑みながらはしゃいでいる人々の喧騒とのギャップが、それはそれでなかなか良いものだと感じていた。

しばらくふらつくと、一つのことに気づいた。

オープンデッキでビールを飲む人々の多くが、ジョッキを手にしながら、皿に山積みにされた小さな巻貝のようなものを、爪楊枝で穿り出しながら美味そうに食べているのだ。8割近いテーブルの上には、その食べつくされた巻貝の殻が皿に山盛りに積まれている。

「バイ貝の一種であろうか・・・」

歩き回り、程よくのどの渇いた僕は、口ひげにギョロ目の愛想の良い呼び込みのオッサンの誘いに応じ、オープンデッキの一角に腰を下ろして、斜め向こうのテーブルを指差し言った。

「生ビールとあの巻貝みたいなの頼むよ」

「生ビールとエスカルゴね。わかりました」

「えっ! エスカルゴ・・・!」

あのみんなが美味そうに食べている巻貝はカタツムリだったのか。

僕は今まで、食べたことはないけど、よく高級フランス料理に出てくる事とかを思い出しながら、ビールを飲みのみしばらく待った。

それは、やはり皿に山積みにされて、予想通り、ドカンと僕のテーブルに置かれたのであった。よく見ると、紛れもなく、それはカタツムリであり、中にはあのニョロっとした目玉を出している奴もいる。えいやっと、爪楊枝を突き刺し、引っ張り出してみると身は簡単に出てくる。

食べてみる。

複雑な味。これまでに食べたことのない味。少ししょっぱい淡水の味。

「たしかナメクジとかカタツムリは塩をかけると溶けてしまうはずなのに、どうしてしょっぱい味なのかなぁ。元々の味なのかなぁ。歯ごたえないなぁ・・・」

結局、ひ弱な僕は6コ、カタツムリを食べたところで、さっきのチョビ髭ギョロ目オッサンを呼び出し、小さな声で、アサリの蒸したものと交換してもらったのであった。

その後、歩いているとついに発見した!

あの以前に訪れた、煮込んだポークをパンに挟んで出す立ち食い店があったのだ。

もちろん飛び込んだ。

相変わらず店の雰囲気は全然変わっていなかった。とりあえず生ビールを頼む。店の入口横がガラス張りになっており、そこに3つのフライパンを少し底深くした鍋、その中にはタレだかポークから出た油だか判別がつかないくらいの煮汁が沸騰している。

まず男は、生肉を左側の鍋に放り込む。約5分後、その肉を真ん中の鍋に移す。右の鍋は今使っていないようである。真ん中の鍋は味付け用なのだろうか。わからない。

身振り手振りで、昔と同じようにオーダーすると、男は鍋の横に積まれているパンを一つ掴み、真ん中の鍋からポークをグイっと挟んで、「はいどうぞ!」という感じ。

オーダーから20秒かからない。

早速、備え付けのマスタードをたっぷりとポークになすりつけ、かぶりつく。

「めちゃくちゃうめー!」ひとりで唸った。

僕は結局、この店には、滞在中の二日とも顔を出したのであった。

この時期のヨーロッパの夜は長い。夜九時頃までは街は明るく、気の向くままにブラブラと歩いた。


翌日も早く起き、ホテルで朝食を取った後、街を歩いた。歩きながら気になる店に飛び込む。これも市場調査、大切な仕事なのである。

昼ごろまできちんと働いた後、グルベンキン美術館へタクシーで向かった。ここには、アールデコ期のガラス作家であるルネ・ラリックの芸術品が保管されているのである。これで二回目の訪問となるのだが、歴史ある芸術は何度見ても、そのものが僕が生まれる以前にどんな風に、どんな状況で作られたか想像するだけでも楽しい。心が膨らむ。

僕が生を受けてから今に至るまで36年間など、これらの芸術品を考えると、ほんのわずかのピリオドに過ぎない。

夕方、店先にイワシを並べるレストランを見つけ、中に入った。

今夜の夕食はイワシの塩焼きである。皿には大きめのイワシが5匹乗って出てくる。これにビネガーとオリーブ油をかけて食べる。

「いわゆる南蛮漬けってこの事なのかなぁ」などと思いながら一人食べる。なかなかいける。

テレビではヨーロッパチャンピオンシップの開幕第一戦であるポルトガル対ギリシャが始まった。

前半はこのレストランで、そして後半はホテルの部屋で、買っておいたチェリーを食べながら観賞した。結果はポルトガルが2対0で負けるという予想に反した事態に。素人ながらにもポルトガルのディフェンスに問題があるような気がした。かのフィーゴも年齢的衰えは逆らえないのか、後半はあまり画面に映らなくなった。


どうしても欲しかった僕の応援するイタリアの青のTシャツを手に入れた。

短い滞在中にイタリアの試合を直に応援することは出来なかったが、通常であれば決勝トーナメントに残るであろう実力、帰路のバンコクではこのTシャツを着て、テレビにて応援しようと思った。(イタリアはその後、残念ながら予選落ちすることになる。ギリシャがチャンピオンになる。サッカーとは分からないものだ。)

リスボンは本当に心和む街であった。ここであれば生活してみたいと思える街である。


翌朝、日が昇る前にタクシーに乗り込み空港へ向かった。




2004年 進め海外へ第一弾! 『 スーツケースをロストの巻 』

2018年08月30日 | 旅三昧!釣り三昧!
2004年進め海外へ第一弾  

2004年1月5日、巷は正月明けのその日、僕は堺の嫁さんの実家を午前七時に出発し、南海電鉄関西空港行特急ラピートに乗り込んだ。今回の出張は、東南アジアよりヨーロッパまで同時に行ってしまおうという今までに経験した事のないスケジュールでの決行となった。

急な航空券手配にて、恐ろしく混んでいるこの時期のフライトの中、僕はどうにか香港経由でバンコクへ入る往復チケットを手にしていた。バンコク以降のフライトは、バンコクに住む親友サミーに既に依頼済みである。

今回はまた、大阪に住む竹馬の友である藤井とその家族もこの日、バンコクへ家族旅行でやってくることになっており、久し振りに高揚している自分自身がわかった。

関空に着き、僕の出発約一時間後の直行便に乗る藤井の携帯へ電話を入れると、

「コップンクラップ!」との浮ついた声。彼の心中はすでにタイに入国している様であった。

現地時間の午後七時に僕の今回の滞在先であるスクインビット通り、アンバサダーホテルのロビーにて待ち合わせる事を確認し、僕はすたすたと香港行のキャセイ航空に乗り込んだ。

香港の空港では、わずか一時間のトランジットにて、入国し久し振りにその街の空気を肌で味わう事は出来なかったが、数年前に移転新築されたこの空港は、関空に負けないくらいきれいであった。

やはり中国である。

ゲートの行き先表示は漢字であった。ちなみにバンコクは「曼谷」と書かれてあった。読めない事もない。

一路、香港よりバンコクへ。約三時間のフライトである。少しずつ暑い国、暑い国へと向かっている。出国の際に着ていた冬のスーツ、カシミアのコート、マフラーがひどく邪魔になってきている。到着したバンコクは35℃であった。

さて、いつもの場所で、いつもの通り両替をし、するりと乗り込もうとしたタクシー乗り場には、なんと長蛇の列ができているではないか。これまで数多く、やって来たこの空港だが、こんなのは初めてである。念のため、そこに並んでいる西欧人らしきオジサンに聞いてみると、やはりタクシー待ちの列であった。

暑い中、タクシーを待つ事30分程。背中に汗が伝うのがわかる。気候の変化に体も驚いているようだ。

相変わらずのオンボロタクシーに乗り込み、どうにかこうにかアンバサダーホテルへチェックインした。するとフロントより「メッセージが届いています」と封筒を渡された。何かと思い、開けてみると、それは二日程前にここに滞在していたサラリーマン時代の同僚、久米とその彼女からのメッセージであった。

封筒には20バーツ紙幣(60円相当)と伴に、

「あけましておめでとう。これで美味い物でも食べてください。よい仕事が出来ますように!」

と書かれた見覚えある久米の字のメッセージが入っていた。そしてなぜかホモ専用のマッサージサロンのチラシが同封されていた。

この計らいにはフロント前で一人笑ってしまった。フロントマンは怪訝そうな顔をして僕を見ていた。

その日の夜のタイ料理はとても満足できるものであった。藤井と嫁さん、チビ1号、まだ赤ん坊の2号、サミー、サミーの嫁さんのリンゴ、そして僕達が出向いたのは、アンバサダーホテルの真正面に新しく出来たばかりのタイレストランであった。

こちらの仏教徒は牛肉を食べない。そんなサミーとリンゴに合わせオーダーをした。勿論、例のトムヤムクンと春雨の辛いサラダは忘れずに頼んだ。望んでいた通りの夕食だ。

サミーとリンゴに感謝、感謝である。

その後、女・子供をホテルへ戻し帰し、男たちはタニヤ通りのナイトクラブへ出陣したのであった。

しかし、さすがに時差と疲れで、眠くてたまらず短い時間で退陣し、午前零時にはすでに夢の中にいたのであった。



何故か翌朝は午前六時半に自然と目が醒めた。二度寝しようと試みたが寝れそうにないので、そのままシャワーを浴びて起きてしまうことにした。

午前七時、朝食を取りにホテルのレストランへ向かう。酒にやられた胃袋へは、ビュッフェのお粥がとても良いのであった。

仕入先へ向かうため、午前八時半にホテルを出発し、スカイトレインに乗るべく、ナナ駅へ向かった。

この時間は、会社勤めの人々が多い時間である。OL達が、雑誌や新聞を手に職場に向かっている。昔はバンコクでは見られなかった光景である。

プラットホームにぽつりと立っていると、スーツ姿のかなり美形の女性が、向こうから歩いてくるのに目が止まってしまった。相手も僕から目を離さない。

その間、数秒。

僕は気に入られたのだろうか。

僕から付かず離れず、列車の中でも半径2メートルの距離でちらちらとこちらを意識しているのがわかる。サイヤム駅で乗り換えた列車でもそうである。

タイ女性から声をかけてくる事はまずありえないと知っていたので、僕から声をかけようかとも思ったのだが、いやいや自分はそんなことをしている立場ではないと思い思い、少し残念だがあきらめる事にしてその場から離れた。

そんな浮いた出来事も、仕事に入るとあっという間に忘れて、ガンガンと仕入れに力を注いだのであった。

午後二時以降はホテルへ戻り、タイに住む昔からの友人達に電話し、近況を伝え合った。

同じ業界の友人であるボラサクは、彼女とうまくいっていないとの事。日商岩井に勤めるピムへは、短期滞在にて、挨拶できない非礼を詫びた。みんな揃って良い声をしていることがわかり、元気そうで何よりであった。

その後、出発前より楽しみにしていたタイマッサージへ、Tシャツと短パン、サミーにもらったサンダルで出かけた。久し振りのタイマッサージは、一時間400バーツ(1200円)。これは充分にその価値があるものであった。

そして夜は日本でも有名なレストラン「コカ」へタイスキを食べに行った。ここのタイスキの特徴は、なんとタイスキのスープに、トムヤンクンを使ってしまうというアイディアなのである。そしてこれがまた驚くほど美味いのである。至極の時である。辛い。美味い。ビールが進む。笑顔が絶えない。

やはり、この晩も男どもは飲みにいき、午前零時頃には部屋に戻ったのだが、僕は何故かとても飲み足らず、眠れそうにないので、一人初めて、ナナ・プラザというホテル近場の、そしてかなり怪しめの飲み屋街へ足を運んだのであった。そこはやはりやばかった。店に入ると、真中にステージがあり、そこではビキニ姿の女の子達がくねくねと踊っていた。それを見ながらビールをグビグビと飲んでいると、ビキニ娘の一人が、勝手に膝の上に座って話し掛けてくるのである。無視しつづけると、しばらくして行ってしまうが、すぐ違うビキニ娘がやってきて、勝手に膝に腰掛ける。それの繰り返しである。

隣り合わせたダイスケという日本人と親しくなり、しばらく一緒に飲んだ。そして彼より、ゴーゴーバーの「いろは」を伝授してもらった。僕は結局、この危険な香りする喧騒に身を任せ、午前二時頃まで一人酒を飲んでいた。



翌朝も午前八時にはすでに一人、レストランで朝食を食べていた。早起きは三文の得なのだ。

今日は午前九時に新規仕入元メーカーの車が僕を迎えに来る事になっていた。ロビーにてスーツ姿で待つ僕の方へ、向こうから藤井家族がやってきた。今日はプールサイドでゆっくりするとの事。

「昼に帰ってくるから、屋台に連れて行ってくれへんか?」

僕は藤井に頼んだ。藤井はかつて、カオサン通りといった、いわゆるバンコク長期滞在的ベタベタ的ヒッピー的貧乏旅行のエキスパートなのだ。

そういう点では、僕はかなり「おこちゃま」である。

適当に英語を操るがため、タイ語を学習しようとせずそれに頼ってしまう。それが故、タイ語しか全く通用しない道路に連なる屋台のような所では、まったくの「おこちゃま」になってしまうのである。

仕事の後、少し約束した時間より遅くホテルに戻った僕は、藤井家族はもう食事に行ってしまっただろうと、内心諦めながらもプールに行ってみる事にした。明らかに場違いなスーツ姿でプールサイドに立ち、ぐるりと廻りを見回すと、いたいた! 

待っていてくれたのだ。

その三十分後、僕達はホテル付近の一番大きな屋台連なるテントの中にいた。僕は見よう見真似で、隣のテーブルで食べているタイ人の「焼きソバ」らしきお皿を指差し、日本語で頼んだ。「焼きソバ」は20バーツ(約60円)であった。

腹が痛くなればその時はそのときである。

いろいろ頼む。いろいろ食べる。

傾きかけた机には、スパイスがあり、各自がこれで自由に味付けする仕組みになっている。下味はあまり充分でない。置かれているのは、唐辛子、ナンプラー、砂糖、酢といったところだ。タイ料理では、この辛いのと、甘いのと、そして酸っぱいのをガツンと同時に投入してしまうのである。

タイの庶民の中での食事。どれもこれもなかなか旨い。これまでにない経験である。

心底楽しかった。年甲斐もなくはしゃいでしまった。

昼食後、藤井と二人でアンバサダーホテル内にサウナがあるという情報をもとにヘルスセンターへ向かった。

既に暑いバンコクで、更に暑いサウナへ出かけた。入れば5分足らずで汗だく男となった。そしてまた、マッサージをしてもらった。毎日のように揉まれ揉まれて、くねくねタコ化は時間の問題なのだ。

今夜一時のフライトにてヨーロッパ出発である。マッサージの後の柔らかくなった体を自室のベッドに横たえてフーフーと荒い息を吐きながらビールを飲んでいるうちに、小一時間ほど寝てしまっていた。

その夜は、サミーが香港で食べるより旨いと推薦する中華料理レストランへ連れて行ってくれた。

しかし、こいつの舌は大した物である。ハズレがないのである。

「お粥とはスープである」という新たな発見がそこではあった。

サミーに空港まで送ってもらうまでに、少し時間があったので二人で軽く飲もうと一軒のクラブに立寄った。そこは、日本人向けのクラブでありながら、僕の隣に座った娘は英語で僕につぶやいた。

「日本人はきらいです」

日本人に媚びる事しかしないホステス達の中で、この発言には驚いたというより、ある意味、感心してしまった。そして僕は、そういうこの娘の事が少し気に入った。

突然、僕の手を取り、そこにボールペンで字を書きだした。

「 黄 香蓮 」

自分の名前を中国語でそう書くのだと、彼女は言った。

「黄色い蓮が香ると書くのよ」

はにかみながらそう言った。

「色んな人が、色んな所で、色んな風に、生きているんだな」と俺はまた学習したのであった。

サミーの車で送ってもらったバンコク・ドンムアン空港で、急ぎタイ航空にチェックインする際、そのあまりの混雑ぶりに、はたしてちゃんと僕の荷物はスイス・チューリッヒ空港を経由し、ミラノへ届くのだろうかと気になった。チェックインカウンター預けられた荷物があまりにも多いのである。積み上げられた荷物は其々、行き先が違うようである。更には、僕には、チューリッヒでのトランジット時間が四十分しかないのである。
 
 
そして、その不安は現実となった。
 
 

ミラノ・マルペンサ空港にて、僕のスーツケースが出てくることなく、ガタガタと流れる手荷物搬送ベルトが停まった時、僕はかなり冷静であった。

こういう時こそ、冷静沈着でいなければいけない。

空港の紛失物担当窓口で強くクレームを伝えたのだが、更に悪い事には、その日、空港の職員たちのストライキが始まり、僕が搭乗した便以降のフライトが全て欠航となってしまったようであった。よって僕のスーツケースは行方知らずの尋ね人のようになってしまったのだ。

しかし、どうしてこういう状況になっても、西欧人は偉そうに振舞うのであろうか。僕はこれまで数限りなく様々な海外の空港へ訪れているのだが、このマルペンサ空港の職員やインスペクターの態度の悪さにはあきれかえるばかりである。いつもそう思うのである。今回もひどく癪に障ったが、こちらは自分を抑え、紳士的に紳士的に振舞った。
 
僕は仕方がないので取り敢えず、スーツケースなしの日本での普段の営業のような姿にて、いつもの通り、シャトルバスでミラノ中央駅に出て、そこからタクシーに乗り継ぎ、仕入元メーカーへ出向いた。仕事は止められないのだ。しかしスーツケースを持たずに入国するのはなんとも心細い感じである。

そしてその後、ドゥオモ広場の横にある百貨店・リナシャンテにて、その日のパンツとシャツと靴下を、トリノ通りにあるスーパーマーケットにて、ハブラシとヘアームースとブラシを求めた。
 
なんかドーンと疲れてしまったようである。
 
仕入元社長であるアントニオよりの夕食の誘いも丁重に断り、一人、これまでのミラノ訪問初日の鉄則となっている中華レストラン「東方飯店」へ行き、そこでの更なる決まり事と頑なに決めているマーボー豆腐とチャーハンにハイネケンビールの大瓶を頼み、そそくさと無言のまま胃に収め、そそくさと部屋に戻ったのであった。
 
しかし夏のスーツでこの寒さは辛い。喉が痛い。風邪をひいたかもしれない。

 

この時期の朝夕、ミラノは霧の都と呼ばれるにふさわしく、街には真っ白く靄がかかる。25メートル前は何も見えない。凍てついた空気の中、背中を丸め歩く人々の口から漏れるその白い息がそれを作っているのだろうかとふと思った。
 
まだ夜明け前の午前八時半、部屋の窓から見えるセピア色の街並をカメラに収めた。

この冷たい感じがフィルムに落とし込めるであろうか・・・。


今日も朝よりバリバリと商談をこなした。

この日の昼は、イタリアンビールでトマトソースのパスタを食べた。やはり本場のイタリアンだ。とても旨い。これだけで辛いスーツケース紛失も暫くの間、忘れる事の出来る僕は、なんと単純なのであろう。

この歴史ある街並は、その石畳だけですら圧巻である。お洒落な人々がそこを闊歩する。その歩く速度は、バンコクの人々よりかなり速く、リズミカルな気がする。ほとんどのショッピングウィンドウには、「SALDI」や、「SCONTO 50%」といった表示がかけられている。普段より賑やかに感じるのはセールの時期のせいであろうか。

その日の遅い午後、一人旅をしてきた我がスーツケースとようやく再会した。部屋の冷蔵庫よりビールを抜いて、スーツケースより何故か恐ろしく冷たくなっている「柿の種」を取り出して祝福の乾杯をする。このスーツケースはずっと寒い場所に置かれていたようである。よしよし、この部屋で温まりなさい。

取引先のコンピューターを借りてバンコクのサミーへ文句メールを打った。

「お前が取ってくれたフライトは、俺が心配した通りトランジットの時間が充分でなかったために、スーツケースが勝手に一人旅をした。こんな調子では、帰りのフライトも心配だ」

しばらくすると、サミーから返信が届いた。

「そいつは悪い事をしたね。ただ、帰りは例えスーツケースをまた失っても大丈夫だよ。バンコクは暑いから重い荷物はいらないよ。気にしないで」

ふざけた野郎である。

ナオミ・キャンベルが愛用する我が仕入元の世界限定40本のダイヤモンドネックレスを購入した。うちには生憎、ナオミ・キャンベルのようなスタイルの顧客はいそうにないが、これはこれできっと良いプロパガンダになるはずであろう。

その夜は、アントニオに連れられ、モンテ・ナポレオーネ通りにあるピッツァリア「ペパームーン」へ食事に出かけた。ここは日本人にも勿論そうだが、現地のイタリア人にもとても人気があるのだ。

この店での僕の定番は、「スパゲティ・ボンゴレ」と「ローストビーフのスピナッチ和え」である。

やっぱり旨い。この上なく本場イタリアンなのである。

アントニオとの食事中、イラクへの日本の自衛隊派遣の話題となった。

「日本もどうやらイラクへの自衛隊派遣する事を決めたようだな。驚いたよ」

「そういうイタリアは先導を切って派遣したよね。確か年末に爆撃テロで結構のイタリア人が亡くなったんだよね。それでも未だに国民は派遣継続を支持してるのか?」

僕は、同じ事が起これば、間違いなくパニックを起こすであろう日本を思いながら聞いてみた。

「みんな賛成してるよ。これまでイタリアはこの手の事態には、常に他の国の後ろに隠れて意見せずだったからね。このような形で国際的貢献が出来る事は、我らとしてのプライドの一つだよ」
 
僕は返す言葉がみつからなかった。


夜道、気温が氷点下になったであろう事を肌でひしひしと感じた。
 
部屋に戻り、ミラノに住む友人、ニコラへ電話するが繋がらなかった。


 
翌朝、まだ充分に夜と呼ぶに相応しい午前六時半、僕はミラノ中央駅のバーで人々に混じりカプチーノを飲んでいた。これからユーロスターでフィレンツェに向かうのだ。フィレンツェへはいつも日帰りなのである。

フィレンツェでは、彫金師として非常に名高いジョバンニに日本から持参したエメラルドやオパール、トルマリンといった裸石を預けて、次回の訪問までにアンティーク調のハンドメイドジュエリーを製作依頼する。そして、裏通りだが、密かに素晴らしいアンティーク物を所有する内緒のカメオ屋にて、象牙やトルコ石、珊瑚、宝石のアンティークカメオを探求するというのが、今回の主目的なのである。

これらのカメオの一部は、帰路、バンコクの仕入元に預け、その枠(フレーム)を作らせる。また一部は、改め来月、スリランカへ持ち込み、様々な宝石取り巻くデコラティブなブローチを作ろうという魂胆なのである。

話は変わるが、僕はミラノとフィレンツェ間の車窓からの風景がとても好きだ。

ただただ広い平原や畑に、ポツポツと立ち並ぶレンガ作りの家々をすり抜けて、ひたすら真っ直ぐ列車は走るのである。冬の葉のない背の高い木々は、きちんと等間隔で灰色の空に向かって突っ立っている。白樺の木のようだ。全てはモノクロの世界に近い。ぼんやりと靄がかかっている。

車内にてサービスされた熱い紅茶をストレートで飲みながら、暫くは変わる事無きこの風景を見つづける。

「これは海岸に打ちつける波をボンヤリ見ている感覚に近いな」ふと、そう思った。

もうすぐ列車はボローニャに着くであろう。セリエA・中田選手の今年のホームグランドである。

フィレンツェの仕事を、うまくこなす事が出来て肩の荷が下りた僕は、帰りの列車までの間、アルノ川に沿ってしばらく歩いた。

ポンテ・ベッキオ下の川面を、赤いカヤックを漕ぐ白髪の老人が、その静かな水面をアメンボウの様に、とても静かに過ぎて行った。

やはりとても良い街である。出来れば家族で来たいと思いつつ、今年もこの出張中に誕生日を迎える嫁さんへのわずかながらのトリビュートをと思い、革のシステム手帳を購入した。僕は同じブランドの青い革のコインケースが気に入り、それを求めた。

これで予定していたほとんどのイタリアでの仕事を終わらせた事になる。

帰路、向かいの座席に座る女性の顔が、昔、図鑑で見たネアンデルタール人にそっくりで気になって仕方がない。花粉症なのであろうか、ブーブーとよく鼻を噛み、その鼻の下が痛いのか、塗り薬をべっとりと塗りつけているので、夕陽が当たるその辺りはテカテカに輝いているのだ。気にしないでおこうと思うが、取り立ててする事がなく退屈な僕は、そこばかり目がいってしまう。

この女性、うつむき加減で雑誌に目を通していると思っていたが、あまりに動かないのでよくよく見ると、寝ていやがる。

「この手の人は。きっと心優しいタイプがおおい」そう思う事にした。

「はやくミラノに着かないかなぁ」



今、僕はチューリッヒ発バンコク行きの飛行機の中にいる。

帰路、ミラノ・マルペンサ空港よりチューリッヒへ向かう飛行機が遅れ、またスーツケースを失うのではと、内心ひやひやしていたのであるが、ヨーロッパ圏内のコネクションはしっかりしている。僕が二十分遅れた分、チューリッヒからの出発便も連結して遅れてくれたのであった。

ミラノ出発の今日は日曜日という事もあり、全くフリーの一日であった。

頻繁に訪れているこの街故、取り立てて何処に行く、何をするという訳でもなく、朝はホテルのベッドに潜り込んだままゴロゴロと本を読み、日本から持参した「どんべえのきつねうどん」を食べて過ごした。

その後、ウィンドウ・ショッピングをしながら、ぶらぶらと街を散策した。

銀行街の裏手にアンティーク・インテリアで有名なサンタマルタ通りという小道がある。この通りは、かつて僕の親父の大親友であった今は亡きイグナチオ氏が、店を構えていた通りでもある。今でも数件、顔なじみの店があるので訪ねてみたのだが、生憎、日曜日はどの店も閉まっていた。

セール期間中だからか、街を歩く人の多さには驚いた。日曜日ということもあり、家族連れや、若いカップル達、友人グループと道に溢れんばかりである。とても真っ直ぐ歩けない。

今日は家のリビングにとてもよく合いそうな薄い青色のテーブルクロスを発見し、40%引きで購入した。(ところが日本に持ち帰って見ると、それはベッドカバーであった。大失敗!)

今年も我がチビ達にお年玉をくれた兄と弟に、ドゥオモ横のガレリアにてネクタイを買った。

そして、人のネクタイを選ぶという事が如何に難しい事かとつくづく思ったのであった。

今日は珍しく、空が高く、青く澄んでいる。何もなくぶらぶらと行く宛てもなく異国の地を歩くのもたまにはいい。行き先、目的をもって歩くよりも当然歩調は遅くなり、自ずと周囲を観察できるようになる。人間ウォッチングもできる。


さて、あと三時間でバンコク到着だ。最後の仕事が待っている。飛行機は今、デカン高原にあるインド随一の宝石発掘の街・ジャイプールの上空を飛んでいる。いつかここへも来る事があろう。



今回の旅の最終日、最終地・バンコクはこの時期、ありえない大雨であった。それも普通の雨ではなく、通りが洪水状態で、走る車のタイヤの半分ほどは水に浸かってしまうほどなのだ。一般的に熱帯地域のスコールはざっと降り、パッと止むのであるが、まったく降りつづけるばかりなのである。

午後八時にサミーと落ち合い、俺の強い希望で、また辛い辛いタイ料理の最後の晩餐を楽しんだ。そして最後の晩は、この旅で一番沢山酒を飲み、ライブハウスのような所で泥酔した。

何回乾杯したであろうか。

「異国の地で、こんなに我を失うまで酔っていいのか」というぐらい飲んだのであった。

翌朝九時半に空港にいなければいけない僕が、誰かの間違い電話(大感謝!)により目を覚ましたのは午前十時。

一瞬、目の前が真っ白になり、全ての思考回路が止まった。

こんなに焦ったのは久し振りである。その五分後にはチェックアウトを済ませ、タクシードライバーに酒臭い息で叫んでいた。

「頼むから飛ばしてくれ!その分、倍払うから!」

オンボロタクシーは唸りながら、時速150キロ程の速さ(メーターが壊れていたので定かでないが・・・)で、高速を走ったのであった。


そして今、僕は香港から関空へ向かう最後の機内にいる。

ほぼ一週間の旅であったが、なかなか色々と心に残る旅であった。

辛い辛いと思っていた海外出張も本人の捕らえ方でそれは素晴らしく愉快なものに変わることがわかった。

明日からの日本でも目一杯頑張ろうと思う。辛いときは捕らえ方を変えてみようと思う。


香港の空港で、可愛いピンクの腕時計を二つ買った。

今夜、僕が帰宅する頃、奴らは既に寝ているはずだ。そっと枕元に置いておこう。明朝の喜ぶ顔が楽しみである。


最後に、今回の旅で接した全ての人々へ、その屈託なき笑顔に、


「 乾杯! 」






送る月日に関守なし

2018年08月29日 | 徒然日記
送る月日に関守なし〜



ついこないだ大学に入学したような気がする長女も4回生となり就活を終え、大学生活もある程度落ち着いたとの事で神戸での一人暮らしを終わらせて、来月末、我が家に帰ってくることになった。

その引越しに伴い、我が家に不要となった机や棚から電化製品、衣服、本に至るまで大幅に処分する事にした。

また家を建てた時に僕の書斎にと思っていたものの結局は物置と化していた部屋を全て片付けて嫁さんの寝室とする事にした。

そして一階の和室にある棚を全て無くし和室はキチンと和室として活用しようという事になった。

長女引越しの前夜に以前から家族で訪れようと話していた長女アルバイト先である三ノ宮の焼鳥屋に出向き、その最後の晩はワンルームマンションで皆んなで雑魚寝して、翌朝引越し手伝いするという流れだ。

僕は寝袋を持参しよう。



そうそう書斎に放ったらかしにしていたコルクボードに次女のチビの頃の写真がセピア色に色褪せて残っていた。

ブルーメの丘に行った時だろうか…

僕が一眼レフで写真を撮るのに凝っていた時の一枚だ。次女はこの後に落として砂まみれの飴を口に入れたので慌てて出させたのであった。

せっかくなのでここに貼り付けておこう。

白浜放浪2018残暑 『 台風一過のバスクリン色の海に途方にくれて 』

2018年08月27日 | 旅三昧!釣り三昧!
先週、関西を直撃した台風が我が雑魚釣りベースのある南紀白浜にて風速45メートル、波高11メートルとの報。少し心配だったので土曜日の打ち合わせ終了後、一泊で白浜入りした。



僕が訪れた時はとても穏やかな海に戻っていたのだが、風呂で顔合わせた隣室に住む理事曰く、ここに住むようになってから経験した台風で最も強かったとの事。

裏に係留してあった手漕ぎボートは流されてしまったとの話であった。

僕の愛船は無事でよかった。

最近、愛船の両隣に船を係留されており、それにより強い風もカバー出来たのかもしれない。



この夜はスーパーで買ってきたステーキを焼いて食った。

翌朝、出港するも海が濁って緑色になっており到底ジギングが出来るような海ではなかった。水潮である。

淡水と海水が混じり合い三枚潮になっていた。メタルジグを落としても海底に着底するまでに2回ジグが止まってしまうのである。

また少しはマシかなと思える海色の深場はウネリがひどくて船酔いになりそうな状況であった。

海面は10キロ離れた沖でも緑と紺色がまだらに混じり合って潮が流れていた。

それでもどうにかこうにか水深150メートル辺りでスルメイカを一杯だけ釣り上げて帰ってきた。

家で大皿にキャベツとキュウリとピーマンの千切り山盛り、そこにイカリングとゲソ唐揚げを載せて家族での晩飯とした。キモはキノコバター炒めに加えたらなかなかの酒のツマミとなった。

来週末は土日とも沖に出る予定である。

紺碧の海に戻ってくれてると信じたい。

そうそう、秋には少し大きめのクーラーボックスを船に装備させる予定である。

BKK放浪2018夏 『 本場タイを喰らう!2018 』

2018年08月19日 | 旅三昧!釣り三昧!
今年も盆休みの後半を利用してBKKを旅してきた。



ギリギリに予約したという事もあろうが、この時期、LCCと正規航空会社との旅費価格差が3倍という事もあり深夜便のエアアジアにてBKK入りしたのだが、やはりギュウギュウの座席が辛かった。

ドンムアン空港に降り立ったのが朝の3時半、さすがにそのまま何処かで時間を潰して働くのも辛いので、以前家族で訪泰した時に利用したトンローにある安宿へ入り2時間ほど仮眠を取りシャワーを浴びた。1泊800バーツ(約2800円)の部屋である。

タイを訪れたら先ずは朝食にバーミーをと近所の道端で食した。今回も短い滞在だが屋台飯中心でいくつもりだ。



出発の際にエンジェル投資家としてシンガポールにて活躍している箕面高校同期のKATOもBKKに入っている事を知り、プロンポンの屋台飯にて再会乾杯をしてお互いの近況報告をし合った。



KATOと別れた後、シーロム通にあるクライソンのオフィスへ。

その後、アジアホテルのそばにあるチャイヤンのオフィスを訪ねた。

クライソンもチャイヤンもともに6月の香港フェアは史上最悪だったらしい。

この夜、チャイヤンの計らいでスリランカからのジェムマーチャントらと合流し総勢7名で最高に美味いローカルタイレストランへ連れて行ってもらった。

スリランカ人同士はシンハリ語、タイ人同士はタイ語、人種を越えた会話は英語となり、独特の発音でいささか聴き取りにくい内容もあったが楽しい晩餐であった。

前回もこのレストランに連れて行ってもらったのだが最高に美味かった。ソフトクラブのソムタムはやはり最高だった!

そしてその後はなぜかタニヤへ流れて深夜まで。チャイヤンはたまにタニヤに訪れているようであった。昔サミーと夜な夜な酒を交わした10年近く前よりほとんど出向かなくなったタニヤだが、以前にもまして場末感が溢れていた。

朝が早かった僕は最後はくたびれモードになりながらもごちそうになったチャイヤンにお礼を言い、タクシーでスクンビットにある常宿に戻ったのであった。

ぐっすり寝た翌朝も道端の屋台を探してバーミーを頼んだ。40バーツ(約130円)也。この店のバーミーはあっさりとした鶏出汁でこれまた美味であった。タイで食べるバーミーは量的にはランチには少ないのだが朝食には適量なのだ。相席のテーブル真ん中のカゴに入れてあるモヤシやミントをバーミーに適当に放り込んで食べるのである。

あまりハエなどが止まっていなさそうなカゴの底の方のモヤシを一掴みし我がバーミーに投入した。





しかし今回のBKKはとても過ごしやすい気候である。日本の方がはるかに湿気もあり暑いのだ。

相変わらずの渋滞の中、この日もタクシーで取引先へ向かった。

昼メシはシーロムビレッジの奥にあるローカルなレストランへ。ここでは最初にクーポンを求めて支払うスタイルなのである。帰りに余ったクーポンで返金してもらう。このスタイルはスワヌプーム空港にも従業員用のフードコートとして在り何度か訪れた事がある。



よくわからないが美味そうなのでこの2品を指差した。60パーツ(約200円)也。安い速い美味い!因みに瓶ビールだけ200パーツ(約660円)となんでやねん?的に高かった。

この夜は、25年来の親友であるサミーとリンゴ、日本から同じタイミングでやってきた幼馴染のFUJII家族とディナーに出向いた。

サミーに促され、またイモムシを食べた。まあまあ美味い。



みんな変わらず元気そうで何よりであった。FUJII家族はこれから1週間、バンコクで余暇を楽しむとの事。うらやましい限りだ。

FUJIIはこれからは毎年1カ月くらい休みを取ってゆっくり過ごす時間を作りたいと語った。そんな生活が僕も出来たら良いと思う。FUJIIにはずっと昔から働きすぎだと言われてきた。この歳になり毎日のペースを考えて過ごすというのも良いのであろう。

サミーもリンゴも相変わらず元気そうでなによりであった。

サミーも若かりし頃の様に飲む事はなくなったが、それでも変わらずビアチャンのボトルを1本、2本… また1本と僕らは空けていった。

サミーとは人生の半分以上の付き合いだなと話した。20代30代の頃は毎晩深夜3時頃まで酒を飲みカラオケに行っていたあの頃とは違い、今僕らはゆっくり落ちついて飯を愉しむようになった。

僕らもそういう年齢に到達したのだなとふと思った。

翌日、前回のBKK訪問同様、夜のフライトまで最終日は出来るだけゆっくりと思いつくまま放浪の時間を過ごそうと決めていたので、朝食の常である道端バーミーを食べた後、気の向く方に歩いた。



そして個人的にBKK随一とここ最近は思っているタイマッサージ『 THE THAI 』へ出向いた。



多少痛いが爪先から頭のてっぺんまでゴシゴシとマッサージされて全身ふにゃふにゃ状態にしてもらった。



その後、アソーク駅ターミナル21にあるMKにタイスキを食べに行ってきた。昼からビールを飲んで腹パンである。 腹一杯食べて600パーツ(約2000円弱)。

腹一杯となり、買い物して部屋に戻り、ごろ寝してチェックアウトしてまた1人タイ料理屋へ。今回の旅はとことんタイを食らおうと決めていたのである。

活きたまま飛び跳ねる川海老を辛いタレに絡めてそのまま食べてしまうメニューは初めてだったけど、アンニャオ(もち米)と食べると美味かった。所謂、おどり食いスタイルである。

本場のタイ料理を色々食べながら、やっぱり僕はタイという国が好きだと思っていた。また近いうちにやってきたい。というか本当に老後はタイで生活出来ないかなとか改めて真剣に思ったりしているのだ。

次回の訪泰は出来ればもう少し長く滞在して、BKKから少し離れたタイの街を放浪したいと密かに思っている。

タイ万歳!



ザ・男の炊き込みご飯!

2018年08月15日 | 旨いもん!旨いもん!!
朝起きたら食べるものがなかったので、帆立の缶詰と冷蔵庫にあるもの使って炊き込みご飯を作った。

用意したもの

帆立水煮の缶詰 1缶
人参 適当
大根 適当
エリンギ 大1
油揚げ 適当
久原のあごだし(コレ重要)45cc
米 2合
水 400cc弱

研いだ米にあごだしと缶詰の汁と水を投入しかき混ぜる。帆立の身を載せた上にその他を載せて炊飯するだけ。

炊き上がったらよく具を混ぜて青ネギを飾ったら出来上がり!



帆立の汁とあごだしの合わせ技が美味いぞ!