つれづれおもふ

思えば遠くに来たもんだ~ぼつぼつ語る日々の出来事

母の日に

2012年05月20日 | 子育て

するするっと、通り過ぎた先週の「母の日」

なんかしてもらおうとも思わないが、ちょっと電話くらいよこしてもいいのじゃないかとは思っていた。

その気配を察したのか

旦那が花を買ってきてくれた。嬉しかったけれど 「私は、あんたの母親じゃないし・・・」 みたいな感情は湧いた。

北海道の人は子どもがいるなしに関わらず、年齢に関わらず、妻のことを「母さん」と呼ぶことがある。
うちの旦那も結婚してすぐ翌日には 「母さん」 と呼び、かちんときた私は、
「あなたの母親じゃないし、失礼でしょう!」 とやり返した。
以来、子どもの前では 「はは」 「お母さん」 などと呼ぶが、二人の時には名前を呼ぶ。

まあ、この母さん、複雑なお年頃なのだ。

そんな気配を察したのか、今日これが届いた。 先週旦那からもらったカーネーションを並べてみた。

長女が送ってくれた! 嬉しいなあ!!

モノじゃないけれど・・・気持ちがとってもうれしいなあ・・・早速冷やして、今晩ごちそうになります <m(__)m>

 



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その日の前に・・・重松 清

2012年05月20日 | 本・・・

上の娘か、下の娘か、どちらかが残して行った一冊。

こういう内容だとは思わず読み進めていて、途中やめようかと思った。
どうも、私はまだまだアマちゃんで、「死ぬ」ことと向き合うことができない。
それほど厳しくは描かれていないのだがなあ…。 

自分の経験をお話しすると、病気が見つかった時、漠然と「来年生きていないかもしれないんだ」と思った。

それは本当に、漠然と・・・

私が漠然と生きられないんだと思ったあのときに、切実に哀しい、寂しいと感じたことは、
当時長男、長女、次女と三人が受験生で、その結果を知ることがないんだなあ~~という、
今振り返るとなんとも即物的な事象だった。
でも、きっと、生きていないということは、日々のそういう出来事に参加できなくなるということで、
私がいようがいまいが、残る人たちの生活は否が応でも続いて行くわけで、
それはありがたいことに今生きている私の身の上にも起こっていることで、どう言ったらいいのだろう・・・。 

重松清が生み出したこの本の世界は、あの時の自分がおかれた場所やあの時見ていた壁などを脳裏によみがえらせた。
「その日」とは、誰かが「死ぬ日」のことだ。
この本は、自分や、家族や、周りに暮らす人や、突然「死」と向き合うことになった人たちが描かれた短編集だ。

<忘れてもいいよ> 

「その日のあとで」で、先に逝ったまだ若い妻が夫に残した手紙だ。 
たった一言、それを自分が死んで三カ月後にわたるようにと託している。
少し、自分がいないことに慣れが出て来た頃に・・・。 

そういうもんだよなあ・・・きっと。

森絵都の「ラン」にも、あの世で記憶が溶けて行く死者の姿が描かれていたが、
忘れて行くというのは、残るものも、先に逝くものも、それが時間の流れというものなのかもしれない。

森絵都の世界観に近いが、ファンタジーではない。もう少し現実の世界に近い物語で、 こちらの方が私にはしっくりきた。

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