【タックの放浪記】  思えば遠くへきたもんだ・・・     by Tack SHIMIZU

心に刻まれたその一瞬、心に響いたその一言、心が震えたその想いを徒然と書き記したい。この記憶から消え去る前に…

シンパティコ!イタリア!

2017年09月21日 | 旅三昧!釣り三昧!
シンパティコ!イタリア!!

いつの頃からだろうか。海外へ出向くことが億劫になりはじめたのは。

かつて初めて海外旅行に出向いた頃は、あまりの嬉しさに何度も何度も発行されたばかりのパスポートを開いては眺めていたような気がする。

仕事として海外に行き始めるようになってからであろう。現在、年に5回程、西洋骨董と宝飾品の仕入を目的として、イタリア各地へ出向いている。

ご存知の通りイタリアは多くの都市国家が一つとなり出来上がった国である。その歴史と芸術の質の高さは、数々の著書にて取り上げられている通りである。

億劫ながらも、そんなイタリア各地を巡り、その土地の風土と文化の違いを肌で感じることが出来るのは、幸福に値するに違いない。それを僅かでも誰かに伝えたく筆を取る事にした。


<孤独のヴァレンツァ>

宝飾の町、ヴァレンツァ。

その町はミラノとジェノバの間に位置し、ミラノの玄関口であるマルペンサ空港より、車にて約1時間半程で到着する。距離的には約100キロ程なのだが、交通の便が悪く、ミラノよりダイレクトの列車はない。

かつて金が採掘されたという事で宝飾工房が発達したこの町は、人口の約70%が宝飾品に関わる仕事に従事しており、イタリアのみならずヨーロッパにて一流とされる宝飾品のほとんどが、この町で製作されている。

この町では、観光客など一人も見当たらず、タクシーも無く、そしてホテルとは名ばかりの(ロッジ如き)宿泊施設が一件存在するのみである。

数え切れない程ある大小様々な宝石工房。一件商談が終了すると、そこの社員が、次の取引先まで、自ら、車で送ってくれる仕組みとなっているのである。

しかしその静かな街並みは、北イタリアのそれとして、決して奢ることなく、寡黙ながらもどっしりと歴史的重みをかもし出しているのである。
 
くねくねとした石畳の小路を、その磨り減った石畳を歩く。町の子供達は、興味深く僕の顔を、僕の一挙手一投足を、見つめている。じっと見つめ返すが、彼らは目を逸らそうとしない。

これまで数限りなく様々な街を訪問してきた僕が、生まれて初めてホームシックなる症状を覚えた町。初めて訪れた時、日本語はおろか英語も通じぬ、その町唯一のロッジのレストランにて、一人、夕食を取っていたある寒々しき冬の日の出来事であった。レストランの暖炉の薪のみがパチパチと静かな部屋でBGMを奏でていた。一人、スパゲティーを音立てず啜りながら、その薪の音を聞いていた時、それは突然やってきたのである。

なぜ僕はこんな所で一人食事しているのであろう。僕を知る友人知人はこの付近には一人たりともいない。テレビでは、全く意味のわからない言葉が行き交い、違う顔立ちの人々が、何やら討論している。かつてカナダのトロント留学中は、寂しくなれば中華街へ出向き、朱に交わる事によって、なんとなく落ち着きを取り戻したりしていたのだが、そのいるだけで馴染める東洋人的顔立ちの人々も全く見かけない。

あぁ、この状態から脱出したい。

自分の良く知る世界へ戻りたいと、体の奥底叫ぶ。状況を改善すべく、日本の家族へ電話をしようかとも思うのだが、時差を考えると日本は午前4時。それも出来ず、とにかく寝てしまおうと、食事を取りやめ部屋に戻り、やみくもにありったけのビールを喉に流し込み、ベッドに入ったのである。
 
翌日もからりと晴天であった。


<Vicenzaから来た女神>

ベネチアよりミラノへ向かう早朝6時半発、特急列車でのこと。

早朝故、空席の目立つファーストクラス。僕は、誰も隣に座るはずがないと、たかをくくっていた。ところが、次の駅、ヴィチェンツァより可愛いい女性が、僕のコンパートメントに登場した。

無造作に僕の荷物が置かれた隣の席を指差し、そこは自分の席だと主張した。席を譲り、しばらくの無言。

喫煙席のはずのシートだったが、かつての煙草のコマーシャルをふと思い出し、紳士的に彼女に吸ってよいか確認してみた。驚いたことに彼女は少しイタリア訛りだが、文法的には完璧な英語を操った。一服しながら、しばらくの無言。

そして、僕は日本の文庫本を列車の窓際席にて読んでいたのだが、彼女のこちらへの視線がとても気になり、話し掛けることにした。ヨーロッパ人は概して、日本人と韓国人、そして中国人の区別が出来ない。

「僕が何人だかわかる?」と、ありがちの質問をしてみた。移り行く車窓の風景、心地よい車輪音。「私にはあなたが日本人ということが簡単にわかる。」と、ソプラノの女神は微笑んだ。

彼女の名前はニコラ。ミラノで日系商社に勤める女性だった。

取り立てて特筆すべきはないが、車窓から心落ち着く事の出来る田園風景を眺めながら、夢のような約2時間。残念乍、その日、僕はミラノより先、ベロッチェリへ向わなければならず、次回の訪問での再会を約束した。

こんな出会いは大切にしたい。

ミラノから、又一人になり、しばらくぶりの無言人にかえった。



<イタリア人の携帯電話>

日本人の礼儀とイタリア人のマナー。当然ながら、重複する部分が多い。

一般的に西洋的マナーは、気配りがあり、とても優しい(特に女性には)とされている。しかし、納得出来ない所もある。

最も理解できないイタリア人のマナーは、列車やバス中での携帯電話である。最近の日本では、どの交通機関を利用しても、うるさいくらい携帯電話の使用を控えるべき案内がある。しかしながら、イタリアでは、どいつもこいつもが、あのイタリア人独特の身振り手振りを加えながら、「プロント!プロント!!(訳:もしもし)」と、大声で喋っているのである。一人が大声で話すものだから、聴こえ難いのか、別の一人も、そして更に別のもう一人も、という風に、全員が大声で話している。

携帯電話を持たない僕には、これほど耳障りな事はない。

先述の女神・ニコラに、この事を話すと、車中、恥ずかしそうに、彼女は自分の携帯電話の電源を切った。


<太陽の島・シチリア>

イタリアは国土が長靴の形をしており、そのつま先に大き目の島が存在する。

シチリア島である。この島で最も大きな街がパレルモである。

マフィア発祥の地として有名で、かつては、今以上に治安が悪く、「イタリア人が国内旅行をする際も、この島への旅行に関しては、旅行保険に入る事が出来ないのだ。」と、ミラネーゼ達が笑いながら云った事が事実かどうかは不明であるが、他の地域とはまるっきり雰囲気が違う事は、空港に降り立てば誰でも気づくであろう。空港の荷物引取場では、麻薬取り締まり犬が数匹、クンクンと鼻を研ぎ澄まして働いている。

ここパレルモに住む人々は、底抜けに明るい人が多い。

昔、方々の強国により侵略され続けてきた歴史のリバウンドからか、はたまた南国故の温暖な気候からなのだろうか、とにかく明るい。

パレルモ郊外に、モンデーロと呼ばれる海岸地区がある。若者は時間が許す限り、そこへ集まり、ベンチに腰掛け、シシリー名物の揚げたライスボール(中にミートが入っている)やジェラード(アイスクリーム)を食べながら、仲間と楽しい時間を共有している。又、シチリア人は、好んで魚介類を食し、その海岸沿いには、オープンデッキでウニや蛸を食べさせてくれる素晴らしいレストランが軒を並べている。

青い空の下、潮の香る海岸沿いにて、新鮮な魚介類に舌鼓を打つ。

至極の一瞬である。

聞けば、シチリア島界隈で取れるマグロのほとんどは日本へ出荷されるという。取引先の宝飾会社社長が片目を瞑りながらブラッフを云った。

「日本へ輸出する宝飾品はツナ(マグロ)の香りがするはずだ。」

案外いかした奴である。

半分に割られ、山積みにされたウニの棘を気にしつつも、プラスチックのスプーンを立てながら、醤油が欲しいと心から思ったのであった。


<歴史的サンダルのフィレンツェ>

近頃はそれほど取り上げられなくなった狂牛病の話題であるが、イタリアにて最も深刻だったのがフィレンツェのそれである。

フィレンツェのステーキはイタリアでも特に有名で、サンダルの様に大きく、我々にはとっても一人で食べきれる大きさではない。

彫金と皮で有名なこの街は、イタリア随一、治安が良い街としても有名で、そして何より、自分の住む街を誇り、他の街を貶す事を当然としているあらゆるイタリア人達からも、決して悪く云われない評判良き街なのである(近郊のピサ等を除く)。

ご存知の通り、イタリアの首都はローマ。商業地はミラノ。しかし、なぜかイタリア標準語は、ここフィレンツェで語られるイタリア語である事を耳にし、驚かずにはおれない。
街並みを歩きながら、「処刑されたムッソリーニが首にロープを巻かれ、この路をジープで引かれたのだ。」とか、「ヒットラーが、ここを行進したのだ。」等々、知人より聴く。歴史的重大事が起こった状況、風景がそのまま残る街、それがフィレンツェなのである。

その頃と全く変わらないであろう空間に自分を置くことが出来る。様々な想像が膨らみ、まるでタイムスリップしたような気分になれるのである。
 
フィレンツェの街のイメージ色はオレンジだ。古き歴史有る建物は、それ相応に風化しており、道も、壁も、茶色の屋根も煤けている。夕暮れ時の夕焼け色が、そんな情景にかっちりと調和してしまうのである。
 
太陽沈む直前に、ベッキオ橋の川縁から、その夕焼け空へ目をやると、その自然と文化の奏でる芸術を、誰もが堪能できるはずだ。

丘の上のミケランジェロ広場に隣接するレストランで、オレンジ色のフィレンツェ街並みを見下ろしながら食した、そのサンダルステーキを今も忘れる事ができない。


<ミラノのタクシーストライキ>

一番最近イタリアへ訪問した時の事である。

僕は、ミラノでの最終の仕事を万事無事に終わらせ、ホテル内のバーカウンターで一人、ビールを楽しんでいた。

ミラノ滞在中の常宿であるそのホテルは、ドゥオモ近くの三ツ星ホテルで、既にそこで働く人達とは、非常に親しい。特に、バーテンダーのマルコは、気さくで、話に笑いのセンスがある。常にニコニコと微笑みを忘れない。作られた笑みを振りまく日本のホテルとは、うまく云えないが、こういう所が違うのだろうなと思ってしまう。

グラスを磨きながら、マルコは鼻歌を歌う。僕は、部屋で日本から持参した甚平(僕はパジャマにしている)に着替え、1階のバーカウンターへ出向いたのだが、その容姿を見るや否や、「ワォー!キモノ!!」と、マルコは叫んだ。甚平が着物に属するか、よく判らないので、適当に頷いておいた。
 
翌朝、チェックアウトの際、マルペンサエクスプレス(空港への列車)に乗るべく、カドーナ駅へのタクシーを頼むと、今日はタクシーがストで一台も運行していないと、フロントマンが言うではないか。

重いスーツケースはあるし、どうしたものかと考えていると、地下鉄で行けとのアドバイス。重い荷物を両手に、地下鉄に乗りたくはなかったが、それに乗らないと空港にいけないし、トボトボ、ゴロゴロと駅へ向ったのである。

近くの大通りで、タクシーが長い列になってクラクションをワンワン鳴らしながら道を蛇のように走っているのを見かけた。どういう理由でのストかも判らなかったが、誰に対してワンワンしているのだろうか。「ワンワンしながらでもいいから、俺を駅まで連れて行け!」などとブツブツ一人ごちながら、トボトボ、ゴロゴロその路肩を歩いたのであった。
 
地下鉄はどこまで行っても1ユーロ。但し、重い荷物もいっぱしの一人前と見なされ、スーツケース分も1ユーロ払わなければいけなかったのである。


<カルチョ!カルチョ!!>

イタリア人のカルチョ(サッカー)への情熱は半端ではない。
 
今年開催された日韓ワールドカップでの日本の熱狂とて、太刀打ちできるものでないであろう。夜10時頃、意味なくホテルのテレビを付けると、少なくとも3チャンネルでは、カルチョの話題で盛り上がっている。それが毎日なのである。見ている者全員の情熱がひしひしと伝わってくる。

日本の一般的プロ野球観戦の図というものは、畳に寝転びながら、ビール呑み呑み、静かに枝豆などをポリポリ、たまに浴衣の尻をポリポリという図を想像してしまう僕だが、サッカーは野球の様に目を離す事が出来ないのである。

目を離しているうちに、ボールはあれよあれよと、味方ゴール前まで運ばれてしまっていたりするのである。目を離している時こそ、そういう決定的瞬間がやってきたりするものなのである。
 
イタリア人は皆、自分の住む街にプライドを持っているので、その街のチームを応援している。

シシリー島のパレルモに住む友人・ロベルトとピザを食べている時、カルチョの話題となった。彼の熱弁は止まる事無く続くのである。

息つく合間を見て、僕は聴いてみた。

「ロベルト、お前はどのチームのサポーターなのだ?」

「決まっているじゃないか!パレルモ・フットボールクラブだ!」

「そこはセリエAか?」

「セリエCだ!」と友は胸を張って答えた。

カルチョは単なるスポーツではない。これは文化なのだ。

僕はその時そう認識した。




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