人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

実感

2017-04-12 18:31:31 | スピリチュアル
精神的世界には様々な教えというものがあります。
中にはナントカの原理だとか、実に取ってつけたような、勿体ぶった装いのものもあります。
人は自分の縁、機根などに応じて、そのうちのある教えに依拠してゆくものですが、一体何人の人が本当に腑に落ちて、自然に受け入れられていることでしょうか?
”自分が帰依している宗教、教師がそう唱えているんだから、信じ従わなければならない…”
本当に自然に受容されているわけでもないのに、”ねばならない”と迫る、どっかからの声に屈服してしまうのです。これは何かのカルマなので仕方のないことですか?
こんなところには自由はありません…全き自由の実感など生まれ出ようはずが無いのです!
この世界に一人の人間として生まれ出てたという実感の中にこそ、カルマならぬ運命、天命というものがあるのではありませんか?
その教えで説かれる神は、信者に服従を強いるのでしょうか?…あなたの神はそう告げたというのですか?
神に遠く悖る人間は、一歩一歩学び、努力精進して果てしない行程を辿った後に神へと到達するのでしょうか?
しかし、もしその教門をくぐる以前に神的ハタラキ、恩寵というものを実感したらどうでしょうか?
人の手になる宗教などでは、神に成り代わった人間が、その教えを神の言葉とスリ替えて説いているだけなのです。
神の御心というものは誰にも分からないものです。
だが、神的なハタラキ…それの流入、それに包まれてしまう事は誰にでも実感出来ます。
そこにある神的意志というものも感じられないでしょうか?
我々に全き自由、幸福というものを与えてやまないような意志というものを…
この実感に預からずして、仕方ないで済ませてしまうのですか?
意志という表現は人間的な視点のものであれ、そういうものを実感してしまうのだからしょうがありません。
そして、神に到達するも何も、このもの無しでは何一つ始まらないという事…私自身ここに居ることが出来ないという事も…
最近は下火になった感もある、所謂ノンデュアリティでは”私は居ない、自由意志というものも無い”という定理のようなもの?がありますが、もし直接経験から”私は居る、全き自由意志がある”と実感されたらどうでしょうか?
このように実感されることは、すべての他からの教え、原理、定理、法則といったものを笑うものです!
誰がどう実感するかは、それぞれの感じ方、有り様というものがありますが、それぞれの主体において一切の”こうである、こうでなければならないもの”は二義以下のものとならざるを得ません!
この意味で直接経験には”こうである”という説明は成し得ず、意味が有りません。
それは一人一人の内に開示されるものだから…
精神世界には又、どこからも実感されようがない事柄も随分と信じられています。そう…それはただそう信じられているのであって、信じざるを得ないようには、どうしたって実感出来ようのないものです。
低次元に高次元…神に至る何段階ものレベル…前世、天国、地獄…このような思いの中で果てしなく周り続け、漂っているものなど永久に実感出来そうにありません!…
本当に霊なるもの、神なるものとは、思い描いたものでない、リアルなものに導かれるものです。否、このもの無しには我々は本当の現実を実感することが出来ないのです。
多くの人は、客観世界のどこかに不変の真理があるかのように思い、宗教や教師に走ってしまうようです。
そうして数多の異なった真理が生み出されて、相克しあっているこの世の喧騒は収まる気配がありません。
一人一人の内に愛、平安、真理は実感されるものなのに…
ここに例外は一つも無いのです。
あなたと私に本当に実感されたものこそが、他にどこにもない不変、普遍の真理なのです…。



コメント
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