人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

現世の聖化

2017-01-03 14:03:42 | 哲学・思想
「神が諸世界を造りそして壊したもうた時に落ちた聖なる火花を、人間は高めて、鉱物から植物へ、植物から動物へ、動物からもの言う生物へと上向きに純化すべきである、殻の力に被われている聖なる火花を純化すべきである」(ーバール・シェム・トヴの教えーマルティン・ブーバー「祈りと教え」・理想社刊より)
「この世界のいかなるものも、聖なるものにとって、全く異質的でない。いかなるものも聖の器となり得るのである」(マルティン・ブーバー「ハシディズム」みすず書房刊)

最近亡くなられた方で今橋淳先生というキリスト者が居られました。
元原始福音の手島先生のお弟子さんで、事の行き違いから破門されて独立伝道に踏みだされた方です。私が小池先生と出会ったのも、この方の福音個人雑誌「活かすキリスト」に小池先生が寄稿されていたのが、目に留まったからなのでした。(何という目敏さ!何という見えない導き!)
この方がかつて長年の脊椎カリエスの苦難をその”活かすキリスト”に触れて、起死回生、回心という心身両面の救いに預かった時、「ゆるしてください、知りませんでした…」と泣いて祈り続けていた、と言います。さらにその時、すべての被造物が声を和して、「ハレルヤ、ハレルヤ!」と賛美して、その歓声を魂にアリアリと聞いた、そうです。
これ実に私が初めて現臨に捉えられた時そのままという感じなのですが、宗教や精神的伝統の違いを超えて”回心”に預かった者の等しく味わう実感ではないでしょうか。
空も太陽も草も花も飛ぶ鳥もあらゆるものから命が解き放たれ、その歓喜を唱和しているようです。
しかし…都会の雑踏の中を忙しく行き交う人間たちは違った様相に見えます。
”こんなにも、聖なるものの真っただ中にありながら、その祝福された状況に気付くことも、気付こうともしない。
命というそれ無くして生きている事さえ出来得ない、という根底無き生の連続…終わりなき日常…
それでも生きている、という最大とも言える逆説…
彼らに神は生きていない…”のです!
この根源的生と断絶した者はもはや生ける屍となる他は有りません。
いや、本当は”神は生きていないという思念”によって聖なるものを閉じ込めているのです。
コンクリートによって豊かな土壌、生命を育む大地を覆い、塗り固めたように…
人間は愚かにも、他のあらゆる生命ばかりか自分たちをも自ら命の源泉を閉じ込め、今や滅びに至らんとしています。
しかし、その閉じ込められた命を解放し、救済するのも人間に託されているのです。
人間個人の救いというものは無い、人間の救いとは万物の救いに通じているのでしょう。
今橋先生や私…これまで幾多の者たちが見ていたものは、自分の中から閉じ込められていた聖なるものが解き放たれ、表に顕れたことと外なる生きとし、生けるものの相即的関係なのでしょうか…
ユダヤ神秘主義ハシディズムは、私が先入観を抱いていた一神教的ユダヤ教とは随分違う側面があるようです。”自然を支配すべし”といった理念よりもむしろ自然との協調、自然の救済といった理念が伺われます。そしてその上にこの見える現実的生の中に聖なるものを見出し、聖俗を超えた真の生活を目差したのでした。
どんな俗とされるもの、罪と呼ばれる行為にさえ聖なるものの顕現はあり得るのだそうです。
そして神の国の開示ということも黙示録的な幻想の彼方に求めず、どこまでも具体的な現世の聖化に向けられていたのです。
この世界が一新されて、別の世界に変容するのでなしに、見える現実はそのままでも、自分の居り場が、根柢が、見ている眼が、意識が変容するのです!

私は確かにその時兆しを見ました!
都会の喧騒のど真ん中に人知れずくすぶり続ける聖なる火花の種火…
これはあらゆる世界に燃え広がるものの胞衣の如きものなのか…







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