人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

真理を生きる

2021-07-03 09:56:00 | 哲学・思想
「真理は抽象的理性の光ではなく、霊の光である」「真理を把握するということは、我々とは無縁のもの、我々と対峙したものを把握することではなく、真理との交わりであり、真理の中で生活し始めることである」(ベルジャーエフ「真理とは何か」/理想社刊)

人間は歳を取るにつれ、感受性は減退して行くものなのでしょうか?
私の場合、ある部分では減退し、別の部分ではさらに増したようにも感じます。(これは怒りっぽくなったとか、老年期特有のものとは違いますよi)
正確には、抽象的に思い描くようなことよりも、具体的、身体的に浸透するようにも感じられるようになったというべきでしょう。
私は、精神的な道に目覚めた20代の若い頃から、真理の探求らしきことに夢中になってきました。
"私はついに真理を見い出したのだi"、と感じたことは何度もあります。
しかし、その多くは、ただ、"これが真理だ!"、と思い描いていただけだったのでした。
何故ならば、その多くは今の私はそう感じていないのだから...
"ある時の真理の発見は、新たな真理の発見によって色褪せたものになり、それも又時と共に消えて行った..."
一体、私は何に対して真理を感じていたのでしょうか?、その真理とは如何なるものだったのでしょうか?
真理とは?...そういう経験をしてきたからか、正直どうでもいいと思っています。
真理らしきものは、かように"消えてゆく姿"となった訳ですが、それとは別に、昔から私に根付いている、言い換えれば、身に覚えられているものがあるのも確かなことです。
そう、具体的にそう感じられることほど確かなことはありません。
それが真理なのかどうかは分からないし、どうでもいいことです。
とにかく、私はそう感覚されたものに意識が向かわざるを得ないのです。
それは愛、平安といったものをもたらす感覚に他なりません。
愛、平安、そして真理と思い、考えられていたものの多くはここに残っていないのです。
真理というものは、当然のことながら相対的なものでしかなく、真理であろうとするものは人によって違いますし、前言のように時によって変わるものです。
しかし、その感ずる内容は何であれ、何人も真理の探求に心を向かわせるものは、そこに何らかの光、幸福といったものに与らんがため、という意識が働くからではないでしょうか?
少なくとも、私はそうでない真理のことなど考えたこともありません。
私はそう考えてきたのです。真理の発見というのは喜ばしいことに違いないでしょi、でなきゃウソですよi
そこにはしかし、私の思いと別なところで、知らずに何かが浸透し始めたようでした。
愛、平安、幸福というものは、そう思い描かれたものではなかったのです。
私は頭だけでなく、多分全存在は、愛、平安...そう感じたものに赴かざるを得ません。
それを真理と呼んでいいのかは分かりませんが...。
意味は分からずとも、生きるとはそういうことではありませんか?
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする