人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

それでも私はこの世に生きている

2019-04-02 12:56:53 | スピリチュアル
「主観的で非実在的な神秘思想、世界の客観的本性と結びついていない神秘思想とは、まやかしの神秘化である」
「宗教は個の運命の奥義を開示し、個を世界の意味と、普遍的.全一的個と結びつける」
(ベルジャーエフ「新たな宗教意識と社会性」.行路社刊)

私は社会的には全く無力な、しがない底辺に生きている人間に過ぎません。
ま、そんなだから大して責任も負わされることもなく、自由に、ヒマに生きているとも言えますが、その生活で精一杯なので、世の中をどうとかしようとか、平和世界を実現しよう、なんてこと考えること自体、おこがましいことなんでしょう。
元号が変わろうが、どうなろうが私の何かが改まる訳で無し。...いや、しかし...
一日過ぎて...ヤッパリ私の中の何かが息吹き始めている感じは覚えられているんです。
こういう感じは昔からあって、世捨て人のような一面に反して、世の中の動き、世界の運命というものに無関心ではいられないのです。
もっとも人間は、皆社会性を有しているとされているから当たり前の話なんですけど...
しかし、あるスピ界隈では、社会も世界も、それと関わる個人でさえも超越しちゃったのか、虚空に消え去ってしまったのか、そういうつもりになっているだけなのか、全くそっちに関心が向けられることが無いようです。...いや向けてはいけないのか、悟っちゃったんですから...
そんな極端でなくとも、悟りや精神的目覚めというもの自体、個々の精神に関わることであり、専ら内面を深めてゆくこと、自己をより高い境地にあることにばかり意識が向けられるようです。
そして...このように語る者も現れてきます。"宇宙と一つになった、ワンネスの境地になった"と。
そこで語られているものからは、ある意味では普遍的(ユニヴァース、宇宙的全体)と言えるかもしれませんが、具体的な有機的社会、個々から成る共同世界というものは伝わってきません。
それは、その当人だけの、主観的な内的世界の認識だけで語られ得ることなのです。
それが真実かどうかは、勿論当人以外には確かめられることなど出来ません。
もし、宗教やスピの道がこうした一個人(個などないと言おうと)の主観的世界だけに終止してしまうとすれば...有機的社会性から見れば不毛に終わるだけでしょう。
しかし、当人はそこを超えて、有機的なつながりを求めていても、周囲の無理解からそれが成されなければ、やはり不毛に終わる結果となってしまうのでしょうか?
いや、宗教的な目覚めとは、神的なものとのつながりなのです。そもそもそれなくしては起こり得ないと、私は何度も書いています。
神的なものとつながると言うことは、普遍的、全一的なものとのつながりなのです。
そこで目醒まされることは、自分が一人生きていることは、その個のみで生きているのではなく、普遍的つながりにおいて生きているということに他なりません。
私はこの目覚めとか、真我の実現と言われるもの自体に、そうした人間の真態が内包されているのを感じずにおれません。
そして、そこには、おそらく形の上では、不毛に終わるように見えても、その普遍性との、ある手応えある連繋は存在しているように感じています。
だから、全く自分の内にばかり閉じこもり、"私は悟ったi"と一人浮かれてたり、悟りゲームに明け暮れてることなどは、実にオメデタイことなのです。
この違いは、意識の有り様の問題でしょう。

私は有機的社会、世界の動きがどうも気になってしょうがない...なんだかんだ言ってもこの世に生きているんですから...
ただし、それは表層のことじゃなく、見えない人類、世界が如何にあるか、ということなのです。もっともそれは自覚的にそうなっているだけでなく、無自覚に心身に覚えさせれていることでもあるのですが...何だか、こう急に高陽してくるんですi
そして何よりも...我が主が「世界や人類のことは、お前がどうこう出来ることじゃない。それは私が現れて、目にものを見せることなのだi」と告げたのだからなおさらなのです。

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