人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

客観世界の終わり

2017-03-01 14:12:30 | 哲学・思想
テレビに異様な光景が映し出されていました。年端のいかない幼稚園児たちが、何と教育勅語を唱和し、”ニッポン人、ニッポン民族…”などと連呼し、愛国、国粋精神を鼓舞させられていたのです。
私の心象にも確かに日本(ニホンでいいじゃないか!)を愛する気持ちというものは有ります。
だけどねえ…この光景は今のこの国で起きていることなのか…お隣の国か、戦前の我が国のことのように思えてくるじゃありませんか?
こういう違和感を感じさせるものに触れてまず感じる事は、周囲から浮いて見える、この光景だけが分離して見えるという事です。
心象に静かにあるものが、分離して何かの信仰、イデオロギーに化けて、客観に我が物顔で現れた、という感じです。
そして私の心に息づいているものと、この信念のバケモノみたいなものとは全く似ても似つかないものです。
間違いなく、外側に表出した過程で、変質してしまうのです。
誰しもが、心に描いていたものが、突出した主義、信仰を掲げて主張し出した時、”こんなはずはない”と感じたことがあるのではありませんか?

何で人は宗教なり、イデオロギーなりを信じ込んでしまうのかと言ったら、自分以外の客観に神とか真理とかが有ると思っているからでしょう。
それを捉えやすくするためには、イメージ、言葉、あるいは神の仮現であるような教祖、マスターなど形あるものに置き換えられるのです。
しかも”有るとも知れず、無いとも知れず”などと微妙な事言ってたら、頭の中に御本尊(絶対的権威)が出来上がらないので、決めつけた観方、言葉で塗り固める…そして、客観に認められることは、客観世界にハタラキかけるに限る…科学的証明、教祖さん、著名人、権威者のお墨付き…
そうして捉えたつもりになってトラワレの身となってしまうのです。
外なる神への奴隷的拝跪…しかし、自分の外に如何に高い位の神サマを奉ってみたところで、内なる光が差し込まなければ意味が無いではありませんか。内なる光は、自己の意識に差し込みます。すると何かを信じようとしなくても信じざるを得なくなってしまうのです。
信じざるを得ないものは信じる必要が無い…信じる対象が無いのです。
証明されるべき紙切れに書かれたものなど借りる必要などありません。
外なる神を容易く信じる人間は、真っ先に信じなきゃならないはずの自己を信じようとしてません。だから、信じざるを得ない神的なものに出くわすことがありません。
ノンデュアリティは信じる神というものは説きませんが、その教えを信じ込もうとすることは極めてデュアリティな事です。
二元的な道とされる神やキリストが現臨として自己の内面にハタライた時、それは直接的一元的なものとなります。
この意味で分離とは、主体としての自己からの分離という事になるのでしょう。
これが偶像崇拝というものの本質に横たわっているものです。
分離したところに自然でないもの、強制的なもの、遮り、滞らせるものがはびこります。
これが自分にも周りにも諸々の障壁を作り出すのです。
そして自己からの分離により大本からの命が流れることなく枯渇して行くのです。
このように宗教やスピで何が説かれ、何が教えられているかが問題なのでは無く、一人一人の在り方が問われるべきではないでしょうか。
自分の外に信じられるもの、拠り所が見つからない…ここに客観的観方、客観的世界というものの終焉を想起させるものがあります。
この事が取りも直さずこの世の終わりを意味しているのでしょう。
そして否応なしに自己の現存に意識が向かわざるを得なくなることでしょう。
本当に今は世界的にも個々においても、その岐路に立たされているのを感じます。


コメント
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