創価学会の信仰に功徳はあるか?

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316.マンダラは何を語っているか 真鍋俊照(著) 講談社現代新書

2011年02月20日 09時28分30秒 | 創価学会
 FBIさん紹介の真鍋俊照さん、本の選択は私が適当に安い本を見つけて選んだだけのことです。
一応、きちんと読んだつもりですが、誤字脱字、引用ミスがあれば御指摘ください。

なお繰り返して言いますが、真鍋俊照さんが91年に書いた学説であって絶対でも最新の学説でないことをご理解ください。

マンダラは何を語っているか 真鍋俊照(著) 講談社現代新書
1991年9月20日第一刷発行

2-マンダラの起源をさぐる
2-1 マンダラの原初の状況

P47
このような「牟梨曼陀羅呪経」(むりまんだらじゅきょう)は、方形のマンダラとしては四隅と四門を構図上整備し外側の守護の特に強い意味を持たせていることが伺える。既に指摘したように、このマンダラ壇は不空(705ー774)によって訳された「宝楼閣経」三巻諸説の「宝楼閣マンダラ」となり完成される。

P49
不空訳「宝楼閣経」(C)は菩提流支(ぼだいるし)訳「宝楼閣経」(B)、および「牟梨曼陀羅呪経」(A)を経典発達史上では間接的な典拠としているのである。つまりこの三本は親子関係にあり、(A)が本経で(B)(C)は異訳・抄訳である。すなわち(A)の展開が(B)(C)なのである。しかし三本とも共通していることは、最終的には釈迦如来を本尊としている点である。この部分は後の「宝楼閣マンダラ」に等しい。

P49
四天王も全体を守るように四隅に描かれている。釈迦如来中心の三尊の形式は(A)の「牟梨曼陀羅呪経」および(B)(C)の「宝楼閣経」にもとづいているのだが、どちらかといえば(B)(C)の所説によってこのような七宝荘厳の楼閣内・外に配置されていることは間違いなく、後世の阿弥陀如来お三尊形式が、阿弥陀浄土変の図学的発展と関わっていることを示唆している。

2-2 マンダラを生んだ宇宙観

P61
それはマンダラの展開という見方であるが、空海の「十住心論」所説の第十秘密荘厳住心が根拠になっている。わかりやすくいえば、この境地は大日如来の浄土をあらわしている。その場所は、覚鑁(かくばん)が著した「密厳浄土略観」では大日如来の法界宮殿が舞台となる。その周囲には阿シュク・宝生・阿弥陀・釈迦の四仏が配置されそれぞれ浄土があり、また四仏の周りに四波羅蜜菩薩、十六大菩薩、十二天妃、二十八転輪王のマンダラの諸仏が取り囲んでいるのである。

2-4 マンダラの構図の根拠

P68
このように釈尊を中心とする原始仏教の円座の系統はのちの「法華経」にもとずく変相図や数多くの「経変」において中心(仏)をとりまく、あるいは取り囲む構図となって造形化されるようになる。法華変相図などが法華マンダラと呼称されるのはそのためである。この形態は涅槃図などにも顕著にあらわれるようになるが、そこでは密教マンダラのようにパンティオン(仏や神々の集合)は組織的な統一原理を持たないのである。つまり変相(経変)は、幾何学的な集合の形式をとらないから、人間臭い生々しさがあるという見方ができる。

P69
密教と浄土教のマンダラの表現の仕方は各々逆であることが、作画・構図の発展過程の中で鮮明に出ているのは興味深い現象である。浄土教の変相(マンダラ)は極楽浄土の時間・空間を超えた理想的な景観を通して次第に鮮明に現れる。マンダラの主題はそれほど多くはない。

P69
しかし、密教のマンダラは「金光明経」の四仏、「観仏三昧経」の十仏中の四仏、後に七世紀中頃に成立した「陀羅尼集経」十二巻のごとく (筆者米山が中略) マンダラの主題はきわめて多岐にわたっている。いうばらば、浄土変相(マンダラ)は作図の出発点として人間の死と釈迦の涅槃を拠り所にしているのに対し、密教のマンダラは釈迦の降魔成道・説法を出発点としているように考えられる。

P70
これらの五仏、四菩薩を中心とする両部マンダラは、中国において空海の師・恵果によって統合され完成したと考えられている。但し両部、マンダラの方形・円形の構図の根拠となるべき資料が、最近中国の鏡(漢鏡)までさかのぼるのではないかという解釈を中野美代子氏(「即身」所収「中国のマンダラ的世界像」)が提起されているのは、注目すべき指摘であろう。

3-両部(両界)マンダラの世界

3-1 空海が創り上げた手法の場

P77
「曼荼羅は宇宙の真実の表現ですね」 (筆者米山が中略)

3-5 マンダラは生きている

3-4 金剛界マンダラが表現するもの

P105
一元論(アドヴァイタ=不二)が有力なインドのウパニシャッド哲学では、宇宙の本質としてブラフマン(梵)と個人の主体的本質であるアートマン(我)の二つを同一のものとみなして「梵我一如」という。これは宇宙を含めて万有のすべてがブラフマンとアートマンに帰一するという意味である。この原理を考えると、その本質的内容の表現に苦心がはらわれ、結局は不可知なもの、言葉をこえたものとしての「ある一つの存在」を認識することが出来る。密教マンダラの出発点もここにある。

4ー浄土マンダラとは何か

4-1 マンダラと「浄土変相図」

P122
密教マンダラは細密に描かれた密教絵画であり、多種多様な表現形態をとるが、大きく分けると両部(両界)マンダラと別尊マンダラの二種類になる。
ところで、このほかに浄土教が説く極楽浄土の世界を描いた絵画も、一般的にマンダラと呼ばれることがある。しかしこれは正しくは「浄土変相図」と解釈するべきである。

P123
両者を絵画として構図色彩から比較してみると、全体に密教のマンダラは空間の中に描かれているのに比べ、浄土教の変相図は建築物(楼閣など)を背景に、前面には浄土の蓮池を配置している。ここが密教曼荼羅とは異なる特徴である。

変相とは、監訳では「変現」すること、あるいは「転変」することの意味で、サンスクリット語のパリナーマが原語である。
(中略)
仏教における変相図は、略して「変」とも呼ばれるが正しくは浄土の様子・世界をあらわしたものであるから、「浄土変」とか「浄土図」とかあるいはここで問題になるようにマンダラという言葉が拡大解釈されて、「浄土マンダラ」として広義に使用されることがある。しかし変相図は密教のマンダラとは異なり、その範疇には入れないのが普通である。
 ところが日本では浄土三曼荼羅としてたいへん有名な「当麻曼荼羅」「智光曼荼羅」「清海曼荼羅」などがあって、これらの多くの模写転写本にまでさかんに”曼荼羅”という語が付されている。しかし表現された内容を比較してみると、密教マンダラの幾何学的な(場合によっては抽象的な)構図とは異なり、浄土の情景を描写したものが多い。

5-別尊マンダラの世界

5-1 別尊マンダラと現世利益

P139
この真言を唱えるものは、生涯で受けた生死の重罪を全て洗い流すが如く消滅してしまうという。

P141
このように別尊曼荼羅はこの世(現世)でいかに人間が人間らしく現世利益を追求するかを前提としている。しかも別尊マンダラは、その現世利益を達成するために、それにともなう手法が必ず一セットとなって初めて効力を発することを条件としている。

5-2 様々な別尊マンダラ

P158
(5)大仏頂マンダラ
中尊が一字金輪如来の写真あり。

P160
(6)一字金輪マンダラ
一字とは梵字ボローンをあらわしたもので、金輪仏頂のシンボルである。
図像(6)は不空訳「金剛頂経一字頂輪王瑜伽一切時処念誦成仏儀軌」(略して時処軌という)にもとずく図解

P165
(10)宝楼閣マンダラ

P167
(11)法華マンダラ

P179
(20)愛染明王マンダラ
愛染明王の像マンダラの写真と愛染明王マンダラ単独で種子曼荼羅の写真あり。

(21)両頭愛染マンダラ
P179~P180
図では日輪のなかに両頭の愛染明王を描く。(中略)
この着想のヒントは平安時代末期に確立した愛染不動合体像の考えに基づくという。

不動マンダラの紹介はなくP145にキーワードがあるのみ。
マンダラの所蔵寺院は一切不明。年代も(6)以外はほぼ不明。
宝楼閣マンダラが古いのは引用のとおり。

=============================================================
P47
日蓮の曼荼羅に正方形はないが、四角という意味で特に目新しいとは言いがたい。

>外側の守護の特に強い意味を持たせている

日蓮さんが知っていたかどうかは不明だが、日蓮曼荼羅で四天王や梵字が巨大な理由はこれと同等か?
日蓮曼荼羅で四天王や梵字が巨大な理由になにか意味があるとすれば、歴史上の密教的な理由があるのかもしれない。

◯日蓮曼荼羅は変相図か曼荼羅か?

日蓮曼荼羅の形式と内容から、変相図とも曼荼羅とも、どちらともとれる。
どちらかというと密教的な形式と内容が多いと私は感じた。

私だけが感じたことかもしれないが、日蓮さんは曼荼羅と言って書き残したのは失敗だったように私は思う。
曼荼羅の精密さ、情報の多さとは比較にならない。日蓮さんが曼荼羅と言い残した割には密教系金胎曼荼羅の儀軌や歴史を「かなり大きく」無視したことになる。

例えば、無知な学会員が「これが御本仏の曼荼羅で、この曼荼羅こそが正統派なのです。」って密教系の人に言うと笑われると思う。
なにしろ問題集団(教団)としての自己中心的な言動がありすぎるから。
日蓮さんが経文名(法)を中心にしたのは良かったと私は思うけど、学会員は法の内容(原始仏教の内容)をどころか勤行以外、法華経もロクに読んでないし。
法とはなんですか?って聞かれ、方便品、寿量品を取り上げても更に問われても原始仏教には辿りつかないし。

遺文に一代五時図があり、これの名前がいつの時代に付いて誰がつけたのかは私は知らないが、同様に命名すればよかったと思う。
日蓮さんが「法華経宝塔品図」、又は「宝塔図」と名付ければよかったような気がする。そう思うのは私だけかもしれないが。
方角があるのは事実なので地図の図でいいと思う。

一字金輪、大日如来、愛染不動、金烏玉兎、こうしたキーワードからも日蓮さんは密教系(台密)の影響を残したまま、宝塔品図を描いた僧侶。
が、途中までしか相承されなかった密教僧としてレベルの低かった僧侶として名前を残すのかもしれない。何の証拠もないけど。

大乗仏教でかつ天台法華のみの僧侶であれば真言密教(大日経など)のキーワードを採用せず、法華経のみの仏教用語を採用すれば良かったように思う。日蓮さんが曼荼羅といっている以上、密教の曼荼羅をさしているのは間違いない。が、曼荼羅というべきではなかった、かと。

格下と思われる愛染が用いられる理由が今ひとつ不明だったが、P180の
>図では日輪のなかに両頭の愛染明王を描く。(中略)
>この着想のヒントは平安時代末期に確立した愛染不動合体像の考えに基づくという。

独歩さんのブログの記述の裏付けの一つ。
何かの云われや理由があっておそらく日本独特な理由から愛染不動が選ばれた、ということか。
愛染不動、一字金輪と、3つの中でなんとなく愛染だけが私には疑問だった。
なんとなく、ようやく納得したかも。後は独歩さんたちに調べてもらうしか無いのだろうけど。
ここでも日輪と愛染だった。

不動愛染が一緒に扱われるのも平安時代にさかのぼることが出来、日蓮さんのアイデアや発明ではないということ。
ま、可能性や学説であって断言はしませんが。

◯教えないよ、秘密だよ。

空海と最澄のやりとりからもわかるとおり、トップ同士で経文の貸し出しすらお断りがあるわけだし、現代人でも池田氏日顕氏はお互いにダメ出しをして「教えてあげる」という姿勢どころか話し合いもない。拒絶なわけだ。

正宗系信徒会員が「御義口伝」など「秘密」「甚深」「奥義」「口伝」「先生にしか分からない」「御法主上人猊下のみ」とか口汚く言えば言うほど、密教系宗教の秘密、神秘相承を肯定することになり、日蓮及び曼荼羅の評価は下がるのは間違いなさそう。

◯最後に。

変相図にしても密教系曼荼羅にしても相手にわかりやすく説明する、修行僧にとって成長を促す、という役割や意図があるのは見逃してはならないと思う。
ここでは心理学的な理由は控えるが、安易に何かを否定しない、ということかと。絶対に否定するな、と言ってるのではないです。安易さが問題。

マンダラは何を語っているか 真鍋俊照(著)
P215
たとえば国宝・伝真言院両界曼荼羅(東寺)の蓮花部院(観音院)の観音たちの仏の顔をみてみよう。
接近してみると、顔相は一つ一つ違うけれど、みんなに共通していることだが、大小の差こそあれ静かな笑を浮かべてほほえんでいることだ。

>神秘主義的宗教は師に対して絶対的な服従を求める(松長有慶)
>http://fallibilism.web.fc2.com/046.html

Libraさんの引用していた密教本の評価がどの程度、妥当なのかは私には分かりません。
密教の歴史的に、他者救済のための僧侶を成長させるための厳しい教えなのか、歪んだ服従の教えなのか、歴史的にそれぞれの割合が1:99だったのか50;50なのか99:1なのかも私は分かりません。2つの本の内容がどちらもそれなりに事実ならやはり、言動不一致な歪んだ人間を育てることであり、ますます宗教は不要、そう言われると私は思います。
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14 コメント

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Unknown (米山士郎@管理人)
2011-02-20 17:07:21

大乗仏教のみの僧侶であれば真言密教(大日経など)のキーワードを採用せず、法華経のみの仏教用語を採用すれば良かったように思う。


大乗仏教でかつ天台法華のみの僧侶であれば真言密教(大日経など)のキーワードを採用せず、法華経のみの仏教用語を採用すれば良かったように思う。日蓮さんが曼荼羅といっている以上、密教の曼荼羅をさしているのは間違いない。が、曼荼羅というべきではなかった、かと。
返信する
Unknown (米山士郎@管理人)
2011-02-20 18:40:38
×
が、途中までしか相承されなかった密教僧としてレベルの低かった僧侶として名前を残すのかもしれない。何の証拠もないけど。


一対一でする座主(トップ)としての相承と(唯授一人ではなく)各僧侶になされる相承と異なる。が、日蓮さんは何らかの相承は受け、又渡したでしょう。

ということらしい。
座主のようなトップの相承なら一人というのはあり得る。が愛染不動感見記の様な23代です、などの相承は複数の僧侶がうけていた。ということらしいです。

私自身、はっきり整理整頓出来ていないので、慎重を期して△としておきます。
返信する
質問してみます (Libra)
2011-02-20 20:01:45
 「日蓮さんが曼荼羅といっている以上、密教の曼荼羅をさしているのは間違いない」という断定がどうして可能なのでしょうか?
 
 日本においては、日蓮が生まれる前から、変相図は「曼荼羅」と呼ばれていました(↓)。
 
  日本では変相も曼荼羅と称せられた(加藤善朗)
  http://fallibilism.web.fc2.com/136.html
 
 真鍋が言うように、「変相図は密教のマンダラとは異なり、その範疇には入れないのが普通である」。
 
 日蓮が生まれる前から、すでに、密教のマンダラとはいえないものが「曼荼羅」と呼ばれていたというのが事実です。
 
 そうすると、日蓮が何かを「曼荼羅」と呼んだからと言って、それが「(密教のマンダラではない)変相図ではなくて、密教のマンダラをさしている」と断定することがどうして可能なのでしょうか?
 
 日蓮には、明確に密教を批判する発言があります。
 
 日蓮は、密教を批判しながら、密教のマンダラを書いたのでしょうか。だとしたら、日蓮は支離滅裂だったことになります。
 
 日蓮の発言を矛盾なく解釈しようとすれば、日蓮のマンダラは、密教のマンダラとは異なり、変相図をさしていると解するほかはないのでは?
 
 曼荼羅の中の愛染・不動は、法華経の行者を、それぞれ弓と剣をもって守護する存在として描かれているのであろうとわたしは想像します(↓)。
 
  http://bbs.2ch.co.jp/user/nichirenhokke/test/read.php/bbs1/1261041023/160-161
  
  http://bbs.2ch.co.jp/user/nichirenhokke/test/read.php/bbs1/1261041023/162
  
  http://bbs.2ch.co.jp/user/nichirenhokke/test/read.php/bbs1/1261041023/196
  
 不動や愛染は、日蓮にとっては、三変土田によって法華経の虚空会に来集した「法華経の行者」を「守護し給うべ」き「兵者」の代表格ということになるのでは?
返信する
Unknown (米山士郎)
2011-02-20 20:15:44
Libraさん
こんばんは。

>日蓮には、明確に密教を批判する発言があります。
>日蓮は、密教を批判しながら、密教のマンダラを書いたのでしょうか。だとしたら、日蓮は支離滅裂だったことになります。

ここだけコメントさせていただきます。

日蓮さんは四箇格言と言っていませんが、後々の人に四箇の格言と言われるようなこと書いていますね。それで、ご質問の件ですが、

アイテムに対する命名や修行などの採用する方法、曼荼羅の使用目的
と、
仏教界全体の混沌とした状況、

それぞれ分けて考える必要があるのではないでしょうか?
特に後者は、経文から逸脱するお坊さん達や宗派への批判だと受け取っています。

当時の宗教界やお坊さんたちに問題がある。
アイテムや命名に罪や問題がない、ということではないでしょうか?

ささっと日蓮遺文を引用できなくて申し訳ありませんが、私の感想や印象はそんな感じです。

ではでは
返信する
Unknown (米山士郎)
2011-02-20 20:29:54
>日蓮の発言を矛盾なく解釈しようとすれば、

 先の記事にも書いたのですが、今までの学説を全否定はしないとしても、今までは矛盾なく考えられてきた日蓮さんの仏教観を再検討や、再考察する必要が有るように思います。これらを繰り返すことで、新しい発見ってあると思います。日蓮さんに限らず、仏教学の中で矛盾点や不明点があっても、私には不思議には感じられません。

MCされ、嘘だらけの学会教学に染まった私だから言えることなのかもしれませんね。
Libraさんや富士門流信徒BBSの内容を読んで正宗教学というのは学説以下だった。。。という衝撃が私にはありました。

自分にとって知らなかったことや意外に思えることでも、受け止めることや理解をすることは今の私だけでなく、問題あるバリさん達、正宗系信徒会員に必須だと思います。

Libraさんのように整理整頓できていると、再考するのは疑問に思えるかもしれませんね。


返信する
Unknown (米山士郎)
2011-02-20 21:55:19

MCされ、嘘だらけの学会教学

MCされ、混じり気のない、純粋、無謬な学会教学に染まった私だから言えることなのかもしれませんね。実はウソだらけでした。
返信する
まずは正しく理解することから (Libra)
2011-02-20 23:47:57
 米山さん
 
 「密教(真言宗)の本尊は大日如来である」というのが日蓮の理解です。
 
 日蓮は、「天台宗より外の諸宗は本尊にまどえり」(「開目抄」〔文永九年〕、http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/shinseki.htm)といい、「華厳宗・真言宗は釈尊を下げて盧舎那・大日等を本尊と定む」といいます。
 
 また、日蓮は、「法華経の題目を以て本尊とすべし」(「本尊問答鈔」)といいます。
 
 日蓮の曼荼羅は、この五字を中尊として描いたものです。日蓮は「五字の大曼荼羅」(「新尼御前御返事」、http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/shinseki.htm)と表現していますから。
 
 日蓮にとっては、法華経の題目である五字の内容は一念三千です。「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」に「一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめたもう」(http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/shinseki.htm)とあり、「兄弟鈔」に「智者大師…妙法蓮華経の五字の蔵の中より一念三千の如意宝珠を取り出して」(同上)とあるとおりです。
 
 ところが、「『大日経』には一念三千は説かれていない」というのが日蓮の認識です。
 
 天台が法華経から取り出した一念三千を善無畏三蔵が「盗み入れて」、大日経は法華経と「理同」であると言い出したというのが日蓮の認識です。
 
───────────────
 善無畏三蔵震旦に来つて後天台の止観を見て智発し大日経の心実相我一切本初の文の神に天台の一念三千を盗み入れて真言宗の肝心として其の上に印と真言とをかざり法華経と大日経との勝劣を判ずる時理同事勝の釈をつくれり

(「開目抄」、http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/shinseki.htm
───────────────

───────────────
真言宗の漢土に弘まる始めは、天台の一念三千を盗み取って真言の教相と定めて理の本とし、枝葉たる印真言を宗と立て、宗として天台宗を立て下す条、謗法の根源たるか。

(「法門可被申様之事」、同上)
───────────────
 
 大日如来が法身であって、しかも、それに内容があるのだと仮定したとしても、その内容は、少なくとも一念三千ではありえないのでは?
 
 一念三千ではないその何かとの一体化を目指すのが密教のマンダラの使用目的なのでは?
 
 「マンダラの実践的な意図とするところは、宇宙生命によって象徴され、宇宙生命それじたいを本体とする法身大日如来と自己との合一をめざす(我則大日)ところの、いわゆる即身成仏の実現にある」(『密教思想論』、筑摩書房、1984年、p. 174、http://fallibilism.web.fc2.com/035.html))と宮坂宥勝は言っていますが、これが、密教者のごくふつうの理解なのでは?
 
 また、松長宥勝は、「目に見える動植物の生命の基底に、それらの根源となる『永遠なるいのち』を想定することがあ」り、「密教では、宇宙の永遠のいのちをそのまま仏と見たてて、大日如来と呼んでいる」(『仏教と科学』、岩波書店、1997年、http://fallibilism.web.fc2.com/034.html)と言っていますが、これが、密教者のごくふつうの理解なのでは?
 
 一方、一念三千は「諸法の中で心性とか阿梨耶識の如き特定の根本識を想定して、そこから一切法の生成を説明しようとする唯心論的な発生論的世界観を拒否するもの」であるというのが、密教化する以前のほんらいの天台宗の理解でしょう(↓)。
 
  一念三千説は発生論を拒否するものである(安藤俊雄)
  http://fallibilism.web.fc2.com/121.html
 
 宇宙生命のような「一切法の根源」を想定するのを拒否するのが一念三千であるのなら、以下の2つは、全く相反するものといわざるをえないのでは?

A:宇宙生命との一体化を目指すという密教のマンダラ

B:一念三千をその内容とする五字を中尊として描く日蓮のマンダラ

 それなのに、「日蓮さんが曼荼羅といっている以上、密教の曼荼羅をさしているのは間違いない」という断定がどうして可能なのでしょうか?

 「アイテムに対する命名や修行などの採用する方法、曼荼羅の使用目的と、仏教界全体の混沌とした状況」を「それぞれ分けて考え」さえすれば、「日蓮さんが曼荼羅といっている以上、密教の曼荼羅をさしているのは間違いない」という断定が可能だとおっしゃるのでしょうか?
 
 もし可能だとおっしゃるのなら、どのような理屈でそれが可能なのでしょうか?
 
 あと、わたしの書いた「日蓮の発言を矛盾なく解釈しようとすれば」という文が正しく理解されなかったようなので、詳しく説明しておきます。
 
 べつに日蓮でなくても、誰でもかまいません。甲さんが書いた2つの文章S1とS2があるとしましょう。
 
 そして、S1にはあいまいさがなく、解釈が1通りに確定できるとしましょう。しかし、S2の中には多義的であいまいさのある語が用いられており、S2内の前後の文脈を考慮しても、そのあいまいさを解消できず、2通りの解釈がありえるとしましょう(↓)。
 
S1:内容はC1である。
 
S2:内容はC2αであるか、もしくは、C2βである。

 この場合、まずは、「文章S1と文章S2は、ともに、同一の思想を有する同一の人物である甲さんが書いたものである」ということを前提として、以下のように解釈するように努めるというのがごくふつうの文章解釈の方法でしょう。
 
C1とC2αは整合性があり、かつ、C1とC2βは矛盾する:
  →S2の内容はC2αであったと解釈することであいまいさが解消される

C1とC2αは矛盾し、かつ、C1とC2βは整合性がある:
  →S2の内容はC2βであったと解釈することであいまいさが解消される

C1とC2αは整合性があり、かつ、C1とC2βも整合性がある:
 →S2の内容はC2αであるともC2βであるとも確定できない
     (あいまいさは解消できない)
 
 問題は、「C1とC2αは矛盾し、かつ、C1とC2βも矛盾する」場合です。この場合には、S2の内容はC2αであってもC2βであっても、いずれにしても、S1の内容と矛盾します。つまり、甲さんの思想には矛盾があるということが確定します。
 
 わたしは、日蓮の思想には矛盾などありえないとかいう意味で「日蓮の発言を矛盾なく解釈しようとすれば」と言っているわけではありません。
 
 ある個人の思想うんぬん以前の国語の問題、文章解釈の基本の問題として、そのように言ったのです。
 
 このように説明すれば、ご理解頂けるでしょうか?
 
 そもそも、わたしじしんは、可謬主義の立場に立っているのであって、日蓮だろうが誰だろうが、もちろん、わたしじしんを含めて、「人は誤りを犯すものである」と認識しています(↓)。

  ポパーの倫理思想(小河原誠)
  http://fallibilism.web.fc2.com/083.html

 もっとも、ポパーが言うように、「誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また【彼らはわれわれを必要とする】)ということ、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない」(【】による強調は Libra )と思っているので、他人の誤りを発見したように思える時には、できる限りその人に明確に指摘するようにしています。

 しかし、実際にその人が誤っていた場合には、わたしには何の得もありません(↓)。
 
  論争における勝利にはなんの価値もない(カール・ポパー)
  http://fallibilism.web.fc2.com/110.html

 それとは逆に、誤っているのは自分のほうだったということが判明すれば、それは、わたしにとっては実にもうけものです。真理にほんの一歩でも近づくことができたわけですから(↓)。
 
  批判的合理主義入門
  http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-9.html

 もちろん、日蓮の思想を「再考するのは疑問」だなんて、全然、思っていません。実際、わたしは、日蓮の思想の一部を否定しています(↓)。

  日蓮の罰論の問題点
  http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-13.html

 
 以上の説明で、わたしの文章は正しくご理解頂けることと思いますが、もしも理解されなければ、また詳しくご説明いたしましょう。
 
 もっとも、何度も言うように、理解と肯定は違います。わたしの主張を正しく理解された上での批判であれば大歓迎です。
 
 
返信する
批判と非難はちがいます (Libra)
2011-02-21 00:07:12
 わたしがいう「くだらない言い争い」というのは、非難合戦のことです。
 
 批判と非難は全く異なります。批判と人格攻撃も全く異なります。
 
 わたしはどなたも非難していませんし、どなたの人格も攻撃しておりません。
 
 わたしがしているのは批判です。「論理的矛盾や事実との齟齬を指摘」しているだけです。

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 批判は、ふつう非難と混同され、敵意の現れとさえ見られることがある。そして、批判を受け入れることは、屈服を意味するとも考えられ、一種の屈辱ともみなされている。たしかにそういう侮辱的な批判もあるかもしれないが、しかしそれはたいてい相手を理解しないたんなる非難と同程度のものであろう。本来、批判とは、論理的矛盾や事実との齟齬を指摘することにより、批判される対象と現実を直面させる試みである。そしてその目的は、その批判対象をよりよきものにすることにある。この意味では、批判はその対象に対する真剣な関心の現れである。それは批判の対象を改善するきっかけ、チャンスなのである。だから、批判や反駁を受け入れることは改良への一ステップである。

(蔭山泰之「面目と反駁-批判的合理主義の観点から見た日本的組織の諸問題-」、日本ポパー哲学研究会機関誌、Vol. 10、No. 1 、1998年6月、http://www.law.keio.ac.jp/~popper/v10n1kagefr.html
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 日本的組織では、ある行動や思想を、それを生み出した者の人格と容易にむすびつけてしまう強い傾向がある。〔中略〕こうした傾向が強いところでは、批判即人格攻撃と受け取られてしまうだろう。しかしそうであるからこそ、行動や、思想と人格を切り離し、たとえ理論が誤っていたとしても、「われわれの代わりに理論を死なせる」と考えられる観点が、きわめて切実に要請されてくる。

(同上)
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Unknown (米山士郎)
2011-02-21 01:52:42
Libraさん
こんばんは。

Libraさんの日蓮仏法の信仰すべきポイントは間違っていないと思います。
でもそれは我々から見える日蓮さんの一生をかけて出した「結論」であって「結果」です。

独歩さんの行っている研究レベル、これと(以前から言っているとおり)私の読書感想文を同格に扱っては問題ですが、少し書いてみますね。

「結論」「結果」ではなくて、曼荼羅の「生成過程」、つまり曼荼羅の各々部品としてみた場合、その部品の原典はどこなのか?おおよそどの思想やどの文献に影響を受けているか?というのがテーマです。

生成過程で一体全体、どの思想やどの文献に影響されているのか?、、こういったことを探しているのです。Libraさんのコメントご意見と 「話の内容と方向性が違う」 ので、このままだと噛み合わないと思います。

仮に独歩さんが以下の答えを出したとしましょうか?
1.日蓮曼荼羅は20%の密教の影響がある。
2.日蓮曼荼羅は50%の密教の影響がある。
3.日蓮曼荼羅は80%の密教の影響がある。

この数字の大小は例えば、密教キーワードの多さ少なさ、他にも例えば密教の儀礼の多さ少なさで上下します。

数字は適当ですが、独歩さんの答えが1でも2でも3でも密教の影響度にかかわらず、Libraさんのご意見は100%に近い形で信仰として成り立つと思います。
最近続いている、これらの議論では「曼荼羅の真言密教の影響度%」と「現代人がする信仰のあり方」は分けて考えたほうがいいと思います。

日蓮さんは密教の影響がある。だけれども、それを中心思想とはしなかった。
日蓮さんは密教の影響がある。これをある程度否定した。否定したけども、本尊に影響は部分的に残った。

ということかと。
ですから、このままだと噛み合わないと思います。
これ以上の説明は私には無理ですね。

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Unknown (米山士郎)
2011-02-21 01:57:12
>Libraさんのご意見は100%に近い形で信仰として成り立つと思います。

このとき100%かどうかはともかくとして、(密教信仰ではなく)高い数字で法華経信仰として成り立つと思います。信仰する時に密教を意識して気にする必要はさほどないかと。

(宗教であれば。慈悲や思いやりが前提であれば。です。
正宗系信徒会員の態度言動はダメダメです。)

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