スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

新人王戦&第一部定理一八

2011-10-11 19:21:07 | 将棋
 東京に遠征して勝利した豊島将之六段が大阪に佐藤天彦六段を迎え撃つ形となった第42回新人王戦決勝三番勝負第二局。
 豊島六段の先手。佐藤六段が横歩取りに誘導し8四飛-5ニ王-5一金の形。先手は中住まいから1筋の位を取って角交換。後手がその1筋から逆襲し,一時的に香損に。長い中盤の末に第1図に。
                         
 ここで後手はようやく☖1五歩と香を取り返しました。手番を得た先手は☗7三歩成から攻撃開始。☖同銀に☗5三香不成と捨て☖同王に☗6五桂の王手銀取り。☖4二王に☗7三桂成と取りました。☗7三歩成とすればここまでは一直線に思えます。手が空きましたので後手の反撃。☖2八角成と飛車を取り☗同金に☖8五桂。先手は☗6八銀と逃げ,☖7六歩のときに☗6三成桂。☖7七歩成☗同金☖同桂成☗同銀まで進めて☖6一香(第2図)と受けました。
                         
 ここでは僕には☗5三銀と打つか☗5三角と打つほか思い浮かばないです。実戦は後者が選択されたのですが,ここ以降の棋譜から考えると,これで先手の攻めは切れていたようです。実戦は先手が粘ることもできず,後手の勝ちとなりました。
 佐藤六段が勝って1勝1敗。決着局となる第三局は24日です。

 ある人間の精神mens humanaの本性natura,essentiaを構成するとともにほかのものの観念ideaを有する限りで神Deusのうちにある観念が原因となって別の観念が結果として生じる場合,いい換えればある人間の精神の一部を構成している混乱した観念idea inadaequataが原因となって別の観念が結果として生じる場合には,これをこの人間の精神の純粋な思惟作用であるとはみなし得ないということに注意するならば,マシュレと僕との間にあるであろう相違点のうち,第一の場合というのが現実的には生じないであろうということは,今回のテーマでここまで詳しく考察してきたこと,とりわけ自己原因と原因との関係をスピノザの哲学においてどのように考えるべきであるのかということに,これもまたスピノザの哲学を独自のものとして特色づける要素のひとつであるといえる内在性の観点を導入することによっても説明することができると僕は考えています。そして考察の継続性ということを考慮に入れるならば,こちらの説明の方が,今回のテーマの中でこのことを説明する方法としてはむしろ相応しいのではないかと思います。
 ただし,スピノザの哲学における内在性という観点,これは別のいい方をするなら,一切の超越的な観点の否定ということになろうかと思いますが,このことについてはこれ以前の考察においてもあまり詳しく探求したことがありませんから,まずはそのことの意味を捕えておく必要があるでしょう。ここでは第一部定理一八を援用します。
 「神はあらゆるものの内在的原因であって超越的原因ではない」。
 ここでいう内在的原因causa immanensというのは,その結果を自己自身の中に産出するような原因であり,超越的原因というのはそれとは逆にその結果を自己自身の外に産出するような原因のことです。これはスピノザの哲学に特有の術語ではなく,スコラ哲学で用いられている用語で,ここではスピノザもそこで用いられている意味に準じています。ただし,スコラ哲学でこのタームが用いられる場合とスピノザの哲学で使用される場合には大きな相違があります。スコラ哲学では神は超越的原因と規定されていますが,スピノザはここで内在的原因であるといっているからです。この意味において,内在性はスピノザの哲学を特色づけるひとつの要素となっているのです。

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