人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

レベルって何んだ?

2017-02-01 00:00:41 | スピリチュアル?
精神的な道において魂の段階的進歩とか、悟りのレベルといったものがあるのでしょうか?
多分…そう思っている人にはあるのでしょう。
日夜、今以上の霊的進歩、より高い境地を目差して修行や探究に勤しんでいる人は、そのように意識付けられているのでしょうが、進歩することを望まなかったり、後退を望む人なんて多分居ない、と思われます(笑)
これは人それぞれの縁とか機根、あるいは好みなどに依ることなのでしょうが、私はなるべく自由な、遠回りしない道を歩みたい、と思っているのです。
ところで…進歩とかレベルの基準ってなんだ?…より自我性が無くなるって事?
真我の目覚めを目指しているとして、真我に至るのに5段階をクリアーしなければならず、今3段目なので4段目を目指している人って…居るんですか?…一体、何が何に目覚めようとしているんでしょうか? そういうものがあったとして、誰が判定するのでしょうか?又、その判定が正しいという保証などあるでしょうか?
いや、肝心なことは自分に直接示されることじゃないですか。それとも…分からないから自分とは別のところに求める?…他と比較しないと多分レベルなど分からないでしょうね。
何であれ、現実にそうなっているかはともかく、自分がそういう基準になるものを把捉していなければ、存在しないでしょう。
頭の中にしか存在しないのか、そうでないかは自分に示されたら分かることでしょう。
例えばこの教え、このメソッドしかない、と、自分が今関わっているものを特別視し、限定してしまう事は、”自分はこのレベルです!”と言っているようなものです。
そして”これに勝るものは無い!”と思い込むことで、ずっとそのレベルにとどまり続ける事になるでしょう。実際はそういう実体など無いかも知れないのに…
このように、それぞれの段階、レベルというものは自らの思考に依っていると言えるでしょう。
その捉われ方が強いほど、重くなって下に行くような気もします。(当人は多分上がっていると思っているでしょう)
逆に言えば、捉われなければレベルが上がっていくのでしょうか?
いや、そもそも捉われなければ上も下も無くなるハズです。
レベルというのは、このように決めつけた観方が無ければ存在しないのではありませんか?
光の照射…太陽の如き遍くすべてを照らす光を受けるという事があるばかりではないでしょうか?
何かに達しようと、目差そうとする前からその光はこちらに達しているのです!
しかし、我々はその光を遮り、背を向け、覆うという事もそれぞれの”サガ”でし続けています。
この光の屈折具合がそれぞれの段階というものを作り出しているのではないでしょうか?
光そのものは平等です。優劣とか上下とか善悪は各々のサガに応じた敷居みたいなものでしょう。
喩えて言えば、高層マンションの上階の住人だろうと下層の住人だろうと、同じ太陽の光を享受しているようなものです。
しかし、ずっと部屋で窓を閉めたままカーテンをしたままではどうしようもありません。
いくら教えを信奉し、修行に勤しみ続けていても、それらに捉われ光に開かれ、受け入れなければ意味がありません。
光を遮る夾雑物をただし、いつも心はオープンであればいいのです。
光を目の当たりにした時信仰も修行もレベルも無くなるでしょう。
もっとも、中には光を受けたくない、という人も居るかも知れません。(これが意外と多い)
普遍的光は万人に開かれている…されどそれを望む者は何と少ないことか…
レベルというか差異、差別もあるようにも見えますが、各々の自由意志でそうなっていることを思えば、根本は平等なのでしょう。











コメント
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