人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

腑に落ちたこと

2018-02-19 17:45:24 | スピリチュアル
"精神的覚醒、エンライトメント"と言われるものが、一個人のことに帰されないということは、様々な観点から説明出来るものですが、個人的意志、努力、願望などをもってしてもどうともならない、ということを一つ取ってみても理解出来るかと思います。
たとえ、どうとかなったとしても、"私がどうなった、こうなった"という線が抜け落ちなければ、そこに示される線からは抜け落ちざるを得ないでしょう。
何故ならば、そこで示されることは、全くもって"個を超える"ということだからです。
そういうことは、もうホントーに示されていたのですi 私は思考機能もすべての力を失い無化されていたのですから...
そして、これは今だから言える事ですが、そこで開かれた喜ばしき事態が閉じてしまった経緯も上記のことを物語っています。
私はそれを手に入れ、保持しようと目が眩んで、示された線から抜け落ちたまでなのです。
もっとも"見えない導き"のイキがかかっていたのか、そういうことも薄々自覚されていたのですが...

"公的(普遍的)なものを私物化すると、それを失う...しかし、空は、空気は、太陽は、すべての自然は...得ようとしなくても我々は、その享受に預かっているではないかi 新鮮な空気は自分にあったものを吐かなければ、受け入れる事が出来ない...手に握りしめて、ある、持っていると思い込んでいたものを手放してみれば...気付きは全く晴天の霹靂のようにやって来る..."

平成10年夏頃、その15年前の"爆発"に比べたらずっと穏やかなものでしたが、そのこととつながっていたのは間違いありません。
しかし、その実感された有り様は微妙に違っていました。"内なる意識の覚醒"みたいなものはやはり認められましたが、意識の変容というよりは、首より下に見えない力がハタライたようなのです。
頭の中の慧きもの、迷ったもの共々の思いが一瞬溶けたかと思ったら、ストンと落ちて五臓六腑に染み渡ったようなのでした。
"腑に落ちる"というのは、こういうことを言うのか...これは具体的には、大調和協会でしばしば言われていた「心に覚めるのではなく、身に覚め、身に覚えるのである」ということや、玉城康四郎先生が述べていた「形なき命ーダンマは、宇宙共同体であると同時に私そのものであるー業熟体に浸透してやまない」ということが腑に落ちたようなことです。
頭の中がスコーンと軽くなったと同時に、この私という有機体は大地と地続きでつながったような感じになりました。
又、同時に身が頷くようにも感じられたのは、同じく玉城先生が述べているように、この事は「如来の一人働き」であり、そのもの無しに何も始まらず、何も起こらないということなのでした。

"私は私の世界だけで閉塞されない...体験が体験だけで終わるものを追い求める必要はない...それをもたらすもの自体とは元々地続きになっていた...何時でもその鼓動が確かめられる..."

私がいつも"意識が向いたらジンジンと..."などと真しやかなこと?言っているのを自覚されたのは、この時からなのでした。
これは"どうしたら、そうなる、そのコツは?"などという間にそうなることなんですが、私に纏わるものは、あっという間に手放されているのです。
これと関連する"身に覚える"というのは、大調和協会からちゃっかり借りて言っているのですが、それは思いを超えたものの消息を伝えているのです。
私はここに"知られざる身体性"とも言うべきものが内包されているのを感じています。
もっとも、それは通常言われる"身体"に限定されるものでないのは、言うまでもないですが、アジス.クリストフ的には、"Being"と関連するのかも分かりません。
これを言い出したら、地続きで極点まで行きかねないのでヤメますが、存在、大地に根差すような意識、感覚は超個的なこと、スポット的でない、恒常的なこと...そう、"常にあるもの"と共にあることを覚えさせられています。


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