人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

直接性と幸福

2022-09-25 09:52:49 | 哲学・思想
先日、禅とキリスト教についての本を読んでいたら、道徳に関する話で、ある神学者が”キリスト教では神の戒めというのが大事なんです”、というようなことを述べていました。
人間社会には、法とか戒めというものはありますが、神の戒めというものがあるかどうかは、当人が直接そういうものを感じなければ分からないでしょう?
そういうものは、旧約聖書の”モーシェの十戒”などを引っ張ってきて、そう書かれていることに則って言っている訳でしょう?
もう、とにかくキリスト教というものは、こういうもののオンパレードなのです!
聖書という”神が定められたみことば”無しには成立しないと言ってもいいでしょう。
アタシャ、もうイヤんなります!...”どうしてそういうことが言えるんですか?”、って突っ込む気にもなりません。どうせ、”そう書いてあるから”、って言うんでっしゃろ!
欧米を中心に特に、”開かれた公教会”カソリックにおいて、禅が流行する理由もよく分かる気もします。そして我が国でキ教の教線がずっと振るわない理由も...
このような予め、そうであるものとして設えたものを与件、与断とか言います。
あるいは、禅的見地からは、”超越論”(自己を超えたものがある!と断じてしまう論理?)とかでそれらを批判したりします。
しかし、それに対し、”キ教は超越論!”と断じたり、“超越論はすべて与件に基づいている”、と断じてしまうのも、与件、予断、定見に基づいていると言わなければならないでしょう?
要するに、こうした見解というものは、自己自身に直接示されること、実存に即した有り様からズレているということなのです。
そしてもしかして、ただの妄想で無しに、“神は私に直接戒めを示したもうたのです!“、という人間も居るかもしれないのです。
宗教信仰の世界でこういうことをぶつけても多くは、徒労に終わるだけでしょうが、真摯な哲学者や求道者は、何故この直接性、直接経験というものを重要視し、目指そうとするのでしょうか?
あまりそういうことに言及されたものに接したことはありませんが、それは、”愛、平安、リアリティに与る”、ということに尽きるのではないでしょうか?
それは、二次的なもの、所与のものからは決して与ることは出来ない...あったとしても二次的に落ちたものでしかないでしょう。
それは、自己に内在したものから来るのか、超越したものから来るのか?...いやもう、考えたって分かりゃしません!...だから直接的なのです!
そして、幸福に与ることを抜きにして、直接性へと向かわされる、ということなどあるのでしょうか?
真理の追究?...幸福と切り離された真理などに私の意識が向かうことはありません!
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